2-6.リアルに想定してみましょう。如来の三心を聞き受けるとは?

 まず、リアルに想定してみましょう。自分が死ぬ存在であるということを。 

 私は、必ず、死んでゆきます。

 死に至るまでの経過が急激な外力によるものではなく、病的な緩慢な経過である限り、何らかの微細な変化から始まります。それは最初自覚できません。そして、病的変化の連続が重なり、病的症状を認識するとともに不安が増大します。死は避けられないものになったとき、私ははじてめ死と向き合います。私は病院のベッドの上で病室の天井を見上げて絶望し、如来に救いを求めて念仏を称えているかも知れません。介護施設のベッドの上で白い壁を見て絶望し、如来に救いを求めて念仏を称えているかも知れません。

 このようなとき、頼れるものは何もありません。父も亡く母も亡く、妻はアテにはできず、蓄えたお金も病気から救ってはくれません。あとは、日々死に向かってゆくだけ。

 念仏を称えても何の手応えはありません。以前から聴聞していた如来の三心もアテになりそうにありません。

 このような事態になるであろうことを想像し、これが近日に現実のものになるリアルを感じて下さい。そして、そのまま死ぬしかないと覚悟して下さい。もうこのまま死んでゆくしかないと。

 如来は、その行き先を任せよ。浄土に生まれさせると。

 私はその如来の誓いにそのまま飛び込んでゆくしかありません。それ以外に道はありません。しかし、どう飛び込んでゆくか、どう信じてゆくかと悩みます。手を動かせと言われれば、簡単に手を動かすことはできます。しかし、自分の心は、自分の心でありながら、自分の思うがままに心を動かすことはできません。如来の誓願を信じるように自分の心を仕向け、心を動かそうとしても無駄です。信じようとしても信じる能力のないのが私なのです。信じられないまま死んでゆくのが私です。私は、いよいよ窮地に追い詰められた猫です。部屋の角のコーナーに追い詰められた猫です。追い詰めていた者に飛びかかるしか逃げる方法はありません。でも、私はそのようにして逃げることもできません。
 
 覚悟を決めて下さい。あとは成り行きまかせ、です。

 如来がまことの心をもって私を救うと誓っているのであれば、如来に間違いはないと、まかせるしかありません。まかせるといっても何の手応えもありません。「後ろ向きになったまま倒れよ。支えるから。」と言われて、本当に支えられるかどうか分からない状態で後ろ向きに倒れかけはじめたような感じです。「崖から下に向かって飛び降りろ。地上に落下するまでに受けとめる。」と言われ、体が崖方向に大きく斜めに傾いて崖から飛び降りはじめたような感じです。こうなりますと、もう私がなすべきことはありません。助けられる感触や手応えはまるでありませんが、もう押しとどめることはできません。あとはそのまま堕ちてゆくだけです。

 それでも、如来は「間違いがないぞ。万が一つにも間違いはないぞ。」「間違うことなく、摂取するぞ。決して見捨てないぞ。」「一緒に浄土に連れて還るぞ。」と。

 どうですか。

 信に恵まれる過程は、人それぞれです。上記はその中のほんの1つの想定にすぎませんが、如来の呼び声にまかせるという感触は分かりましたか。如来の救いに間違いがないのであれば、よかったと安堵できましたか。間違いがないかどうか、自分で確認する必要はありません。確認しなくとも、如来にまかせるしかないと心が定まればそれでよいのです。そう思えませんか?

 如来のされることに間違いはない、ということを聞いて、如来におまかせという所に心が安住します。そうしますと確かなものがなくても死に行く先には不安はありません。如来におまかせ、自分の生き死にについては自分でできることはもう何一つとしてない、と心が決まってしまうのです。

2-5.信を得ることが人生の目的か?

