5-1.信が生じる論理 

如来の声を聞けば、名号を与えられて信が生じる。”

この表現 あり? なし?


A君 “如来の声を聞けば、名号を与えられて信が生じる。”という言い方は、ど
うだろうか、何か問題はあるかな?

B君 何か、違和感を感じるなぁ。

A君 どんなところに違和感を感じるんだい?

B君 如来の声を聞くということと、名号を与えられるということと、信が生じる
ということが、別々にあるように思えるというところかな。

Cさん 私もそう思うわ。如来の声を聞くということがあって、それからそれを原
因として名号が与えられて、次にそれを原因として信が生じるという理解がされる言い方だわ。

A君 それは間違っているのかい?

B君 間違っているでしょう。如来の声を聞いているままが信であり、その信は私
が摂取不捨の如来に南无しているということだから、如来の声を聞いていることと信とは別々のことじゃないし、私が摂取不捨の如来に南无しているのが信だから、名号を与えられたことと信が生じることとは別のことではないよ。

Cさん もう少し、説明をしてくれる?

B君 如来の声を聞くというのは、私の浄土往生は如来によって決定しているとい
うことを聞くということだね。如来は私を浄土往生させるという摂取決定心を持っているということを聞くということだね。本当に如来の声を聞くという事じゃない。

A君 本当に如来の声を聞くという事じゃないとすれば、誰の声を聞くんだね。

B君 それは、如来の願心を伝える説教師の声を聞き、その声によって如来の願心
を聞くということだよ。

A君 つまり、いってみれば、また聞き、ということだね。

B君 また聞きでも、如来の願心に虚偽はなく、真実まことの心で私を浄土往生さ
せると誓われていると聞くことで、自力の計らいが取り除かれるのだね。

A君 どこがポイントになるんだい。

B君 大切なポイントは、如来の大悲心が真実まこと、真実まことの大悲心という
ところだね。ここが要の中の要なんだ。

A君 どうしてそこがポイントなのかな?

B君 大経には法蔵菩薩が真実まことの心で衆生を救済しようと大悲心をもって願
われ、世自在王仏によって諸仏の浄土を都見され、四十八願を建立されたことが説かれているけど、その願いとその願いを成就するための衆生救済の行が真実まことの心ででなされ、諸仏に称賛される御名を成就された。衆生がその御名を聞いて喜ぶのは、仏様の真の心で浄土が建立されて衆生の浄土往生が決定されたと知るからなんだね。だから、阿弥陀如来が真の心で私を救う、と聞くことが阿弥陀如来の願心にかない、諸仏の心にもかない、釈迦如来の心にもかなうことなんだよ。

A君 如来の真の願心を聞けば、信心歓喜するということは分かったけど、御名を
与えられるというのはどういうことかな。

B君 御名を与えられるというのは、2つの意味があると思う。1つは、摂取不捨
阿弥陀仏を私が南无するということで、信そのものを意味しているということ。2つは私が称えるために南无阿弥陀仏が与えられているということだね。

Cさん 最初の摂取不捨の阿弥陀仏を私が南无する、というのは、如来が真実まこ
との心で私を浄土往生させると誓われていると聞く、ということと同じなのね。

B君 如来の真実まことの願心を聞き、その願心を仰いでいることを摂取不捨の阿
弥陀仏を私が南无しているということだね。これを信ともいうんだね。

A君 信の上にはただ南无阿弥陀仏と称える。称えている姿以外に信心の姿はない。
そのような姿になることを名号を与えられている、ともいうのだね。

B君 そうだね。

A君 そうすると、如来の声を聞けば、名号を与えられて信が生じる、というのは、
如来の声を聞くというも、名号を与えられたというも、信が生じるというも、結局、同じことを言い表した表現ということだね。

Cさん それを別々にいうのは、誤解させる言い方になってしまうわね。

B君 それに、如来の声を聞くという言い方をするけど、如来の真の願いを聞く、
とか、如来が浄土に迎えると呼びかけられているその願いを聞くということをキチンと説明をしなければ、よく分からない表現になってしまうよね。

A君 如来の真の願いを聞く、というのは、どうなることなんだい?


B君 例えば、お母さんの言いつけを聞くという例で言えば、言いつけのとおりに
する、ということだよね。言いつけられてその通りにしないのであれば、言いつけを聞くとは言わないよね。それとおなじさ。如来の真の願いを聞く、というのは、その願いのとおりになると言うことさ。

A君 その願いのとおりになる、というのは、どういうことなんだい?

B君 その願いをかなえるということさ。その願いが浄土にこいというのであれば、
浄土に往きますとなることさ。その願いが仏にするということであれば、仏にして頂きますということさ。至心に信楽して我が国に生まれると思え、ということであれば、至心に信楽して我が国に生まれると思う、ということさ。

A君 そのとおりだね。では、どうしたら如来の願いのとおりになるのかな?

