3-5.信が得られる条件-赤尾の道宗

Cさん 赤尾の道宗は、琵琶湖の海を一人して埋めよと蓮如上人から言われて、かしこまると答えたそうだけど、蓮如上人は、善知識に絶対服従することを求められたということなのかしら。

B君 違うね。善知識に絶対服従するというこことと信を得られるということとは、まったく別物さ。絶対服従すれば信をえられるとは言えないし、絶対服従しなくても信は得られるよ。

A君 ま~、そうなんだけど、御一代聞き書きには、死ねと言われて死ぬ人はいるが、信をとる人がいないと言われている。これは、蓮如上人のお弟子の中には、蓮如上人に死ねと命じられれば、命を絶つことができるような人がいたんだろうね。それでも、信をとれと命じても信をとる人がいないということを言われたものだね。

Cさん 死ねと命じられて死ぬことはできても、信をとることはできない、ということは、どういうことか教えてよ。

A君 命じられたから命を断つなんて事は、普通の精神状態にある人はできっこないけど、それは可能なことだ。自分の意志と覚悟があれば、その命令のとおりに実行することはできる。しかし、信をとれと命じられても、自分の意志で信をとることは絶対にできないんだ。

B君 信をとるかどうかは、その人に意志次第という問題ではないんだね。

A君 そう。これは自分の意志や行動でできる範疇の問題ではないんだ。そうすると、蓮如上人が信をとらせるために絶対服従することを求めるということは、考えがたいことだと分かるよね。

B君 信は願心から生じるというもんね。絶対服従の姿勢から生じるものではないことは、考えたら分かりそうなのにね。

A君 この蓮如上人の言葉を悪用する人物がいたとしたら、これは善知識とは言えないよね。

B君 倫理的に見て極悪人だろうね。

A君 では、絶対服従を求めるのは、どういう理由だと思う?

B君 団体内部における絶対的支配力の確立、人心掌握による自己満足目的ってところかなぁ。

A君 まぁ、そんなところかな。

B君 絶対服従を求めるような団体は、カルトとしかいいようがない。

A君 そのとおりだ。この問題を通じてよく理解しておかなければならないことがあるけど、それは、信は自分の意志や心の持ち方や行など、おおよそ自分の側にあるものを利用して得られるというものではない、ということなんだ。

Cさん 自力が廃るまで自力一杯求めなければ自力は廃らないという言い方をする人いるけど、これは問題ないの?

Aさん 問題大ありだよ。この問題は、大切な所だから議論しようか。Cさんは、どう思っているの。

Cさん そうかなぁと納得できるような感じがしているだけど。

B君 ふっふっふっ、騙されやすいんだね。

Cさん 私だけじゃないわよ。他にも一杯そんな人がいるのだから。
 
A君 じゃ、どこが問題なのか、検証してみよう。
 結局、自力が廃るまで自力一杯求めなければ自力は廃らないという言い方をされた場合、どこに焦点があるかといえば、自力一杯求めよ、というところだよね。

Cさん そういうことね。

A君 あと他に、気づかないかい?

Cさん んーっと。

B君 「自力が廃るまで自力一杯求めなければ自力は廃らない」ということは、その裏には、どんな論理があるのかなぁ。

Cさん そっか。自力一杯求めれば自力は廃るという論理があるわね。

A君 厳密に言えば、そういう論理があるか裏に隠されているかどうかは、分からないんだけど、それを聞いている方は、自力一杯求めれば自力は廃るという理解をしてしまうだろう。

Cさん そうなるわね。

A君 そのような理解をさせてしまうところが大問題なんだ。自力一杯求めよ、という言い方も同じような問題をはらんでいるよね。

B君 ボクは、意図的にそうした誤解をさせていると思うけどなぁ。十九願の諸善を自力一杯しなければ信仰が進まないなどという教説していることを併せ考えると、そのように考えるのは当然じゃないか。

