会話編 3-14 大信と大行

B君 A君はよく「阿弥陀仏に南無している心の状態」が信だというよね。

 

A君 うん。よく言うよ。

 

B君 その信の相は南無阿弥陀仏だから、その信が大行だと言うんだよね。

 

A君 うん。そうだね。

 

 

B君 祖師は称名が行だとされているけど、信も大行だと言うのはなぜなんだい。

 

A君 心の相が南無阿弥陀仏となっている状態だからだよ。大行は称名念仏と指定されているけど、念仏は南無阿弥陀仏とも言われているよ。大行が南無阿弥陀仏であるなら信の状態となっている南無阿弥陀仏だって大行と言って良いよね。

 

 

B君 祖師は大信と大行とを区別しているんじゃないのかな。

 

A君 概念的には区別されているけど、如来の大悲の救済という本質においては大信と大行に何の違いは無いんだよ。大行や大信はいずれも仏様の大悲がわが身の上に現れるあらわれ方になづけたものだ。大行や大信は仏様の救済そのものなんだ。そういうわけで、祖師も仏様の大悲というくくりで大行も大信も理解されているよ。

 

 

B君 どうしてそう言えるのかな。

 

A君 大行は称名と指定されたあと、「称名は念仏。念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念なり。」と言われているからね。

 

B君 それで。

 

A君 それで「正念」というのは行をあらわし、信をもあらわしている。愚禿抄(下)に「汝一心正念にして直ちに来たれ。我よく汝を護らん。」と善導大師が言われた「正念」を「正念の言は選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。」と言われていることからそれが分かるよ。

 

 

B君 それはどういう意味なのかな。

 

A君 その「選択摂取の本願」というのは、仏様の選択摂取の大悲心のこと。選択摂取の本願というとき十七願と十八願を指して言われることがあるよね。祖師は十七願を真実の行願、十八願を真実の信願とされている。それで「選択摂取の本願」は仏様の十七願十八願の両願の願心を、「第一希有の行」は十七願の願心によって起こされた「汝」が行う念仏行を、「金剛不壊の心」は十八願の願心から起こされた汝の信をそれぞれ意味している。願を仏様の正念とし、汝の第一希有の行と金剛不壊とを仏様の願と同じ正念としているということは、仏様の正念が汝の正念となるということだろうね。仏様の大悲の救済は仏様の十七願十八願の願いに始まり、十七願の願いによって仏様の第一希有の行が汝の第一希有の行たる念仏行となり、十八願の願いによって仏様の願が金剛不壊の心になるということなんだろう。仏様の正念である願つまり仏様の至心信楽欲生心が私の正念たる行と心になっているという理解だ。これらに同じ正念という言葉を使っているということは、これらはともに同じ仏様の救済であると理解されていたのだろう。

 

B君 ふ~む。

 

A君 仏様の衆生救済に大という表現を与えることがあるが、大行も大信も中身は同じものなんだ。中身というのは仏様の大悲心によって成就され、やがて私の信となり行となる南無阿弥陀仏のこと。大悲心を担った南無阿弥陀仏が生きた私の心のすがたとなっているときの南無阿弥陀仏を大信と言い、生きた私の念仏行となったときの南無阿弥陀仏を大行と言うんだね。ある物語のストーリーが原稿用紙に書かれているときを小説と言い、芝居として上演されたときは脚本とか演劇というように呼び方は変わっても同じストーリーである以上、これを読んだり見たりしている人の心には同じようなストーリーが刻み込まれるよね。そのストーリーにあたるのが仏様の大悲心であり南無阿弥陀仏だよ。仏様の願心たる大悲心が私の心に刻まれたとき私の心は阿弥陀仏に南無しているのでその南無阿弥陀仏を大信といい、そして大悲心を感受しながら大悲心に誘発されて私の称念となったときの南無阿弥陀仏を大行というのだよ。いずれも信や行に大がつくのは如来の大悲心による救済が必ずこのような信や行という形をとるんだ。だから単に行とか信というのではなく、大行とか大信というのだ。

 

B君 つまり、行とか信というのは大悲心が存在する形式と言って良いよね。大悲心が形式をとるのは大悲心を私に認識させるためだ。そのために大悲心は南無阿弥陀仏という文字形式や音声形式となり、大悲を感受するとき阿弥陀仏に南無するという南無阿弥陀仏がそれを聞いた者の心の形式になり、南無阿弥陀仏を称念することが行の形式になるということだね。

 

A君 そういうことだね。大行とか大信は大悲心の存在形式に名づけた名称であり、その本質は大悲心なのだ。存在形式があるから認識できるが、存在形式がなければ人には大悲心を認識することができない。だから大悲心はその形式をとらないことにはその存在を認識されないんだ。

 

B君 仏様の立場から言うと、人にその存在が認められなければ大悲心が存在する意味がないことになってしまうよね。だから、存在が認められるように南無阿弥陀仏という文字や音声の姿をとった。その六字には仏様の大悲心を表す意味と法蔵菩薩のストーリーがある。摂取して捨て給わぬというのがその意味で、仏願の生起本末がそのストーリーだ。その意味するところが重要だね。その意味が理解されなければ六字の形をとっても人は大悲心を認識できないことになってしまう。そして私が南無阿弥陀仏の意味を認識するだけではなく、私が直接、南無阿弥陀仏を感受できるように仕上げ、行としても実践できるように仕上げられたんだね。

 

A君 その通りだね。

 

 

B君 ところで、仏様の大悲を感受している思いがあるというが、これはどういうことなのかもう少し詳しく説明してくれないかな。

 

A君 仏様の大悲を感受している思いを考えてみると、おおざっぱに言えばつぎのようになるよ。南無阿弥陀仏阿弥陀仏は①摂取不捨せんという大悲を、②南無は大悲をそのまま受け入れること。そのような意味であることは既に聞いたり読んだりして知識として知っていた。しかし、仏様の大悲が私にかけられているということをこれまでに幾度となく聞いても、それが分からず幾度となく反問したり煩悶したりしていた。自力の思いに囚われてその思いから抜けられずに煩悶していたときに、そのまま救うとの仏様の大悲に気づき仏様の大悲を感受するようになった。自分の身の上に大悲が感受されたとき、その大悲を受けているままが摂取して捨て給わぬ阿弥陀仏に南無していることだと理解できた。これが南無阿弥陀仏となった心の状態であると理解できたし、この南無阿弥陀仏は私が浄土往生できるすがたそのものであるということも分かったし、この南無阿弥陀仏の心相のままに私は浄土往生できると分かった。これが仏様の南無阿弥陀仏の働きだということも理解できた。それで、称える念仏の南無阿弥陀仏も仏様(の働き)であると理解できた。南無阿弥陀仏の心の状態のままに称えるのが口称の大行だと理解できたのだ。これらが私にとって仏様の大悲を感受している思いだね。

 

B君 仏様の大悲を感受してそのように理解したというんだね。

 

A君 正確に言うならば、仏様の大悲を感受してそのように理解できたのか、そのように理解できて仏様の大悲を感受するようになったのか、よく分からないんだよ。さっき言った気づきとか感受とか理解というのは直感的で感覚的なものであって論理的なものではないから、どうなってそうなったのか、などということはよく分からないんだ。だからうまく説明できないので、もどかしく思うよ。

 

B君 なるほどね。どちらであるしても、大悲心を感受していることにはある思いが伴い、ある思いの下に大悲心を感受しているってことだね。

 

A君 そうだね。それを信知といっても良いよね。そのような信知があるので、仏様の大悲の働きが心に働いているときの働きを大信という言い方で呼んでもよいし、その働きが念仏行という形で現れたとき大行という言い方で呼んでも良いと分かるんだ。行と心との違いはあるが、いずれも仏様の大悲の働きであるから大行も大信も仏様の大悲による救済という一括りで理解すれば良いんだということも分かるんだ。だから、大行を能行で理解するか所行で理解するかという議論はあまり意味のない議論だよ。また、折衷的な能所不二の称名とかという用語は分かりにくい哲理的用語だ。能所不二というのは、御名をそのまま現わした称名・称名に現れた御名という意味だが、大悲を感受して南無阿弥陀仏の心相のままに称える称名のことだ。仏様の大悲による救済は大悲心を感受することで必ず信と称名というあり方になる。そのあり方が大悲のあり方だと理解しておけば十分だよ。

 

 

B君 信も大行だと言うのであれば、称名大行を大信といっても良いのかい。

 

A君 いいと思うよ。南無阿弥陀仏の心相のままに称念するままが信のすがただよ。それ以外に信のすがたはない。

 

