3-21.論考 ある白道解釈 プラス 会話編

 以下において論評の対象にする白道解釈は次の引用文である。この引用文はある真宗系を自称している団体のホームページ(平成31年1月10日現在)からそのまま転載したものである。

 阿弥陀仏は、「どんな人も必ず絶対の幸福に助ける」と命を懸けてお約束なされている。ではどうすれば絶対の幸福に救われるのか。阿弥陀仏は「聞く一つで救う」と約束されているとお釈迦さまは明かされている。親鸞聖人も蓮如上人も、善知識方は一貫して 「仏法は聴聞に極まる」と教えられている。だが、どれだけ根拠を挙げられても、「この世で無上の幸せになるのに、本当に聞く一つでいいのだろうか?」と頼りない気がするのが実態ではなかろうか。そんな私たちに少しでも分からせようと、親鸞聖人が仏の化身と仰がれる善導大師は、二河白道の譬えで教示されている。「二河」とは火の河と水の河。その間に「白道」が向こう岸(彼岸)へと延びている。彼岸は極楽浄土、此岸は、私たちの住む娑婆世界である。この世のどんな道も「死ぬまで求道」だから、苦しみに終わりはない。やがて必ず死ぬ時が来る。いつまでも此岸にはいられないのだから、釈迦は「彼岸に向かって白道を行け」と勧められる。「白道を行く」とは、「阿弥陀仏の本願を聞く」ことである。ところが白道(聞法心)の幅は、四五寸と極めて細い。そのうえ、水の河と火の河の波が逆巻いて、常に白道を覆い隠してしまう。水の河とは欲の心である。私たちは欲の塊だから、順境には欲に溺れて仏法が聞けない。欲が邪魔されると腹が立ち、逆境には怒りの炎が、白道を焼き払う。進めば進むほど、水火の波は激しく白道をかき消し、欲や怒りの煩悩が聞法を妨げる。しかも、果たして白道は向こう岸まで届いているのか、どうかも分からないから、「本当に聞く一つでいいのだろうか」と、善知識方の教えであっても頼りない心が出てくる。そんな心に付け込んで現れるのが群賊である。「なぜそんな危ない道を行くのだ。手っ取り早く助かる道を教えてやる。おまえは騙されているのだ。戻れ戻れ」と呼び止める。水火の波が細い白道を覆い隠す不安な時に、群賊が現れるから、なかなか仏法は聞けなくなるのである。その中を、此岸の釈迦は「断固その道を行け」と専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される。その弥陀の呼び声が聞こえた一念に、私たちは絶対の幸福に救われるのである。絶対の幸福に救われれば、水火の二河はそのまま煩悩即菩提と転じて、浄土へ向かう明るい白道となるのだ。この二河白道の譬えからも、善知識方の教えは聴聞の一本道であることは明らかである。頼りない気がするのは、いまだ弥陀の本願を聞信していない証だから、水火の難を突破して、真剣に弥陀の本願の本末を聞きなさいと、善導大師は教導されているのである。

-引用終わり-

 

論評に入る。

 上記の引用文の趣旨を要約すれば次のとおりである。

①.阿弥陀仏は聞く一つで絶対の幸福に救うことを約束しているのだから、釈迦も

善知識方も真剣に聞くことを勧めている。

②.真剣に聞いてゆけば群賊が現れて聞法を邪魔する。

③.それに打ち勝って真剣に聞法してゆけば弥陀の呼び声を聞くことができる。

④.弥陀の呼び声を聞けば絶対の幸福になれる。

 

 これらを柱とする上記の引用文は、同文の最終行に述べられている結論のように「阿弥陀仏の呼び声を聞いて絶対の幸福に救われるためには真剣に本願の本末を聞きなさい。」ということを大テーマとし、この大テーマの下に善導の二河譬を援用してその二河に挟まれた白道を聞法心の事だとか、絶対の幸福に救われればこの二河は煩悩即菩提と転じて浄土に向かう白道になるとしている。しかし、これらのテーマは善導の二河譬のテーマとはまったく異なる。上記引用文は善導の二河譬のテーマとは異なる大テーマの下で論旨が展開されているので全体として二河譬とはまったく異なるストーリー展開に改変されている。それに伴い、白道や群賊の語句に異なった意味を付与している。上記引用文は善導の製作テーマや元祖らの釈とは異質であるから、以下この引用文を「本異釈」と略称する。

 以下において、元祖の釈などと異なる重要な点を簡単に列挙する。最初に善導の二河譬のテーマと本異釈のテーマの違いについて摘示する。その際に善導の二河譬を便宜上、前段と後段の2つに区分する。人が三定死に到り着くまでを「前段」とし、三定死ののち二尊の発遣と招喚を受けて白道を歩み出して浄土に到り着くまでを「後段」とする。以下「譬喩前段」とか「譬喩後段」と略称する。善導の譬喩については浄土真宗聖典第2版分冊七祖編466頁・観経疏上品上生釈回向発願心釈に出ているので、直接、原典で確認する事をお願いしたい。なお、この点に限らず原典が出版され入手が容易なものは必ず原典で確認するという態度が大事である。この態度が嘘や虚言による宗教心理的拘束状態からわが身とわが心や家族を護る盾になるから、必ず、原典で確認する事をお願いしたい。

 

異なる点その1-テーマと白道の語句の意味の違い

 本異釈は「この二河白道の譬えからも、善知識方の教えは聴聞の一本道であることは明らかである。・・・水火の難を突破して、真剣に弥陀の本願の本末を聞きなさいと善導大師は教導されているのである。」と結論を述べている。

 しかし、二河の譬喩は前段も後段も聴聞の一本道を教え勧めたものではない。また、聞法心とか絶対の幸福に救われれば二河がそのまま煩悩即菩提の白道になるということをテーマとしたものでもない。なお本異釈では弥陀の呼び声を聞いた後の白道とは絶対の幸福のことであるのか、二河が煩悩即菩提となってこれが白道になるのか判然としないが、両者のことであると理解しておく。

 さて善導は「マタ一切ノ往生人等ニマウサク、イマサラニ行者ノタメニ一ツノ譬喩ヲ説キテ信心ヲ守護シテモッテ外邪異見ノ難ヲ防ガン。」と述べて譬喩を説き始めている。ここに譬喩を製作した善導の意図が明確に示されている。祖師は愚禿抄下巻に「二河ノナカニツイテ一ツノ譬喩ヲ説キテ信心ヲ守護シテ、モッテ外邪異見ノ難ヲ防ガン」と善導の製作意図をキチンと押さえている。善導の製作意図は二尊が他力信心を群賊から守護する様相を表すことにある。他力信心は願力の白道として浄土に至り着くまで二尊によって守護されており、念仏往生の願生者は外邪異見の難に陥ることがない様相を表す所に善導の製作意図があり、これが善導の設定した二河譬喩のテーマである。善導の製作意図であるテーマと本異釈のテーマは明らかに異なっている。

 この点をもう少しつぶさに検討する。

 まず譬喩前段のテーマは凡夫には諸行往生に必要な至誠心が欠けているので凡夫往生はできないという事、譬喩後段は凡夫にとって弥陀の願意を聞くことが唯一の浄土往生の方法であり、この方法は自力が介在せずまったくの願力によるので聞がそのまま信となる信心が願力によって守護されているという事である。この各テーマに即して譬喩では異なる2つの白道が登場する。1つは諸行往生に必要な至誠心たる願生心を白道とし、2つは弥陀招喚の願意を聞くことによって生じる他力信心を白道とする。前者の白道は至誠心の欠如によって潰えてしまい人は東岸に立ちすくんでしまい三定死に陥る。人はこの白道を進むことができない。これは凡夫の至誠心を用いた諸行往生は不可能であることを教えたものである。これが譬喩前段のテーマである。後者の白道は三定死を覚悟したのち人が二尊の発遣と招喚を受けてはじめて進んでゆける白道であり、この白道が浄土に一直線に繋がっている。善導は合釈において「アルヒハ行クコト一分二分スルニ群賊ラ喚バヒテ回ストイフハスナワチ別解・別行・悪見人等妄リニ見解ヲ説キテタガヒニアイ惑乱シ、オヨビミズカラ罪ヲ造リテ退失スルニ喩フ」と解説し、釈迦や弥陀はこの白道を群賊から守護している様相を述べている。これが譬喩後段のテーマである。この前段と後段の2つのテーマを対比すれば、凡夫の至誠心たる願生心は二尊によって守護されておらず、弥陀招喚の願意を聞くことによって生じる他力信心は二尊によって守護されていることが分かる。

 元祖は前者の白道を「雑行中ノ願往生心ハ白道ナレドモ貪嗔水火ノ難ノ為ニ損セルヲ被ル」とし、譬喩後段の白道を願力の白道と釈している。昭和新修法然上人全集448頁に収録されている「三心料簡事」の白道事において元祖は2つの白道について次のように述べている。①「雑行中ノ願往生心ハ白道ナレドモ貪嗔水火ノ難ノ為ニ損セルヲ被ル。何ヲ以ッテ知ルコトヲ得ル。釈ニ伝ク諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向カウ也云々ト。諸行往生ノ願生心ノ白道ト聞クナリ。」②「次ニ専修正行ノ願生心ヲ願力ノ道ト名ク。何ヲ以ッテ知ルコトヲ得ル。仰ニ釈迦発遣指南スルヲ蒙リ、西方ニ又タ弥陀悲心招喚ヲ籍シ、今二尊ノ意ニ信順ス。水火二河ヲ顧リミズ、念々遣ルルコトナク彼ノ願力ノ道ニ乗ジテ、捨命已後彼ノ國ニ生ズルヲ得ル。正行ノ者、彼ノ願力ノ道ニ乗ズルガ故ニ、全ク貪嗔水火ニ損害サレズ。是以譬ノ中ニ云ク、西岸上ニ人有リテ喚ヒテ言ク、汝一心正念直チニ来レ、我能ク汝ヲ護ラン。衆テ水火ノ難ニ堕スルコトヲ怖レザレ。合譬ノ中ニ伝テ言ク西岸上ニ人有リテ喚バフトハ、即弥陀ノ願意ヲ喩フ也云々。専修正行ノ人、貪嗔煩悩ヲ恐ルベカラズト也。願力ノ白道ニ乗ズレバ、豈ニ火焔水波ニヨリ損セラレルヲ容レンヤ云々。」