A君 まぁね。だけど、今は、自力一杯求めれば自力は廃るという理解には問題があるということに絞って考えてみようよ。
 自力で求めたことのない人に自力が廃ったということはあり得ないよね。これは考える上での前提としては正しいと思う。だから、自力一杯求めなければ自力は廃らない、という言い方が間違っているとは断定できない。問題となるのは、自力が廃った原因が自力一杯求めたからなのか、それとも別の原因があるのか、ということなんだ。

Cさん どういうことか、もう少し分かるように説明してよ。

A君 如来の願心を聞けよという説法を聞いていたとしても、聞き損じて聞いているうちは自力で聞き求めることになる。これは、至極、当然のことだよね。最初から正しく聞き受ける人はマレだろうから、たいていの人は聞き損じて自力の思いをまじえながら聞くことになる。そういう人は、いずれ正しく聞き受けて自力が廃ることがあるけれど、それまでは自力の思いをまじえて聞法することになってしまう。その意味で、自力で求めたことのない人に自力が廃ったということはないというのは正しいと思うんだ。だけど、自力一杯求めたから自力が廃る、ということはないんだ。

Cさん 自力が廃る原因とは、どういうものなの?

A君 それは、如来の願心のまことを聞く、ということさ。願心のまことを聞くから自力の計らいが廃るんだ。それまで、如来の願心のまことを聞いても、自力の計らいを交えてしまうのが、凡夫の性(さが)なんだね。どうしても、自分の善悪の状態や思いなどが救われるための条件になっているように思ってしまうんだね。例えば、心がきれいになれば救われるだろうとか、自分の側のことを問題としてしまうんだね。

A君 だから、そのようなことを問題とするのではなく、ただ、如来の願心のまことを聞け、と言い続けることが必要で、願心に目を向けさせることが大切なことになるんだ。それなのに、自力一杯求めよ、などといって真剣に聞かなければならないと助言したり指導したりするのは、願心に目を向けさせるのではなく、自らの求道のあり方を是正したり反省するようにさせるだけだ。まったくのお門違いのお勧めになってしまう。真剣に聞け、という言い方も、聞く心構えとして真剣な態度でのぞめと言うことだから、聞く内容ではなく、聞き方を問題とするものだよね。そんなことは信とは関係のないことだ。勧めるべきは、ただ、如来の願心のまことを聞く、ということだけなんだ。如来の願心のまことをそのまま、そのとおりと聞くのが信なんだよ。それが聞即信ということなんだね。

B君 つまりさ、こうしなければならないとか、ああしなければ救われないとか、
自分の側で勝手に救いの条件をつけるなって事さ。そして、教える方も、自分の心のあり方ばかりを注視するような教え方をしてはならないということさ。

Cさん よく分かったわ。

A君 今日のところをまとめると、私が救われる条件を勝手につけるな。私を救うのは如来であって、その如来の救いに私が勝手に救われる条件を付けてはいけないよ、ってことだね。真剣に聞けとか、善をしなければ信仰が進まないとか、こんなことは、如来にとっては、余計なお世話、勝手な口出しをするな、と言いたくなるような事なんだね。

 

3-4.地獄は一定すみかぞかし

A君 我が身は死ねば地獄は一定ということになれば、祖師は、さぞかし苦しい思いをされた、のだろうか。

B君 如来の呼び声を聞いているから苦悩はなかったと思うよ。

Cさん 私もそう思うわ。

A君 いつ、祖師は、地獄は一定という思いになったのか、考えてみると、可能性があるのは比叡の山を降りるとき、だろうなぁ。それと、如来の願心を聞き受けて自力が廃ったとき、それとそれ以降、という事が考えられる。比叡の山を降りるときにそうした思いになっていたとすれば、たいそうお辛かったと思うね。自力が廃ったときにいよいよ地獄一定という思いになったのであれば、如来まかせという安堵感があったと思う。