B君 称名大行を大信と言ったり大信を称名大行と言ってしまうのは概念の混乱になるのではないのかな。

 

A君 確かにそうなってしまう。だけど、もともと生きた人間の上に大悲心が働き、その働きを心で受けとめた者の念仏行というのは、仏様の大悲による救済そのものだ。これを大行というのであればこの大行には大信があるし、大信は放っておいても自然と称名大行となってゆく。大信と言っても称名大行と言っても大悲心の現れ方を人間が便宜的に概念的に区別しているだけのことではないかと思う。大悲心を聞信し大悲心を感受した人に現れる大悲心の現れ方を仏様は「至心信楽欲生我国乃至十念」と一括りで言われているだけだ。仏様の大悲心を受けていると実感している限りは、その概念的区別はさして重要な問題ではないと思うよ。学問的には大行と大信を区別し、その概念を精緻なものにしてゆくことに意味がないわけではないと思うが。

 

 

B君 祖師は称名と大信は不離の関係にあるという意味のことを言われているけど(*1)、君に言わせれば、称名大行は大信を含み、大信も称名大行を含んでいるということになるのかな。

(*1)親鸞聖人御消息(7)を以下に引用

信の一念・行の一念ふたつなれども信をはなれたる行もなし。行の一念をはなれたる信の一念もなし。・・信と行とふたつときけども行をひとこえするとききて疑わねば行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また信をはなれたる行なしとおぼしめすべし。

 

A君 そうだね。

 先にも言ったことだが、十七・十八願による大悲心の救済は私の第一希有の念仏行となり、私の金剛不壊の心となる。選択摂取の本願、第一希有の行、金剛不壊の心の3つは等価な仏様の救済そのものだから、祖師は正念の一言でまとめられたのだと思う。仏様の正念である願が私の正念たる行と心になっているという理解だね。仏様の救済というのは南無阿弥陀仏による救いなのだが、南無阿弥陀仏というのは摂取して捨て給わぬ大悲心を意味している。その意味する大悲心を私に聞かせて大悲心を知らしめて、その南無阿弥陀仏が私の大信となり大行となることを予定している救いだ。その大悲の救いは必ず大信となり大行となる。南無阿弥陀仏の大悲心を聞けば、私の心は大悲心を感受し、感受した大悲心に導かれて念仏を称えるようになる。この称名を大行というのであれば、当然に大信を含んだ称名大行だ。大信の欠けた称名にそのような大という資格を与えることはできない。また、大信は仏様の大悲による救済の現れであるから、その大信にはいわば称名大行の種を孕んでいるようなものだ。大信中に称名大行の種がなければ大信ということはできない。大信に称名大行の種があるから称名大行が現れてくるんだろう。だから、称名大行といおうが大信といおうがそれらは仏様の救済である以上互いに互いを内包しあっているんだよ。南無阿弥陀仏の救済には大信も称名大行もある。だから私が南無阿弥陀仏を頂けば南無阿弥陀仏がそのまま私の大信となり、称名大行となる。逆に私の中に開け起こった大信や私の称える称名大行には南無阿弥陀仏がある。だから祖師は「称名は最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念なり。」と言われたのだと思うよ。祖師の心の中では「これらはみな仏様の働きだ。」との思いがあったのだろうよ。

 

A君 これを分かってもらうために君にやってほしいことがあるんだよ。

 

B君 なんだい。

 

A君 「称名は最勝真妙の正業なり、正業は念仏なり、念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念なり。」のあとに続けて言って欲しいんだが。

 

B君 うん。

 

A君 正念はさっき言ったように称名行を表すことがあるし、信を表すことがあるよね。それで、正念が称名を表しているときは「正念は称名。称名は最勝真妙の正業・・・。」と続けることができるよね。

 

B君 できるね。

 

A君 ではやってみると「正念は称名、称名は・・念仏、念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念」と続くよね。

 

B君 うん。

 

A君 じゃあ今度は「正念」を大信だとすると、「正念は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は念仏、念仏は称名」とつながるよね。

 

B君 うん。

 

A君 このようなことが際限もなく続いてゆくことが分かるかい。

 

B君 分かるよ。やってみようか。「称名は最勝真妙の正業 正業は念仏 念仏は南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は正念 正念は称名 称名は最勝真妙の正業 正業は念仏 念仏は南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は正念なり。正念は南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は念仏 念仏は最勝真妙の正業 最勝真妙の正業は称名なり。称名は・・(*2)」と同じことがぐるぐると円を描く様にずっと際限もなく続いてゆくね。

 

A君 どうだい。一つ一つが全体として一つになっているように感じられないかな。

 

B君 これらは仏様の願心から起こり、一つの全体となって続いていくということを言いたいんだね。

 

A君 その通りだよ。

 その一つ一つが仏様の救いそのものなんだ。だから一つ一つが互いに関連しあって必ず円環を形成して全体となってゆくんだ。だから称名念仏南無阿弥陀仏を含み、南無阿弥陀仏は信を含み、信は称名念仏を含むということが言えるし、称名念仏南無阿弥陀仏や信を含み、南無阿弥陀仏称名念仏や信を含み、信は南無阿弥陀仏称名念仏を含むとも言えるんだ。この関連性を念頭に置くと大行は大信を含み、大信は大行を含むといっても良いと思うのだよ。ただ注意して欲しいのは、ここで言っている称名とか念仏とか南無阿弥陀仏というのは、どれも私の称名であり私の念仏であり私の心の内の南無阿弥陀仏のことであって、他人の称名が大行であるとか、他人のものとなっている南無阿弥陀仏が大行だと言っているのではないんだよ。

 

 

B君 ではどうやったら、その救いの円の中に入れるんだい。

 

A君 もう一度さっきのことをよく見てごらん。(*2)と表示した所だよ。称えている念仏が仏様による最勝真妙の正業だ。最勝真妙の正業というのは最勝真妙の浄土に生まれられる仏様の最勝真妙の往生行のことだ。だから念仏を称えることが私の浄土往生が定まった証だということが分かるよね。自分の計らいを入れる余地はないと分かるはずだし、それが仏様の大悲心の現れだということも分かるはずだ。それで南無阿弥陀仏にて往生するという思いになれるよ。

 

 

B君 最近、A君は念仏の主観的意味を決めるものはその念仏を称える人の心の状態や思いだという考えのもとに、南無阿弥陀仏の心相となったことや浄土往生が決まったことを悦ぶ浄土願生の思いがその者が称える念仏に大行の意味や浄土往生の行の意を与えると述べたよね。

 

A君 うん。確かにそう書いた。

 

B君 意味を与えるというのはどういうことなのだい。

 

A君 心は絵描きであり、同時に心は絵描きによって絵を描かれるカンバスだという喩えを聞いたことはないかな。

 

B君 唯心論だよね。

 

A君 そう。自らの心が自らの心の上に絵を描いて、描かれた絵をその心が眺めて認識する。認識されたものはすべて心が生み出したものだというのが唯心論の基本的な考え方だよね。無意識の心の働きによって認識の対象が心に具象化され、それが意識によって認識され、その具象化された対象に意味や概念を与える。再び対象を認識したときそれを概念で理解し、そこから意味を読み取り、あれこれと判断する。僕にはこれは真理の一面であるように思えるんだ。妻という言葉を例にして考えてみようか。妻という言葉を聞けば、だれでも妻という言葉の持っている意味を理解できるよね。妻という概念がみんなの共通の概念となっているから妻という言葉を聞けばその意味を理解できる。概念というのは心の中にあるイメージのことだと思えばいいんだけど、そのイメージというのは心が作り出したものだよ。それで、ある女性を妻と呼ぶとき、その人の心は妻という概念をその女性に与えてその女性を妻と認識している、という構図になるんじゃないかと思えるんだ。妻を一例にとったけど、人が持っている概念や意味はすべて心が作り出したイメージであり、そのイメージを使って物事を認識したり、理解したり、考えたりしているんじゃないかと思うんだ。

 

B君 その考えでは、大行とか大信というのも概念だよね。

 

A君 そうだね。もともと念仏を称えるという行為は、細分化するとさまざま事実や状態を構成要素として成立しているものだよね。この行為にどのような意味があるかという問題は、この行為にどのような意味を与えるかという問題であり、それは心が決めることなんじゃないかって思えるのさ。

 

B君 それで。

 