 信を得ることが人生の目的である、と考える必要性はありません。信を得ることが人生の目的であると考え、信を得るために自分の生活を犠牲にするということも必要もありません。

 世間では、資格の取得にせよ、起業にせよ、成功するには少しばかりの才能と懸命な努力を必要とします。一流と言われるためには、その後の日々の努力が必要とされます。その過程においては自分の生活を犠牲にすることも余儀なくされることがあるかも知れません。しかし、如来の救いをそのような世間の常識で計ることはできません。信を得ようとして何かを犠牲にしながら求めても、その努力次第で得られるものではないのです。

 私の側から言えば、信を得ると言いますが、信は自分の自助努力によって得るものではなく、如来から与えられるものです。如来にとっては私に信を与えて浄土に生まれさせることが如来の全存在をかけた使命なのです。信を得させることが如来の存在目的であり、この目的を果たすために如来は寿命無量を誓われました。この誓いがあるから、私は自己の全存在や全人生をかけなくても、如来に自然と救われるようになっているのです。だから、信を得ることは私の人生の目的ではありません。信を得るために自分の生活を犠牲にすることもありません。

 私はそのときそのときに応じて求めるものが違います。信を得たいと思っているときは、信を得ることを当面の目的とします。でも、自力では得られないものと知りました。それを知って信に恵まれました。信に恵まれたら、今後は、別のものを求めるようになります。

 では、信を得たのち、私は何を求めればよいのでしょうか。私は人生の目的を達成したから人生を終えていいのでしょうか。そうじゃ、ありません。信を得たいと思っていた頃と同じように、いろいろと、そのときそのときに応じて求めるものが違います。求めるものは自分が決めればよいのです。自分の人生にどんな意味合いを求めるかは、自由に自分で決めるべきものです。他人から「これが人生の目的だ」と大上段に構えられて言われる筋合いのものではありません。

 劫ごう多生にも遭えないものが信だから、信を求めることは人生の目的ではなく、劫ごう多生の目的だ、と考えたとしたら、得られもしない信に狂わされた人生になること必定です。
 また、人生の目的を知ったという意識になった人は、私は人生の目的を知った、彼は人生の目的を知らない、という意識から、人生の目的を知った人と知らない人というように人を差別的に見てしまう癖が付きます。そして、人生の目的を知らない人は哀れで可哀想だ、これに対して、人生の目的を知った私は、何と幸せ者かとという錯覚に陥ります。この錯覚のまま生き甲斐を感じて生きることは悲劇です。この錯覚が強固なものになればなるほど、自己を強く束縛する幻影となり、そこから脱することが困難となります。カルト宗教的人格形成の完成です。

 如来の大悲心を感じるとき、生死を如来にまかせることができ、自らを縛り付けていた宗教的な心理的拘束やこだわりから自由になれます。人生の目的だと思い込んでいた心の縛りからも自由になれます。
 

2-4.視点の転換と五重の義の理解

 ①宿善、②善知識、③光明、④信心、⑤名号(称名念仏)の五重の義、成就せずは往生はかなうべからず。

 この五重の義をどのように理解するかは、問題があるところです。最初に宿善が挙げられているので、宿善がなければ往生はできないと理解して宿善を求めなければならないと理解すれば、如来の救いにあずかるには宿善を求めることが必要になります。このような考えから、宿善を求めよと教化する者がいます。

 しかし、このような理解は十八願に約束された往生浄土の救いに反しています。

 十八願の救いは、名号の成就により浄土往生は決定しており、それを信受するかどうかだけが問題となるだけです。その信も名号のいわれを聞くことによって信が開けおこるので、我が方が求めなければならないものは何一つとして無いように名号は成就されてあります。そうすると、名号のいわれを聞きながら、宿善を求めるというのは、全くの聞き損じということになります。

 では、最初に宿善とあることをどのように理解すれば、名号信受の教えに合致するかということですが、これは、最後に挙げられている名号(念仏)から信心、光明、善知識、宿善と順次、遡って理解すれば分かり易いと思います。すなわち、今、私が念仏申している身となったのは、私に信心が恵まれたからであり、その信心は如来の光明によって開け起こったものであり、我が方の思いは何も必要ではなかったと信解し、その信解は真宗知識による教導のお陰であり、その真宗に巡り会うことができたのは、遠く、如来によって宿縁を受けていたからだと喜ぶのです。理解する起点を最後の念仏において、その称えている念仏の因縁を考えてみれば、信心から宿善までのすべてが如来によって用意されていたと喜べるのです。これが念仏往生です。