B君 如来が至心をもって浄土に生まれさせると疑いもなく信じて願われているこ
とをそのとおりと聞くことだね。それ以外にはない。

A君 そのとおりだね。

4-11.自分の解決課題ではない(課題の分離)

 冒頭の「課題の分離」とは、相手の課題に対して、それは私の解決すべき課題ではないと切りはなすことです。

あなたが悩んでいる問題は本当にあなたの問題だろうか。その問題を放置した場合に困るのは誰か、冷静に考えてみることだ。
                      アルフレッド・アドラー

 アドラー流に言えば、後生の解決は自分が解決するべき課題ではない、それは阿弥陀如来が解決すべき課題なのです、と言えば驚かれるでしょうか。後生は自分の問題ではないのか、と。

「その問題を放置した場合に困るのは誰か、冷静に考えてみることだ。」とアドラーから示唆され、私は考えました。

 「後生を放置したら困るのは如来だ。」と。

 ま~、死ぬという問題は自分の問題なのですけれど、後生は如来の問題であるのです。

 如来は後生において私を浄土に生まれさせることができなければ如来になれないのです。如来はそんな誓いを建ててしまったのです。だから、私の後生という問題は、如来の問題となってしまったのです。如来の問題になってしまった瞬間に後生は私の解決すべき問題はなくなってしまったのです。ここに信が置かれ、往生は治定との思いに住している信を他力金剛の真心といいます。

4-10.どうしたらいただけるの

 どうしたら慈悲を頂けるのかと悩んでいたことは、大きな思い違いが原因でした。

 私の方が何かをどうにかしなければならないと思っていました。しかし、それが思い違いでした。何かをどうにかするということではありませんでした。慈悲が届いていることを聞けば良かったのでした。浄土往生は決定していると聞けば良かったのでした。私はこのまま死んでゆけば良かったのでした。

 思い違いをしていたことが分かったので、どうしたら慈悲を頂けるのかと悩むことはなくなりました。

 如来の慈悲においては「お差し支えなし」「ご注文無し」だから、悩むことはなかったのでした。如来の慈悲が私にそのことを気づかせてくれたのでした。

 どうしたらいただけるの?という疑問に対する回答が与えられてその疑問が氷解するのではなく、そのような疑問を持つこと自体が間違っていたと分かりました。質問自体が意味をなさず、間違っていることに気づかなかったのです。

4-9.いただけた

 慈悲には形がありません。そもそも慈悲というものがどういうものか、分かりません。分からないものをいただくことはできません。ここが乗り越えられない壁でした。八方塞がりでした。法話を聞いても、「分からない、分からない、全く分からない。」といつもこぼしていました。

 如来の慈悲が私に届いていると分かったとき、もらい方を問題としなくて良いことが分かりました。慈悲が既に届いていたので、届いていると分かっただけで良かったのでした。救うという慈悲であることが分かれば良かったのでした。如来が救うとされている私の「救われるべき状況」がどのような状況なのかを理解していなくても良かったのでした。「救われるべき状況」が解消されて安心したということもありませんでした。ただ、慈悲があることが分かれば良かったのでした。慈悲が届いていると分かったことが慈悲をいただくということでした。

 せっかく慈悲をかけられていても、その慈悲を分かってあげられなければ、慈悲はなんにもなりません。慈悲をいただくとは、慈悲に気づいて分かって上げられることだと気づきました。

4-8.いただく

 「私をもろテー、おッ気軽に。どなたでも。」の「もろテー」は、嫁に「もろテー」ということで、夫となる人からみれば、お嫁にきていただくということです。

 真宗でも「いただく」ということがあります。その場合は、お慈悲をいただくといいます。いただくのは如来のお慈悲ですが、お慈悲は物やお嫁さんと違い、形がありません。形がある物であれば、手にとって受け取ることができます。慈悲には形がありません。いただくといっても手にとって受け取ることはできません。そもそも慈悲というものがどういうものか、分かりません。分からないものをいただくことはできません。法話を聞いても分からない、分からない、全く分からないとこぼしていました。如来の慈悲が分からなかったのです。ここで完全に行き詰まりました。乗り越えられない壁でした。八方塞がりでした。

4-7.おッ気軽に

 如来がそのまま救うといっているのだから、それに乗っちゃえ。

 お気軽に乗って下さい。

 以前、関西の女性2人の漫才師がおりました。背が高い方と背の低い方でした。
背の高い方がぼけ役、背の低い方がつっこみ役でした。背の高い方は、婚期を逃したことを漫才のネタとしていました。それで、「私をもろテー、おッ気軽に、どなたでも‼」と言って、笑いをとっていました。

 これを思い出して、ついつい如来が「私をもろテー、おッ気軽に。どなたでも。」といっている所を想像してしまいました。「おッ気軽に、どなたでも」というところが大事です。いただきやすの如来の慈悲です。

4-6.乗っちゃえ

如来がそのまま救うといっているのだから、それに乗っちゃえ。

旧知の方がそう私に話をしてくれました。

お見事です。

 善導の二河白道のたとえの「すでにこの道(白道)あり。・・決定して道を尋ねてただちに進んで」とあるように、白道に足が乗る瞬間が「乗っちゃえ」です。

 白道とは如来の慈悲です。遠慮なく乗っちゃって下さい。私は無理、イヤイヤなどと言わず、お気軽に乗っちゃって下さい。