1-25.観経と大経の信・行一致2 安心と起行

 観経の上品上生に、至誠心、深心、回向発願心の三心が説かれていますが、善導の指南によれば定散十六観に共通する三心であるとされています。しかし、下々品に登場する臨終の悪人は善行はなく悪行ばかりの愚人であるとされていますので、自前で三心を具すことは不可能です。ここから、悪人に具足される三心とはどのようなものか、という疑問が生じることになります。

 観経下々品にでてくる愚人の至心が自前で用意すべき至誠心であれば、末代の悪人にこの至心を用意することは困難です。自前で用意すべき至心ではないとすれば、如来が用意した至心ということになります。元祖は、聖道の至誠心を総の至誠心、浄土他力の至誠心を別の至誠心と理解されていたようです。前者は自ら至誠心になってゆく、後者は如来から至心が至り届けられているという意味で至れる至誠心ということです。如来の誠の心が凡夫に至り届いた他力の至誠心というものがあるのです。これは、如来の至心の願心を受け入れて計らいの廃った凡夫の心に至誠心と名付けたものです。愚人が具すべき至誠心とはこの他力の至心の他はあり得ません。

 この至心が十八願の至心と同じであるならば、愚人の至心には深心と回向発願心が備わっているはずです。深心と回向発願心は十八願の信楽、欲生です。祖師は、三重出体釈において、至心は至徳の尊号を体とせるなり、至心をもって信楽の体とするなり、欲生は・・真実の信楽をもって欲生の体とするなり、と釈されていることを考えますと、他力の至心には自ずとこの信楽と欲生も備わっていることになり、また祖師が至心・信楽・欲生その言異なりといえども、その意はこれ一つなり・・・ゆえに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づくとも釈されていることをも考え合わせると、如来の願心を受け入れた心は、至心、信楽、欲生と名づけられる区々の三心があるのではなくただ一心があるのみということになります。

 このことを念頭に置いて善導のさきの指南を考え直してみますと、上品上生に登場する至誠心、深心、回向発願心の三心は定散十六観に共通して具足しなければならないという説示は、定散十六観を行じるといえども、他力の至心、信楽、欲生を具さなければ浄土往生は不可であること、観経に説かれている定散十六観の定善散善の各種の業行は、実に他力の真実信心を得た上で(安心)、その行を行じるべきこと(起行)を密かに説かれたものであると理解することになります。安心の上の起行であると理解することは、自力の行による浄土往生を説いたとする観経の読み方を完全に逆転する理解です。祖師には、定散十六観が信後の行を説いたものだとの説相はなさそうですが、善導の上記の指南に従い、定散十六観に共通し、臨終の悪人もが具さなければならない三心というものを考えてゆくと、他力の三心を具した上での起行に応じて機が区別されるとの理解に到達します。元祖晩年の教えとして、

 

問ふていわく、余仏・余経につきて結縁し助成せむ事は、雑となるべきか。答ふ。我が身、仏の本願に乗じて後、決定往生の信起こらむ上は、他善に結縁せん事、全く雑行たるべからず。往生の助業とはなるべきなり。                 

醍醐本 禅勝房への答


というものがあります。このような元祖の理解は、定散十六観の行は信後の起行(正定業としての念仏とそれ以外の助業)であるとの思想に立脚したものではないかと思われてきます。

1-24.観経と大経の信・行一致

 観経の下々品には、善知識が臨終の愚人に対して妙法を説いたが、この愚人は苦に責められて念仏するいとまがない。そこで善友は、教えを転じて口称を勧め、「なんじ、もし仏を念ずるあたわずは、まさに無量寿仏の名を称すべし」と告げた。愚人はその勧めを受け入れて、「心を至して声を絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称」したところ愚人の罪が除かれて浄土往生できたとされています。ここから善導は、口称の称名念仏を大経の十八願文の中心に据えて、「もしわれ成仏せんに十方の衆生わが名号を称せん。下十声に至るまで、もし生まれば正覚をとらじ」と読み替えたものと思われます。つまり十念の念は「声を絶えざらしめて」の声であるとし、また信を称名念仏の裏に隠しまいました。

 上記の「妙法」とは、南無阿弥陀仏のことだと推測されます。十六観法は愚人にはもとより無理です。臨終の悪人にはなおさら不可能ですから、善知識がこの観法を臨終の愚人に対して説かれるはずはありません。

 この南無阿弥陀仏は、私が死後に往く浄土の完成と私が浄土往生できることを告げる如来の名告りであり、その名告りがそのまま如来の救いの手だてとなっていることをいいます。ですから、その名告りを聞けば、聞いた衆生はたとえ愚人でも心から安堵し、その安堵から称名念仏が外相にあらわれてきます。それが大経の願成就文の「聞其名号信心歓喜乃至一念」です。
 ところが、観経の愚人はその妙法を聞いても、正しく如来の願心を理解することができず、苦に責められて仏を念じることが出来ないと嘆くのです。愚人は仏を念じることができなければ救われないと大きな勘違いをして仏を念じようと努めたのです。そこで善友は教え方を変えて(転教)、「なんじ、もし仏を念ずるあたわずは、まさに無量寿仏の名を称すべし(口称)」と心の有り様を問題とすることなく、ただ無量寿仏の名を称すことを教え勧めたところ、愚人が「心を至して声を絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称した」と記されています。

 ここで見落としてはならない重要なポイントは、十念の念仏を称えるに「心を至して」とあるところです。「心を至して」とは、十八願文では「至心信楽欲生我国」の至心と同じです。

 至心とは如来の至心が私に至り届いていることを私が受け入れたこと、すなわち、「自力の計らいを交えない状態で如来の至心である願心を受けていること」をいいます。これ以外に愚人に至心なるまことの至誠心はありません。この至心が観経に表されている愚人の他力信です。「十念を具足して南無阿弥陀仏と称した」とは十八願文の「乃至十念」のことであり、これが愚人の行です。信・行ともに十八願文の「至心信楽欲生我国」「乃至十念」に相当していることが分かります。この他力の信行に導くことにこそ如来の目的があります。他力の信が生じる直前に善友が御名を称することを勧めたのは、仏を念ずるなどの自力の計らいや諸行を廃捨させるためだったと考えられますが、称名念仏する以外のことは何も必要としていない如来の救いであることを受け入れさせるために、無量寿仏の御名を称すべしと念仏を勧めたのです。その真のねらいは、御名を称するという行を行わせることを通じて仏を念ずるなどの自力の計らいや行は仏願に相応しない自力の行であることを理解させ、これを廃捨させることにあったと理解されます。その念仏の勧めを受けて愚人は、心を至して声を絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称したというのですから、転教口称の勧めによって「自力の計らいが廃捨させられた」というところが最も重要なポイントだと私は考えます。