 祖師も前段の白道を願力の白道と区別し、「自力小善の路」などと言われている。 教行信証真実信巻には「眞ニ知ンヌ 二河ノ譬喩ノナカニ白道四五寸トイフハ白道ハ、白ノ言ハスナワチコレ選択摂取ノ白業 往相回向ノ浄業ナリ 黒ハスナワチコレ无明煩悩ノ黒業二乗人天ノ雑善ナリ 道ノ言ハ路ニ対セルナリ 道ハスナワチコレ本願一実ノ直道 大般涅槃無上ノ大道ナリ 路ハスワハチ二乗三乗万善諸行ノ少路ナリ 四五寸トイフハ衆生ノ四大五陰ニ喩トフルナリ 能生清浄願心トイフハ金剛ノ真心ヲ獲得スルナリ 本願力回向ノ大信心海ナルガユエニ破スベカラズ コレヲ金剛ノゴトシトイフナリ」(浄土真宗聖典第2版1の244頁三一問答法義釈欲生釈・カタカナ表記に変換)。愚禿抄下巻には「群賊悪獣トハ群賊トハ別解別行異見異執悪見邪心定散自力ノ心ナリ 悪獣トハ六根六識六塵五陰四大ナリ」「白道四五寸トイフハ白道トハ白ノ言ハ黒ニ対ス 道ノ言ハ路ニ対ス 白トハスナワチコレ六度万行定散ナリ コレ自力小善ノ路ナリ 黒トハスナワチコレ六塵四生二十五有十二類生ノ黒悪道ナリ」「能生清浄願心トイフハ無上ノ信心 金剛ノ真心ヲ発起スルナリ コレハ如来回向ノ信楽ナリ」とされている(同536頁・カタカナ表記に変換)。

 元祖のいう「願力の道に乗じる」というのは二尊の意に信順することである。願力の道は他力信のことである。この願力の白道はそのまま祖師に承継され、選択摂取ノ白業・往相回向ノ浄業とか本願一実ノ直道・大般涅槃無上ノ大道とされ、この大道については能生清浄願心トイフハ無上ノ信心・金剛ノ真心・如来回向ノ信楽ナリと表現されている。これに対して、雑行中ノ願往生心という白道については万行諸善の小路とか自力小善の路と名称を改められている。二河譬で行き詰まる白道と二尊によって守護されている白道を善導が対比されていることが、元祖が選択本願念仏集において「余行をもって往生の本願としたまわずただ念仏をもって往生の本願としたまえる」と述べる理由となっているし、祖師が念仏諸善比校対論において有願・無願対とともに護・不護対を挙げる理由ともなっている。諸行は二尊による守護を受けられない非本願・無願・不護の行であり、念仏は二尊の守護を受ける本願・有願・護の行とされているのである。このように元祖や祖師は善導の製作意図を正確に理解され、より明確に表現された。これに対し、本異釈では譬喩前段の白道を「聞法心」に改変し、譬喩後段の白道を絶対の幸福とか、絶対の幸福になれば二河は煩悩即菩提の白道になるなどと改変し、本来の意味を変更してしまっている。善導と元祖らの釈とはまったく異質なものである。譬喩前段の白道は聞法心ではないし、同後段の白道は絶対の幸福などではない。

 元祖が白道と言われているのは上記①の雑行中の願往生心をもって往生する方法と同②の仏の願力をもって往生する方法の2つであるが、白道とは阿弥陀仏誓願に定められている阿弥陀仏の浄土に生まれるための浄土往生の方法、言い換えれば、弥陀の浄土への生因のことである。弥陀の誓願には十九願、二十願、十八願の三願があり、それぞれ特有の生因が規定されている。生因はいずれの願においても行と信から構成されている。上記①の方法は十九願に定められている生因である。二河の譬喩で言えば前段の白道である。凡夫ながらの至誠心をもって諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向カウ事を生因とする。十九願には菩提心を発し諸々の功徳を修して至心に発願して我が国に生ぜんと欲せんとある。元祖はこの白道は貪嗔水火ノ難ノ為ニ損セラレルとする。だから祖師はこの道を万行小善の小路、不護などとされた。上記②の方法は十八願に定められている生因である。二河の譬喩で言えば後段の白道である。その十八願の生因とは十七願にその成就が誓われている南無阿弥陀仏の御名そのものを凡夫の信行とする生因である。この御名が弥陀の悲心招喚である。この招喚を受けて生じたのが他力の信であり、この信が願力の白道である。十八願には至心信楽して我が国に生ぜんと欲して乃至十念せんとある。十七願の南無阿弥陀仏が十八願の信となり行となったことをいう。元祖が火焔水波ニヨリ損セラレルことがないとされる白道とは、この願力による浄土往生の生因のことである。南無阿弥陀仏が信になるとは摂取不捨を表す阿弥陀仏に信順(南無)することであり、南無阿弥陀仏が心の心相になったことを至心・信楽・欲生我国の三信というのである。南無阿弥陀仏が行になるとはその信に伴って念仏申すことである。元祖は専修正行ノ人の願力ノ白道は火焔水波ニヨリ損セラレルことがないとしているが、元祖の言う専修正行ノ人とは弥陀の悲心に信順して念仏を称えている者のことである。十八願の生因がその人に具現している者のことである。この南無阿弥陀仏の信行はいずれも願力たる南無阿弥陀仏によって生じた生因であり、南無阿弥陀仏そのものであるから貪嗔水火ノ難に害されることがない願力の白道とされるのである。だから祖師は真実信巻において、この白道を白ハ選択摂取ノ白業・往相回向ノ浄業、道ハ本願一実ノ直道・大般涅槃無上ノ大道ナリとしつつ、その大道を能生清浄願心トイフハ金剛ノ真心ヲ獲得スルナリ。本願力回向ノ大信心海ナルガユエニ破スベカラズ。コレヲ金剛ノゴトシトイフナリと明示されたのだ。祖師が上記①の方法を小路などと表現を改め、願力の白道と区別されているのは①の方法は仮の方法であるのに対して、②の方法が真実の生因であることを明確にするためである。仮とは正しい浄土の生因ではないことを表している。浄土への生因には真と仮があるので、それに対応した願にも真と仮がある。祖師は十八願を真実の信願、十七願を真実の行願とされているのに対して、十九願を仮の願とされている。それぞれの願にはそれぞれの生因が別々に定められているが、それらの生因はいずれの願においても行と信から構成されるものである。元祖が本願・非本願、祖師が有願・無願対とともに護不護対を挙げるのは、十九願の仮の生因と十八願の真実の生因を対比されて言われたことである。ところが本異釈でいう聞法心とか絶対の幸福などという代物は十九願にも十八願にもない異物である。いずれも十九願や十八願の生因の信行ではない。聞法については二十願に「我が名字を聞きて」とあるが、それは念仏を行じる基底となるものであり、二十願の願意を広説した阿弥陀経には執持名号一心不乱若一日乃至若七日とあるので、二十願の生因は執持名号一心不乱の不断念仏行である。絶対の幸福というものは行でも信でもない。得体の知れない意味不明の抽象概念に過ぎない。また、煩悩即菩提も真実の信行とはされていない。

 重ねて強調しておくが、元祖は譬喩後段の白道を願力の白道と言われているが、これは十八願の至心・信楽・欲生我国の信をもって乃至十念の念仏を行じる信と行を生因とするものである。この真実の信行を絶対の幸福とか煩悩即菩提に置き換える事には賛同しかねる。絶対の幸福などでは往生の生因が何であるのかまったく分からなくなってしまうからである。そもそも阿弥陀仏の十八願は絶対の幸福に救うとか煩悩即菩提にさせるという誓願ではない。至心・信楽・欲生我国の信をもって乃至十念の念仏を行じる者を浄土に生まれさせるという誓願である。その生因たる信行はともに十七願にその成就を誓われた南無阿弥陀仏がそのまま凡夫の信行になったものである。念仏を行じる者の自力は一切介在しない。この願力たる生因は南無阿弥陀仏そのものであると明示するところに真宗の至極があるのに、その生因を絶対の幸福などと言い換えることはその至極を失わせるばかりか、信の味わいにも合致していない。

 

異なる点その2-群賊の意味やストーリーの展開の違いなど

 次に、本異釈では自力の聞法心を励ますために次のように説く。「私たちは欲の塊だから順境には欲に溺れて仏法が聞けない。・・逆境には怒りの炎が白道を焼き払う。進めば進むほど水火の波は激しく白道をかき消し、欲や怒りの煩悩が聞法を妨げる。しかも・・本当に聞く一つでいいのだろうかと善知識方の教えであっても頼りない心が出てくる。そんな心に付け込んで現れるのが群賊である。「なぜそんな危ない道を行くのだ。手っ取り早く助かる道を教えてやる。おまえは騙されているのだ。戻れ戻れ」と呼び止める。・・その中を此岸の釈迦は「断固その道を行け」と専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される。」としている。断固その道を行けとしている道とは聞法心のことである。