A君 じゃあ、祖師は浄土往生を喜ばれていたのだろうか。

B君 浄土を願わぬは煩悩の所為であるが、その煩悩し盛の凡夫を救い給わん本願のかたじけなさよ、と喜んでおられることが歎異抄には書かれているよね。

A君 では、煩悩が喜びの種になるというのは、本当だろうか。

B君 本当だと思うよ。

A君 実は僕は、そうは考えていないんだ。

B君 どういうことか、説明してよ。

A君 煩悩は依然として苦しみの種だ。これがそのまま喜びになることはない。但し、その煩悩をきっかけとして、如来の慈悲を仰ぐときその如来の慈悲を喜べるんだな。つまり、喜んでいるのは如来の慈悲であって煩悩ではないよ。心から人を憎しむとき、心にあるのは憎しみだけさ。その状態で苦しむのは当然のことだろう。その憎しみの状態のままでその状態を喜べる信心の人はいないさ。人を憎しんだことをきっかけとして如来の慈悲に思いをいたして慈悲を仰ぐとき、やっとその慈悲を喜ぶというのが本当のところじゃないかい。

B君 そういわれれば、そうだね。

A君 ところで、祖師は、念仏は浄土に生まれるたねやらん、地獄におつるたねやらん。総じてもって存知せざるなりと仰っているけど、浄土に生まれるたねかどうか、本当にわからなかったのだろうか。

B君 分からなかったと思うね。

A君 どうしてそう思うの。

B君 如来の願心がある以上は、自分も浄土に生まれるとは思うけど、それは確信というものとは違うように思えるなぁ。

A君 そうすると、地獄は一定という思いに対して、浄土往生は確信できないということになると、いったい、祖師はどういう気持ちだったんだろうか。

B君 うーん。地獄一定の自分に如来の大悲心が届いているといるということだから、その思いのない者と比べると大悲心に感激していたのだろうと思うけど、浄土往生は確信できないということになると、ある種の緊張感があるよね。

Cさん そうね。自己の実態を見れば地獄ゆき、如来の慈悲を仰げば慈悲を喜び、浄土往生を喜ぶ。どちらか一方に思いが確定してしまうということのない状態ということになるわね。

A君 祖師は、地獄は一定と言われたけれど、僕には地獄一定の思いはないんだ。でも、いざ死ぬというときのことを考えると、自分の行き先が地獄であるならば、それはそれで仕方ないという思いはある。自分がそういうものであれば仕方ないことで、逃れようがないからね。

B君 じゃ、浄土往生の思いはないのかい。

A君 いや。そういう思いもあるよ。でも、確信しているわけではない。如来の願心があるから往生は治定だろう、往生治定は間違いないという思いがあるが、それが本当かは分からない。

Cさん そうすると、ただ、地獄は一定の思いがないだけね。

A君 そうだね。B君がさっき言ったように、地獄は一定の思いがないけど、死に突入してゆくというある種の緊張感があるよね。

B君 緊張感はあるけど、如来にまかせきっている安堵感もある。

A君 そうなんだね。あるんだよ。

Cさん 京都にいる親鸞聖人のもとに行こうとした関東の同行の中には、途中で病気にかかって仲間たちに関東に帰れっていわれだけど、どうせ死ぬなら祖師の下で死にたいと言った人がいたわね。

A君 あぁ、いたね。

B君 その人が京都について死ぬ間際に、祖師が臨終の心境を聞いたとき、喜び近づけり、報謝の念仏を申していると答えた、ということだったよね。

A君 そうだね。

Cさん その人は、そんな心境で亡くなったのね。

A君 臨終が近づいたとき、如来の慈悲を目一杯、受けていたんだろうね。

B君 そうじゃないと、なかなかそんなことは言えないよね。

A君 祖師が亡くなるときも、念仏の声がして、やがて声が小さくなっていき、最後には途絶えたということだったよね。

Cさん 祖師も喜ばれていたのね。

A君 そうだろうね。

B君 慈悲に遭っている人は、その慈悲を感じているときはみんな慈悲に安堵し、涙を流して喜ぶんだ。

A君 慈悲を強く感じるときもあり、感じないときもある。機縁機縁で変わってくるものだけど、死を意識するとき、大悲心を強く感じるのだろうと思うね。

Cさん 私は、自分の臨終が楽しみね。どうなるのだろうかと思うのね。不安ではく、わくわくするような期待かな。A君とB君の臨終には、私が立ち会うからね。どうなるか見物だわ。

A君 女性の方が長生きするからね。

B君 せいぜい僕らの臨終がどうなるのか見ておくれよ。

Cさん 分かったわ。必ず、あなたたちの臨終に立ち会って、そのときの心境を聞いてあげるわよ。

A君 まぁ~、わさわざ立ち会ってくれなくてもいいけど。ただ、臨終の様はどうであれ、そのことは関係ないからね。そこんとこだけは、よろしくたのむよ。

3-3.自力消尽の理由

A君 自力が消尽するのはどうしてだと思う?