 では、なぜ、上記の教説によって自力の計らいが廃るのかということですが、それは、如来の願いを聞いてその願いを受け入れるからです。善導の「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」の文に「順被仏願故」とあるのを受けて、元祖は、念仏を称えることが彼の仏願に順じることであるとして仏願を受け入れたように、ただ念仏を称えることが仏願にかなうことだと理解しこれを心で受けとめて、その仏願を受け入れたから自力の計らいが廃ったのです。仏願を受け入れたことによって他力の信と行とが恵まれたのです。

 大経の願成就文の「その名号を説くを聞いて信心歓喜する」という教説は、南無阿弥陀仏の妙法は、ただ如来に私を救うとの願心があると聞くだけでその妙なる働きが現実のものになるということを教えたものです。大経においても、仏願を聞いて仏願を受け入れることにより信心歓喜し自力の計らいが廃るのです。仏願を受け入れることが信であり、受け入れた上での念仏が乃至一念または乃至十念の念仏となることは観経でも大経でも違いはありません。観経では、ただ無量寿仏の名を称すべしと教えていますから、一見して大経の説き方とは異なっています。片や諸仏の称讃する名号を聞く、片や仏が称名念仏を勧めるという明らかな違いがあります。しかし、この違いは、他力の信行を生じさせるという結果を招来させるものである点では同じであり違いはありません。願成就文の「聞其名号・信心歓喜」は、私が往生する浄土の完成と私が浄土往生できることを告げる如来の名告りであり、その名告りがそのまま如来の救いの手だてとなっていることから、その名告りである御名を聞くだけで如来の救いに預かることができる。ですから、この「聞其名号」の教説には、聞く以外のすべての行や思いをアテにする自力の計らいを廃棄させる働きがあります。ともに仏願を聞かせて仏願を受け入れさせて自力の行を廃捨させるための教説(便法)なのです。口称の念仏一行を勧めるか、浄土の完成と必得往生を告げる名を聞き受けることを勧めるかの違いはあれども、その目的はともに仏願を聞かせて仏願を受け入れさせて自力を廃捨させることにあり、また、その目的のとおりに自力廃捨の効果が自然に生じるのです。前者の念仏を称えることで自力が廃ったことを観経では、「なんじ、もし仏を念ずるあたわずは、まさに無量寿仏の名を称すべし」と勧められた愚人が「心を至して声を絶えざらしめて十念を具足した」と説かれ、大経では、諸仏が称賛する「名号を聞いて信心歓喜し乃至一念する」と説かれています。これは同一の信と行を表しているものです。この点で観経と大経とは見事に一致しています。教説の違いということに目を向けるのではなく、その教説の目的、教説から導かれる効用という観点から観経と大経を眺めると、ともに仏願を受け入れることによって他力の信と行が生じる効用があることを教えていると分かります。

6-2.質問と回答(2)

最初の質問1に対する回答に関し、さらなるご質問を頂きました。質問部分を いくつかに分割してコメントないし回答します。 

 

「質問前書き部分」

 ご回答をいただいての率直な感想を申し上げさせていただきますと、「非常に難しい」 もっと正直に申し上げさせていただきますと「まったくわからない」と感じました。大変恐縮なのですが、無論tkboo様のご回答が分かりづらいと文句を言っているわけではなく、まさに「言葉の限界」の問題、「分かった人には分かる理屈であり、分からない人には分からない理屈です」ということに尽きるように感じます。とりあえず今回のお返事をいただいて、せいぜい愚かな自分なりに如来の願心に思いを向けつつ(その気になっているだけのような気もしますが)、念仏称えることを続けようと思っているのですが、そのあたりの疑問についても含めて質問させていただきたく存じます。

 

「コメント」

 まったく分からない、というご感想はもっとも至極です。

 「如来の願心がある」「願心を聞く」などという信の表現のことは、すべて私の内心における出来事を表現したものに過ぎないからです。内心の出来事であっても誰でも経験しうることであれば共感されることもありますが、同一の経験のない内心の出来事は、誰(但し信を得ている人は除く)にも共感されません。

 信前は、私も「分からない」「分からない」といつもいつも聴聞の度毎に愚痴っていました。誰もがそうなのです。分かるまでは。分かれば、こんな簡単なことだったのかと分かります。

 

 

「質問部分その1」

 「如来の大悲」とか「如来は私に何を願っているのかを考える」とご親切に聞かせていただいても、私にはどうしてもそれを真受けにできない、そもそもまともに考える気が起きない私がいるというのが正直なところです。実は私にはそもそも仏願の生起本末というのでしょうか、その話を事実と信じることができず、悪く言えば架空のファンタジー、よくて方便としての寓話という程度にしか受け取ることができません。この仏願の生起本末というのは「たしかに事実(真実)である」と信じなければ、浄土真宗の他力の信というものは与えられないのでしょうか?

 

「回答その1」

 私にも、「仏願の生起本はたしかに事実である」との信や思いはありませんし、これが歴史的事実であるとの認識も、当然、ありません。仮に「仏願の生起本はたしかに事実である」との信や思いがあったとすれば、それは他力の信とは異なるものです。

 他力の信とは、事実に対する認識ではありませんし、事実認識を基礎として生じるものではありません。他力の信は事実認識から生じるのではありませんから、「仏願の生起本末はたしかに事実である」と信じるか否かを問わず、他力の信は生じるものです。

 では、「仏願の生起本・末」にはどういう意味があるのかと言うに、1つには如来の願心の起こりは全く無力な私を救済することにあり、私と大悲の一方的関係を示す。2つには大悲心が起こされた結果を示す。ここでの末とは、南無阿弥陀仏が私に届き、私がこれを受け取って御名を称しているということです。私や貴方が念仏を称えているのが末です。この称名は私や貴方の上に生じている事実です。つまり、「仏願の生起本・末」は私や貴方の上に願われている如来の大悲心が私や貴方が称名念仏を称える事実として私や貴方の上に実現化することを教えたものです。この大経所説の教えは信が生じたことによって、はじめて有り難く頂ける教えです。

 では、信後において、法蔵菩薩が歴史的事実として存在したと認識しているのかと問われれば、そのような事実認識は、当然、ありません。法蔵菩薩阿弥陀如来は信の上の味わいの中にある存在です。私が大悲があると申し上げているのも、私の味わいの中でのことであり、主観的な思いでのことです。私が大悲を味わい、その味わいから大悲があるという主観的な思いに住しているだけなのです。

 「仏願の生起本はたしかに事実である」と信じようとしても、分かることはそれを信じられない自分であるということでしょう。そのような努力をしても他力の信は得られないと分かることは進展の1つですが、このような無駄な努力を限りなく繰り返し行ってはダメだったと知らされてゆくのが信前の特徴です。この出来もしない無駄な努力を信を得るために行うことを真宗では「自力の計らい」といいますが、この計らいがきれいに廃った世界が信の世界です。信の世界においては、大悲の対象が出離不能な無力な私に向けられていることは本当であったと知らされますが(機の深信)、これは思いであり、事実認識とは異なるものです。

 

 

「質問部分その2」

 そもそも私のように仏願の生起本末を架空の話としか思えない人間には、その他の一切、浄土真宗の教えを受け取ることはできない、縁のない(それを無宿善というのかわかりませんが)人間なのでしょうか?

