2-13.私にとって南无阿弥陀仏とは一体なにか?

 南无阿弥陀仏とは、私にとって一体、何でありましょうか。

 祖師は、南无阿弥陀仏の南无の字義を解釈して如来の呼び声だと言われましたが、私にとって南无阿弥陀仏とは、如来の慈悲を感じることです。

 如来の呼び声である以上、その呼び声を聞く、ということがあります。呼び声を聞くということは、大悲心を聞いて感じるということです。大悲心を聞いて感じる場において、私と仏様とが出会うことができます。私と仏様とが出会うとは、私の心において仏様の大悲心を感じるということであります。私の心が大悲心を感じている状態は私が摂取不捨の如来に帰命している状態ですから、私の心の内に南无阿弥陀仏が成立しているということになります。大悲心を感じ、如来に帰命していることが南无阿弥陀仏です。

 如来への帰命の思いが口称となったのが念仏であります。そのため、心も行も南无阿弥陀仏となります。心身に南无阿弥陀仏が充ち満ちているということです。

 阿弥陀経の「執持名号一心不乱」と観無量寿経の「無量寿仏の御名を持つ」とは、
単に称名の行について述べたものではなく、大悲心を感じ、如来に帰命している場が心に開けている心相を述べたものでありましょう。この心相が開けるとき、浄土三部経の教説の真意と経の文言が私の上に現実になったことを心から理解し、悦ぶことができます。

2-12.法蔵の本覚と始覚-お経には書いていないこと-

 阿弥陀という仏様は、どのような苦労をして南无阿弥陀仏となられるのでしょうか、勝手に想像してみます。

 そもそも、仏様が衆生を救うには、どうすればよいのでしょうか。仏様のまま、衆生の外から衆生を救うのでしょうか。それとも、自らが衆生になり切り、衆生となった自らを救えなければ衆生は救えない、衆生を救うことは自らを救うことだという覚悟をもって衆生を救おうとされるのでしょうか。

 仏様は、衆生は我なり、我は衆生なり、という智慧をお持ちになっているので、仏様は自ら凡夫となって凡夫を救うという後者の方法を選びました。衆生となった自らを成仏させることが衆生を成仏させることだ、衆生を成仏させることが自分が成仏することだと考えられたのでした。しかし、そのための苦労は並大抵ではありませんでした。仏様は一々の衆生となり、一々の衆生の生き死にを共に味わい、一々の衆生のすべての苦悩を自らの苦悩として味わいつつ一々の衆生と一緒に輪廻を繰り返されました。その輪廻は衆生一切が仏となるまで無限に続けられてゆきます。私とともに輪廻されているのが法蔵となった仏様でした。法蔵は一々の凡夫として常に成仏のために修行をしました。自らの成仏が衆生の成仏である、衆生の成仏が自らの成仏だと信じ、自らが成仏することと衆生が成仏することとを疑うことなく信じて修行を行ったのです。法蔵は成仏するための行を円満にして見事に成仏されました。その成仏によって未来の世界における衆生の成仏が決定しました。そして、成仏した法蔵は南无阿弥陀仏という仏様となって、私の外から救いを働きかけるようになりました。しかし、私を成仏させるまでは自ら成仏しないというのが法蔵の大悲心でした。南无阿弥陀仏という仏様になっても、私が私の往生成仏を信じない間は、法蔵は私から去ることができず、南无阿弥陀仏という仏様が私の成仏を決定されたという信が私に生じるまで私とともに苦悩し続けて輪廻してゆきました。
 ついに法蔵の願いがかなうときが来ました。法蔵は私のために阿弥陀仏の本願力を聞き受け、私の内なる他力の信となったのです。私の抱える迷いの世界に出てこられた法蔵は私の他力の信となることによって、再び、仏様に戻ることがきまったのでした。私の信となった法蔵は私の肉体が滅ぶとき、仏様の世界に戻ってゆかれます。その仏様の世界で法蔵は阿弥陀という仏様になることで、私を阿弥陀という仏様にして下されるのです。
 法蔵は大乗菩薩道の実践において私を仏様にするまでは仏に戻らないというお誓いをもちつつも阿弥陀という仏様になりました。この法蔵菩薩のありかたを本覚と始覚という視点から考えました。本覚と始覚という天台思想を法蔵菩薩の大乗菩薩道からとらえ直すと、味わい深く頂くことができます。