A君 例えば、ある念仏は自力の念仏だというとき、それを言っている人は自力の念仏という概念とか他力の念仏という概念を持っていて、ある念仏が自力の念仏か他力の念仏かをその概念を適用して判断していることになるけど、その人はどのような念仏を自力の念仏と言っているのか他力の念仏と言っているのかをよくよく聞かないと分からない。僕は自力の念仏というとき、「我が行を浄土往生の資助になるとして称える念仏」を想定している。これに対して他力の念仏というのは「我が行を浄土往生の資助になるという思いはきれいさっぱり無くなってしまって、仏様の大悲によって往生できるという思いで称える念仏」を想定している。このような想定では、念仏の自力他力はその人の称える心や思いで決まってくるということだよね。そして、仏様の大悲によって往生できるという思いは仏様の大悲を感受しているところに生じる思いだから、仏様の大悲を感受している思いがあるか無いかで自力他力の区別することになる。仏様の大悲を感受している思いは自分の心の中にある心理的事実だから、その事実のあることは自分で認識できる。それで、この事実がありそうな人なのか無さそうな人なのかを判断して、念仏を含めて自力か他力かを区別しているということになる。区別しているということは他人に自力とか他力とかの概念を与えているということだね。これは他人の言動を見たときのことだが、自分の心のあり方を見たときにも同じことが言えるよ。自分に仏様の大悲を感受している思いがあるから、ここからこの大悲の感受が南無阿弥陀仏となった心相であると理解でき、その理解から南無阿弥陀仏の心相は私が浄土往生してゆくすがたであるとの思いとなり、私の称念する南無阿弥陀仏は仏様の表れであるとの意味を念仏に与えることになる。つまり、念仏は大行であると分かった。この分かったということを、先に述べた「心が意味を決める」という考えに照らして言い換えると、大悲を感受できた心の状態が念仏に大行の意味を与えたということになるのではないかと思えるのだよ。

 

B君 大悲を感受して南無阿弥陀仏が仏様の大悲だと信知したことから、南無阿弥陀仏は私が浄土往生してゆくすがたを表しているという意味をその南無阿弥陀仏から読み取り、念仏にその意味を与える。そして、念仏から称えている南無阿弥陀仏は私が浄土往生してゆくすがただという意味を読み取ることになるんだね。

 

A君 そう。だから、南無阿弥陀仏は称名、称名は南無阿弥陀仏であり、いずれも私の往生してゆく私のすがたであり往生の行であるという思いが起こるんだね。その思いが大悲を感受している大信なのだよ。

 

B君 だから、祖師は大行と大信は不離だと言われたんだね。

 

A君 そうだね。それは元祖聖人の思いでもあるよ。「南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いとりて申す他に別の子細そうらわず」「三心四修と申す事の候ふは、皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候なり」とは元祖聖人の仰せだが、祖師はこの思いを元祖聖人から聞かれていたのだろう。「信の一念・行の一念ふたつなれども信をはなれたる行もなし。・・・信と行とふたつときけども行をひとこえするとききて疑わねば行をはなれたる信はなしとききて候ふ。」と言われた中の最後の「ききて候ふ。」とあるのは元祖聖人から聞かれたということだね。

 

1-27.念仏-念仏に付与される主観的意味合いは何によって決まるのか。

※7/5に修正し、差し替えました。

 

 真宗でいう念仏とは口で南無阿弥陀仏と称えることです。口で称えるというのは、自分の体の声帯を使い、聴覚によって知覚され得る音に変換することをいいます。念仏は称える者の心相ないし思いという心的要素、南無阿弥陀仏を音声化する神経学的・生化学的・物理学的運動過程と音声化された南無阿弥陀仏の音声の3つの要素から構成されています。ある思いに基づいて音声化して称えているのは私ですから、念仏はまぎれもなく私の行為であり、私以外の誰の行為でもありませんし、音声化された南無阿弥陀仏はその私の行為の一部(最終形態)です。心的要素と音声化する過程と音声とは切り離すことができませんから、この三者は分かちがたく一体のものになっています。これらのすべてはいわば物質的現象に還元できるものばかりだと推測されますが、このような念仏にどのような意味があるのでしょうか。ポイントは心的要素がどのようなものであるかによって念仏に付与される意味あいが決まってくるという事です。心の状態や思いが念仏の意味を決定するのです。

 念仏は私の行ですから、信前において念仏行をわが浄土往生の行との思いで念仏に励むことがあります。祖師が「本願の嘉号をもっておのが善根となす」と言われている自力念仏のあり方がそれです。我が行を往生の資助にできるとの思いから南無阿弥陀仏に手を伸ばし、念仏を往生の善行としての意味合いで励むのです。信後においてはわが行をわが往生の行とする思いはありません。このような思いの違いは何によってもたらされるのかといえば、私には浄土往生の行はなし得ないとの思いになっているか否かによります。私には浄土往生の行はなし得ないという思いになれば、私の行じる行に往生行としての意味合いを付与することができなくなってしまいます。私の行じる行から往生行としての意味合いを付与する思いが完全に消え去ってしまうと、あとに残るのは南無阿弥陀仏だけです。ですから、他力信心の願生者にとって意味のある念仏とは南無阿弥陀仏だけになってしまうのです。祖師が「称名はすなわち・・・念仏なり、念仏は南無阿弥陀仏・・なり。」と釈されているのは、こういう理由からであると推測されます。
 ではその南無阿弥陀仏からどのような意味を受けとられたのかといえば、祖師は同じ箇所で「称名は最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏・・・なり。」と言われています。最勝真妙の正業が南無阿弥陀仏であると理解されていたことがわかります。最勝真妙の正業というのは仏様の衆生救済行のことです。南無阿弥陀仏は仏様が最勝真妙の救いとして成就されたものです。仏様の救済行が南無阿弥陀仏であることから、往生行の意味合いが完全に消し去られた私のなす行にそれまでの自力往生行としての意味合いとは全く異なった私の往生行としての意味が新たに南無阿弥陀仏によって付与されることになるのです。元祖聖人が「南無阿弥陀仏 往生の行は念仏を先と為す」と言われたのはそのような意味合いからでした。

 では、どうして祖師は「最勝真妙の正業が南無阿弥陀仏である」との理解に達したのでしょうか。「しかれば御名を称すれば衆生の一切の無明を破し衆生の志願をみてたまふ。」と言われている所から推察すると、祖師には無明と呼ばれるような本願疑惑心が晴れて心から仏様の大悲心を悦び、大悲心による浄土往生を喜ぶ思いがありました。この思いは、摂取せんとの阿弥陀仏に南無した心相になったところにのみ生じる思いです。南無阿弥陀仏の救済行は、これを受けた者の心相を阿弥陀仏に南無する心相へと完全に転換する働きがあります。きれいさっぱりに自力の思いを消し去り南無する心相に転換させてしまいますので、この心相から大悲を感受し往生は決定との願生の思いが生じることになります。仏様の救済行にあるこのような働きを実感されていたため、南無阿弥陀仏が最勝真妙の大行であると言われたのでしょう。この念仏者の胸の内にある思いとは、何を差し置いても仏様の最勝真妙の大悲を感受する思いであると言わなければなりません。その思いには大悲によって往生できるとの思いもありますから、「本願の嘉号をもっておのが善根となす」ような思いが起こらなくなってしまうのです。「念仏は浄土にうまれるたねか、地獄におつべき業か総じて以て存知せず」という祖師の言葉を歎異抄は紹介していますが、人の智恵で最勝真妙の大行を理解することはできません。最勝真妙の大悲によって南無阿弥陀仏の心相となり、ここから浄土に生まれられるとの思いが生じる心の仕組みはもとより、その仕組みから将来どのようなことが引き起こされるのか、に関しては人間の知恵で計り知ることはできません。そのため上記の歎異抄の言葉になったのでした。