 

「回答その2」

 もし貴方がそうした人間であるならば、上記のように私もそうした人間の1人であります。「架空の話としか思えない思い」が、あるとき、「大悲はある。」という思いに転換してしまうのですから、信とは面白いものです。信とは、所詮は心の中の思いが別の思いに転換するだけなのです。法然聖人も、往生決定とおもわば決定なり、往生不定とおもわば不定なり(要旨)と言われています。思いが変わるだけなのです。認識する事実が別の事実に変わるということではありません。

 なお、宿善の有無と信とは関係がありません。信は善悪と関係なく生じるものです。それが如来の大悲というものです。

 

 

「質問者感想部分」

 そのような仏願の生起本末も信じていないような私がなぜ浄土教について調べているかと言うと、浄土教には行としての念仏というものがあると思ったからです。私は元々は禅の教えや悟りということに深い興味があり、一週間泊りがけの接心などに参加したこともあるのですが、まったくどうにもならず、そんな自分や自力というものに絶望した挙げ句、それなら神仏の他力にどうにかしてもらおう救ってもらおう、というか、もはやそれしかないという依頼心で神仏に興味が向かいました。私の中にも言葉では神としか言えないような、何かこの世には世を超えた究極的な真理とか尊い何かがあるのではないかということは感じており、身も心もそれにまかせて救われたいという気持ちがあります。ただ正直に言うと特定の宗教への信仰を持っていない私にとって、それが必ずしも阿弥陀仏である必然性は感じられず、神でも仏でも、イエスでもアラーでも、シヴァでも大日如来でも救ってさえくれるならなんでもいいといういい加減な気持ちでいました(お気を悪くさせてしまったら申し訳ございません)。その中で浄土宗や浄土真宗を特別深く関心を持って調べていた理由は、称名念仏という行が私のような者にでも簡易に行じることができて便利だと思われたからです。しかし浄土真宗門徒の方のお話や蓮如上人の御文章など少しずつ勉強させていただいているうちに、どうも「それじゃいかん、そんなことじゃいかん、そんな念仏ではだめだ」と否定されているような気がしてきて、その点に関しても迷いがあります。

 

「コメント」

 「称名念仏という行は私のような者にでも簡易に行じることができて便利だ。」という思いに似た思いは私にもあります。それは、「この簡便な行によって往生浄土させて頂くとは何と容易いもので有り難いことか。」という思いです。貴方は「そんな念仏ではいかんと否定されている気がします。」という思いのようですが、私にはそのような思いはありません。この部分が貴方の思いとは異なっています。

 どうして、貴方が「そんな念仏ではいかんと否定されている気がします。」という思いになるのか、といえば、浄土往生させるとの願心に応じた決定往生の思いがないからでありましょう。その思いが欠如しているために「否定されている気がします」と感じるのです。決定往生の思いがあれば、如来から与えられて称える念仏を自ら否定するようなことはしません。

 「この簡便な行によって往生浄土させて頂ける」という決定往生の思いがあるか無いか、だけの差ですが、その差が問題です。

 先に「依頼心で神仏に興味が向かいました。」とありますが、依頼心を頼りとして救済されたいという思いなのだろうと推察しました。大悲に向かって救いを求めるときは、この依頼心がくせ者になります。この依頼心で救いを求めるとき、自力と言われ嫌われるのです。他力回向の大悲心を受け入れることのできない障害となるからです。

 なお、「正直に言うと特定の宗教への信仰を持っていない私にとって、それが必ずしも阿弥陀仏である必然性は感じられず、神でも仏でも、イエスでもアラーでもシヴァでも大日如来でも救ってさえくれるならなんでもいい」という点については、貴方が信を得られたのちに私の考えを内々に述べたいと思います。今は誤解されるので言及しません。

 

 

「質問部分その3」

 端的に伺って、「念仏称えれば救われる」とだけ信じていくら念仏を称えても救われることはないのでしょうか? そんな念仏はまったくの的外れ、無駄なのでしょうか? 「すべては信じきれないながらに念仏称えれば救われると信じて念仏を称えているうちに、いつか信も与えられて救われる」というようなものではないのでしょうか?

 私にとっての「阿弥陀仏」という存在は、唯一神とか絶対神的な存在というニュアンスであり、この世を超えた究極的な真理とか慈悲そのもの(の象徴)、くらいの考えでおり、その「阿弥陀仏」に対して南無阿弥陀仏とひたすら帰依恭順の意を示すのが念仏くらいのつもりでいたのですが、そんな自分勝手な考え方はまったくの的外れであり、そんな心づもりでいくら念仏を称えても少なくとも浄土真宗でいうところの「他力の信」や救済というものは永遠に与えられないのでしょうか?

 

「回答その3」

 「称念必得往生と知りぬれば自然に三心は具するなり。」と法然聖人が言われたことが「諸人伝説の詞」に出ています。また念仏の行に具足する三心という意味で行具の三心とも法然聖人は言われています。三心とは他力信のことです。行具ですから、他力信は称名念仏から離れたところにあるものではありません。称名念仏する姿の中に見いだされるものです。但し、念仏称えたから信が生じる、というものではありません。仏願に順じて称えるのが念仏ですから、仏願に順じなければならないのです。この仏願とは「称念必得往生」と願われている願いのことです。仏願に順じるとは「必得往生」の思いになるということです。「称念必得往生と知りぬれば」とは、必得往生と理解し、計らいなく、そのまま受け取り「必得往生」の思いになる、ということです。この思いがあることを三心を具すると言われたものです。

 先にも述べたことに関連しますが、「念仏称えれば救われるとだけ信じていくら念仏を称えても救われることはないのでしょうか?」という思いは、決定往生の思いを欠如した思いです。この貴方の思いが自力の計らいというものであり、祖師が疑蓋といわれたものです。その疑念の存在自体が問題であり、その疑蓋がある限り、他力の信に恵まれることはありませんし、救済されるとの思いも起こりません。

 さて、自分の思いが疑蓋であると理解できたとき、では、どうすれば良いのか、という思いが続けて出てきます。それも疑蓋ですから、どこまでいっても疑蓋が続くことになります。疑蓋が続く限り、永遠に救われないことになります。