 最後に、栃平ふじ、さんという妙好人の歌をひとつ。

ほーぞーとわ
どこにしぎやう(修行)の
ばしょがあるか
みんな私の
むねのうち
なむあみだぶつ
あみだぶつ

 

2-11.念仏と信と自我

 如来の大悲心を受容し、大悲心を仰ぐようになる前は、信を得るために何がしかの役に立つのではないかと思って念仏を称えています。自分の利益のために何か役立てようとの思いを自我というならば、他力信の念仏にはその自我はまじりません。

 阿弥陀仏の願心を仰いでいる心理状態が他力の信です。この心理状態は、如来の大悲心を受け、ほれぼれと大悲心に身と心を委ねている状態です。大悲心の他に信というものが心中にあるわけではありません。このとき、大悲心を受けている心の内側にあっては、ただ大悲心を受けているだけです。自我の思いが混じることはなく、ただ大悲心があるのみ、です。大悲心は仏と同じです。大悲心は仏であり、仏が大悲心です。大悲心があるのみということは、仏があるのみ、です。他力信の念仏はこの状態から生まれてきます。仏様が有り難い、尊い。大悲心が有り難い、尊いという思いからの念仏です。ここには、念仏をなにがしかのために称えようという自我意識による態度決定が介在することはありません。大悲心と念仏とがひとつになっています。大悲心が称えさせる念仏ということです。摂取不捨の大悲心が南无阿弥陀仏の仏様であるならば、口称の念仏は仏様が称える南无阿弥陀仏の念仏ということになるでしょう。また、念仏を称えると如来の大悲心を想念することになります。そうしますと、念仏は大悲心を感じて称え、念仏を称えては大悲心を感じるという円環が成立することになります。

 さて、念仏の行動を促す心理的な構造が意識下の心の中にいったん構築されてしまうと、苦しいときや悲しい出来事に遭遇するときにも、自然とこの構造が働いて念仏がでてきます。このようなときの念仏は、自らの幸せなどを仏に祈る祈りのこころを伴うことがありますが、苦しみや悲しみに遭遇して大悲心を思い、大悲心に救いを求めるとき、大悲心にふれて自然と念仏となります。

 苦しみや悲しみなどの情動を呼び起こす心象は絶えず私の識内に形成されてゆきます。この認識世界では次々に心象が生み出され、私はその心象世界においてわき上がる情動に日々囚われ続けています。そのなかにあって、この念仏はほんのいっときですが、安堵できる精神世界となります。一時的にせよ自我意識を離れることのできる、このような精神的世界を心の内に抱え込んで私は生きています。

2-10.大経思想の受容と事実

 宗教は、自分が認識している世界と人をどのように理解するのかに関する理解の枠組みを提供し、人の精神世界に働きかけ、一定の方向を指し示し、その方向に進むことを教示します。

 例えば、キリスト教では、この世界は神が作りたもうた世界であり、人は原罪をもってこの世を生きており、世界の終末において神の国に往けるかどうかは、神を信じることができるかどうかによると理解し、神を信じるように進むべき方向を指し示します。

 次に仏教では、あらゆる事象は縁起しているものであり、その真理に通達することによって仏の覚りを開くことができるとし、真宗では、人は智慧がないために仏の覚りを開くことはできず、また、智慧がないために煩悩によってこの世界が苦海となり、人は常に苦海に沈輪し、果てしもなく輪廻している。しかし、阿弥陀仏の浄土世界があり、阿弥陀仏を信じることによって人はその浄土世界に救われてゆくと理解し、浄土に生まれることを教示します。

 このように、認識している世界と自分とをどのように理解するのか、についてあの理解の枠組を提供するのが宗教です。では、このような宗教思想を受け入れるとき、確かな事実を得ることができるのでしょうか。また、その事実とは、どのようなものなのでしょうか。以下、真宗思想を受け入れた場合に関して述べてゆきます。