 この本異釈は善導の譬喩における群賊に聞法心を妨害する者との意味を与えているが、譬喩前段や同後段の群賊の意味とは異なっている。しかも群賊の登場と聞信との順番を前後逆にしている。さらに本異釈は白道を進んでいる途中の者に「弥陀の呼び声が聞こえる」というストーリーを登場させているが、二河の譬喩にはそのような出来事は登場しない。

 まず、群賊の意味に違いがある。

 二河の譬喩では群賊は二回登場するが、いずれにも聞法心を妨害するという意味はない。そもそも譬喩前段の白道は至誠心のことであり、同後段の白道は十八願における生因たる真実の信行のことである。いずれも聞法心ではないからそこに登場する群賊に聞法心を妨害する者という意味は出てこない。最初の群賊は譬喩前段に登場するが、譬喩前段では群賊悪獣によって身を滅ぼされてしまうことを怖れた人が浄土往生を目指し、浄土に諸行を回向して西方に向かおうとするのであるが、煩悩のために往生に必要な至誠心が損なわれて、この人は三定死の状態に陥る。善導の合釈では「群賊悪獣詐り親しむ」とは衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩えるとされている。聞法心を邪魔する者という意味はない。次に出てくる譬喩の群賊とは譬喩後段の二尊の発遣と招喚を受けたのちに登場する群賊である。弥陀の悲心招喚に信順し諸行を廃し念仏行者として願力の白道を歩み始めたのちの異見・異解の者からの呼び戻しを群賊としている。この群賊とは念仏往生とは異なる異見・異解の者達のことである。譬喩後段のテーマは、既に願力の白道を進んでいる者の他力信は二尊によって群賊から守護されているので、その信を損なわせるものは何一つとしてないことを表すことにある。譬喩後段の群賊を具体的に想定すると、聖道門を離れて浄土往生を目指す人には聖道の者からの呼び戻しがあり、浄土門に入り念仏往生を目指すと聖道の者や諸行往生の者からの呼び戻しがあり、真実信心による念仏往生の者には聖道の者や諸行往生の者や自力念仏の者からの論難がある。善導はそれらの者から論難を受けても二尊による守護を受けているので真実信心は破壊されないということを譬喩後段のテーマとしているのである。善導はすでに観経疏上品上生釈深信釈において「解行不同の人」「地前の菩薩ら」「初地以上の十地以来」「化仏・報仏」の四重の破人が真実信心の念仏行者を論難して真実信心を破壊しようとしても破壊されないことを述べていた。そのため祖師は、譬喩後段の白道を願力回向ノ大信心海ナルガユエニ破スベカラズ。コレヲ金剛ノゴトシトイフナリと押さえている。これは祖師が二河に挟まれた白道を人が歩んでいることを解釈するあたり上記の善導の深信釈にある四重の破人を意識したものであり、その破人によっても願力の白道たる他力信は破壊されず金剛の真信であると指南されたのである。しかし、本異釈では自力の聞法をする者に対して聞法を妨害する者として群賊を登場させて改変している。また次に見るように本異釈は、譬喩後段に登場する弥陀招喚を聞いて歩み出した信心の行者に対して呼び戻す群賊を登場させていないのである。

 次に、前後逆の違い。

 善導の譬喩には三定死の状態に陥った人が「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」という思いになった直後に弥陀の悲心招喚を聞いて白道を歩み始め、そののちに東岸の群賊が呼び戻したとある。群賊の登場は弥陀の悲心招喚を聞いたあとのことである。これに対し、本異釈では釈迦の発遣と弥陀の悲心招喚を聞く前に群賊を登場させ、それを聞いたのちには群賊を登場させていない。群賊の登場と弥陀の招喚を聞く出来事が前後逆になっている。このように群賊の登場を逆にしたことには2つの問題がある。1つは上述したように、譬喩後段の最も重要なテーマを完全に消去した点である。善導の二河譬のテーマは、二尊が群賊からの論難から他力信心を守護しているので他力信心は四重の破人によっても破壊されず浄土にまっすぐに向かっているということにあった。祖師が譬喩後段の白道を願力回向ノ大信心海ナルガユエニ破スベカラズ。コレヲ金剛ノゴトシトイフナリと押さえられているこの譬喩のテーマを意図的に消し去ったのである。2つめの問題は、弥陀の悲心招喚の前に群賊を登場させ、その群賊の呼びかけに対抗して「此岸の釈迦は「断固その道を行け」と専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される。」としている点である。これにより聞法心という自力の白道を行けと二尊が勧めているという意味に変えてしまった。しかし、二尊の発遣と招喚は自力聞法を勧めるものではないし、群賊の呼び返しに対抗するためのものではない。本異釈は、群賊によって白道たる聞法心を妨害されてはならないと戒める目的に合わせて出来事の順序を変え、かつ、二尊の発遣と招喚は自力聞法を勧める趣旨へと改変してしまっているのである。しかも本異釈では群賊は「手っ取り早く助かる道を教えてやる。おまえは騙されているのだ。戻れ戻れ」と呼び止める。」としている。ここから、本異釈では、群賊に自分の団体で聞法することを妨げる外部の者に異安心者との意味を与えて本来の意味を変えてしまっているように推察される。先に述べたとおり、譬喩後段の群賊とは他力信心を破壊しようとする四重の破人のことであり、聞法を妨げる者という意味はもともとない。

 次に、三定死を登場させない違いがある。

 譬喩には三定死の状態に陥った人が「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」という思いになった直後に弥陀の悲心招喚を聞いて二河に挟まれた白道を歩み始めたとある。白道を歩み始めたのは三定死ののち弥陀の悲心招喚を聞いたあとのことである。これに対し、本異釈では釈迦の発遣と弥陀の悲心招喚を聞く前から聞法という白道を歩み始めたことになっており、三定死を登場させていない。聞法心という白道が途切れるのではなく、そのまま続いていることになっている。群賊が「戻れ戻れ」と呼び止める。」と記述している事からもそれが分かる。しかし、自力の思いが完全に行き詰まるという意味での三定死がある。それは、自力と願力の白道が完全に断絶していることから生じる苦悩である。私の浄土往生の生因は南無阿弥陀仏として成就されている仏の一方的な慈悲を私達が聞き入れるしかない。これ以外に私に残されている浄土往生の方法はない。聞法心という自力を励ますことと仏からの一方的な慈悲とは相容れない。十七・十八願力は私の自力の思いを受け入れることはないからである。そのため両者は完全に断絶しているのである。聞法心をいくら励まして真剣に聞いても、その真剣さのゆえに願意を聞き入れることには繋がらない理由がここにある。自力は捨て物であると言われるゆえんである。本異釈はこれに反して聞法心という自力を励ますことを勧め、自力の思いに三定死があるという点を完全に無視している。自力の思いの故に行き詰まるということを教え、その自力の思いとはどういうもので何が問題であるのかを分かるように説明しなければ自力と他力の分斉を説いたことにはならない。本異釈の重大な問題点はこの点にもある。

 

 以上、本異釈は、善導の製作意図とは異なる意図の下に、譬喩前段にある至誠心たる願生心という諸行往生の生因たる白道とはまったく異なる聞法心を至誠心になし替え、譬喩後段にある十八願の生因を願力の白道とはまったく異なる絶対の幸福などという異物に置換したことで元祖や祖師の釈とは異なる解釈や意味を二河譬に与え、全体として二河譬とは全く異なった別の造り話を創作したものといえる。テーマの設定からストーリー展開や語句の意味に至るまで、ことごとく異なるものに改変しているので、もはや二河譬とは言えない異物になっている。

 

会話編

A君 上記について少し議論しようか。

B君 二河の譬喩を造り替えることはそもそも許されるのだろうか?

A君 造り替えることが絶対に許されないとする理由はない。それが許されるかどうかは真宗教義に合致しているかどうかで判断すべきだと思う。合致しなければその造り替えには何の価値もないし、かえって有害である。

 

B君 本異釈の問題点はどこにあるのか?

A君 まず形式的なことを指摘すれば、善導の製作した二河譬とは異なっていることを明示しつつ、その改変が真宗教義に合致していることを示した上で団体会員にその改変理由を説明すべきだ。だがそのような手続きを踏んで説明している箇所は見られない。

B君 ストーリーを改変したことを明示しないまま団体会員を教導すると、会員は教導されたストーリーが善導が製作した二河譬そのものであると誤信してしまう。団体内部だけに留まるならば誤ったストーリーでもいいのかもしれないが、会員がそれを善導の二河譬であると外部の知識人に話をしたときその会員は思わぬ大恥をかくハメになってしまう。

A君 そうだね。大恥をかかせないために改変した点と改変理由を明らかにしておかなければならないだろうし、それを説明しないのは宗教者として誠実な態度であるとは言えない。それにもまして最大の問題は会員の獲信を妨げるものに改変してしまっていることにある。

B君 真宗教義と合致しているのかという実質的な観点からも認められないというんだね。

A君 そこに入る前にもう少し説明を続けるよ。善導の二河譬は、諸行往生を目指した人が自身の至誠心の欠如に直面して頓挫してしまったのちに願意を聞いて浄土往生を果たすというストーリーだ。真宗内には諸行往生を目指す人はいないはず。念仏往生を求めている人しかいないはず。だから、念仏往生を目指している自力の念仏の行人が善導のいう譬喩前段の三定死、つまり至誠心の行き詰まりに直面することは考えられない。この点が二河譬をそのまま当てはめることができない理由となる。また、念仏往生を求める自力の行人に合った二河譬に改変することが必要となる理由にもなってくる。この意味での改変は許されると思う。

 

B君 改変するとすれば、君ならどのように改変するのか?