 そのような思い(疑蓋)に囚われ続けるのは、自分の心を問題としているからです。自分がどのように信じれば良いのか、どうすれば救われるのかなどと考えるのは、自分の側のあり方を問題としているからです。自分の側のあり方を変えればよいのではないか、という思いが根底にあるからです。自分の側のあり方を変えて救われようとすると疑蓋の連鎖が始まります。そこから抜け出るには自分の力では無理です。ですから、自力では助からないと言われています。

 「称念必得往生と知りぬれば自然に三心は具するなり。」をもう一度、味わって下さい。ポイントは「称念必得往生と知りぬる」というところです。特に「必得往生」の「必得」に注目して下さい。必得である理由は「如来の必得往生の願心」にあります。親鸞聖人は「必」の言は信を表す貌せであると言われています。この「必得往生」を理解できるかどうかが、自力の思いの無限の連鎖から抜け出るポイントになるところです。

 なお、「阿弥陀仏に対して南無阿弥陀仏とひたすら帰依恭順の意を示すのが念仏」という箇所がありました。この「ひたすらな帰依恭順の意」というところですが、我が心を、ひたすら、ひたむきな純粋な思いに昇華させて称えるということを意味しているのであれば、それは自力の計らいと言われるものに堕することになります。必得往生の仏願に信順しているという意味であれば、正しいものになります。

 

 

「質問部分その4」

 阿弥陀仏というのは、はるか昔に法蔵菩薩という方が四十八願を成就させて成仏した姿である」といった話も含めてすべてを真実として信じなければ救われないのでしょうか?

 

「回答その4」

 そのようなものではありません。信じる、ないし、信じようとするという心理作用と真宗の信とはまったく異なるものです。信じるなどという自前の心理作用を働かせて得られるものは自力の信であり、他力の信ではありません。必得往生の大悲の前には自前のものは一切不要なのです。

 

 

「質問部分その5」

 「信というのは自分の方で起こすものではなく、弥陀の大悲なり願心なりの方から与えてもらうものだ」という理屈は一応わかるような気がするのですが、「だからそれを聞け」、「自分の方のはからいではなく弥陀の願心に思いを向けよ」と言われると、そのためには信が必要な気がしてしまい、本末転倒というか、解決不能な矛盾に突き当たってしまったような気になってしまいます。

 

「回答その5」

 仰るとおり、それは矛盾になってしまいます。信を得るために聞く、聞くためには信が必要ということになれば、循環論法のようになるだけです。どこで間違ってしまったのかと言えば、大悲を聞くのに信がいると思ってしまったからです。願心を聞くのに信はいりません。願心を聞くのがそのまま信です。願心を聞くとは、如来が私に必得往生の大悲をかけていると聞くから私の浄土往生は決定していると受けとめられるということです。必得往生の願を自らの思いや計らいを交えずに聞けば、それがそのまま信といわれるものになります。聞が即信なのです。

 なお、願心に思いを向けよというのは、願心を聞こうとしない人には願心は聞けませんから、願心に思いを向けさせるための注意喚起です。注意喚起されて願心に思いをかけようとしたとき、どうなるのかといえば、思いがかからない自分だとわかると同時に、その思いをかけようとした思いが救いを求める自力の思いであると気づくきっかけとなります。自力であると気づけば、いよいよ、ここからが他力信を知る世界へとつながってゆくのです。このきっかけが大事なのです。そのきっかけが信の世界へのターニングポイントになるのです。

 

 

「質問部分その6」

 よく言われる「仏願の生起本末を聞け」というのは、「阿弥陀仏というのははるか昔に法蔵菩薩という方が四十八願を成就させて成仏した姿である」といったお話も含めて文字通りすべて事実として真受けにせよということなのでしょうか? そういった自分にはある種の寓話とかものの例えとしか思えないようなことまで「事実(真実)」として真受けにする必要があるのでしょうか?

 

「回答その6」

 上記の回答その1などのとおりです。他力の信と事実認識とは異なります。「寓話とか、ものの例えとしか思えない」という思いは、その思いがあるままで信は生じます。信が生じれば、そのおとぎ話は単なるおとぎ話ではなく、大悲を伝えるための方便であったと理解できます。

 また、「真受けする」というのは、事実として信じるという意味ではありません。私が願心を聞いて願心を真受けせよ、というのは、自力の計らいを交えることなく、必得往生と聞いて、そのとおりと受けとめよ、ということです。

 そのとおりと受けとめよ、というのは、そのとおりと事実認識せよということではありません。私の認識力が事実として認識できるのは、私が今念仏を称えて浄土往生できるという思いをもっているという内心の主観的な事実だけです。この念仏を称えて浄土往生できるという思いは、思いであり、何らかの事実認識ではありませんし、事実認識を基礎にした思いでもありません。

 

 

「質問部分その7」

 自分には現状どのようなものかさっぱりわからずにいる他力の信というのは、「とにかく阿弥陀仏が救ってくれると信じて念仏を称えていればいつか与えてもらえる(=救ってもらえる)」というようなものではないのでしょうか ?

 

「回答その7」

 回答その3などのとおりです。自分で信じようとする心も念仏を称えて助かろうとする思いも、必得往生の大悲を前にすればすべて自力の計らいとなります。この計らいが廃ったのが信です。如来の大悲を前にしては、自分で信じようとする心も念仏を称えようとする思いもまったく必要なかったと知らされます。この思いを機の深信といい、他力信の一側面を表しています。

 信じて念仏を称えていればいつかは救われるという思いが続く限り、他力の信はわからないままでしょう。その思いが、わが往生は決定との思いへと転換されなければならないのです。

 

 

「質問部分その8」

 信というものを持ち合わせていないところからスタートせざるを得ない自分としては、強いて順番にすれば「まず念仏称える→それ自体が如来の願に順じた姿であり、信が与えられる→救われる」と理解していたのですが、中には「まず本願を聞いて(信じて)→ただちに救われて→その感謝が念仏になる」という順番を説く人もいます。こうなると念仏はただ単に救われることだけを目的とするならそのための行でもないし必要なものでもないということになってしまい、神仏への手がかり足がかりとして念仏を考えていた私からすると、それが失われて方策も何もないままにいきなり「まず信をもらえ」と言われているような不可能さを感じてしまいます。

 

「回答その8」

 自分の持っている力を使って信を得ようとか、助かろうとすることを「往生の資助とする」と言いますが、そのようなことはもともと不可能なのです。 「まず念仏称える→それ自体が如来の願に順じた姿であり、信が与えられる→救われる」という理解にも、「まず本願を聞いて(信じて)→ただちに救われて→その感謝が念仏になる」という理解にも、いずれにも「まず」とありますが、ここに救済のための「初めの一歩」と貴方が理解されているように感じられました。初めの一歩のあとに救済があると考える考え方は、救済される道筋をつけているものであり、これは某会でよく言われる「救済の予定概念」と呼ばれものになります。救済のための計画を自分で作って助かろうとしているので、救済のロードマップという意味で救済の予定概念と呼んでいます。自ら救済の予定を立てることは、「既に浄土往生は決定させたぞ」との如来の大悲を前にすれば、大悲を覆い隠す疑蓋であり、本願疑惑心です。 救済の予定を作ること自体が間違いということになれば、救われるための手がかりも足がかりも無くなってしまいます。念仏を称えても何しても助かる手かがりにならない、というのは不安な心理になりますが、もともと自分の力で何とかしようとすることが誤っているのです。