 視覚、聴覚、触覚などの五感で世界を認識しているのと同じような確からしさ(ロボット工学ではクオリアと呼んでいるものです)をもって事実と言えるものが真宗にあるか。

 そう問われれば、あると言えます。

 仏様に願心がある。大悲心がある。そのような思いが私にはあります。そして、そのような思いを内に抱いている自分がいる。このように私が認識していることに対しては、疑いを差し挟む余地がありません。仏様に願心があるとの思いを私が持ったことは、意識による認識であり、五感による認識ではなので、五感で世界を認識している感じ方とは異なりますが、疑いを差し挟むことのできない事実として認識されます。この阿弥陀仏の願心を仰いでいるというのが他力の信ですが、阿弥陀仏の願心を仰いでいる自分がいる、という認識は、その信の状態を自らの意識が認識している認識です。阿弥陀仏の願心を仰いでいる状態、そして、その仰いでいる状態を認識している自分、その自分をさらに認識するという多重構造の認識となります。このような認識が生じるのは、阿弥陀仏の願心を仰いでいる心理状態があるということが最初の前提となります。この心理状態に変化が生じて過去の心理状態になってしまうということがあれば、以上のような多重の認識構造も過去のものになってしまうでしょう。ところが、阿弥陀仏の願心を仰いでいる心理状態が恒常であれば、この多重の認識構造が恒常に内心の主観的事実として存在し続けることになります。そのため、阿弥陀仏の願心を仰いでいるということが常に現在の事実となってしまうのです。阿弥陀仏の願心には、阿弥陀仏の願心を仰いでいるという意識状態を疑いようのない事実にしてしまう働きがあるのです。

 このような多重の認識構造を内心の主観的事実と呼ぶとすれば、この内心の主観事実は、丁度、「あの人が好き。自分はあの人が好き。」「あの人が好きな自分がいる。」と思っているのと同じ認識構造です。あのひとが好き、というのは、内心の主観的事実であり、この事実を疑おうとしても、好きである間は疑いようのない事実です。そして、そのような感情を抱いている自分がいるという認識は、自分の存在を認識すると同時に、そのような感情を抱いている自分がいると認識していることです。これは、そのような感情を抱いている自分がいると認識している自分がいることをさらに認識していることになります。このような認識は、合わせ鏡の中の自分の鏡像を無限に認識することに例えられますが、無限に自分を認識することはなく、せいぜい、好きだという感情を抱いている自分がいると認識している自分がいる、という程度に留まります。阿弥陀仏の願心を仰いでいる心理状態は、あの人が好きという心理状態と同じように、それが認識の対象となるのです。

 では、なぜ阿弥陀仏の願心を仰ぐようになったのか、と言えば、如来が私を救うと願われているからだ、と答えることができます。如来が私を救うと願われているというのは、私の中の思いです。その思いがあるから、阿弥陀仏の願心を仰いでいるのだ、と答えることができますが、如来の願いがあるという思いは、そのまま如来の願いを仰いでいるということです。つまり、如来の願いがあるという思いがそのまま信です。

 では、如来が私を救うと願われている、というのは、事実でしょうか。少なくとも私達が日常認識しているような事実とは違います。ですから、事実ではなく、それは大経の教えであり、1つの宗教思想であるというべきでしょう。しかし、如来が私を救うと願われているという思いになっている私の心の状態は、内心の主観的事実です。大経の宗教思想(如来の大悲心)を受け入れるとき、阿弥陀仏の願心を仰いでいる、ということが内心の事実となるのです。阿弥陀仏の願心を仰いでいることから、その如来の願いが真実の願いであると理解できるようになるのです。

 この事実を基点として、そこから浄土思想という宗教性や思想を理解することになってゆきます。といっても、それは凡夫としての智慧による思想理解であり、その理解の正当性を智慧をもって分かるということにはなりません。それはあくまでも、宗教思想に過ぎません。そのため、仏の世界や真如という世界があるかどうかは、何も分かりません。仏様がいらっしゃるのかどうかも分かりません。ただ、感じて分かることは、如来が私を救うと願われているということだけです。この大悲を仏様というのであれば、仏様は私の心の中に感じることができます。仏様は心の中に常住しております。仏様は浄土で私を待ちきれず、常に私の心の内に来て下され、私を常に迎えて下されているのです。これが仏の常来迎であり、私の心と一つになった状態です。思いとしては、如来の願いがあるのみ。仏様があるのみ、です。