 まず、ここで押さえておきたいことは次のことです。
 浄土に生まれられるとの願生の思いが生じたことによって、念仏の「私の行じる行としての側面」に報恩行としての意味を付与することがはじめて可能となります。自力往生行としての意味合いが完全に否定された念仏に報謝の行としての意味を新たに与えることができるようになるのです。祖師は「至徳を報謝せんがために真宗の簡要をひろふて、つねに不可思議の願海を称念す。」と言われましたが、これは念仏行の「私の行じる行」としての側面に報謝の意味を新たに付与したものです。信心の行者の念仏は、仏様による清浄最勝真妙の働きから南無阿弥陀仏の心相と願生の思いが生じ、南無阿弥陀仏の心相からはそのありのままに南無阿弥陀仏の念仏が称えられ、私の往生は決定されたとの浄土願生の思いからは報謝の念仏が称えられることになります。南無阿弥陀仏がもともとは仏様の領域に属するものであることを考えれば、念仏の本義はあくまでも仏様の最勝真妙の正業であり大行であるとしつつも、その大行をわが往生の大行として受けとった信の者の念仏にはその仏様の大行たる救済行に呼応した報謝としての意味合いが念仏に込められることになるのです。仏様の大行と私の報謝の行とがみごとに呼応して分かち難く一体となって醸成されているのが私の称える念仏なのです。
 次に、念仏は報謝の行という意味だけにとどるものではありません。より根源的で重要なことは次のことです。私の報謝の行としての念仏は仏様の救済行である南無阿弥陀仏を受け入れてそれに感応し、私の心相が南無阿弥陀仏となったありのままに称えるものです。その南無阿弥陀仏の心相のままに南無阿弥陀仏を称えることは仏様の大行そのもの、南無阿弥陀仏がそのまま現れ出でたものです。このため、あるがままに口に現れ出でた南無阿弥陀仏の念仏は仏様の大行であり、かつ、それがそのまま私の往生行になるとの意味が念仏に与えられることになります。南無阿弥陀仏となった心相は、南無阿弥陀仏が仏様の大悲であるとのメッセージを南無阿弥陀仏から受け取り大悲心のありのままを感受している心の状態です。この心の状態になった私は、この南無阿弥陀仏は私が浄土往生してゆく心の相(すがた)であり、この相が大悲そのものであると受けとめているのです。この心相を大信といいますが、この心相になったことによって、念仏は仏様の大悲であるとの意味合いを念仏に与えることになります。念仏には音声化された最終形態である南無阿弥陀仏が現れているからです。南無阿弥陀仏を感受し受けとった南無阿弥陀仏の大悲心が念仏に現れていると理解し、この念仏となった南無阿弥陀仏が私を浄土往生させると受けとめることになるのです。南無阿弥陀仏から受けとった大悲の意味を今度は念仏に付与することになるのです。この意味を付与された念仏を大行念仏と呼ぶことにします。私を往生させる働きのある仏様の大行たる南無阿弥陀仏がそのまま私の大行となったとき、南無阿弥陀仏は私が浄土往生してゆく相であると受けとめたところの至心信楽から欲生心たる願生の思いが生じ、念仏に仏様の大行に対する報恩行としての意味合いが加わるのです。さらには、仏様からすれば私が念仏を称えないことには南無阿弥陀仏を成就した意味がなくなってしまいます。だから、どうしても私に念仏を称えて貰い浄土往生を果たさせなくてはならない宿命を仏様は背負っています。私には仏様から南無阿弥陀仏を頂かないことには往生できるすべは一切ありません。仏様と私とは私が浄土往生できるか否かの一点において運命共同体の関係(相互相依の関係)に入ってしまっているのです。大行念仏は私からすれば仏様の大悲心に誘発されて大悲を悦ぶ行や報謝の行としての意味合いで称え、仏様からすれば私を浄土往生させる大行たる働きが生身の私の上に生きた念仏として私に称えられることによって、その所期の目的を果たすことができるのです。大行念仏は、私の称える念仏あっての大行念仏です。この意味で大行念仏は仏様と私の協働の行とも言えます。仏様と私とはともに大行念仏を共有し、仏様は大悲をもって称えさせ、私は大悲に触発されて称えさせられたりして称えているのです。これが十八願文にある「至心・信楽・欲生我国」の大信となった上での「乃至十念」の念仏です。この念仏においては、南無阿弥陀仏となった心相とこれによる願生の思いという心的要素が大行としての意味や浄土往生行としての意味を念仏に付与し、派生的に報謝の行としての意味を付与するのです。念仏に付与された根源的な意味は、摂取不捨の大悲を南無する者の心がその感性(心情)で受けとめてその意味を領解してしまうので、念仏に仏様の大悲と救いを見いだし、この度の浄土往生を悦んで南無阿弥陀仏を称念し、声となった南無阿弥陀仏に仏様を見いだして仰信するようになるのです。このことを善導大師は「行に就(つ)きて信を立つ。」と言われ、元祖聖人は「声につきて往生の思いをなせ(す)。」と言われました。南無阿弥陀仏の声(行)が私を浄土往生させる仏様の大悲心の現れであると受けとめるので行に就きて信が生まれ、声につきて浄土往生の思いが生じるのです。
 念仏に以上の意味付けをしているのは、仏様の大行たる南無阿弥陀仏のとおりに南無した心相とそこから生じた願生の思いですが、そのような意味づけをしているもともとの根源は南無阿弥陀仏(の働きや意味)にあります。言い換えれば、南無阿弥陀仏にある大悲が私の心に自らの大悲を刻印し、心に刻印された大悲が私の心理作用を介して念仏に上記の意味付けを新たに与え、私の心はその大悲の意味を感受して念仏を称えるのです。この過程には自力の思いという夾雑物が一切混じることがないので、この大行念仏を他力の念仏と言ったり、この働きを南無阿弥陀仏の一人働きと言ったり、全分他力と言ったりします。

 以上が冒頭の問いに対する答えとなりますが、詰まる所、仏様の働きは南無阿弥陀仏に込められている言葉の意味にあるということになります。言葉の持つ意味は人の心に働きかける作用をもつものです。この意味が仏様の命になっているのです。言葉の意味を理解できる心を持つ人類の心を救う唯一の手だてはこの言葉の意味だけなのでしょう。仏様は言葉のもつ意味に姿を変えられて、私の心に働きかけているとも言えます。真宗の信の局面とは異なりますが、世間においても「あの人の一言で救われた。」などと言うことがあります。精神的に行き詰まってしまった人が人の言葉によって心が軽くなって救われたということはよくある現象なのでしょう。まして南無阿弥陀仏は人の心を表した言葉ではなく、仏様の心を表した言葉ですから、その言葉から仏様の摂取し捨て給わぬ心の意味をそのまま受けとればよいだけです。それを聞き受ければ現世での仏様の救済は完了し、そののちは仏様の心光によって常に照護されるがごとく凡夫のありのままで喜び喜び南無阿弥陀仏を称念する生活となります。

6-4(3).質問と回答 4の続き(2)

質問4の続き(2)
 質問ですが、法蔵菩薩阿弥陀仏になる際に、私を救うために、果てしない時間修行をし、阿弥陀仏の名号を作られたとのことですが、阿弥陀仏の視点で考えた時に、私に名号を渡す苦労と名号を作ったときの苦労を比較したら、渡す苦労なんて大したことのないくらい簡単なことだと思います。(名号を作って、私のところまで届けるまで相当大変ですが、そこからあと一歩、私に名号を受け入れさせるなんて今までの苦労と比べたらよっぽど簡単なのではと思います。)ですが、私は名号を受け取れていません。仏願に順じないと救われないとのことですが、仏願に順ずるということがどういうことなのかいまいちわかりません。詳しく教えていただけないでしょうか?

 