A君 善導の譬喩を改変する気にはならない。善導の譬喩は譬喩としていただき、善導の製作意図を正しく理解していれば良いことだからね。ただ自力念仏往生を願う人には、教行信証化身土巻において祖師がどのような思いが自力の思いになると言われているのかを正しく理解し、その自力の思いが自分の心の中にあることを内省して明確に自覚することが求道(ぐどう)における重要な転換点になるということを知っておいて貰いたい。祖師は「本願ノ嘉号ヲモッテオノレガ善根トスルガ故ニ信ヲ生ズルコト能ハズ」と言われている。念仏を仏が回向した仏の真実の行であると正しく理解せず、念仏を自らの往生の資助たる善根にする思いを述べたものだ。もっとひろく言えば、弥陀の十七願・十八願の願意を聞きながら自分の思いや努力、真剣さなどおおよそ自分の側に属するものを自分の往生の資助にしようとする思いのことを自力の計らいとする。仏が一方的に救済するものだと受けとめれば信が生じるのに、この思いがあるが故に信が生じないのだ。いくら真剣に聞法しようと、真剣になろうとする心そのものが自力である以上、信が生じることはない。このため自力念仏往生を願う者は自力の思いから抜け出る事ができないという意味での三定死に直面することになるのだよ。

B君 じゃ本異釈は自力念仏往生を求める人に合ったストーリーになっていないというのか?

A君 まったくなっていない。

B君 どんな点が?

A君 譬喩前段の十九願の生因たる至誠心を他のものに替えるならば、二十願の願意を広説した阿弥陀経の執持名号一心不乱の念仏に置き換えるのが適当であると思うのだが、聞法心に置き換えるのもいいだろう。しかし、聞法心を励ますというのは自力の計らいであり、この計らいは捨て物であり、聞法心は自力の故に三定死に行き着くという点を明示しなければ真宗教義に合致したものにはならない。

B君 その自力というのが、弥陀の十七・十八願の願意においては本願疑惑心になってくるのだね。

A君 弥陀の十八願の願意は十七願に成就を誓った南無阿弥陀仏をもって救うということにある。本願疑惑心とは、そのように聞いて南無阿弥陀仏で救われたいと願って念仏を称えつつ聞き求めている人にだけ生じる思いだ。十九願や二十願のように自力の思いや行をもって生因とする救済の原理とはまったく異なっているんだ。この救済の有り方を聞いた人は十八願の生因のとおりの身になろうとするので行因としての念仏行を行うようになるが、心因としての信心が欠如している。だから信を求め、そのために聞き求めて信を得ようとするのだが、その思いは本質的に自分の思いを資助にして助かりたいということだ。そのため、その自己の思いに囚われることになり、願意を無視してしまうことになる。聞き求めるという自分の思いがまったく不要なように阿弥陀仏南無阿弥陀仏を成就されたのだが、その願意を正しく理解せず、大きな思い違いをしている思いが聞いて助かろうという思いなのだ。聞き求めることで弥陀の願意を聞けるという思いこそが願意に背く大きな誤解であり、本願疑惑心なのだ。

B君 だから、そのような思いは思いとしていったん横に置いておいて、十七・十八願の願意を説く説教師の声が聞こえるままに願意を聞くということが大事になってくるのだよね。

A君 そうだね。聞法心を励まして聞くというのは一見すると良いことのように思えるのだが、その実は弥陀の願意を願意として聞くことを妨げてしまうクセ物なんだ。このことに気づかないといけない。聞法心を励ますことがどうしてクセ物になるか、C子さん、C子さんなりの説明を聞かせてくれないか?

C子さん 南無阿弥陀仏という御名が完成したということは私が浄土往生できる浄土の完成と私が浄土往生できることを意味しており、弥陀の願意はそのことを知らせて信じさせて救うことにあるのよね。凡夫の力を借りずに浄土往生できることを知らせるメッセージだと言っていいわ。そのメッセージを聞いて心に受けとめて受け入れるだけで自分の往生は決定することになっているのね。それなのに自分の聞法心を励ましたり、微弱な聞法心を強くしなければ願意を聞けないと思ってしまうとすれば、それは図らずも弥陀の願意に反することになってしまうの。だからその自力の思いを本願を疑惑している本願疑惑心とか疑情と名づけているのよ。

A君 そうだね。だから聞法心を励まして聞くことを奨励するのは、弥陀の十七願・十八願の願意とは逆のことを奨励する結果になってしまうんだ。そうではなく、聞法心とか真剣に聞くとかいう思いは自力の思いであり、その思いのためにいつまでも疑情が廃ることはないとまず気づいてもらう事、次に自力の思いすらも必要としないように弥陀の救いは円満に出来上がっていると聞いて気づいてもらう事が大事になってくるんだ。真宗において説くべきことはその一点だけなんだよ。聞法心を励む事を推奨することではない。ところが、本異釈では、「此岸の釈迦は断固その道を行けと専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される」と改竄しており、自力の聞法を勧める内容にしてしまっているんだ。とんでもない改変だ。

B君 自力の聞法は行き詰まることに気づいてもらうには、譬喩前段にある至誠心の行き詰まりを表している三定死に代えて、自力の思いから逃れられずに苦悩し行き詰まってしまうという三定死を登場させるストーリーが必要になってくるんだね。

A君 そういうことになると思うよ。

B君 真剣に聞くのは自力だというと、じゃ何もしないでいいのか、という反論が予想されるが、それに対してどう答えるのかな?

A君 そういう反論をする人は、これまで述べた事がまったく耳に入っていない人だ。十七・十八願の願意を願意のままに聞くことを勧めているのであって、何もしないでいいと言っているのではない。その違いが区別できないというのでは、とてもとてもおぼつかないよ。

 

B君 じゃ、大経に「たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも必ずまさにこれを過ぎて、この経法を聞いて歓喜信楽し受持読誦して説の如く修行すべし」とあるのをどう解釈すればいいのか問題になるよね。これは釈迦が聞法心を励ましているのではないのかな?

A君 「経法を聞いて歓喜信楽し」とあるのは、この経法とは仏の御名の南無阿弥陀仏の法を広説した大経のことだ。この聞くについては祖師が「経に聞というは仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり」と教えられている。聞くとは聞がそのまま信となるように聞き方をいうのだ。聞即信という聞き方だ。この聞を如実の聞ともいう。「聞いて歓喜信楽し」とはその聞即信のことだ。「三千大千世界に充満すとも必ずまさにこれを過ぎる」というのは自力の思いが廃り、他力の信が生じるのはそれほどに難しいものであることを教えたものだ。他力信は極難信であることを表している。自力の思いでは他力の信の世界には入れないことを教えたものだ。火宅無常の自力に囚われた世界を離れて仏の御名を如実に聞くことを教え勧めたものだよ。自力の聞法を真剣に励むことを教えたものではない。

 

B君 他に問題点は?

A君 絶対の幸福が白道だとか、弥陀に救われたら煩悩即菩提となり二河が白道になるいうのはまったく頂けない。これでは往生の生因が何であるのかまったく皆目分からないものになってしまう。せっかく元祖や祖師が十八願の往生の生因は他力信心に伴う念仏行であると懇切丁寧に教えてくれているのに、その甲斐をまったく無にしてしまう大改悪になってしまう。改悪という言葉では言い尽くせないほど悪質だ。弥陀の願意がまったく分からないものになしかえてしまい、浄土往生の生因を隠蔽してしまうからだ。この生因を隠蔽するということは獲信を妨げるということだ。このような言い換えは真宗人として誠実な態度であるとは言えないばかりか、あるまじき態度だ。十八願の願文を絶対の幸福に救うと言い代えるのも、往生の真実の生因を隠蔽してしまうので許されない。善導が本願取意の文として「十方ノ衆生、我ガ国ニ生ゼント願ジテ我ガ名字ヲ称スルコト下十声に至ルマデ我ガ願力ニ乗ジテ、モシ生マレズハ正覚ヲトラジ」と言い換えたのとは訳が違う。善導の取意の文には往生の生因が「我ガ国ニ生ゼント願ジテ我ガ名字ヲ称スルコト下十声に至ルマデ、我ガ願力ニ乗ジテ」と明示されている。我ガ名字ヲ称スルとは念仏の行、願力に乗じるとは聞がそのまま信となったことで行信が明記されている。しかし、十八願の願文を絶対の幸福に救うと言い代えると何が生因であるのは皆目分からなくなってしまう。これが最大の問題点だ。先にも述べたが白道とは浄土往生の生因ことだ。その生因は行と信から構成されている。十八願、十九願、二十願の生因は真と仮があるもののいずれも行と信として願文や三経に記載されたり開示されている。十八願の信行としての他力信と念仏行を生因として定めている願意を絶対の幸福とか煩悩即菩提に置換してしまうのは浄土往生の行信を隠蔽してしまうことになる。