 如来が私を救うと願われているという大経の宗教思想を受け入れる、とは、如来が私を救うと願われていると思うことです。これを真宗学では、本願を信楽すると言います。本願に対して無疑になるとは、如来が私を救うと願われていると思うようになることです。如来が私を救うと願われていると思うのは、如来の願いをそのまま受け入れているということです。

 冒頭に、「真宗では、智慧がないために煩悩によってこの世界が苦海となり、人は常に苦海に沈輪し、果てしもなく輪廻している。」と書きましたが、この部分は、我が智慧、我が力、我が才、我が行、我が思いに代表される「我」によって生死を出離することができないことを教えたものです。如来の願いを受け入れるとき、我が力は生死の前にはまったく無力であるという思いになります。如来の願いがあるのみと言いましたが、如来の願いがある「のみ」とは、我が力は生死の前にはまったく無力であり、我が力を離れてしまっているという思いのあることをも含んだ表現なのです。次に、「阿弥陀仏の浄土世界があり、阿弥陀仏を信じることによって人はその浄土世界に救われてゆく。」と書きましたが、如来の願いを受け入れるとき、このような思いになります。

 以上のように、浄土思想の核となる部分が心の中で内面化されます。つまり、大悲心を受け入れたとき、大経に述べられている法蔵の物語は、私が感じている大悲心の由来・出自を述べたものであるとして、また大経は如来の大悲心が成就されたことを告げるお経として、また私がその大悲心によって生まれられる浄土の有様を述べたお経として、受け入れることができるのです。

 では、どのような心理的なメカニズムによって如来の願いを受け入れられるのか、ですが、これについて私には分りません。如来が私を救うと願われているという思いが私に生じたのは、如来が私を救うと願われているからだとしか、考えつきません。これはトートロジーですが、これ以上の答えは、自分の内心を内省しても答えは出てこないのです。ここに信楽不思議という思いが起こります。

 将来、脳科学によって信の不思議が解明されるかも知れません。私は、信は大脳における認識作用に何らかの恒常的な変化が生じたものだと考えています。脳内における物理科学現象を介さずに、他力信という特殊な心理作用が起動すると考えるのは、いささかナンセンスのように思われます。如来が私を救うと願われていると私が思っているとき、私の大脳のどの部位のニューロンが連続して発火しているのか、妙好人の信に特徴的な発火の仕方が将来、眼で確認されることになるかも知れませんが、ニューロンの発火が妙好人の信に特徴的な発火であるのかどうかの解釈問題が残るので、そのような特徴的なパターンが特定できるか疑問があります。仮にその特徴的な発火が特定できたとしても、それが何を原因としてどのようにして生じるようになったのか、については解明することはできるのでしょうか。その不思議が解明されることは永遠にないことかもしれません。

 

2-9.信を考える視点

 信を考えるに、2つの視点があります。

 1つは、如来の大悲心を受けるという視点

 2つは、如来の大悲心を受けている状態ないし如来の大悲心を受けているという私の思いを私の意識の視点から観察するという視点

 1つめの如来の大悲心を受けるという視点から信を考えると、信は、如来の大悲心をそのまま受けること以外にはありません。そのままとは文字通り、そのまま、です。如来の大悲心のままに、ということです。願心は、あるがままの私を浄土に連れ帰るということですから、私の方が浄土に往くのに用意するものは何もなく、私はこの身このまま、ということです。これを別の言葉で言うならば、計らいなく、ということです。

 祖師は、三心釈において、至心、信楽、欲生という如来の三心をあげて、衆生に至心なし、法爾として信楽なし、真実の回向心無しとしたうえで、至心、信楽、欲生という如来の三心の「故に疑心無し」と結ばれています。また、聞というは仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし、と述べています。いずれも、如来の三心に対する疑心の無いことを述べたものです。もう少し敷衍していうと、真実の信願と真実の行願が仏願として起こされ、その願が成就され、その結末として御名が衆生に回向されて、私の上に御名が実現し、事実となってゆきます。これらの一連のことはすべて如来の至心、信楽、欲生の三心によるものです。仏願の生起本末とは、仏願は真実の三心のない私のために起こされたということです。祖師は、この大悲心を聞いて疑心のないことを聞というのだとされました。ここから聞は信であり、信は聞であるといわれますが、生起本末の「末」とは、疑心無く仏願を受け入れて念仏する姿となったことを「末」というと考えられます。この姿が御名の回向を受けた最終的な姿であることから、この姿となったことを「末」というのがふさわしいと思うからです。また、凡夫の最終的な姿は、浄土往生して仏になるということですから、「末」を成仏と考えることも可能だと思います。