回答4の続き(2)
 質問者の方は南無阿弥陀仏と称えることはまったくないのでしょうか。南無阿弥陀仏と称えているのであれば、名号を既に受けとっています。受けとっているから南無阿弥陀仏と称えることができるのです。ですから、仏名を称えることが如来の大悲に既に遇っていることであり、仏名を称えることで既に如来の救いに遭っているのです。仏名を称えることが如来の救いであると知り、仏名を称えさせんという仏願を聞いて計らうことなく仏名を称えることを仏願に順じるといいます。仏名を称えさせんというのが仏願ですから、仏願に順じるとはその願いの通りに仏名を称えることをいいます。
 では、仏名を称えながらも「私は名号を受け取れていない」と思ってしまうのは一体どういうことかと言えば、仏名を称えさせるのが如来の願いであるということを知らない、理解していない、心からそのように受けとめていない、まったく誤認してしまっているということです。これを不信(疑蓋)といいます。これに対して、仏名を称えることが仏願に従うことであると知り、その仏願を計らうことなく仏名を称えているのを信(疑蓋無雑)といいます。同じように念仏を称えながらも、その称名の意味を正しく領解しているか否かで信と不信とが分かれるのです。信の人は仏名を称えさせんという仏願を文字通りそのまま受け取り、不信の人は仏願に気づかないため皆目仏願が分からない状態にあり、私はまだ救われていないと思い込んでしまっているのです。この疑蓋に生死を繰り返して流転してきた原因があるとして祖師は正信偈に「生死輪転の家に還来するは決するに疑情をもって所止とす」と言われています。信は阿弥陀仏の大悲心から生じるものですが、これを信じようとする心のない者のために阿弥陀仏は南無の信じる心を摂取不捨の阿弥陀仏と一体に称える南無阿弥陀仏として成就してあります。阿弥陀如来は信じる心も往生浄土の徳も円満に用意されているので衆生にとって何の不足もありません。三世諸仏は南無阿弥陀仏の救いを信じるようにと如来の救いが円満であることを衆生に証成しています。この証成の有様を善導大師は「十方恒沙の仏舌を舒(のべ)てわれ凡夫の安楽に生じることを証したまう」「悲心は利物の大悲心なり。慚愧す恒沙の大悲心」と法事讃に言われています。これは阿弥陀仏も諸仏も衆生に信が生じることに向けて一心同体の大悲を抱かれている有様を述べたものです。衆生がこの救いを信ぜず流転してゆくことについて諸仏が嘆く様を善導大師は「もしこの証によりて生じることを得ずは六方諸仏の舒舌(じょぜつ)ひとたび口より出でて以後ついに口に還り入らずして自然に壊爛(えらん)せん。」と言われました。不信な私がいるために諸仏の舌を壊爛させていたのでした。阿弥陀仏もまた涙を流して嘆き給うたことでありましょう。大悲心に触れたとき、大悲心を知らない人の心がはじめて大悲心を感受するのですが、ここに大悲と信の不思議があります。それまでは如来の大悲心に触れることがないために質問者の方のように「そこからあと一歩、私に名号を受け入れさせるなんて今までの苦労と比べたらよっぽど簡単なのでは」との思いを抱くのですが、善導大師は「ただ衆生の疑ふべからざるを疑うを恨む」と言われています。
 如来の大悲心から「称えさせん。救わん。」として成就された南無阿弥陀仏の御名を如来の大悲心であると受け取り称名するのが信であり、仏願に信順することです。仏願に順ずるとはどういうことか詳しく教えて欲しいとのご要望ですが、この外に特別な子細はありません。法然聖人が「南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いとりて申す他に別の子細そうらわず」「三心四修と申す事の候ふは、皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候なり」「この他におくふかきことを存せば二尊のあわれみにはずれ、本願にもれそうろうべし」と言われているとおりです。南無阿弥陀仏如来の救いであり如来の大悲であるとの外に何の子細もないのです。この信・不信のことは学問、知識、理解の浅深といったたぐいのことで解決がつくような問題ではないため、とてつもなくやっかいです。祖師が難信であると言われ、大経にも往きやすい浄土に人がいないと説かれています。信を頂くことが簡単でないことは、これから先、否応なく身に滲みて知らされることでしょうが、お近くに信を得られた人や信を得られた布教師の方がいらっしゃるならば、直接面談のお願いをして自らの心の内を吐露し、よくよくお話しを聞いて下さい。聞いたからといって言葉で容易に信まで導くことができるものではないので、しばらく時間がかかるかも知れませんが、称える称名とともに如来の大悲が私に届いていたと気づけば瞬時にして今生での救いは完了します。そのとき「聞其名号信心歓喜」はそのとおりであったと知られます。

6-4(2).質問と回答 4の続き

質問4の続き
 法蔵菩薩から阿弥陀仏になるにあたり、48願成就しなければ仏にならないと誓われていますが、全ての衆生、虫、鳥、草木等の類全てを救い終えて初めて法蔵菩薩から阿弥陀仏になれるという意味ではなく、全ての衆生を救うために、法蔵菩薩が修行をし、準備を整え、さぁ、どんな衆生でも救ってあげるから、どんと救われなさいと、待ち構えている状態ということでしょうか? 全ての衆生を救い終えたから阿弥陀仏になれたではなく、全ての衆生を救う準備ができたら阿弥陀仏になれたということでしょうか?

 

回答4の続き
 回答4でも書きましたが、如来の摂取決定心においては、如来から見れば既にすべての衆生を救うことが完全円満に確定してしまっています。ですから、質問者の方が言われるように「全ての衆生を救い終えたから阿弥陀仏になれたではなく、全ての衆生を救う準備ができたら阿弥陀仏になった」ということです。その如来の救済の準備は予想外に用意周到なものですから、よくよく注意して聞かなければ気づきません。
 如来の摂取決定心は南無阿弥陀仏として既に私に回向されていますから、私や貴方は南無阿弥陀仏と称念することができます。この称念が如来の摂取決定の現れです。念仏という形をとった如来の摂取決定心に気づくことによって必得往生の信が生じます。私が称える念仏が如来の救済でありその他に救済はないと気づく信です。私の救いは南無阿弥陀仏として既に成就されていると信知する信です。言い換えれば、南無阿弥陀は「必得往生。必ず浄土往生させる。」との如来の摂取決定心であり、この南無阿弥陀が私の救済であると受け入れたことを信と言います。
 この如来の摂取決定心・願心は南無阿弥陀仏として私や貴方に既に届いているのですが、私から離れた所に届いているのではありません。極めて身近な所、これ以上に身近な所はないというほど身近なところに届いています。そのため私や貴方が受けとろうと努力しなければならない行は何もないのです。ただ私がその願心を聞くだけでよいように仕上げられている救いです。これ以上にはないというほど極めて身近なところに救いがすでに届いているのです。それが私の称えている念仏です。如来は「南無阿弥陀仏は成就した。あとは衆生、自ら救われる努力をせよ。」と突き放し、衆生の行を要求する仏ではありません。私が力んで如来の救いをつかみ取ろうとして行じる行がまったく無用なように完全・円満・欠け目のない救いを南無阿弥陀仏として成就しています。私の称える念仏がそのあかしなのです。そのため私が行じるべき行は何一つも無いと知り、私が称える南無阿弥陀仏如来の救済であると受け入れるだけです。この受け入れによって現生不退となります。南無阿弥陀仏如来の救いであると聞くだけですから、これ以上に用意周到な救いは他にはありません。如来の摂取決定心は私に何らの行も要求していないので、あとは如来の摂取決定心ありと聞き、摂取決定心・願心を受け入れるだけ。これを受け入れた信について蓮如上人は「取りやすの安心」と言われています。私や貴方がなすべきことは念仏のうちに如来の摂取決定の願心ありと聞いて受けとめるだけです。聞けば「我が往生ははや成就しにけり」との信が自然に生じます。この信が私に成就されれば現生での救いは完了です。あとは上尽一形の念仏を臨終まで称えつつ「辛かったこの世さらば。」と臨終を迎え、わが行く先にある浄土に如来とともに往生するだけです。
 以上が如来が用意した救済の準備です。救済の準備といっても如来が私の浄土往生をすでに円満に成就しているので、南無阿弥陀仏の成就の他に如来の方で足すべきものは何もないし、衆生の方で何かを足さなければならないものも何一つとして残されていません。南無阿弥陀仏一つで私の救済は完全なものとして完結してしまうのです。私の往生のために私がなすべき行は何一つとしてない、南無阿弥陀仏一つで救済を果たし遂げるところが如来の救いの真骨頂です。これが如来の救いっぷりです。如来が救済のために準備し成就した南無阿弥陀仏の救済がいかに用意周到なものであるかを理解いただければ幸甚です。

6-4.質問と回答 4

質問4
 質問ですが、なぜ法蔵菩薩は、今現在救われていない人がいるにも関わらず、阿弥陀仏になることができたのですか? 48願が成就しなければ仏にならないと誓われており、10劫前に仏になったとのことですが、救われていない人がいる時点で仏になれないと思ってしまいます。仏の世界は時間という概念がなく、過去から未来の時間において考えた場合、どこかの段階で、すべての衆生が救われるということで、阿弥陀仏になれたということですか?