B君 以前、僕は、地獄一定の実機が知らされて出離できないと知らされるから自力無功になるのだと思っていたよ。でも、A君はそうじゃないというんだね。

A君 ウン。地獄一定の実機など知らされないよ。それに、自己の実機がどういうものか、信を得たって分かるものではないよ。人の生命がどういうものか人の智慧では分からないよ。

B君 如来の大悲心に気づくと自力はなくなるよね。

A君 そうだね。如来の大悲心を受けていると気づくと、いつのまにか自力は無くなっているよね。

B君 大悲心に気づいて自力を捨てたというのではなく、気づいてみるといつのまにか自力は無くなっていたんだよね。

A君 自力が消尽するのは如来の大悲心を聞くからなんだ。

B君 ということは、あまり、自力の思いというやつに拘泥する必要はないってことか。

A君 そう。自力の思いとか自己の罪悪だとか、自分の内心のある思いに目がいくと、そればかりが気になってそれに囚われてしまうんだ。

B君 よく分かるよ。だから、そんなものに目を向けず、大悲心を聞けっていうんだね。

A君 そうさ。大悲心を聞けば、それで終わりさ。僕自身を振り返ると、当時は、自分の悪性を探し回って掘り返していたね。一生懸命に悪人であることを自覚し、地獄に堕ちる自分探しをしようと努めていたんだ。まったく無駄だったね。そのうち、そんなことをしなくても如来は必ず助けると聞いて、いつか間違いなく助かると喜んでいたけれど、いま助けるとの慈悲であることに気づかず、いつまでたっても助からないと愚痴ってばかりいたよ。

B君 それ分かるよ。僕も如来に悪態ばかりついていましたよ。

A君 いま助けるという大悲心であることに気づくっていうことが本当に大事なんだ。

B君 聞いているのに聞いていなかったんだ。

A君 そうなんだ。聞いているのに聞いていなかったんだ。聞いていることがそのまま如来の救いに遭っているということになる、ということを聞いていたのに、それが救いであるとは思えなかったんだ。だから、救いに遭っていると気づいたとき、これが救いかと、とても意外に思ったことを覚えているよ。その後も、これが本当に信なのかと混乱していたよ。

B君 簡単なことなのに、難しかったんだね。平生業成という教えも、聞いて助けられるというところに根拠があるんだね。

A君 まったく、そのとおりだね。聞くのは平生ただ今のことだからね。

3-2.悪人正機 

A君 Cさんは「悪人正機」についてはどう思っているの?

 

Cさん 私は罪悪感が強いので、悪人正機の悪人とは私のことだと思うわ。A君は
そうじゃないの?

 

A君 僕は罪悪感はほとんどないね。自分は善人だと思っているので、悪人正機
聞いたって、善人も正機だと思ってしまうね。

 

Cさん へーッ、そうなの。そんなことを言う人、はじめて見たわ。

 

A君 そもそも、凡夫に善人と悪人がいるのだから、ことさらに悪人正機を強調す
るのは間違っていると思うよ。それに、善人は悪人になりうるし、悪人は常に悪いことをしているわけではないし、善行をすることもある。だから、一概に善人と悪人とを固定してしまうのは間違っていると思うね。 

 

Cさん 善人と悪人との区別は相対的だし、善人と悪人が固定されているものでは
ないのは、そのとおりだけど、悪人正機の意味を間違って理解していない?
悪人正機は、如来の大悲心は苦ある者にひとえに重しということなのよ。それに、ここでいう悪人とは道徳的な善悪を問題としているのではなく、自分の心のあり方に見つめたときに感じられる悪性ということなのよ。

 