 貴方は、いきなり信をもらえと言われても不可能であると感じますと言われますが、自分がなすすべもない状態のままで信を貰うことは不可能だと思われているのでしょう。それはごく自然な感情です。自分になすべき何かが残されており、そのすべを使えば救済されるとの思いをお持ちになっているからだろうと推察されます。しかし、自分にはなすすべなど、もともとないのです。出離不能がもともとの自分の立ち位置です。それを八方塞がりの状態であるかのように不安に思うのは、大悲を見ずに自力の計らいに囚われているからです。また、聞くということの意味を誤って理解しているからです。必得往生の願心を聞くことがそのまま信となるのですから、浄土往生の道は私の前に既に開かれているのです。そのことに気づいていないだけなのです。「既に浄土往生は決定させたぞ」との如来の大悲を文字通りに聞けば、それが信なのです。

 八方塞がりの苦しい思いから、次第に願心に目が向くようになるのですが、必得往生の願心を聞くことが如来から垂らされた救済なのです。そのように聞いて理解すれば如来の願心はすでに自分に届いていたと気づくのではないですか。それに気づいたとき、「まず称名して」ということではなく、「称名の一行で必得往生であったのか」と分かります。また、「まず聞いて」ということではなく、「ただ願心を聞くだけでよかったのか」と分かります(法の深信)。また自分にはなすべき行など何もなかったと分かります(機の深信)。

 

 

「質問部分その9」

 「聞かせてもらう」とか「聴聞」というのは、たとえば今すでにtkboo様よりお返事いただいたことのみで足りていて、それをそのままに聞くということでしょうか?

 それとも浄土真宗のお寺などに出かけていって善知識と呼ばれる方を探したり、そうした方から直接「聞かせていただく」といった必要があるのでしょうか?

 

「回答その9」

 文字を読んだだけで信が開ける方もいらっしゃるかも知れません。法然聖人は善導大師の「一心専念弥陀名号・・是名正定之業・順彼仏願故」のご文を拝読して回心された方です。現代にもそのような方がいらっしゃるかも知れません。聴聞しているときに信を得られるかも知れません。あるいは、牛を引いている最中に「ふいとわからしてもらいました。」と言われた妙好人もおります。

 信が開けるタイミングはその人その人の機縁・機縁ではないでしょうか。ご自分の心が惹かれるところで聴聞を続けられれば宜しいかと思います。但し、必得往生の大悲が説かれる所でなくてはなりません。

 

 

「質問部分その10」

 また、浄土真宗において目的のように言われる「極楽往生」というのは、他力の信をいただくということと同じ(正確には他力の信をいただいた人が亡くなると極楽往生する?)なのでしょうか?

 

「回答その10」

 このご質問に対しては、祖師親鸞聖人の理解をもって代えさせて頂きますが、祖師は信の現益として正定聚不退転、当益として真実報土往生と言われています。信を得た人の信は現生不退であり、死後には報土往生するということです。

 

 

「質問部分その11」

 またそれは唐代の禅師の悟りやお釈迦様その人の解脱とか涅槃、成仏といったこととはまたまったく別のことなのでしょうか?

 

「回答その11」

 祖師は真実報土に往生すると言われていますが、この真実報土とはどのようなところかは私には知る智慧がありません。また、唐代の禅師の悟りやお釈迦様その人の解脱とか涅槃とはどのようなことを言われたものなのかも智慧がないために分かりません。その両方とも分かりませんので回答できません。

 

 

「質問者感想部分」

 ・・・本当に自分の中にある疑問や混乱をすべてぶつけさせていただいて しまったため、長い上に脈絡もなく根掘り葉掘りという感じになってしまって誠に申し訳ございません・・・。法然上人の一枚起請文など拝読していると、自分のような者にもこれならできると感じられて大変ありがたいのですが、他にもいろいろな方の言っていることを勉強すればするほど、「ただ念仏称えたっていくらやってもだめだ」というような人もいて、一体誰が正しくて何が間違いなのかなどなど、非常に混乱しているというのが私の現状です。

 

「感想へのコメント」

 信というものを知力で捕まえようとすると実に難しくなります。難信といわれる理由はここにあります。法然聖人の一枚起請文はその難信な信を分かり易く説かれております。法然聖人の偉大なところは、博学でありながら難しい用語を用いることなく、分かり易く他力の信と行を教えられたところだと思っています。「南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもいとりて」というところなどは信の極みを表現しているところです。これがわかれば信が分かったということになるでしょう。これがなかなか分からないから難信と言われるのですが、信を難信にしているのは自分自身の計らいです。計らいを離れると信はとても易信なのです。蓮如上人が「取りやすの安心」と言われているように取りやすい信なのです。これ以上に取り容易いものはないのです。極楽には往きやすいと大経に記載されています。その極楽に人がいないと大経に記載されているのは、自力の計らいのために得やすい信を難信にしてしまっているからです。

 如来の大悲は私を浄土へと救う、だから、私の浄土往生は決定している。なんと極楽には生きやすい。これだけのことなのです。実に簡単なことなのです。必得往生の信です。ここが肝要であり、この他には肝要はありません。

 最初の冒頭に「如来の願心がある」「願心を聞く」などいう信の表現のことはすべて私の内心における出来事に過ぎないと書きましたが、「如来の大悲は私を浄土へと救う(と聞いた)、だから、私の浄土往生を決定させた(如来の願心がある)。(その願心を知れば)なんと極楽には往きやすい(ことか)。」というのが私の思いなのです。

 念仏を称える際にも、この念仏は仏様が私の浄土往生を決定してくれたお知らせと思い、ただ念仏だけで往生させていただけるとはありがたいなぁという思いで称えればよいのです。

 願心を聞くということと、決定往生の思いで念仏を称えさせてもらうことは実は同じことです。前者は大経の願成就文に依り、後者は観経下々品の教説に始まり、善導・元祖法然聖人流の説き方(就行立信釈に立った説き方)ですが、説かれ方に違いがあるだけです。ともに「至心信楽欲生我国ないし十念」の信であり行なのです。前者の願成就文の「(私が往生すべき浄土の完成を聞いて)信心歓喜」したとは十八願文の「至心信楽欲生我国」の信であり、信が生じたあとには信後の乃至十念としての行が続きます。後者の決定往生の思いも、これが「至心信楽欲生我国」の信なので、信後の乃至十念の行が続きます。このため、いずれの場合でも、十八願の願文がそのまま私の上に信・行として実現していることになるのです。この気づきがあるため、両者は同一の信と行とを指し示していると理解できるのです。