回答4
 {48願が成就しなければ仏にならないと誓われており10劫前に仏になったとのことですが、救われていない人がいる時点で仏になれないと思ってしまいます。}{その誓いにも拘わらずどうして先に成仏されたのか。}との疑問は誰でもが抱く疑問だと思います。曇鸞大師は浄土論註下巻において火㮇(かてん)の喩えを使って如来の巧方便を説明していますが、それがこの疑問に対する回答になるかと思い紹介します。浄土論には「かくのごとくして菩薩は巧方便回向を成就す。」とあり、この巧方便について曇鸞大師は、
 「巧方便とはいわく、菩薩願ずらく、おのが智慧の火をもって一切衆生の煩悩の草木を焼かんに、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ作仏せじと。しかるに、かの衆生いまだことごとく成仏せざるに菩薩すでにみずから成仏す。たとえば火㮇をして一切の草木を摘みて焼きて尽くさしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに火㮇すでに尽くるがごとし。その身を後にしてしかも身先立つをもっての故に巧方便と名づく。」
とし、菩薩はその願事を成就したと述べています。
棒の先に火を点火し草木を焼き尽くそうとして棒先の火を草木に押し当てて草木に火を燃え移らせたが、無尽にある草木はまだ焼き尽くされていないのに棒は草木よりも先に自ら燃え尽きてしまったという喩えです。棒が草木よりも先に燃え尽きたことを菩薩が成仏したと表し、一切衆生の煩悩を焼き尽くさないと成仏しないと誓いながらも一切衆生の煩悩という草木はまだ焼き尽くされていない先に成仏したことを菩薩の巧方便というとするのです。如来は一切衆生を一人残らず救い尽くすという摂取決定の心をもって一切の衆生を救いとる方便としての南無阿弥陀仏を成就し、衆生に回向した事を巧方便回向成就といわれたのです。南無阿弥陀仏という仏にならない限り一切衆生を救えないことから法蔵は「身を後にしてしかも身先立つ」ことにして先に南無阿弥陀仏という仏になられた。これは質問者の方が言われるようにどこかの段階ですべての衆生が救われるということが確定したことで阿弥陀仏になったということです。如来の摂取決定心においては、如来から見れば既にすべての衆生を救うことが完全に円満に欠け目なく確定してしまっているのです。先の火㮇の喩えで言えば、草木に火が燃え移り、棒が燃え尽きた時点ですべての草木が燃え尽くされる事に既に確定してしまったのです。祖師が信巻に引用する「一切衆生はついに定めて大信心をうべきがゆえにときて一切衆生悉有仏性というなり。大信心はすなわちこれ仏性というなり。仏性は如来なり」という涅槃経の文の意味もここに通じているように感じられます。阿弥陀仏が既に十劫の昔に成仏されたことから善導大師は十八願のとおり衆生が称念すれば「必得往生」であると言われました。善導大師もこの「必得往生」に表された法蔵菩薩の巧方便力、摂取決定心を感受されていたことでしょう。

 ちなみに、以下は私の味わいです。
 南無阿弥陀仏となっても菩薩の誓いは必ず守り通さなければなりません。仏になったからといって過去の自分の誓いを自ら破るような事があっては仏にはなれません。そこで、南無阿弥陀仏でありつつも法蔵は菩薩のままであり続けなければならなかった。その菩薩であり続けている菩薩とは一人一人の心の内にあって無量劫の過去から現在まで私に寄り添いながら修行している内なる法蔵です。私が畜生界に生まれたときは法蔵も私とともに畜生となり、私が地獄の住人となったときには法蔵も私とともに地獄にあり、常に私に寄り添いながら「仏にならん」「仏にさせん」と励み続けてきた。それは、法蔵から見れば私は法蔵であり法蔵は私であり、私と離れることができないからです。その法蔵の無量劫に亘る救済の尽力(内薫)と既に成就された南無阿弥陀仏の本願力(外薫)とが協働することによってようやく今生において私は信に恵まれた。私の内なる信となった法蔵は、それでも私が浄土に生まれるまでは浄土に環帰し再び阿弥陀仏にはなることはないのです。私とともにでなければ法蔵は仏にはならないと誓ったからです。だから信となった法蔵は私とともに浄土往生し、私とともに再び仏となるのです。法蔵菩薩の無限の大慈悲、摂取決定心、巧方便とはこのような救い方であると私は思っています。祖師は上記の信について「この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに必ず報土の正定の因となる。」と示されました。法蔵菩薩の涯底のない大悲心を知れば、如来の大悲心が信であるからこの心が報土の真因となると釈された意が多少なりとも理解できるように思います。

1-26.行の否定

 観経下々品の称名念仏の勧め(転教口称)から分かることは、如来の救いにおいては、称名する以外のすべての行は往生の行として廃(廃立の廃)されている、あるいは廃されるべきだということ。大経願成就文の「聞其名号信心歓喜」の教えから分かることは、聞く以外のすべての行は往生の行として廃されている、あるいは廃されるべきだということ。つまり、称名行も聞という行も、ともに往生行としての意味は否定されることになります。いうまでもなく称名や聞以外のすべて行は一切廃されていますので、あらゆる凡夫としての往生行は廃されることになります。

 称名や聞には凡夫のなす行としての側面はあるものの、往生行としての意味が完全に奪い取られているのです。誰によって奪い取られてしまっているのかと言えば、仏によってです。仏は、これらは往生行にはならないと否定しているのです。もとより仏は凡夫の行を往生行としては無功であるとして南無阿弥陀仏を成就したのですから、私達は凡夫としての行に往生行としての意味を求めることはできません。これを知らされることを機の深信ないし自力無功といいます。凡夫の往生行としての意味を否定され、奪われたあとの称名や聞に残されるのは、ただ、南無阿弥陀仏だけです。この南無阿弥陀仏如来からの救いの手だてとして残るだけです。これを知らされることを(救いの)法の深信といいます。

 観経下々品の称名念仏とは救いの手だてである南無阿弥陀仏を称えることでありますが、自力の往生行としての意味はありませんから、聞こえてくる南無阿弥陀仏が救いの手だてであると聞くことだけが残ります。大経願成就文の聞とは南無阿弥陀仏を救いの手だてであると聞くことですが、聞くことに自力の往生行としての意味はありません。救いの手だてが南無阿弥陀仏そのものですから、救いの手だてが南無阿弥陀仏であると受け入れるしかありません。他に選択肢は残っていないのです。他に選択肢が残っていないことに気づけば、それが信であり、二度と自力の思いが交わることはなくなってしまうのです。

 こうして、観経下々品の転教口称の教えや大経願成就文の「聞其名号信心歓喜」の教えには、自力を廃して信を生じさせる働きが自然に備わっているのです。この働きに触れている限り、信は自然に生じます。

 以上、真宗において、富山まで行って真剣に聞かないと信仰が進まないとか、宿善を積むために寄付財施を奨励するなどは、往生行という観点からは如何に意味のない行いであるかが分かります。

6-3.質問と回答 3

※6/3公開のものから加筆しましたので差し替えます

 

質問3
 わかりやすい文章で、 いつも読ませていただいています。 質問ですが、18願を読んでいる限り、救われるには念仏をすることが必要だと思われますが、念仏せず、聞くだけで救われる根拠はなんでしょうか? どこからそれが読み取れるのでしょうか?

 

回答3
 「救われるには念仏をすることが必要だ」との部分は、自力の行としての念仏を行じることに加えて(自力の念仏を行じつつ)仏の加被力を受けることによって浄土往生できるという趣旨なのか、念仏を称えているままが十八願力によって浄土へと摂取されつつあると理解されたものであるのか判然としないところではありますが、南無阿弥陀仏の願心を聞信することで救われる根拠、正確には南無阿弥陀仏の願心を聞信しない限り凡夫は十八願の救いを受けられない根拠を端的に申し上げます。

 その根拠を申せば、十八願成就文の
 ①聞其名号 / ②信心歓喜 / ③乃至一念 / ④願生彼国 / ⑤即得往生住不退転の文と①の聞其名号、②信心歓喜、⑤即得往生住不退転、並びに十八願の乃至十念に関する祖師の釈に求められます。

 祖師は、この成就文の文意として①と②につき聞名の聞は即信であること、③の一念は信一念であること、⑤の即得往生住不退転は現生正定聚不退であり、これは信の益であることを読み取られました。

 聞名が信であることについては「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり。信心というはすなわち本願力回向の信心なり。」と釈されています。聞名は疑心の無い聞(如実の聞)であり有疑心の聞(不如実の聞)ではありません。疑心がないことを信といいますから聞名は信であると分かります。また疑心のないことが信であることから信は疑心のない聞名(如実の聞)であることも分かります。ここから成就文の聞名は即ち信、信は即ち聞名であるという理解がでてきます。仏願の生起本末とは、如来が一方的な救済行として南無阿弥陀仏を成就し衆生南無阿弥陀仏を回向し、衆生がこの南無阿弥陀仏を受け取り念仏を称えている様、つまり如来の一方的な大悲の働きが現実化してゆくことを表しています。このため信は本願力回向の信ということになります。信が本願力回向の信であるならば聞名も本願力回向の聞です。本願力回向の聞ということは、私があれこれと願心を計らいつつ聞く聞(不如実の聞)ではなく、如来から大悲心を回向され聞かされるままに聞く如実の聞だということです。「聞其名号」とは名号のいわれ・如来の願心を聞かされるままに聞く、回向されるままに聞くということです。信もまた同じです。摂取するとの願心に計らいをまじえることなく願心を受け入れるのが信です。十八願の信は御名を回向されるままに聞く成就文の聞名であり、成就文の聞名は十八願の三信です。以下、聞名即信を通常の用語の「聞即信」と表記します。
 この聞即信には即得往生住不退転という現生正定聚不退転の信益があるとされました。現生において正定聚になるということは邪定聚でもなく不定聚でもなく正しく仏になることが定まった者の数に入り、再び退転することがないということ。そして、この現生不退の信益のある御名の聞信が一心であるとして「一心は清浄報土の真因なり」「涅槃の真因はただ信心をもってす」「この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに必ず報土の正定の因となる」「報土の真因は信楽を正とするが故なり」「証大涅槃の真因」などと釈されました。十八願の三信は願成就文に「聞其名号信心歓喜・・願生彼国」とあるように「南無阿弥陀仏を聞いて信心歓喜」する聞信です。この聞信は如来から与えられ願心から生じた信ですから、信巻においてこの信を大行と並んで「大信」と呼ばれています。この大信について祖師は「一切衆生はついに定めて大信心をうべきがゆえにときて一切衆生悉有仏性というなり。大信心はすなわちこれ仏性というなり。仏性は如来なり」という涅槃経の文を信巻に引用して大信の属性ないし本体を紹介されています。この大信が報土往生決定の真因となる理由は上記の釈にあるように「この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに必ず報土の正定の因となる。」と祖師は示されました。如実の聞名が即ち大信であり、大信は即ち如実の聞名であるということは、如実の聞名以外に大信はないということ。如実の聞名以外に大信はないということは如実の聞名以外に即得往生と報土往生の真因はないということです。