B君 本人は分かり易く言い換えたつもりになっているのだろうが、トンでもなく思い上がっているとしか言いようがないということか。

A君 いや、そうではない。巧妙に隠された意図や本心がある。会員を自己の主宰する団体に勧誘したり団体会員として求める気持ちになって貰うためには、いくつかの条件が不可欠だ。求める希望や求める目的を会員に与える事、求めなければ大きな弊害が待ち受けている事の2つを心に強く印象づける人的操作が不可欠になる。この団体の長の場合、生きて絶対の幸福になるという希望や人生の目的を与えること、死んで地獄に堕ちるという将来の行き先を会員に対比しつつ呈示し、心にその印象を植え付けて求めさせる操作をしているのだ。強烈なコントラストをつけてね。堕獄という畏怖と人生の目的の付与によって人の心を印象操作しようとしているのだ。絶対の幸福という訳の分からぬ代物であるが変わらぬ幸せという響きをもった幸福になることが人生の目的であるとして誘引し、求道を動機付け、それを正当化するための手法が実に十八願の願文を絶対の幸福に救うと改変することであったり、十七願・十八願の生因を隠蔽して善導は二河譬で聞法を励ましていると改変することなのだよ。あるいは信一念の体験を、地獄に堕ちて地獄の釜の底をぶち破った一念にそのままという弥陀の呼び声を聞いて絶対の幸福に助かるという黒白・明暗ハッキリとしたコントラストをもったストーリーに造り替えることなのだ。さらにそれが間違いだと指摘する者からの話を聞かせないためにこの団体の長は自らを蓮如上人以来の大善知識、絶対無二の善知識などと会員に崇めさせり、外部には正しい願意を教える者はいないと印象づけて会員が他団体で聴聞する気持ちにならないようするために二河譬を改変し会員を操作してきたのだ。「此岸の釈迦は断固その道を行けと専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される」と改変し、釈迦・弥陀も自力の聞法を勧める内容に改竄してしまったんだ。二河の譬喩は聞法の一本道を教導していると虚偽のストーリーに造り替えて利用することも厭わない人物なのだ。もっと言えば、団体会員に対し、真剣な聴聞をしてゆくと群賊が現れることを予め刷り込んでおき、それらの者との会話を拒絶するよう巧妙に誘導する意図の下に本異釈を創作し、会員を囲い込む目的で改変を施したのだ。その結果として、退会する者に対しては人生の目的を放棄した人生の落伍者であるとの烙印を押し、押される方はそれが心の深いトラウマとなり、十年、数十年と心の傷を抱えて生きてゆくことになる。実際には退会しても何の不都合はなく、どこに行っても聴聞できる自由を得たのだと思えば良いことなのにね。本異釈はそのようなトラウマを抱えさせてしまうように二河譬喩のテーマからストーリー展開から語句の意味まで改竄してしまっているのだ。

 弥陀の願意を説く者が真宗教義に忠実である限り、私達には誰からでも弥陀の願意を聴聞する自由がある。弥陀の願意が説かれていなければそこを離れる自由もある。元祖や祖師らの著作から願意を頂く事もできる。私達にはそうした取捨選択の自由が保障されているのである。正当な真宗団体であるならば、弥陀の願意について真仮の分斉が正しく説かれている限り、どこに行って聞かれてもよいと押し出してくれる。自分の所でしか真仮の分斉を聞くことはできないと教導するのは正当な真宗の団体が行うことではない。まして、蓮如上人以来の大善知識、絶対無二の善知識などと会員に崇めさせるように教導していたのはありえないことである。この人物は以上に述べた改変や手法を巧みに組み合わせて会員を心理的に拘束してきたのであり、この改変と手法が会員を団体につなぎ止める力の源泉になっているのだ。だから、原典で確認する作業を地道に行い、自分で真宗教義を確認して理解してゆく事がこの力に対抗できる唯一の策となるのだ。

B君 南無阿弥陀仏が真実の信行として往生の生因になるということを正しく理解している人であるならば、このような改変は絶対にしないよね。

A君 この本異釈は団体の抱える問題点のほとんどが網羅されていると言っても良い見本だ。

 

B君 他に問題はあるかな?

A君 本異釈では絶対の幸福になったら煩悩即菩提になるとされているが、元祖や祖師が教えている他力信心においては念仏の行者が現生で煩悩即菩提になるとはされていない。この点も大きな異なりだ。煩悩即菩提とは聖道の証果つまり仏の証果として仏の智慧の世界から煩悩を眺められて言われたことだ。凡夫の身にあっては煩悩は煩悩のまま、煩悩が菩提になることはない。これも絶対の幸福があるという心象操作のための重要な手段となっている。苦悩は苦悩のまま味わいつつも、つねに大悲を頂き感受して生きてゆくのが念仏者の生き方なんだ。それを祖師は念仏者は無碍の一道なりと言われている。この無碍の一道とは、他力の生因たる信が誰にも破壊されず浄土への一本道となっていることを表しているんだ。

 

B君 他に問題はあるかな?

A君 阿弥陀仏の呼び声を聞くというのも頂けない。現に阿弥陀仏の呼び声が聴覚に聞こえてくるというものではないし、心の声として聞こえてくるというものでもない。善導が「西の岸の上に人ありて喚ばふといふは、すなわち弥陀の願意に喩ふ」「弥陀悲心をもって招喚したまふによりて、いま二尊の意(御心)に信順して」と言われているように呼び声を聞くのではなく願意を心で受けとめて信順することしかない。この他に信の体験はない。この事が分かっている人に対して弥陀の呼び声を聞くというのはいいかもしれないが、何も知らない人が聞いたら本当に弥陀の呼び声を直接聞く体験があると大きな誤解をする事になってしまう。或いは、意図的にそのように誤解することを誘発するのを狙っているのかも知れない。絶対の幸福にはそうした不可思議な超自然的な出来事であるかのように思わせて、その体験をした者としての自らの権威を最大限にまで高める目的のためにね。

 

B君 他に問題はあるかな?

A君 重要な問題点はあらかた言い尽くしたと思うが、仏法は聴聞に極まるとか聞く一つという意味について触れておきたい。極まるとは聞法の真剣さが火中を突破するような命がけの心境に達したことをいうのではない。真剣に聞くというのは聞く心構えや態度のことであるが、これは自力で聞くという行のあり方を指している。前にも述べたが、自分の側に属している心の属性の一つだ。他力の願力を聞くとはその自力を廃して聞くことを意味している。極まるとは、自力の思いが廃されて願意を願意のまま受けとめて聞いている聞信のことだ。聞く一つという意味も、聞がそのまま信となるような如実の聞のことだ。この聞信以外の聞き方をしていても決して浄土往生の真因にはならない。真因になるのは聞がそのまま信であるような聞のことだ。この聞が極まった聞であり、聞く一つと言われるところの聞だ。仏法は聴聞に極まるという本来の意味の聞だ。火中を突破するような命がけの心境に達したとしても自力を離れることはできない。自力では極まった聞になることはない。だから極まるとは聞法の真剣さのことではない。また真宗では「真仮の分斉を説くとか聞く」と言われるが、その意味は、信に時剋の一念があって地獄の釜の底に堕ちた瞬間に弥陀仏の呼び声を聞いた一念に絶対の幸福に救われるという意味ではない。正しい意味は、聞法心や念仏行をもって弥陀仏に助けられたいなどの思いに代表される自力の思いの正体は実には十八願に対する本願疑惑心である事、この本願疑惑心が弥陀の願意を受け入れることを妨げるものであるからその思いに囚われず、既に私の往生は決定しているという弥陀招喚の悲心を聞く事、聞いて受け入れる事、これによって本願疑惑心は一念にすべて消滅してしまうという事を説くことであったり、そのように聞くことを意味している。真宗が他の宗教と区別される点があるとすれば、この点だけだ。自力が廃って他力へと転換する、他力への転換により自力が廃る、というのが真宗の至極だ。白道を聞法心だとか真剣な命がけの聴聞によって弥陀の呼び声を聞いて絶対の幸福になるなどというのは、その真宗の至極を明らかにするのではなく、真宗の至極を完全に隠蔽してしまうものなのだ。この団体の長も自力が廃り他力に帰するというが、それは言葉だけでその内実が伴っていないのだ。

 

B君 そうすると本異釈には最初から最後まで真宗らしいところは一つも無しということか?

A君 そう、一つもない。かけらもない。

B君 真宗を標榜しているのだから、どこかいい所は1つ位はあるんじゃないか?

A君 皆無だ。真宗を標榜しているものの中身は似て非なるものだ。いや似ても似つかない偽物だ。悪臭ふんぷんとし、とても清浄な信から等流してきた釈ではない。心が汚染された人物による汚染された釈だ。

C子さん ほんとうよ。真宗の教義に暗く、無知すぎるほどのクソミソ知識よね。

B君 また言うかな。美人らしく、もっと上品に振る舞えよ。

C子さん 無理。まだまだ言い続けるつもりよ。

A君 願力の他力信は汚染を嫌うんだよ。自力の計らいを嫌うようにね。

 

3-20.論考 元祖の白道解釈 プラス 会話編

昭和新修法然上人全集448頁に収録されている「一.三心料簡事」の出だしから中頃にかけて、息慮凝心の定善と廃悪修善の散善は貪嗔邪偽等の血毒が交わるが故に雑毒の善、雑毒の行と名付ける。虚仮の行とは至誠心において嫌われる余善諸行である。この虚仮雑毒の善では往生は不可であると言われている。これに対し、選取された真実とは本願功徳即ち正行念仏であり、その根拠として一切善悪の凡夫生まれ得るは皆阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるなしという玄義分の文や凡夫に施す真実について彼の阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じるとき一念一刹那も真実ならざることが無った旨の文を引用するとともに、その真実を施す相手先は機の深信の文に出てくる悪人である。造悪の凡夫はこの仏の施す真実に由るべきであると断じている。諸行を用いた凡夫の至誠心は真実ではないため往生は不可能であり、阿弥陀仏の真実の至誠心による大願業力に乗じる以外に凡夫往生はあり得ないという元祖の立場を表明したものである。これに白道事という以下の文が続き、そのあとに「二.定善中自余衆行雖名是善、若比念仏者全非比校也伝事」という文が出され、念仏は本願の行であるのに対して諸善は本願の行に非ずと言われる。諸善は凡夫の雑毒の善、虚仮の行であるのに対して念仏は仏の真実心だから比べものにならないとの意である。この両者の間に挟まれる形で白道事が述べられているのだが、上記の対比を念頭に置いて元祖の白道の解釈を簡単に眺めてみよう。