 さて、如来の至心、信楽、欲生の三心は、如来の摂取不捨の大悲心にまとめることができますから、如来の摂取不捨の願心を聞き、その願心について計らいを入れないということが信であり、聞ということになります。では、願心について計らいを入れないとどうなるのでしょうか。計らいを入れないのですから、願心がそのまま私の心に印現するということです。印現とは願心が心に刻みつけられていることですが、私の心に刻み込まれた願心は私の心から離れることがなく、失われることもありません。願心が願心のままに私の心に移り込んでしまい、私の心に意識され、私は常々願心を意識し、仰いでいるという状態になります。

 2つめの、如来の願心を受けているという私の思いを私の意識の視点から観察するという視点に立って信を考えてみます。私はこの視点から信を眺めることを信意識と命名しています。

 信後においてはいろいろな思いが交錯します。それは、どうして自分はこのような心理状態になったのであろうか、これは本当に如来の救いということなのか、など様々な思いが生じてきます。これは私の意識が心の内なる傍観者のごとく私の信の状態を観察するところから生じるものです。これは、凡智による観察ですから、真実を知覚することには決して至りません。いくら傍観者のごとくに観察を続けても、決して如来の願心が真実であるかどうか、分かることはないということです。

 さて、ここで不審に思われるであろうことは、如来の願心が真実であると知覚されたから信が生じたのではないのか、という疑問でしょう。理詰めで考えれば、当然にそのように思われるのは無理もありません。しかし、願心の真実を知覚したから信が生じたのではありません。願心が真実であり、間違いのないものだと聞き受けたのが信ですが、何故にそうした信が生じるかは、答えようのない問題です。ここに信の不思議があります。脳神経科学では、意識は脳内の前頭前野の皮質を中心に神経ネットワークが形成され、ニューロンが発火して脳内の情報を伝達していることによって生じるのであろうと推測されていますが、信もまた新たな神経回路の形成によって生じたものなのかもしれません。

 仮に信がそのようなものであったとすれば、私の肉体の死によって信は消滅してしまうのではないか、という思いも生じます。これも、信意識から生じる思いの1つであります。このような思いは、生きている限り起こるものですが、これによって心に印現された願心がなくなることはありません。

 では、先の「私の肉体の死によって信は消滅してしまうのではないか」に思いに対し、私がどのように考えているのかと言えば、次のとおりです。信の意識は死によって消滅するだろう。だが、それは私が構うことではない。信が私の心に開け起こった因縁は如来の因縁であり、その因縁があるのであればあとは如来の領分の問題である、と思っています。これは、私の生死の問題を如来に丸投げしていることになり、自分の責任の範疇ではないとあきらめている態度ですが、これは1つの態度であります。アドラーの心理学では解決課題という用語が使われていると仄聞しました。そして、アドラーは誰の解決課題であるかを考えます。この用語に従えば、上記の私の態度は、私の生死の問題は私の解決課題ではなく、如来の解決課題だとして理解するものです。

 私は、信の生じた私の心を、このように傍観者として観察し、アレコレと考え続けています。この傍観者としての私が如来の大悲心が至心であるかどうか、知ることはできません。それを知るだけの智慧がないからです。

 しかし、如来の大悲心を受けるという信そのものの視点では、如来の大悲心はまことの至心であると受けとめているのです。矛盾するようなことを言いますが、信そのものと信を傍観者として観察する時に生じる思いとは、別々なのです。

 以上、信を考える上では、「如来の願心を受けるという視点」と傍観者としての私の意識の視点から観察するという視点の2つの視点があります。後者の視点からの観察においてさまざまに生じる思いがありますが、後者の思いは自力の計らいではありません。
 なお、信について会話をする際、私は信について自分が意識していることをお話します。これは、傍観者としての視点に立ったものです。床に就くときは念仏を称え願心をしみじみと味わいつつ眠りに就きます。このときは傍観者としての視点はありません。あるのは如来の願心だけです。