 以上の視点から理解した上で、今度は、宿善から順次、念仏までを見てみましょう。そうすると、既に真宗の教えに巡り遭っているのは如来から頂いた宿縁のお陰であり、そのお陰で、如来のお救いの正しい教えを聞くことができているなぁ。その教えを聞くがままが如来の光明に照らされているのだなぁと感じとり、その光明に照らされて信心が開け起こり、念仏を称えているという思いに至ったのだなぁ、という思いになります。これが十八願の救いに合致する正しい理解です。そうしますと、宿善から念仏までもがいずれもいずれも既に如来が用意したものであり、我が方で用意すべきものは何一つとしてなかった、ということになります。このような思いを自力無功といい、この心相に至るのが如来の救いッぷりの真骨頂なのです。因みに、蓮如上人は、「当流には信をとることを宿善といふ」(浄土真宗聖典第2版1308頁)と言われています。

 視点を変えれば、理解しやすい事例の1つです。

2-3.視点の転換と至心

 至心は、如来の至心と衆生の至心という観点から考える必要があります。如来の側に立ったときは「約仏」といいあらわし、衆生の側に立ったときは「約生」といいあらわします。その約仏とか、約生という言い方はどうでもいいことですが、便利な言い方です。

 さて、至心はまことの心ですから、衆生は至心を持ち得ません。しかし、十八願文には衆生の生因として「至心」と書かれています。至心を持ち得ない衆生の至心とはどういうことでしょうか。

 如来の立場から考えると、分かり易くなります。

 如来の至心を衆生が聞き受け入れたとき、如来からすれば、如来のまことの言葉を受け入れた衆生のすがたに衆生の至心を見るのです。私がまことの言葉を人に伝えるとき、その言葉を聞き入れて信じてくれる人は、私にとっては、まことをもった人だと思えるのと同じようなものです。如来は、如来のまことの言葉を聞き受けてくれた者を至心の人と喜んでくれるのです。よく、まことの言葉を聞いてくれたと。

 如来のまことの心を聞き入れたこと以外には、私の至心はありません。私の心の内に至心の心を求めるのではなく、如来の心にまことのあることを聞くのです。如来のまことの心を聞いたとき、聞いたことに嘘や偽りはありません。聞いたことに嘘や偽りはないと思える。これが私の至心です。

 至心は至誠心ともいいますが、自力の至誠心に対して弘願他力の至誠心があります。法然聖人は、総別の至誠心があるとし、別の至誠心について「別というは他力に乗じて往生を願う至誠心なり。」と言われています。この至誠心は他力に乗じて往生を願う心ということですから、深心(=他力に乗じる信楽)と回向発願心(=欲生心)のことだと分かります(梯和上「法然教学の研究」280~281頁あたり)。

 如来の至誠心を聞き受けるとき、その聞き受けた私の心を至心とか至誠心と如来から讃嘆されるのです。

2-2.視点の転換と十八願の味わい

  祖師は、「よくよく本願を案ずれば、親鸞一人がためなり」と言われましたが、これは、十方衆生のうちで極悪最下な者が自分であるという意識から、そのように思わずにはいられなかったのだと思います。

 では、十方衆生のうちで極悪最下な者が自分であるという意識を持たない者は、「本願を案ずれば、私一人がためなり」という思いにはなれないのでしょうか。

 なれます。視点を変えると、私一人がための本願であったという思いになれます。

 十方衆生を、私と、私とともに同時に存在する私以外のすべての衆生と理解するのは空間的視点から衆生をとらえる考え方です。しかし、遠い過去から続いてきた私という存在のあり方を考えるという視点に立ったとき、衆生とは私がこれまでに存在したありとあらゆるあり方の存在を指す言葉として理解することができます。