 「ただ念仏称えたっていくらやってもだめだ」というのは、自力の思いで念仏を称えてもダメだということを教えたものだと推測されますが、必得往生の願いに相応する決定往生の思いで念仏を称えるときは、ただ念仏を称えて往生させていただけるとは有り難いなぁという思いで称えるので、人からダメだと言われても一向に気にならなくなるはずです。これを決定心といいます。決定心は、衆生称念必得往生と知りぬれば自然に具する三心のことです。この決定心は、念仏の一行で必得往生できるとの法の深信と私のなすいずれの行も無功(無力)であったと知らされる機の深信とによって支えられている思いですから、不定な心ではなく決定した心なのです。この決定心は、如来の至心を信楽した心であり、如来の摂取決定心を信楽した心であり、我が国に生まれさせるとの如来の欲生心を信楽した真実信心であると祖師は教えられております。まことに祖師の教えは懇切丁寧に他力信の極致を表してくれたものと感動いたします。

6-1.質問と回答(1)

質問
 私はまさに「如来の慈悲がいただきたい、わかりたい」と思っています。 それでこうしていろいろブログなどを拝見させていただいているのですが、なかなか腑に落ちません。「如来の慈悲が私に届いていると分かったとき、もらい方を問題としなくて良いことが分かりました。慈悲が既に届いていたので、届いていると分かっただけで良かったのでした。」とのことですが、どうして「如来の慈悲が私に届いている」とわかるのでしょうか? 「ただ、慈悲があることが分かれば良かったのでした。慈悲が届いていると分かったことが慈悲をいただくということでした。」と言われますが、「慈悲がある」ということがわからないし、いまいち信じられないというのが正直な気持ちなのです。どうすればそれがわかるのでしょうか?

 

回答
 ご質問を戴き、誠に有り難うございました。

 やがて信に恵まれる方は、このような真摯な問いを心に抱え込んでおり、その答えが見つけるまでは心が落ち着かず、ときにはそれがとても苦しく煩悶してしまうことがあります。私がそうでした。経験的に言えば、このようなご質問をされる方は間違いなく、如来の大悲の働きによって信の世界へと引き出されようとしている方だと思います。
 
 さて、どのようにして如来の慈悲が届いていると分かったのか、についてはうまく説明する言葉がありません。「教学や聴聞において説明される論理や言葉の意味を理解したことで慈悲が届いていることが分かった」というものではないのです。

 わたくし事として経験的なことを申し上げると、如来の大悲は釈迦仏が大経という経典を説いたことに始まり、七高僧を通じて祖師がさまざまな聖語を私に伝えて下された。その結果が、如来の仏願の生起本末を私が聞き、私が念仏を称えているという確かな事実となっている。この歴史的、現実的事実は如来の願力から縁起されたものであり、それが私に届けられていたとの理解に達したとき、私の中で何かがぴんと来ました。「そうであれば私が何も力む必要はないではないか。」と。それでも慈悲というものがどういうものか分かりませんでした。よく慈悲が届いている証拠は南無阿弥陀仏という六字だ、と言われますし、あるいは私の浄土往生の証拠は南無阿弥陀仏だとも言われます。これは、上記のような歴史的、現実的事実の中に如来の大悲が届いていることを見いだしたことを端的に表現したものですが、それを知的に理解しても大悲は分かりません。それが人間の知的認識力の限界です。わかりようがないのです。

 ところで、「慈悲があると分かる」とか「慈悲を知る」というのは、実は、貴方が求めている信そのものです。
 ご存じのように信とは大悲を無疑の心で受けていることを言います。この信があればこそ大悲を大悲として受けとめることができます。大悲を受けとめたとき大悲は私の心の中に姿を現します。その姿の現れ方は、南無阿弥陀仏という姿をとります。阿弥陀仏とは私を摂取し、捨て給わぬ如来の大悲のこと、南無とは私がその大悲を受けていること。私の心が、摂取するとの如来の大悲を受け入れている状態となったとき、南無阿弥陀仏は私の心の心相となるのです。「南無阿弥陀仏は私が浄土往生してゆく姿である」という思いも、実にここから起こります。この心相になったとき、私の生き死には私が何とかできるものではなかった、だから如来がまかせよと言われたのだったという思いとなります。「慈悲が届いている証拠は南無阿弥陀仏」と言われる理由はここにあります。しかし、これは、分かった人には分かる理屈であり、分からない人には分からない理屈です。

 信がなければ大悲を受けとめることはできませんが、信を求めても信は得られません。信は大悲から生じるものだからです。信は大悲から生じるものなので、信を求めるのではなく、大悲を聞くしかないのです。「信は願より生ずれば念仏往生自然なり。」とは高僧和讃の言葉です。

 この回答文をすべて読み終えても、きっと貴方は「一応は分かったが、ではどうすればいいのだ。」と再び、煩悶されるでしょうし、そうした状態がしばらく続くと思います。自分が救われるにはどうすれば良いか、という思いは自分中心の視点に立っているから起こることです。今、貴方にできることは、その立ち位置を離れて、如来は私に何を願っているのか、ということを考えることです。そのような視点から、如来は私に何を願っているのかを聞いて下さい。それが大悲を聞くということです。

 如来は、貴方を救うのに万に一つの過ちや危ぶみはない、必ず、浄土往生させるという仏の智慧による確信を持っています。これを如来信楽、至心、欲生心といいます。如来信楽とは「私を救うことに何の危ぶみもなく何の躊躇もなく救うことを確信しているゆるぎのない心、摂取決定心」のことです。如来の至心とは「救うのに真実誠の心・嘘偽りのない心をもってする」ということ、如来の欲生心とは「我が国に生じさせんとの願生心」のことです。祖師は三心一心問答に、この如来の摂取決定心、至心、欲生心の故に疑蓋雑わることなし、と記されています。疑蓋がまじわらなくなる理由として祖師が指南しているのは、如来に摂取決定心、至心、欲生心があるから、ということです。

 この如来の摂取決定心、至心、欲生心(まとめて願心といいます)に思いを向けて下さい。

 どうすればいいのかと自分の心に目を向けていては信は開けません。信が開けるときは誰に教わるわけではないのに活然と開けます。それが如来の願力というものです。あるいは気づきとも言われます。言葉や論理の導きによって如来の願心に目を向けるようになっても、その先は、論理や言葉では導くことができないのです。ここが言葉の限界です。最初に、教学や聴聞において説明される論理や言葉の意味を理解したことで慈悲が届いていることが分かるものではないと申し上げた理由は、ここにあります。