 願心をそのまま受けて大悲心を味わう世界をそのまま言葉でお伝えすることはできません。言葉でお伝えするときは、常に傍観者の立場から、傍観者としての言葉でしかお伝えできません。これが如何ともし難い限界です。真宗教学というのも、傍観者としての視点から人に伝えるために思想形態としてまとめあげられたものだと考えています。そして、教学をたんなる思想ないし教学として理解するのではなく、その人がその人なりに慈悲心を味わった思いを思想ないし教学体系として表現したものであると理解し、教学はその人の味わった思いを教学を通じて味わいなおすためにあるのだと思っています。

2-8.月指す指

 週刊○○誌に「月指す指」という漫画が連載されていました。西本願寺の僧籍を取得するために仏教学院で受講する生徒達の物語ですが、真宗の教義が述べられる場面はほとんどありませんでしたが、それなりに面白いので毎週購読していました。

 この「月指す指」という言葉は、大智度論に出てくる言葉のようです。月を指さして月を見ろと人に言っても、人は月を見ないで月を指す指ばかりを見ていること、ですが、真理を教えた言葉の意味解釈ばかりして、真理そのものを見ないということを教えた言葉です。真宗で言えば、月とは如来の願心のことです。指とは、如来の願心を教えている大経所説の教説のことです。人は、如来の願心によって救われよと教えられても、願心を仰ぎ見ることをしないで、その教説の字句等の意味や解釈にこだわっている状態を喩えたものです。

 如来の願心を教えられても願心を仰ぎ見ないのは、願心が言葉を超えており、願心の大悲心が分からないからです。人は概念的にしか理解することができないために、言葉を超えた願心が分からず、願心に向き合おうともしません。願心を受け入れようとも思わないのです。ただ、いますぐ救われたいとは思うのですが、大悲心に向こうとしないのです。ここが本願の信の難しいところであり、おもしろいところでもあります。

 如来は、救いたいという願いを聞いてくれるだけでよい。聞いてくれれば直ちに救うと願われています。その如来の気持ちを聞こうともせず、どうすれば救われるのかとばかり考えたり、自分の心ばかりを見つめているのです。いますぐに救われたいと思うのですが、それは、自分の都合を優先させていることに気づきません。如来の思いに思いが至っていないのです。

 今、私が念仏を称えている姿は如来の大悲心が私に届いている姿であり、その如来の大悲心は私を浄土に連れてゆくという真実まことの大悲心だから、私が浄土に往くことは確定しており、決定している。だから、私はその大悲心をいただくだけでいいんだよ。我が方でどうにかして助かりたいという思いをもって救いを求める必要はないんだよ、と指し示しても、救われたい、何とかしてという思いをもって救いを求めようとするのです。

 何の価値もないと道ばたにうち捨てられている小さな花が自分の存在に気付いて貰おうとして一生懸命に花を咲かせているのに、その上を踏み歩いているようなものです。その花の存在に気付いてあげるということが大事です。如来の願心に目を向けないのは、その花の存在に気付いてあげられないことと同じなのです。自分の思いばかりを優先させずに、如来のことに心を至して下さい。心を至すとは、如来の思いに心を向けて如来の思いを優先させてあげて下さい、ということです。如来の至心が私の思いに優先するとき、私の思いなどはどうでもよいことになってしまいます。

2-7.自力無功と死の受容

 如来の本願が間違っていたら、どうなるのか。如来の願心を喜んでいる人は、この点にいて、どのように考えるのかを考えてみます。

 如来の本願が間違っていたら、どうなるのか、そんなことを信後の人が考えることがあるのかと、訝しく思われるかも知れません。

 しかし、一度は考えることがあると思います。それは、如来の願心が真実まことであるかどうかは、残念ながら、凡夫の智慧では分かりません。死後があるのかどうかも、死んで地獄に堕ちるのかのかどうかも、浄土に生まれるのかどうかも、凡夫の智慧では皆目分かりません。そのため、私は、如来の本願が間違っていたらどうなるか、ということを考えてしまいました。