 これに対して、十八願の念仏は「乃至十念」とあります。乃至は少ない方から多い方へという意味の「従少向多」とその逆の「従多向少」の意味があり、また「一多包容」の意味などがあるとされています。このことから、如来が「乃至十念」を誓った誓意は念仏の数を問わず浄土に生まれさせることにあり、念仏の多少を問わず浄土に救うとするところに大悲心が表れていると理解されます(本願寺出版発行の安心論題に「十念誓意」の項)。信を得た上には生きながらえば上尽一形の念仏(一生涯続く念仏)となり、信を得た直後に臨終を迎えれば十念ないし一念の念仏となりますが、その一声ごとの念仏には如来の無上大利が備わっていますから、一念の念仏にも十念の念仏にも上尽一形の念仏にも同じ無上大利が備わっており、念仏の多寡による違いはありません。大経には「それかの仏の名号を聞くこと得て歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし。この人大利を得とす。」と説かれています。ここにも御名の聞信がでており聞信の上の一念の念仏につき無上大利があるとされています。この無上大利が私の往生の大利となるかどうかが大事な所ですが、私の大利となった最初のときを信の一念といい、無上大利が私の大利となったあかしが大信です。信の上には、その後の念仏の多寡・多少によって往生が決まるものではなく信によって往生の得否が決まるので、祖師の教えを信心正因称名報恩と言います。念仏の多寡・多少は往生の得否に関係しませんから、一声の念仏も称えられないままに臨終に臨んだひとであっても信の決定により浄土往生が決定しています。この決定の信を得た者には十八願と十一願によって真実報土への往生が約束されているのです。

 以上が南無阿弥陀仏の願心を如実に聞信することで救われてゆく根拠となる御文と祖師の釈の骨子です。質問者の方が言われる「聞くだけで救われる根拠」の聞くとは、如実の聞信のことであり、如来回向の信であることを述べてきました。この他力回向の信なくば凡夫の報土往生はありませんので、如実に聞くことが救われる根拠となるのです。

 次に救いの法の顕現の仕方から上述した所を見直してみますと次の如くです。顕現の仕方は、大行(御名)→大信→大行(称名念仏)です。御名と称名念仏はともに同じ大行です。
 ここで救いの法というのは御名すなわち南無阿弥陀仏のことです。南無阿弥陀仏如来の救いの手だてとなっているということです。南無阿弥陀仏は摂取し捨て給わぬ如来の願心を表したものですが、この願心を聞かせ南無阿弥陀仏を与えて救うというのが如来の救いの手だてです。
 先の大信とは私の心相が「南無阿弥陀仏」となったことをいい、念仏とはこの心相から心相中の南無阿弥陀仏が口から出たものです。南無阿弥陀仏という如来の救いは、大行たる御名を私が聞き私の心に至り届いたとき私の心のすがたは摂取不捨せんとの「阿弥陀仏」に帰命する「南無」の心となりますので、私の心が南無阿弥陀仏の心相となってゆきます。この心相を大信といいます。この南無阿弥陀仏の心相はその本体が南無阿弥陀仏であることから如来回向の信心であるとされます。本願力回向の信心なりという祖師の釈は十七願の成就によって諸仏が称讃する名号を聞くままに信心歓喜南無阿弥陀仏の心相となるので「聞其名号信心歓喜」の信心を本願力回向の信心といわれたものです。如来の救いを「大」と表現すれば、「大」である南無阿弥陀仏が私の心に働きかけて「大信」となったときに如来の救いが私の心の中にまで届き私が南無阿弥陀仏を領受したことになります。この信が仏性であり如来です。その大信を味わってみますと南無阿弥陀仏にて往生するという思いとなります。その後の念仏は浄土往生が決定したこと(即得往生住不退転)を喜ぶ念仏となります。祖師はこの如来から与えられた南無阿弥陀仏称名念仏となった所を指して「称名大行」とされました。祖師の釈には大行は念仏であり、念仏は南無阿弥陀仏であるとあります。行巻の「称名はすなわち最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏はこれ正念なり。」がそれです。他にも弥勒附属の一念釈もあります。称名念仏は御名そのものであるという理解です。 称名念仏ばかりではなく信もまた南無阿弥陀仏であると釈されていると理解することが可能です。それは「南無阿弥陀仏はこれ正念なり」とある「正念」とは念仏を表すこともあれば信を指すこともあるからです(梯実円師聖典セミナー教行信証「教行巻」201頁)。ここでは正念は大信を指すと理解したいと思います。称名念仏たる大行は南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏が大信である。大行・大信ともに南無阿弥陀仏であると構成することが御名をもって救うという如来の救い方として貫徹したものになり、また、祖師が信を信心仏性と理解されたことにもよく合致するからです。蓮如上人は十八願を南無阿弥陀仏の願と釈されています。衆生の信も南無阿弥陀仏衆生の行も南無阿弥陀仏と誓っているのが十八願であると理解されたからでありましょう。
 これらの釈から読み取れることは如来の救いを単に称名行として理解されたのではなく、「動態」として理解された事が分かります。動態とは、南無阿弥陀仏の御名が仏様の救いの大行であり、この大行は私の心中で働けば大信となり、信一念から臨終まで信は相続され(金剛心・正定聚不退転)、同時に生涯に亘っての大行たる念仏行になるということです。私の信や念仏は如来の救いが働いている具体的な活動相であり、私の上に常に働き続けているその有様のすべてが南無阿弥陀仏の働きです。この如来の救いの働きは私の信(南無阿弥陀仏の心相)となったところで私をとらえて離しませんから(摂取不捨)、この信となった所を指して信を清浄報土の真因とするのです。先に信とは無上大利が私の大利となったあかしだと書きましたが、そのあかしとは私の心が南無阿弥陀仏の心相となったことをいいます。この心相となった南無阿弥陀仏如来回向の大信であり、如来の大悲心であり、仏性であることから大信には無上大利が具足し、私の心相が南無阿弥陀仏となったとき如来の救いとして私の浄土往生が定まるのです。そのことを十八願成就文では信を得て歓喜する者は即得往生住不退転の身となるとされています。歎異抄にも「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」とありますが、同じ趣旨です。
 祖師は成就文から十八願を眺められて十八願を真実の信願であると言われました。十八願の願事は浄土に生まれさせると誓っている対象は聞信して大悲を喜ぶ者であるという理解です。十八願では「至心信楽欲生」と表現されています。そして、祖師は十八願の念仏については真実の大行としつつもその行を誓った願を十八願に求めずに十七願に求められました。これは私が称える念仏にはその由来ないし淵源があり、それは十七願にその成就を誓われた御名にあると理解されたものです。如来が誓った真実の行と真実の信とはともに南無阿弥陀仏です。この南無阿弥陀仏が浄土往生の大信であり大行であるのです。南無阿弥陀仏はもともとすべての者にとっての往生行ですが、この往生行が私の往生行となるのは私の心相が南無阿弥陀仏となったときです。ですから、祖師は信を報土の真因と言われたのでした。救いの法である南無阿弥陀仏が我が往生の行となるか否かは信の有無によって決まります。これを信疑決判と言いますが、南無阿弥陀仏が私の報土往生の信因となったとき大行は当然に信に具足されています。南無阿弥陀仏の心相が信でありかつその心相の南無阿弥陀仏が大行であるからです。大行の御名→大信(御名の救いを計らい無く聞き受ける)→即得往生を喜ぶ称名大行、称名大行は御名そのもの、と如来の救いが展開する中において大信に大行が円満に具備していると理解するものであります。大悲心を如実に聞くところに大信と大行が同時に備わってしまうのです。聞名といい信といい、実は同じ事象を指し示していることが分かったでしょうか。如来の救いッぷりに対する計らいが廃って私の心の相が南無阿弥陀仏となった事象に対して聞名とか信心とかの語をあてて説明しているのです。同じ事象を指していう語ですから、聞は即信、信は即聞と言えるのです。念仏を一声も称えるいとまがないままに臨終に臨んだとしても浄土往生の無上大利である南無阿弥陀仏は、これを聞信して御名を領受した信の者の心と一体となっているので往生は決定です。この南無阿弥陀仏を領受した心を元祖法然聖人は選択本願念仏集に「南無阿弥陀仏 往生の業には念仏を先とす」と書かれました。南無阿弥陀仏が往生の業であるということです。通常は口称の南無阿弥陀仏の念仏が往生の業であると理解するのでしょうが、私はその文字のとおり私が領受した南無阿弥陀仏が往生の業であると理解したいと思います。元祖の一枚起請文にあるとおり「南無阿弥陀仏にて往生するぞ(と思う)」ということです。南無阿弥陀仏を聞いてその南無阿弥陀仏のとおり私の心が南無阿弥陀仏となったとき、「南無阿弥陀仏にて往生するぞ」との思いとなり、私の口から南無阿弥陀仏が出てきます。これが信具の念仏であり十八願の如来真実の大行たる念仏であります。
 聞信という視点を前面に出して、この視点から十八願を読み直してみますと、「摂取不捨の我が大悲を聞信し大悲を歓喜する者であれば浄土に生まれさせる。(念仏の多寡を問わない。)」と読み替えることができます。これを如来の救いのあり方から見ると、御名が私の信となりこの信から如来が化現している有様が念仏です。この念仏を大信海化現の念仏といってもよいのではないかと思われます。