 最後に。
 法然聖人は念仏を称えれば自然に三心を具すると言われました。三心とは他力の真実信心のことです。念仏を称えるということは、念仏を称える者を浄土の迎えんということが如来の願いであり、如来の願いに順じることが念仏を称えることだと理解されて法然聖人は回心されたと言われています。如来の願いに順じるには如来の願いを聞き、その願いを受け入れるしかないのです。念仏を称えることは如来の願いを聞いてそれに順じたすがたです。そのことに気づくのがまた信です。
 信は特別な何か、だと考えてはなりません。信は念仏を称えているわが身の中に見いだされるものですし、如来の間違いようのない救いだと聞くなかに自然と生じるものなのです。信は力んでつかみ取れるものではありません。力む限り、信からは限りなく遠ざかってゆきます。どうしたらよいのかと呻吟する限り、自力の無限のループから抜け出られなくなります。これが自力の計らいとも言われ、祖師が疑蓋と言われたものです。そこから抜け出るには、如来の願力に間違いはないと聞き、その願力にゆだねるしかありません。

3-13.念仏すれば救われますか? の質問にどう答えるか。

 

A君 真宗において、なかなか救われずに苦労している人は、どうしたら救われるのですか、念仏称えたら救われるのですか、と真剣に問われることがあるよね。君なら何と答える?

 

B君 「救われる」という事をその人はどう考えているのでしょうか。浄土往生できるということでしょうか、それとも真実信心を得たいということでしょうか。

 

A君 そうだね。「救われる」というのは「浄土往生できる」という前提で考えてよ。

 

B君 分かりました。念仏往生とはいえ、そのような心で念仏を称えても浄土往生はできません。

 

A君 「そのような心」ってどんな心のこと?

 

B君 今A君が言った「どうしたら救われるのですか、念仏称えたら救われるのですか。」という疑念をもった心、ということです。

 

A君 これは疑念なのかな。

 

B君 そう。これは本願を疑う疑念です。 

 

Cさん どうして、そういえるの。

 

B君 如来は「称名する者を浄土に生まれさせる。」と誓われているから、善導は「称念必得往生」と言われています。「念仏すれば救われますか?」という思いは、その如来の誓いに疑念を差し挟んでいるので、本願を疑う疑念なのです。

 

A君 「称名する者を浄土に生まれさせる。」と誓われているといったが、それは善導の本願取意の文と言って十八願の三信を省略したものだよね。どうして、善導は三信を省略したか知っているかい。

 

B君 それはしらない。善導が三信を省略した理由を述べている箇所がないからね。

でも、法然聖人は、そのような質問をされて、こう答えているよ。「称名する者を浄土に生まれさせる。」と誓われていることを聞いて信順して称名すれば自ずと三心は具足するってね。

 

A君 よく勉強しているね。それはどこに出ていたの。

 

B君 亡くなられた梯和上の「法然教学の研究」という本の313頁にでているよ。 ある人が、善導の本願取意の文に、三心の安心を省略して称名のみをあげられた理由をたずねられたとき法然聖人は、「衆生称念必得往生としりぬれば、自然に三心を具足するゆえに、このことわりをあらわさんがために略し給へる也」と答えられたことが「諸人伝説の詞」にでているってね。

 

A君 よく分かったよ。じゃあ、称名念仏に際しては、先ほどらいの疑念がなくなればいいのかな。

 

B君 そうです。そうした疑念がなくなって、往生決定の思いになればいいのです。そのような疑念のない念仏を称えられる人は、すでに如来の救いに預かっている人なのです。

 

A君 では、そのような疑念のあるなしが問題となるということだね。 

 

B君 そうです。なくなればよし、無くならなければ往生は不可です。これを信疑決判というのです。

 

A君 どうしてその疑念の有無が問題となるのかな。

 

B君 その疑念が十八願の救いに向かうと疑情となって、如来の救いを妨げてしまうことになるからです。法然聖人はこんなことを言われていました。念仏往生要義抄に「問うていはく、称名念仏申す人はみな往生すべしや。答えていわく、他力の念仏は往生すべし、自力の念仏はまたく往生すべからず。」その他力については「問いていわく、その他力の様いかん。答えていわく、ただひとすじに、わが身の善悪をかえり見ず、決定往生せんとおもひて申すを、他力の念仏といふ。」と法然聖人は答えられた。これも「法然教学の研究」という本にでているよ。

 

A君 念仏を称える思いがひとすじに決定往生の思いになっているか否か、が問題だというのだね。では、決定往生の思いとはどういうものなのかな。

 

B君 決定往生の思いとは、十八願の至心信楽欲生の他力の信のこと。この他力の信に裏付けられている念仏が、乃至十念の念仏、法然聖人の言う他力の念仏のこと。「どうしたら救われるのですか、念仏称えたら救われるのですか。」と思っている人は、この決定往生の思いがない。だから、そのような疑念でせっかくの念仏を称えても自力の念仏となってしまう。

 

Cさん 言い換えれば、「どうしたら救われるのですか、念仏称えたら救われるのですか。」という疑念は十八願の救いを妨げているものなのね。

 

A君 ではCさん、十八願の救いはどういうものか説明し、どうしてそのような疑念が十八願の救いを妨げるものになるのか、もう少し詳しく説明して下さい。

 

Cさん 十八願の救いというのは、御名を聞いて信心歓喜することなの。私が往生してゆく浄土が完成し、私はその浄土に往生してゆくことに何の間違いもないと告げているのが南無阿弥陀仏の御名であり、その御名が私に届いて私がそれを聞いていることがすでに如来の救いに遇っているということよ。だからその事を聞いて気づけば、私の往生は既に如来が定めおいて下されたのか、と歓喜して念仏を称えるようになるの。これを如来の救いにあった人というの。どうしたら救われるのかと思うのは、その救いに遭っていることに気づいていない人なの。如来の救いに遇っていることを信じられない人なのね。

 

A君 如来の救いに遭っていながら、なんとか救われたい、どうしたら救われるのかなどと言っているのは、実に滑稽なことだ。でも、誰もがそのような滑稽なことをしていたんだよ。僕もみんなもだ。このような思いは自分の心を覆ってしまい、せっかくの如来の救いを無為にしてしまうので、自力の迷情というんだ。

 

Cさん その自力の迷情が問題なのね。でも、如来の救いに既に遭っていることに気づいたとき、その迷情はきれいに消えてしまうわ。

 

A君 そこが如来の救いのおもしろいところだ。なんとか救われたいと思っている思いがかえって救いの妨げになっているんだからね。

 

A君 では、そうした疑念のまま念仏を称え続けたら、その疑念が晴れることはあるのかな。念仏行の効果ないし効用として。

 

B君 ないでしょう。

 

A君 でも、如来は、念我国諸植徳本(称名)の者について果遂させると誓っているよ。念仏するものはいつかその思いが遂げられるのではないのかな?