 私は、つぎのような思いに至りました。

 如来の本願が間違っていたら、如来が大嘘をついたことになる。如来が大嘘つきであれば、大嘘つきの如来も地獄に堕ちるであろう。ともに地獄に堕ちるのであれば如来と一緒に堕ちよう。しかし、私が地獄に堕ちるのであるとすれば、それは如来が大嘘をついたからではない。地獄が自分が行くべき所であるならば、嫌でもそこに行くのだろうから、それを免れることはできない。仕方のないことだ、という思いです。この心の据わりがあるために、自らの死を受容してしまいました。因みに、上記の思いは「地獄に堕ちるというのであれば、」ということであって、地獄は一定と確定していると認識しているわけではありません。

 上記のような思いが私の心の据わりとなっています。この心の据わりは、「自分の命の行き先は如来まかせ」という思いから生じています。「自分の命の行き先は如来まかせ」という思いは、私の後生の行き先の問題に関しては、如来の願心を聞き受けているだけでそれでよし、聞き受ける以外に私のできることは何ひとつない、という思いから生じています。この思いは、如来の願心を聞き受けているところに安住し、自分の思いや行は何の役にも立たないという思い、です。自分の思いや行は何の役にも立たないというのは、自分の生死の問題に対してです。自分の生死の問題に対しては何の役にも立たない。この思いを自力無功といいます。自分の思いや行は何の役にも立たないという思いがあるために、如来の本願まかせという思いにもなります。このようなことを考えますと、自力無功という思いには、私の心を如来の願心に据わり付けて動揺させない働きがあるようです。

 このことは、その他のさまざまな疑念に対しても、同様に作用します。例えば、「如来という存在が分からないし、如来の願心というのもあるかどうか分からないではないか」「どうして如来の願心を喜べるのか、ぬか喜びではないか。」という疑念を持つこともあります。しかし、自力無功という思いがあるために、「ぬか喜びであればあったで仕方ない。」「如来の願心を頂いている他に、私の出来るものは何もないのだから。」という心の据わりが変わることはありません。
 
 私は、上記のように自問自答した時期がありましたが、これは他の人でも同じだろうと思いますが、どうでしょうか。このような自問自答は、本願を疑う疑情ではありません。本願を疑う疑情とは自力に功を求める思いのことです。自力の思いが消尽すれば、本願を疑う疑情はきれいに無くなってしまいます。
 
 ところで、自らの死を受容してしまえば、後生の問題は解決です。後生の解決とは、「地獄に行かないことに確定したことであり、そのことを私が認識し確認することだ。」と考えている人がいるかも知れません。しかし、如来がましますればこそ後生など気にすることはなかった、という思いになることも後生の解決の仕方です。そうした思いになるのは、如来の大悲心があると分かったからです。

 父親を殺した阿闍世がその罪の重さから地獄に堕ちると煩悶し、その苦悩のあまり、でき体中にでき物ができて膿をつくり腐臭を発するほど煩悶していたのに、釈尊の導きによって、衆生の悪心を破壊せば、われつねにあび地獄にありて無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もて苦悩とせずと自ら告白したように変わってしまったのも、大悲心に触れたからに違いありません。

 ところで、信後においても、世間的な苦しみや不安を前にしたとき、ついつい、心はそこから逃げてしまいそうになることがあります。そんなときでも、避けようのない苦しみだから、苦しみを引き受けてしまおうという覚悟ができれば、苦しみはなくなります。ただ、これは自らのマインドセットを自ら変えることが必要です。死の受容は大悲心を知ったことからそれが可能となりましたが、マインドセットを自ら変えるには、エイッと思い切らなければなりません。心理学者のアドラーは苦悩は人間関係にあるといったそうですが、人間関係の苦悩、経済的な苦悩、病気の苦悩など、生きている限り尽きることはありません。私は、そうしたことに直面したとき、開き直ることにしています。実際にその苦悩を引き受けることができなくても、引き受けてやると自分に言い聞かせます。どうにもならないのであれば、そのどうにもならないところを進んで行くしかないのだから、その苦悩を引き受けろ、覚悟を決めろ、と言い聞かせることにしています。そうすると、そこから逃げようとしたときよりも、心はずっと楽になります。このことは、先に述べた、死を受容するという思いになったことから学んだように思います。