 

白道

 

雑行中ノ願往生心ハ白道ナレドモ貪嗔水火ノ難ノ為ニ損セルヲ被ル。何ヲ以ッテ知ルコトヲ得ル。釈ニ伝ク諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向カウ也云々ト。諸行往生ノ願生心ノ白道ト聞クナリ。以上、A部分。

 

次ニ専修正行ノ願生心ヲ願力ノ道ト名ク。何ヲ以ッテ知ルコトヲ得ル。仰ニ釈迦発遣指南スルヲ蒙リ、西方ニ又タ弥陀悲心招喚ヲ籍シ、今二尊ノ意ニ信順ス。水火二河ヲ顧リミズ、念々遣ルルコトナク彼ノ願力ノ道ニ乗ジテ、捨命已後彼ノ國ニ生ズルヲ得ル。正行ノ者、彼ノ願力ノ道ニ乗ズルガ故ニ、全ク貪嗔水火ニ損害サレズ。是以譬ノ中ニ云ク、西岸上ニ人有リテ喚ヒテ言ク、汝一心正念直チニ来レ、我能ク汝ヲ護ラン。衆テ水火ノ難ニ堕スルコトヲ怖レザレ。合譬ノ中ニ伝テ言ク西岸上ニ人有リテ喚バフトハ、即弥陀ノ願意ヲ喩フ也云々。専修正行ノ人、貪嗔煩悩ヲ恐ルベカラズト也。願力ノ白道ニ乗ズレバ、豈ニ火焔水波ニヨリ損セラレルヲ容レンヤ云々。以上、B部分。

 

 三心料簡事は、A部分とB部分において述べているそれぞれの浄土往生の方法を対比する構成となっている。この構成の仕方から、作成目的は両者を対比することにあると言える。A部分の浄土往生の方法は凡夫の雑行中の願往生心をもって往生する方法であり、B部分の浄土往生の方法は仏の願力をもって往生する方法である。前者の凡夫の雑行中の願往生心は白道なれども貪嗔水火の為に損われており、仏の願力の白道は全く貪嗔水火に損われないと述べる。前者は凡夫の至誠心は貪嗔邪偽等の血毒が交わるが故に損われ、後者は仏の至誠心だから悪が混じわらないので損われることがないというのである。このように雑行中の願往生心と専修正行の願生心の両者を対比されてその違いを明確にしている。この違いが全非比校の文の理由にもなっていると考えられる。

 雑行中の願往生心は白道なれども貪嗔水火の為に損われることを何を以て知るかというと、元祖は善導の合釈の文に「諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向フ云々」とある事からそれを知る事が出来るとされ、「諸行往生ノ願生心ノ白道ト聞クナリ。」と言われている。元祖が諸行往生の願生心も自力ながらも一応は浄土に向かう道だから白道であると理解されていたことが判る。

 元祖が述べる「諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向フ云々」とは善導の文の合釈中の「人道ノ上ヲユキテ西ニ向フヲ行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向フニ喩エル」とある文の事である。「云々」と言われているのはそれと直接関連している三定死に到り着くまでの比喩の文とそれに対応した合釈の文のことである。「人道ノ上ヲユキテ西ニ向フ」という文を比喩の文中に求めると、その文そのものは無いのであるが、「コノ人死ヲ怖レテタダチニ走リテ西ニ向フニ忽然トシテコノ大河ヲ見(る)」とある。ここから合釈の「人道上ヲユキテ西ニ向」った道とは比喩の「タダチニ走リテ西ニ向」った道を指しての事であると解釈できる。これによれば「西ニ向カ」った道というのは二河の中間にある白道ではなく、そこに辿り着くまでの道のことになるが、なぜ元祖がその道を白道と言われているのかというと、その答えは善導の譬えの中にある。比喩には東岸に立って見た二河の中間にある白道につき「ソノ水ノ波浪交ワリテ過ギテ道ヲ湿シ、ソノ火炎マタ来タリテ道ヲ焼ク。水火アイ交ワリテツネニ休息スル事無シ」と言われている。善導は釈迦の発遣と弥陀の招喚を出す前に「西ニ向」った道の先に続いている白道の様相をそのように喩え、浄土へと続いていたはずの道、つまり雑行中の願往生心が完全に行きづまってしまったことを三定死と表現している。「西ニ向」った道は自らの貪嗔邪偽のために断絶している白道と同じ道なのである。至誠心をもって諸善に励むとやがて心の中の貪嗔邪偽が問題となり、そのためついには浄土往生に相応しい至誠心が無い事に気づき、西方浄土往生の道としては完全に断たれていることに苦しむのである。元祖も自ら経験したことである。譬えの中の「コノ人死ヲ怖レテタダチニ走リテ西ニ向フ」の「タダチニ走リテ」というのは頭燃を払うが如く必死に諸善を行って浄土を願求する心の姿勢を言われたのである。そのような思いで諸善を行じるとき貪嗔邪偽の二河が立ち塞ぐのである。

 以上、元祖は「雑行中ノ願往生心」すなわち凡夫の至誠心も一応は浄土への白道ではあるが貪嗔邪偽のために浄土から断絶されている白道であると理解され、また何を以ってそれを知ることができると言えば、釈ニ伝ク諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向カウ也云々トと言われた。これは、諸行業を廻らして直ちに西方に向かう諸行往生の至誠心は貪嗔邪偽の水火のために断絶されている譬えとその合釈から言われた事であると窺える。

 これに対し、三定死の思いになったのちに釈迦の発遣と弥陀の招喚を受けて人が水火を顧みず白道に踏み出して西岸に到り着いたことを願力の白道に乗じて彼の國に生じることを得て仏と相見えて慶喜すると合釈している。この人とはおそらく善導自身のことであろうが、その人は釈迦の発遣と弥陀の招喚を受けて死を怖れずに浄土に歩みを進め、ついには浄土で仏と相見えた。善導は「雑行中の願往生心は貪嗔水火の為に潰える」が、これに対する弥陀の悲心招喚の白道は「貪嗔水火難の為に損われることがなく浄土へと一直線につながっている」ことを対比することによって悲心招喚の白道が唯一浄土への道であることを明確にし、浄土往生は釈迦の発遣と弥陀の招喚を受け容れることによって成就されることを言わんとしたものと窺える。

 同じ白道という言葉が使われていてもその白道の中身は全く別物である。諸行往生は至誠心をもって諸善を行じることを浄土に生れる生因とするのに対して、願力の白道は弥陀の悲心そのものを生因とするという明確な違いがある。善導が白道の比喩を製作された目的は、後者の願力による浄土往生の生因となる信心について釈迦と阿弥陀仏がその信心を守護する様相を教える事にあった。その信心とは二尊によって守護されている十七願十八願力所成の他力信心のことであり、他力信心が浄土につながる唯一の白道だと言われているのである。その生因は仏の願力による他力信心であるから貪嗔のために損なわれることがない。元祖はその善導の意を忠実に解釈されたから、二尊ノ意ニ信順する他力信心を本願力ノ白道と言われ、これに対する雑行中の願往生心は「白道ナレド貪嗔水火難ノ為ニ損セルコトヲ被ル。何ヲ以ッテ知ルコトヲ得ル。釈ニ伝ク諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向カウ也云々ト。諸行往生ノ願生心ノ白道ト聞クナリ」と言われた。だから、この「諸行業ヲ廻ラシ」とは諸善を浄土に回向するという意味であって、諸善を振り捨てるという意味ではない。善導や元祖が勧めているのは貪嗔水火の為に損われることのない願力所成の真実の南無阿弥陀仏つまり正行念仏であり、諸行業を廻らすことを勧めているものではないことが明らかである。「定善中自余衆行雖名是善、若比念仏者全非比校也伝事」の文に念仏は本願の行であるが、諸善は本願の行ではないとしてさらにそれを明確に示している。善導が注釈された観経は一経二宗と言われるものの定散十六観法を廃し念仏の一行を立てることを勧めている廃観立称のお経である。善導は白道の喩えでその廃立を明確にされた。元祖による指南を受けて祖師は愚禿抄に諸行往生の願生心の白道を白路とされ、弥陀の願意たる白道をこの白路と区別された。弥陀の願意が浄土往生への清浄な他力信心になる事を明確したのである。だから、教行信証の真実信巻には弥陀の十七・十八願の願意を意味する白道の解釈しか出していない。

 

A君 上記について少し議論しようか。まず、最初に確認しておきたいことは、元祖は諸行往生の願生心を白道と言われているが、それを白道と言われた理由は、凡夫ながらの至誠心であっても一応は浄土往生を目指すものであることや善導が貪嗔水火の難の為に浄土往生が損われるとは言えども白道であると述べているからだ。これに対して、釈迦の発遣と弥陀の招喚を受けた仏願力の白道は浄土へとまっすぐにつながっている。元祖はいずれにも白道という語句を使用しているが、白道とは浄土への生因のことだ。諸行往生の生因は諸行を至誠心をもって行じることであり、願力による往生の生因は願力そのものだ。それぞれ生因はまったく別だ。前者は自力、後者は全分他力でまったく相容れない生因となっている。生因がまったく相容れない別々の生因だということはそのどちらかを選び取らなければならないということになる。諸行往生の方法を取るのであれば願力の往生は取れないし、願力の往生を取るのであれば諸行往生の方法はとれない。二河白道の比喩に合わせて言えば、前者と後者の白道は同じ一本の白道の上に重なってあるのではないし、連続して接続している一本の白道でもないということだ。自力たる諸行往生の方法と他力たる願力による往生とは完全に断絶している。浄土往生の生因が相容れない別々の生因であるということは、私達の目の前にはこの二つの方法が並列的に与えれているということだ。諸行往生の方法を最初に選択した者は善導のように至誠心にゆきづまりこれを断念し、そののちに改めて願力による往生の方法を選び取ることになる。しかし、最初から諸行往生の方法を選ばず、願力による往生の方法を選ぶこともできる。その方法を選んだ者はそのまま願力の大悲を聞いてゆけばよいのだ。

 

B君 願力というが十九願、二十願、十八願と三つの生因がある。それぞれどの願に対応するのか。

A君 諸行往生は十九願に定める生因による方法であり、釈迦の発遣と弥陀の招喚を受けた仏願力は十七・十八願に定められている。十八願の生因は十七願に誓われた御名すなわち南無阿弥陀仏であり、その生因は南無阿弥陀仏の信と行だ。その信は十八願では三信と表示されている。その行とは十八願の称名念仏のことだ。善導が「弥陀ノ願意」と言われるのは南無阿弥陀仏によって救うという十七願と十八願の大悲心の事だ。それで元祖は三心料簡事に専修正行ノ願生心とか専修正行ノ人とか言われている。専修正行とは十八願力の信心称名のことであり、善導はそれを正定の業と言われている。善導のいう「弥陀ノ願意」を十九願による往生の方法と理解することはできない。

 

B君 君は二河白道の譬えは諸善往生を廃し、念仏の一道を立てたという理解をしているけど、その理由はなんだい?