 

B君 今救われたいと願っている人には、その誓いは意味がないよね。その人は、今の今、如来に救われたいと思っているのだから。今の今、救われるような救いでなければならないでしょう。

 

Cさん じゃ、念仏称えてもいつかは救われるかも知れないが、今の今は救われないってことね。

 

B君 そうですね。救われないですね。法然聖人が言われているようにね。

 

A君 法然聖人は、行具の三心といわれていることを知っているかい。

 

B君 さっき、善導の本願取意の文に、三心の安心を省略して称名のみをあげられた理由を法然聖人は「衆生称念必得往生としりぬれば、自然に三心を具足するゆえに、このことわりをあらわさんがために略し給へる也」と答えたってことを紹介したけど、「衆生称念必得往生としりぬれば自然に三心を具足」することから、この三心は行具の三心と言われている。

 

A君 念仏行を行じる人には自然と三心を具すということだね。

 

A君 三心とは観経の三心のこと、つまり至誠心、深心、発願回向心のことだけど、行具の三心は十八願の至心信楽欲生の信と同じだ。念仏にはその徳として自然に信が伴うということだね。

 

Cさん じゃ、念仏を称えていれば他力の信が自然と生じるということなの。

 

A君 さぁ~。そこだよ。大切な所は。

 

B君 そこだよね。大切な所は。

 

B君 他力の信が自然と生じるには、必得往生との如来の願心を聞いて、その願心を心で受けるしかないのですよ。

 

A君 そうなんだよね。如来は、浄土往生は決定していると衆生に聞かせて信じさせて救うという願いをもっているんだ。その願いをそのまま聞くしかないのだ。その願いを聞いて心で受けとめない限り、信が生じることはないんだ。

 

B君 如来衆生に聞かせるところまでお手回しされているから、衆生如来の大悲心と浄土往生が決定していることだけを聞くだけなんですよね。そう聞いて、私の浄土往生決定との思いが生じたことを信というんだ。

 

A君 じゃ、B君としては、そのような回答をするということだね。

 

B君 そうです。それ以外には回答のしようがありません。称名という行の効果として疑心が消滅するということではなく、往生は決定との如来の願心を聞くことから信が生じるのです。

 

Cさん じゃさ、法然聖人が言われた行具の三心とか「衆生称念必得往生としりぬれば自然に三心を具足する」というのは、間違いなの?

 

B君 もちろん間違いじゃないよ。法然聖人がね、「衆生称念必得往生としりぬれば自然に三心を具足する」と言われているのは、「衆生称念必得往生」と願っている如来の願心を聞けば自然に信が生じるということなんだ。念仏を称えるということは如来の願心に順じるということだよ。如来の願心に順じて念仏を称えるから、当然、そこには信順の思いがあるんだ。この思いが信だよ。

 

A君 次ね。じゃあさ、「衆生如来の大悲心と浄土往生が決定していることだけを聞くだけ」という回答を聞いた人は、聞いても聞いても如来の願心が分からないと言ってくるんじゃないかと思うが。

 

B君 そうですね、僕もそうでしたから。

 

Cさん じゃ、どう言ってあげればよいの?

 

B君 それでも、誤ることのない如来智慧で救いとるお慈悲があるから、そのお慈悲をそのまま聞くんです。大事なのは、私の浄土往生は如来の願力によって決定したと聞かせて頂くこと。これだけ。善導・法然流に言えば、念仏は必得往生させるとの如来の大悲に沿う行だから、念仏を称えるということはその慈悲を領受したということ。

 

A君 そうだね。私の浄土往生は決定した、必得往生と聞かせてもらい、聞いている人はそれを真受けすること。この真受けするというところは、言葉では導けないところだ。だから、最初の質問者に対しては、如来の間違うことのない真実の願心があること、必得往生だから私の往生は如来の願力によって決定していると聞くことだ、と助言し続けるしかないのだよ。

2-26.念仏はあっちとこっちをつなぐもの

 念仏はもともと如来の側に属するものですが、如来の側と私の側とをつなぐものです。それが如来のお約束事です。

 「如来のお約束事」とは、

 如来が私を救済する手段として南無阿弥陀仏を選び取り、私に受け取らせん、称えさせんと誓ったのが如来の十七願のお約束。
 私がそのお約束を受け入れて念仏を称えれば如来の世界に導かんと誓ったのが十八願のお約束。

 これが念仏に込められた如来の願いです。そのため、お約束のとおりに私が受け取り、称えている念仏は、如来と私をつなぐものとなるのです。

 如来からの頂き物の念仏は、如来からの往生決定のお便りであると受け取り、申すしかありません。如来南無阿弥陀仏という仏様となって私の世界に入ってきて下されたから、私は南無阿弥陀仏と唱えることができるのです。そのように如来の方から私につなげられた南無阿弥陀仏を申せば、自然と如来の側にゆくことができます。それが如来の十八願のお約束です。念仏は、私が如来の世界へとつながってゆけるたった一つの道筋です。そのつながりは、大悲心を信受するというありかたにはじまり、ついで大悲心を憶念するという形となってあらわれてきます。これが本願念仏です。

本願念仏悦ぶは、如来になるあかしなり。

2-25.真実の自己って何だ?

 真実の自己を知れ、という人がいます。「真実の自己」というのは、どういうことでしょうか? 真実の自己を「知る」とはどういうことでしょうか?

 「真実の自己」とは、自己という固有のものは存在せず因縁に従って生起し滅する自己のことでしょうか。

 「知る」とは、そのような因縁の存在であることを経験的に知ることでしょうか。
 自己という固有のものは存在せず因縁に従って生起し滅する因縁の存在である自分は罪悪にまみれた悪人の姿をしていることを経験的に知ることでしょうか。何をどこまで知れば、真実の自己を知ったことになるのでしょうか?

 いずれにしても、上記の真実の自己という言葉には確からしさがなく、さまざまな内容を含みうる多義的な言葉であるため、雲を掴むような漠とした感じを受けます。

 ところで、聖道の修行をした者が智慧を得て自己という固有のものは存在しないと智見することがあるのかもしれません。また、聖道の修行をした者が結果的に自分は罪悪にまみれた悪人の姿を経験的に知るということがあるのかもしれません。

 しかし、浄土門においては、そのようなことを問題とすることはありません。

 真宗においては、如来の救いに遭うに際して自力の計らいは無力であると分かった、という経験をすることがあります。自力無功という信の体験がそれですが、それを真実の自己を知ったと表現するのはあまりにも多くの誤解を招くことになります。信を得ても三世を知ることはできません。信を得ても真実の自己を知ることはできません。信を得て分かることは、自力は役に立たず、自力で信を得ることはできなかったということと如来に大悲心があるということだけです。