A君 僕は、自分の心に悪性があるということは分かるよ。でも、そのことで悩む
ということはないんだ。生まれついてのものでどうしようもないのだから、ことさらに苦しむということはないんだ。それに、人生で苦しんでいるのは、善人悪人を問わず、苦しんでいるよ。僕なんかいつも経済的に苦しんでいるもんな。

 

Cさん それは大変ね。A君は性格まじめで誠実そうに見えるけど、商売へたそう
だもんね。

 

A君 だろ。それに病苦、老苦や死苦は免れようがないだろ。どうにもこうにもな
らない人生で苦しんでいるのは悪人だけじゃないさ。だから、凡夫であるかぎり、大慈悲を受ける資格は誰にでもあるってことさ。

 

Cさん そうね。そう思うわ。でもね、悪人だと自覚している人から見れば、如来
の大慈悲心は、自分への慈悲心だと強く感じるのよ。だから、親鸞聖人も親鸞一人がためなり、と喜ばれたのよ。

 

A君 それは、そうだと思うね。罪悪感や無常感に応じて大悲心の受け止め方は、
人それぞれだね。祖師は罪悪感を吐露しているけど、無常感を感じさせる御文はほとんど無いように思うね。それに対して、覚如上人は、本願は短命の根機を本としたまへりと言われているよ。大悲を受ける側の自覚によって正機の捉え方が違ってくるんだよ。

Cさん 同感だわ。でも、A君は、親鸞聖人が自己の悪性を見られたほどには自分
を見ていないから、悪人正機が自分のことだと思えないだけなのよ。

 

A君 おっと。そうきたか。それを言われたら、反論できないなぁ。
ところで、煩悩がそのまま喜びの種になると言うが、あれは嘘だね。

Cさん どうして? 慈悲は自己の煩悩中に見る、っていうじゃない。煩悩を知ら
されれば、大悲心をより強く感じるわ。

A君 それはそうだけど、僕が嘘だというのは、煩悩は煩悩のままで煩悩がそのま
ま喜びの種にはならないってことさ。Cさんが喜んでいるのは、煩悩をきっかけとして大悲心を喜んでいるのだろ? 喜びの種は大悲心そのものであって、煩悩それ自体が喜びのもとではないってことさ。

Cさん そういうことね。分かったわ。最初の問題を確認しておきたいけど、やっ
ぱり、悪人正機説は間違っていると思っているの?

A君 悪人正機をことさらに強調するのは、誤解を招くことにならないかと危惧し
ているんだ。間違っているとは思っていないよ。つまりね、悪人正機というのは、極悪最下の悪人に焦点をあてて如来の救いはその悪人をも救うという如来の大悲心を説く教説なんだけど、これは、如来の大悲心においては最下の悪人も救われる。いわんや善人も救われるということなんだよね。

A君 これは、ある人が僕に話してくれた例え話なんだけど、旅館のお女中さんが
食事を乗せるお凡を運ぶとき、一番下のおぼんから抱えることになるけど、上にあるおぼんもまるごと抱えて運ぶよね。一番下のおぼんというのは最下の極悪人、それより上にあるおぼんは極悪人よりはましな善人の凡夫と聖人ということだね。如来は最下の極悪人までも救うというは、丁度、一番下のおぼんから、一番上のおぼんまで丸がかえするということなんだね。だから、極悪人も救われ、善凡夫も聖人も救われるということなんだね。
 この例えは、如来の大悲心が極悪最下の悪人にまで及んでいるということを示すと同時に、極悪最下の悪人までもが救われるのだから、その上の善人聖人も救われるということを意味している。
 ところで、悪人正機ということを聞くと、自分は悪人であると自覚しなければ救われないのではないか、救いの正機である悪人にならなければならないという方向に話が流れがちになってしまう。これは、間違っていると思っているんだ。別に悪人であるという認識を持たなければならないということはないんだよ。

 

Cさん うん。よく分かったわ。

3-1.本願まこと

A君 B君は「本願まこと」と心から思っているかい?