 衆生とはかぎりなく生を受けるもの、かぎりなく姿形を変えて生を受けるものということです。私は遠い過去においては地獄の住人となったり、餓鬼という異形の者であったり、修羅や畜生というすがたをとったときもあったことでしょう。何度そのような姿となったか、数知れません。そうしますと、私の存在のあり方を1つ1つピックアップしてゆくと、私がいかなる衆生とならなかったことはなかったということに気づきます。私はありとあらゆる衆生という形をとって存在し続けてきた者です。だから、如来は、いかなる衆生の形をとっても私が救われるように一切の衆生を救うと誓われなければ、私を救えなかったのです。これは私の過去から現在に至るまでの無限の生命という時間的視点から考えたものです。

 どうですか。本願は私一人のためのものだった、という思いが生じませんか。

 この考え方は、本願は衆生1人1人のためにあるという考えです。1人1人に1願あり。1人1人に1名号あり。1人1人に証果が用意されている。如来は聞いてくれよという願いをもって1人1人に付き添われ、いつも私1人のそばを離れず、見守られているのではないかという感がします。真宗の空華という学派でいわれる数数(さくさく)成仏という考えを徹底すれば、このような考えに至るでしょう。

2-1.夜と霧-視点の転換

 ナチの強制収容所から奇跡的な生還を果たしたユダヤ人の精神科医ヴィクトール・フランクルに「夜と霧」という著書があります。強制収容者生活において希望がもてず自殺を考えているという2人の囚人仲間から深刻な悩みの相談を受けたときのことが記されています。

 フランクルはこの2人に「あなたには、あなたを待っている誰かがどこかにいませんか、あるいは、あなたによって実現することが待たれている何かがありはしないでしょうか。あなたを必要としている誰か、何かがあるはずです。」と助言しました。すると、1人は「自分には外国に子供がいる。その子は自分を待っているはずだ」と応えました。もう1人は「自分は科学者であり、書きかけの原稿がある。それはシリーズであり、それが完成するまでは死ぬに死ねない思いがある」と気づき、この2人は再び、希望を持つことができたというお話しです。

 自分がしたいと思うものがあっても、それを許さない極限状態の環境下においては、そのやりたいものは何の希望にはなりません。どうしても、自らが置かれた環境を考えてしまうからです。しかし、私に期待していてくれる人やものはないかと考えたとき、絶望的な環境下にあっても、私に期待してくれる人やものは考えつきます。私に期待している人は誰か、私に期待しているものは何かを考えるときは、自分の置かれた環境を考える必要がないからです。ですから、どんな環境下にあっても、私に期待していくれる人はいるか、私に期待していくれるものはないか、考えつくのです。視点を変えるということはほんのわずかなことですが、このわずかなことが大きな心理的な違いになります。
 
 さて、如来の救いを考えるときも、視点を変えてみてはいかがでしょうか。救われない、どうしたらよいかと困っている人は本当に困っているのでしょうが、困っている原因は自己中心の視点に立っているからです。救われたいという思いは、自己中心の考えです。自分が救われることしか考えていないからです。では、救われたいという気持ちとは別の視点を持ち得るのでしょうか。

 持ち得ます。それは、如来が私に何を期待しているのか、如来が私に願われていることは何か、という視点です。このような視点に立つと、いつまでたっても、いつまで聞いてもちっとも救われない自分、という考えはとりあえず横に置いておくことができます。そうしますと、はじめて、如来は何を私に聞かせようとしているのか、という大切な所に目が向くようになります。そのように視点に立って法を聞きますと、如来は私を救うという願いを私にかけ続けてきたことに気づきます。如来の大悲心に気づくのです。

1-21.自然

自然といふは、
 自はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。
 然といふは、しからしむるといふことばなり。
 しからしむるといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにて あるがゆえに法爾といふ。