 南無阿弥陀仏が、これを聞信する人の心相の南無阿弥陀仏となり、口称の南無阿弥陀仏を行じる念仏者の上に現れるという南無阿弥陀仏の救いのあり方から願成就文の「聞其名号信心歓喜・・即得往生住不退転」の文を見直し、また、十八願を読み替えました。その救いの働きは、御名に表れた如来の願心を計らいを交えずに聞信するところから始まり、御名を聞信したことによる信心歓喜、信心歓喜の内容としての即得往生住不退転、そして一声の念仏行へと発動し、上尽一形の念仏として働き続けているさまが多少はいきいきと感じることができたでしょうか。また、祖師が自らの上に現れた南無阿弥陀仏の生きた救いのあり方を自らの悟性によって理解し整理されてゆかれた結論が「念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念(大信・仏性)」と言い切られた釈であると理解されたでしょうか。教学上の根拠や聖語などは悟性に頼った理解ではなく、救いの働きの核となっている南無阿弥陀仏の救いに対する感性によって聖語の意味が裏付けられたときにその語の背後にある生きた救済の法理が理解されると思い、ながながと述べてきました。その意をご理解いただければ幸甚です。
 以上が、南無阿弥陀仏の願心を聞信しない限り凡夫は十八願の救いを受けられない根拠と法理です。

 これに対して、善導大師は観経下々品の転教口称を根拠として十八願の文につき三信を省略して「もしわれ成仏せんに十方の衆生わが名号を称せん、もし十声に至るまでもし成仏せずば正覚をとらじ。」と読み替えたあとに「かの仏いま現にましまして成仏したまえり。まさに知るべし。本誓重願むなしからじ。衆生称念すればかならず往生を得。」と言われました。これが善導大師の十八願と成就文の理解と言えます。善導大師が祖師のいう称名大行を願文の前面に出して願文を解釈されていることを念頭に置かれて質問者の方は「救われるには念仏をすることが必要だ」と思われたのであろうと推測されます。ここには聞信ということは言われていないのではないかと思われるかも知れませんので、少し触れておきたいと思います。
 亡くなられた梯和上の「法然教学の研究」という本の313頁に、ある人が善導の本願取意の文には三心の安心を省略して称名のみをあげられた理由をたずねられたとき、法然聖人は「衆生称念必得往生としりぬれば自然に三心を具足するゆえに、このことわりをあらわさんがために略し給へる也」と答えられたとあります(「諸人伝説の詞」)。「衆生称念必得往生としりぬれば」の知るとは「弥陀仏が成仏したことで衆生は称念すれば必ず往生を得る」と聞いて理解して称念すれば必得往生と信知するということです。この知ることで自然に三心を具足するというのですから、知るとは疑心無く往生を知る、すなわち信知するということです。また衆生の称念とは自然に三心を具足したうえの称念であると分かります。善導大師の上記の文には聞信という言葉は使われていなくても、元祖はそこに「信知」を読み取っていました。善導大師の念仏は信を具足した念仏であると理解されていたのです。「摂取不捨の南無阿弥陀仏」の願心を聞信して心相が南無阿弥陀仏の大信となる、或いは、「称念必得往生」との救いであると信知して彼の仏願に順じる、というのは表現の違い、ないしは視点の違いに過ぎません。必得往生の仏願を信知してその願いに順じるとは如来の願いを計らい無く聞き受けて願いのとおり念仏の行者となるということですから、私の心が阿弥陀仏に南無したということです。「摂取不捨の南無阿弥陀仏の願心を聞く」と言っても、或いは「称念必得往生との仏願を信知する」と言っても、そのいずれの場合であってもともに如来の願心をそのとおりと受け入れて無疑信となることなので、いずれも願心を聞信ないし信知していることに少しも変わりはないのです。聞信も信知も疑いなく計らうことなく仏願を受け入れることですから同じ意味です。南無阿弥陀仏の働きが信という心相(聞信ないし信知)となり、次いで大行たるにふさわしい自力の思いの廃った称念となって南無阿弥陀仏が口から出てくる。南無阿弥陀仏が口から出てくるとその称名に願心をみて願心を疑うこと無く信順し、再び念仏を申すという展開となって続いてゆくのが如来の救いのあり方です。如来の救いはこのような救いのあり方をしているという所ををしっかりと押さえて理解すれば、善導大師の取意の文であっても成就文であってもそこに流れている如来の救いの有様に何の違いはないことが分かります。聞名信心歓喜から念仏行への発動という説明の仕方と念仏を行じることによる必得往生の信の発動という説明の仕方の違いは、前者は御名→聞信→念仏という論理的な順序で如来の救いを説明し、後者は念仏行→願心への信順という論理で説明するものですが、後者は「念仏申すところに回向された御名があり御名の回向に表れている願心に信順する」のですから、前者の「回向された御名を聞いて信心歓喜し念仏申す」を含んでいます。前者の「回向された御名を聞いて信心歓喜し念仏申す」はそのあとに必ず「念仏申せばその念仏を聞いて仏願に信順する」という流れが続きます。前者は後者へと続き、後者は前者を含むものなので、同じことになるです。このうちのどこをとらえるかによってこの救いに対する説明の仕方が違ってくるようにその救いの名づけ方も違ってきます。南無阿弥陀仏を称名する念仏者の上に現れた如来の働きを口称念仏の所でとらえて「念仏往生」といってもよいし、善導大師流に「称念必得往生」といってもよいし、南無阿弥陀仏を聞いた所をとらえて「信心往生」とか「聞名往生」といっても「名号往生」といっても差し支えはありません。いずれも如来の大悲の働きが私の上に具体的に働くことによって往生するということを意味しているからです。このようなことが可能であるのは、如来の救いは「回向された御名を聞いて信心歓喜し念仏申す」「念仏申せばその念仏を聞いて仏願に信順する」「信順すればまた念仏申す」というように円環しつつ上尽一形の念仏となって展開してゆくからです。信は念仏となって念仏とともに相続され、念仏は信を伴って信とともに相続されてゆきます。念仏と信は互いに不離の関係にありますが、念仏に焦点をあてて念仏を先に出して説明するか、信に焦点をあてて信を先に説明するかの違いによって、称念必得往生というか信心往生というかの説明上の違いとなって現れてくるだけのことなのです。いずれの説明であっても他力回向の(聞)信
や信(知)がなければ報土往生は不可ですから「信心が正因」であることに変わりはありません。

 私の心が南無阿弥陀仏の心相となったときに仏願の生起本末を聞くとどのように思えるのか、について他にも言いたいことがありますが、ご質問の意図から外れてゆきますので省略します。また祖師がなぜ③乃至一念の一念を信楽の一念と理解されたかに関しても同様の理由から省略しましたが、これについては本願寺出版部発行の大江淳誠師の「安心論題講述」の三心一心の項を読んで下さい。