 

B君 ウーン、自分でもよく分からないなぁ。「本願まこと」と思っているようで
あり、そうはっきりと分かったとは言えないような、そんな感じかなぁ。
A君は、どうなの?

 

A君 僕もそんな感じだけど、「本願まこと」と思っていると言っていいんじゃな
いかなぁ。

 

B君 じゃあ、どんなふうに本願まことと思っているの?

 

A君 本願まことと聞いて願心を受け入れているのだから、本願まことと受け入れ
て受けとめているはずだ、ってことだね。自分のことを言うのは口幅ったいのだけれど、僕は、大悲心があると感じでいるんだ。大悲心があると認識している。この大悲心があると感じ認識しているとき、この大悲心は如来であると思える。この感じている大悲心はまこと、という思いがある。しかし、真実まことかどうか、を自分の智慧で計ろうとすると、まるで分からない。

 

B君 それはまったく同感だね。でも僕は、本願まことと思っているかどうか、と
いうことに、あまりこだわらなくてもいいと思うな。

 

A君 僕もそう思うけれど、祖師が「本願まこと」と言われた以上、祖師は本願は
まことと受けとめていたと思うんだ。それを至心信楽というのであれば、自分も同じ思いにならなければならないという思いになるじゃないか。

B君 そうだなぁ。でも、僕は自分の思いが本願まことという思いになっているの
かどうか、自分で自分の心理分析してもよく分からないもんだとあきらめているよ。A君は、分からないことを分かりたがるたちなんだね。

 

A君 うん。そうなんだ。気になるんだよね。B君はどうしてそう落ち着いていら
れるのかなぁ?

 

B君 願心を受け入れている以上のことは、何も必要ないからね。

 

A君 ホーッ それ、どういうことなの? もう少し詳しく言ってもらえるかな。

 

B君 A君も分かっているくせに、そんな質問をするとは、なかなかくせ者だね。
 願心を感じている事が如来の願いを心で受け入れているという事。この他に、何かしなければならないことなど何もないと自覚しているからだよ。これからさらに何かをしなければ本当の如来の救いに遭えない、のだとしても、自分はこのまま死んでゆくしかない存在だと分かったんだ。いまさら自分の方で何かをして如来の救いに遭える、ということはもうボクには考えられないんだよ。だから、如来の願を受け入れていることだけでボクには十分なんだね。自分の心理をボクなりに分析すると、こういうことになるかな。

A君 それが自力の計らいが廃ったことから生じる心相だと思うね。それで、如来
の願いというのは、何のことかい。

B君 如来の願いとは、私を浄土に生まれさせるという願いのことだよ。

 

B君 自力の計らいが廃れば、願心を受け入れている以上のことは何も必要ない、
という、ある意味、開き直った心境に心が落ち着いてくるのだね。自力無功の思いは、本願から心を離れることがないようにしっかりとつなぎ止めておく働きがあるんだろうね。

A君 僕もそう感じているよ。自分に信があるか無いか、そんな自己中心の判断は
どうでも良くなってしまうんだ。

B君 だから、願心を仰ぐだけ。信を仰信というのは、とてもぴったりとくる表現
だね。

 

A君 そうだね。じゃ、また議論の相手をしてくれよ。

2-21.思うと思わざる-架橋するもの

 究極の問いは、いくつか考えられますが、今回は、私を救うという大悲心があるという思いは世間でよく言われる「思い込み」ではないのか、という問いについて考えてみます。

 「思い込み」という言葉は、「単なる思い込みに過ぎない」などと使われるように、客観的な事実とは異なることを事実と思っているということを意味しています。例えば、自分は癌かも知れないという思いに囚われるような場合です。思い込みとこれに対応する事実関係が存在するときには、客観的事実関係に照らせば、その思い込みが間違いであるかどうかを判定することができます。癌であるとの思い込みが正しいかどうかは医学的見地から客観的に判別でき、このような場合には、思い込んでいたと自ら反省することができます。あるいは、「思い込み」という言葉は、他の人から見た場合、客観的事実による裏付けがない絵空事のようなものを信じているようなときにも使います。このときは、客観的事実に照らしてその思い込みが間違いであるかどうかを判定することはできません。そのため相互理解に至ることは極めて困難となります。