  法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆえにしからしむるを法爾といふ。法爾は、この御ちかひなりけるゆえに、およそ行者のはからひのなきをっもってこの法の徳のゆえにしからしむるといふなり。すべて、ひとのはじめてはからわざるなり。このゆえに義なきを義とすとしるべし。    ・・・・・途中省略・・・・・
自然というは、もとよりしからしむるといふことばなり。
弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。

 


 自然は、おのずからしからしめるということ、そのようになさしめるもの、それが自然であると言われています。法爾は弥陀仏の誓いによってそのようになさしめている、ということで、自然と同じ意味でしょう。

 では、自然とは何のことでしょうか。私なりに補ってみます。

 私は弥陀仏の誓いによって私がかくあらしめられた(念仏をとなえるようになった)そもそもの縁起を自然と呼んでいると思います。私という存在と迷い、如来の覚りの世界、これらが織りなす如来側の縁起が自然であると思います。如来側の縁起とは、生死が迷いであると知らない私のために誓願を建て信を与えて誓願のあることを信じさせた縁起、つまり一実真如から起こった仏願の生起本末のことであり、往生と信の縁起に関する善導の光号摂化(両重の因縁)のことです。現在の私を存在あらしめた私だけが抱えている過去からの縁起が私の側にはあるのでしょうが、その縁起の果てしない深みは私の思い及ぶところではありません。私の死後における私の存在を存在たらしめる因縁は現在も果てしもなく積み重ねられてきていると思います。しかし、私の縁起すべてを如来が我が縁起と引き受けるとき、如来の果てもなく深い慈悲による縁起が私の縁起に加わり、私の行く末は如来の縁起にしからしめられることになります。

 しからしめるとは、どいうことでしょうか。

 水が流れるには縁起があり、その縁起に従って水が流れるが如く、如来の縁起もその縁起が働き動くままに縁起してゆくということでしょう。
 迷いの私が死に行く先のことについては自然(如来の側の縁起)にまかせるしかなく、死に行く先について私があがらったり、知りたがったりしても無力であることが知らされるだけです。今は、念仏を称えるようになったことも、死に行く先のことも如来の縁起にしからしめられているのですから、あらがうことなく、ただ如来に自分の生死をおまかせするだけです。如来が私を仏にするというのであれば、それにお任せするだけです。如来が私を見捨てて地獄に落とすというのであれば、いたしかたありません。仏になるか地獄に堕ちるかは如来にしからしめられているということであり、このおまかせという心理状態も如来の縁起によってしからしめられているということになります。私のすべてが如来に然らしめられているということです。

 「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちは」といわれている「この道理」とは、「弥陀仏は自然のようを知らせる料」のことですが、如来の縁起が弥陀仏という御名になったことだと理解できます。弥陀仏という御名となったのは如来の側の縁起です。御名は如来の全縁起を担ったものですから、「この道理」とは、如来の縁起を担っている如来の御名によって私の信や生死がしからしめられている、その御名の働きのことです。
 
 祖師は、弥陀仏の誓いやその向こうに人智の及ばないなにものか、何かを問うこともできないなにものか、を見据えていたのだと思います。そのなにものかが弥陀仏の誓いとなって私に現前している。だからただおまかせするしかない、そのおまかせすることも法の徳によるのだと諦観されていた。これが大悲心に打ちまかせた信の世界であります。この自然法爾の法語は感覚的で知的理解を超えるような法語ですが、浄土教の枠を大きく超え、縁起という真実の一辺に触れたような法語であります。信の世界は、このような感覚的なものであり、その人にしか感じ得ないものではあるけれど心の奥底で共感できる何かがあります。如来の果てもなく深い慈悲による縁起は私には分からないながらも、果てしなき如来のの縁起によってしからしめられるものであることに気づくとき、ひとははじめてはからわざるなり、といわれ、沙汰できるものではないから沙汰すべきにはあらざるなりと言われたのでありましょう。

 元祖が「世間の習い事に従い、念仏申せ。」「愚者に還りて念仏申せ」と言われたことにも、上記のような如来の縁起に対して謙虚にならざるを得なくなった諦観を感じさせてくれます。