A君 端的に言えば、①諸行往生は不可能であると言われている事、②願力の白道によって浄土にて仏と相見えたという事だ。つまり生因がまったく別である往生の方法を同時に行じることはできない。さっき言ったように前者は自力、後者は全分他力でまったく相容れない。諸行往生の方法を取るのであればそれと相容れない他力の願力による往生は取れないし、願力の往生を取るのであれば諸行往生の方法はとれない。だから浄土往生を願う者はそのどちらかの方法を選び取らなければならないことになる。諸行往生の方法が不可であるならば願力の往生を取るしかない。これが廃立の意味だ。

 

B君 念仏という言葉は白道の比喩には一度も出てこないけど、どうしてか?

A君 念仏が白道の喩えに出てこないのは信心を守護する様相を喩える目的で白道の比喩が製作されているからだ。その十八願の信には当然のことながら願力の念仏が必然的に伴うので省略されたのだと思う。善導は信の立て方について就人立信の方法と就行立信の方法があるとされているが、二河の比喩は就人立信の方法によったと考えられる。就人立信とは二尊の発遣と悲心招喚によって信が生じ、二尊によってその信が浄土に行き着くまで守護されている様子を喩えたのがこの二河の比喩だ。善導は称名念仏に他力信を含めて称名念仏を正定の業と言われることが多いが、ここでは念仏を省略して信心で願力を代表させたのだろうと思う。

 

B君 じゃ善導が諸行往生を目指した事には意味はないというのかな?

A君 なにがしかの意味はあるだろう。

B君 どんな?

A君 自分は真実の至誠心になり切れないという事を身をもって知り、諸行往生はできないという事を後世に伝え、元祖がその善導の意を理解して回心した所に意味がある。

 

B君 じゃ、真宗内において諸行往生を目指せと教えることも良しとしないのかな?

A君 良しとしない。祖師の教えを聞きたいという人に諸行往生を目指せと教えることは間違っている。機に合わない教えは意味がない。白道の喩えでは「弥陀の願意」を聞くとあるのでその人には本願の大悲を説き、また聞くべきだ。弥陀の願意とはさきのとおり十七願と十八願の悲心の事だ。

 

B君 じゃ真宗内において至誠心は真実になり切れない自己を知るために善を勧める事は良しとするのかな?

A君 良しとしない。

 

B君 どうして?真実になり切れないという事を知れば三定死の思いになり、そののちに釈迦の発遣と弥陀の招喚を受ける事に繋がるんじゃないのかな?

A君 繋がらないからダメ。

 

B君 どうして?白道の譬えでは繋がっているように見えるじゃないか。

A君 繋がっていない。白道の譬えにある諸行往生の願生心というのは至誠心をもって浄土往生を果たそうとする思いの事だが、懸命の努力をして知らされる事は真実になり切れないと分かるだけだ。その先にある弥陀の招喚を受け容れることには直接繋がっていない。諸行往生と願力による往生とは、前者は自力で、後者は自力を受け入れない全分他力だから、完全に断絶しているのだよ。

 

A君 白道の喩えの三定死の思いというのは、懸命の努力をして知らされる事は真実になり切れない自己であると分かった者が自力往生の限界を知ってどうにもこうにもならなくなった悲痛な思いのことだ。三定死はそのような状態になったというだけのことだよ。それでは十八願力の白道を進む事はできない。弥陀招喚の願心があること、その願心は無条件で私をありたけのままで救う願心だという事を聞いていかないと、その願心を受け入れる事はできない。当たり前の事だ、弥陀招喚の願心があることを知らないんだから願心を受け入れようがないじゃないか。それにさっき言ったように諸行往生は自力、願力による往生は全分他力、まったく相容れないから両者は完全に断絶しているのだよ。原理上、連続することはあり得ない。祖師は真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失すと言われている。真仮を知るとは真と仮の生因が自力と全分他力というまったく相容れない性質の独立した別々の生因だと知ることなんだよ。

 

B君 つまり弥陀招喚の願心を聞いていなければ三定死の状態のままそこにとどまってしまう事になるのだね。

A君 そう。仏の十七・十八願の願意を聞かず十九願による諸行往生を目指しても、ただ自力往生の限界を知るだけになってしまう。だから、弥陀招喚の十七・十八願の願意をよく聞く事が大事な事であって、真実になり切れないと分かることは大事ではない。真実になり切れないと分かっても、それが十七・十八願の生因そのものにはならないし、その生因を満たす前提条件にもならない。これが白路と願力の白道が断絶して繋がっていない論拠だよ。

 

B君 じゃ白道の譬えには大事な所、大事な教えが抜けているという事なのかい?

A君 抜けてはいない。「西岸上ニ人有リテ喚バフトハ即弥陀ノ願意ヲ喩フ」とあるからね。弥陀の願意とはそのままの私を無条件で救う、南無阿弥陀仏で救う十七願・十八願の願心のこと。自力の思いしか持ち得ない、他力の信を持ち得ない私のままで私を救うという大悲の事だよ。この弥陀の願意を十九願の願意と理解したのではムチャクチャな事になる。弥陀の願意というところが最も大事な所だ。善導はその大事な所をチャンと押さえている。

 

B君 じゃ肝心なのは三定死の状態に至ることではなく、弥陀の十七・十八の願意を聞くということなんだね。

A君 そう。だから自分の至誠心をもって諸行往生を目指す事は大事ではない。

 

B君 じゃ、弥陀のその願意を聞くことに注意を向けるとどうなるのか?

A君 願意を聞くことに注意を向けても、それが自力である限りは三定死の状態に至り着くだけだ。ただ、ここでの自力というのは先の自力とは意味合いが違ってきているし、三定死の意味合いも全く違うものになる。

 

B君 どういうこと?

A君 諸行往生を目指す者の自力の願生心とは自らの心を至誠心になし替えて浄土往生を目指す思いのことだが、浄土往生に相応しい至誠心を持ち得ないために浄土往生はできず死に臨むという危機的状況に苦悩しているのが善導のいう三定死だ。十七願十八願の願意を聞くことに注意を向けるようになった者の自力というのは願意を聞いて南無阿弥陀仏で救われたいという思いのことだ。同じ自力でも自力の中身が違ってきている。後者の自力の思いをもっと詳細に言えば、至誠心にはなれず南無阿弥陀仏で救われるとしても自分の持ち前の力や思いで南無阿弥陀仏を称えることを利用して仏力にすがり助けられたいという思いに重点が置かれるようになるのだ。これが本願疑惑心と言われるような自力の思いなんだ。ここでいう自力の思いというのは南無阿弥陀仏で救われると聞いてもそのとおりと受けとめられない心の状態をいうのだ。釈迦の発遣と弥陀の招喚を受けるというのは仏の十七・十八願力を受け入れてそのような自力の思いが廃るということだ。

 

B君 それは十七・十八願の願意を聞いていることによってのみ生じる思いなんだね。

A君 そう。その通り。願意を聞いて助かろうとする思いが出てきてそれが強まるほどその思いに囚われてどうにもならなくなるだよ。

 

B君 それは心理的に仏による救いを得られないまま死に臨むという危機的状況に苦悩している状態なんだね。その点で三定死の状態と同じなんだね。君が言う自力地獄の事だね。

A君 そう。仏にすがって助かりたいと思った瞬間にその思いはどうしたら助かるかという思いに転化する。念仏を称えて助かりたいという思いに転化する。それが自力の思いである事に気づき呻吟するのだ。助かりたいという思いが瞬時に自力の思いになるのだからね。どうにもならない。自力が廃らないと助からないのに、助かりたいという思いがそのまま自力の思いになるのだから、どうしようもなくなってしまう。助かりたいと思い続けても、今死ぬとなればこの自力の思いのまま臨終を迎えることになる。今日臨終を迎えても10年後に臨終を迎えても、20年後に臨終を迎えても自力の心のまま死んでゆく事態はまったく変わらない事実に気づく。つまり自分は助からないということに気づくのさ。助からないと気づけばますます助かりたい思う。その繰り返しで自力で計い始めた最初の立ち位置から一歩たりとも前に進めない。そこから抜け出る事ができない状態に苦悩するのだ。これが私が自力地獄と言っている状態の事さ。至誠心が行き詰まったことによる三定死とは明らかに異なる。但し、地獄と言っても無間地獄の釜の底に叩き落とされたという経験ではないよ。そんな経験は悪知識の架空の作り話さ。善導も元祖も祖師も誰もそのようなことは言っていない。