 大悲心があるという思いは、客観的事実関係に照らして判別することができるようなものではありません。では、そのような思いを持っている人が、その思いは思い込みであるのかどうかを自問自答したとき、どのような答えがあるでしょうか。

 私は、私を救う大悲心があると思い込んでいるのですから、思い込みと区別を付けることは極めて困難です。この思いは深く心の奥底に根ざした思い込みのようです。生来もっている欲や怒りは自ら除去することができませんが、それは心の奥底に根ざしているからです。情動は心の奥に根ざし、心の奥からわき上がるものです。大悲心があるという思いは、情動とは異なり、常に平穏で静かであり、変動せず、変化もせず、一定であり続けます。自ら除去することはできそうにありません。ここから推測するに、この思いは情動と同じように意識の及ばない心の奥深くに根ざしてはいるものの、情動とは異なる根ざし方・異なる部位に根ざしていると思われます。

 阿弥陀仏に救われて浄土に生まれるというのも思い込みなのか、という問いに正直に答えるならば、私の脳内の思い込みでしょう。浄土に生まれるかどうかはわかりません。嘘かも知れないし、本当かも知れません。私に言えることは、ただ、私を救うという大悲心がある、ということだけです。

 往生一定と思え。
 往生不定と思えば、不定なり。
 往生一定と思えば、一定なり。

法然聖人のお言葉に、このような意味のお言葉*がありました。

 

*  心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、声について決定
往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。かく心得つればやすき也。往生は不定におもえばやがて不定なり。一定と思えばやがて一定する也。
              往生大要抄(昭和新修・法然上人全集60頁)

思うか、思わざるか、の違いです。この両者の間にはとてつもなく深い断絶があります。到底、自助努力で乗り越えられそうにありません。どうすれば、その断絶を乗り越えられるのでしょうか。
 この深い深い断絶を架橋するものが、仏の正覚成就と往生成就は同時であるという教説です。この教説が南無阿弥陀仏です。仏の正覚成就によって既に私の往生は成就しにけり、ということですから、往生治定の思いが私に生じます。南无阿弥陀仏は仏の正覚と私の浄土往生を成就したあかしです。これ以外に、断絶を架橋するものはありません。ですから、その教説=南無阿弥陀仏を我がものとして下さい。聞けば、自然と我がものになります。

 

2-20.己証相通じる

 お救いの法を聴聞しつつ如来の慈悲心を味わうのも格別ですが、それは私の心の中に留まるものであり、私限りのものですが、信心の沙汰はそれを分かち合えるという点で法話とは別のありがたみがあります。

 如来の願心を聞き受けたとき、これが信と呼ばれものであるとは直ちに分からないことが多いと思います。信を得た人の中には最初から信を得たと直ちに理解する方もいらっしゃるかも知れませんが、むしろ、自分の身に何が起こったのか理解できないと感じられる方が多いのではないでしょうか。なにしろ、はじめての事ですから、これが信なのかどうか、悩まれることになります。信と言われていたものが私の身の上に起こったのかどうかは、よくよく聞いてみなければ分かりません。そのために、信心を取りたるか取らざるかを幾たびも沙汰する必要があります。愚は愚のまま心中を語るのが、ありがたいものです。これが蓮如上人の言われている信心の沙汰だと思います。

 そのような信心の沙汰とは別に、如来の願心を喜ぶ人がそれぞれの味わいを言葉で表現することによって共感し合いたいという思いになることがあります。そのような思いでうち解けるのが本当の信心の沙汰であると私は思っています。私が如来の願心をどのように受けとめて味わっているのかを言葉で伝え、それに共感して貰える人がいるということを確認できることは嬉しいことです。またその人も願心を味わっていると理解することで通じ合える世界があることを再確認することは、また楽しいことであります。このように信心の沙汰は信後の喜びを味わえるまたとない機会になりますから、私は信心の沙汰をするのが楽しみなのであります。飾った言葉ではなく、愚は愚のまま心中を語るのが、ありがたいものです。信心の沙汰は、己証相通じる友を探すようなものです。