 

B君 十九願の諸善を励むことによって至り着く三定死ではなく、南無阿弥陀仏で救うという十七・十八の願意を聞いて至り着く三定死なんだね。よく分かるよ。

A君 私や君がそうであったように願意を聞いている限り誰でもが自然に至り着く所だ。しかし、この願意を聞いてゆく道が最も近道だ。諸行往生の方法を断念するまでの過程が省略されることになるからね。それに仏の救いは念仏を称えつつ、その称える南無阿弥陀仏の意味やいわれを聞いている内側にあるのであり、その外側には無いのだからね。

 

B君 善導は聖道門から浄土門に入った人間としてそれに応じた心構えで至誠心をもって諸行往生に励んだ末に三定死を経験し、その上で仏の十七願十八願の願意を聞いて願力の道に乗じる経験をし、それを白道の比喩に表現したんだね。

A君 そう。元祖も同じだし祖師も同様の道を辿られた。聖道の行たる諸善を浄土往生のために長らくされた期間に比べれば、南無阿弥陀仏で救うという仏の願意を聞かれてからは速やかに願力の道に乗じることができたんだろう。だから、私達は善導や元祖らの辿った十九願の諸行往生の道を辿る必要はない。非常な遠回りになるからね。一生涯かかっても願力の信は得られないかも知れない。祖師がその道は迂遠であるとされ、本願の直道を仰ぐべしと教えられているとおり、南無阿弥陀仏で救うという願意を聞いて聞き開く道を進めばよいことだ。祖師は三願転入の文と言われている箇所で、「宗師の勧化によりて久しく万行諸善の仮門を出でて双樹林下の往生を離る。・・すみやかに難思往生の心を離れて難思議往生を遂げんと欲す。」と書かれている。この文意はどこにあるかというと、既に万行諸善の仮門に入っている人はその仮門を出ること、既に自力念仏行を行じている人はすみやかに自力の心を離れよと教え、他力の願海に入れと教え勧めるところにある。いまだ諸行往生の願生心を持っていない人に諸行往生のために修善を開始せよと勧める文ではない。先の三願転入の文を生きているうちに必ず通過しなければならない求道の過程を教える文だと誤って理解するからおかしな事になるのだ。教行信証に真実の行信と仮の行信を明確に区分されている趣旨は仮を捨てて真実を取る事を勧めるためだよ。ここを間違えては真宗の教えではなくなるんだ。大切な所なのでもう一度言うが、先の御文はいまだ諸行往生の願生心を持っていない人に往生のために修善を開始せよと教え勧める文ではない。既に諸行往生の願生心を持って諸善を行じている者に万行諸善の仮門を出でよと勧める文だ。

 

A君 元祖は諸行を用いた凡夫の至誠心は真実ではないため往生は不可能であり、阿弥陀仏の真実の至誠心による大願業力に乗じる以外に往生はあり得ないということを表明しているが、その表明を聞いたとき、どういう思いになるだろうか?

B君 普通であれば、諸善を行じて往生を願う道は避けて、直ちに阿弥陀仏の真実の至誠心による大願業力に乗じる道を選ぶよね。

A君 そう。それが普通の感覚だ。あえて諸善を行じて往生を願う人はいないだろう。三心料簡事の元祖の意はまさしく阿弥陀仏の大願業力に乗じる道を選び取らせることにある。その廃立のために元祖は選択本願念仏集を製作されたのだし、念仏往生を説き続けられた。その結果はご承知の通りだ。

 

B君 つまり元祖は最も近い道を教えられたという事だね。

A君 そう。聖人ならいざ知らず、凡夫にとっては廃立の教えこそが浄土に直結する最短の道を教え勧める教えなんだよ。

 

B君 それなのに凡夫に信を得る方法として諸善を行う事や自己の団体に寄付する事が宿善となり信仰が進むと教える事はどうなんだろうか。

A君 廃立の教えによって廃された諸善をもう一度復活させて、信を得るための手段として諸善を教え勧めることは廃立の教えに反することになる。例えれば、正門から入ることを拒絶しながら裏口から取り込むのと同じだ。

 

B君 他力の信を得るために諸善を行じなければならないと考える前提には、善をなしえない自己の悪性に気づき、善導のいう三定死に到り着くまで善をしなければ他力信を得られないという誤った前提があるということなのかな?

A君 そう思う。悪性の自己に苦しむという心理状態に陥って苦悩するときにはじめて弥陀の願心を聞けるという誤った考えに立脚している。二河白道の比喩とその善導の釈を読むとき、そのような誤った読み方をするのは十七・十八願の願意を正しく理解していないからだ。十七・十八願の願意は南無阿弥陀仏で救うということにある。自力は不要で邪魔なだけだ。貪嗔邪偽のために諸善ができないことを経験的に知ることは十七・十八願の救いの条件や前提ではないことを正しく理解していないからだ。二河の譬えの白道は諸行を行じて三定死に行き着いた者がその行き着いた先でたまたま弥陀の悲心招喚の願意を聞いたことから出来上がった比喩だ。諸行を行じず、善導の言う三定死に行き着くことのない者にでも大悲は働き続けている。だから誰でもいつでもどんな状態のときでも悲心招喚の願意を聞き受ければ良いんだよ。

 

A君 二河の比喩は、いわば善導自身の失敗談と成功談を組み合わせて作成したものだと言える。失敗談とは諸行往生の方法では往生できないと途中で放棄せざるを得なくなった失敗のこと、成功談とは願力によって浄土往生が決定したということさ。失敗談を聞いて同じ失敗をしなければ成功しないと諭す比喩ではない。二河の比喩は、諸行往生を求めた善導がその方法では往生できないと知ったときに、願力による往生の道のあることを聞いてその方法に乗り換えることができたことを表すものだ。二河の比喩は諸行往生を求めた者に特有の道程であり、諸行を行うことが難しい凡夫が辿るべき道程ではないのだよ。それは聖道と同じような難行道なのだ。

 

B君 善をなしえない自己の悪性に気づき三定死に到り着くまで善をしなければ他力信を得られないという誤った考えでそれを教えることは、真宗を聞きたいと思っている人の宗教心につけ込んだ宗教的詐欺行為だよね。被害は財産だけではないよね。時間という取り戻せないものを奪ってしまう。一生という時間を奪われる事になるかも知れない。もうそろそろ気がついても良い頃だと思うのだけどね。

C子さん 極悪人、クソ知識といってもいい位よね。

B君 久々に登場したのにそんなにカッカするなよ。それにクソってまがりなりにも美人さんなんだし。

C子さん まがりなりにもっていうのは余計よね。美人は本当だけど。

 

A君 じゃ次に行こうか。どうしたら自力の思いは廃るのかということだが。

C子さん 善導や元祖の指南によって、諸行ではなく念仏を行じるようになっても、南無阿弥陀仏の願意に反する自力の思いが障害となって文句ばかりの心になっている人が抱えている問題ね。

 

B君 チョット待って。その前に確認したいことがあるんだ。善導は釈迦の発遣と弥陀悲心の招喚を受ける前に「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」という思いになったとき釈迦の発遣と弥陀悲心の招喚を受けたと書かれているが、この「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」とはどういう事なんだろうか。この「度ルベシ」という思いも自力の思いだよね。

A君 うん。そうだね。これも自力の思い。

B君 じゃ、「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」という思いになって歩み出そうとしたときの道とは、これまでの道とおなじ至誠心の道のはずだ。ということは、再び諸行往生の道を歩み出そうとしたときに怖れるなとの西岸上の人が喚ばうのを聞いてその道を歩み出したと理解できないか?

A君 それは大きな間違いだ。それでは三定死と合わないし、また諸行往生を成し遂げられることを表す比喩になってしまう。三定死は至誠心が行き詰まってしまいその状態で死を覚悟したときの心境だ。もう自分の至誠心をたよりにすることはできなくなっている。それに諸行往生ができるという事になれば、その人は諸行往生できるような善人であることになるが、善導の深心釈の二種深信のうちの「自身は是罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して出離の縁あること無し」と言われている善導の意図と合わなくなってしまう。善導の意図は、観経下々品の最下の悪人であってすらも転教口称の念仏の教えを受けて浄土往生したことを二河の比喩の願力の白道として表し、二種深信による浄土往生こそが百即百生の道であると教え勧める所にあった。だから、そのような解釈は善導の製作意図に合わないのだよ。

 

A君 じゃ次に行くよ。「弥陀ノ願意」を聞いてどうしたら助かるかという自力の思いになった者は念仏を称える行によって助かろうとする思いになる。これが諸行を廃して念仏の道を進み出した者の思いだよ。念仏で救われようとの思いになった事を指して「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」と言われているのだと思う。ここで善導は自力ながらも廃観立称しているだ。

B君 どうしてそう解釈できるのかな?

A君 「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」という思いは三定死の思いになったあとのことだけど弥陀の悲心召喚を聞く前の事だよね。つまり諸行をもって「カナラズ度ルベシ」という思いとは別の思いになったということだ。思いのものがらが変わったということさ。それは南無阿弥陀仏で助かろうとする思い以外には考えられない。だから「スデニコノ道アリ」というのは南無阿弥陀仏によって救われようとする道のことだよ。元祖は二尊ノ意ニ信順シテ願力ノ道ニ乗ジルと書いているね。十八願意に信順するというのは、その意を心に受け入れてそのとおりに実行することをいうのだよ。仏の意は念仏が浄土往生の正行だと言われるのであれば、そのとおりであると心で受けとめて念仏を申すという事だ。念仏行によって助かろうとしている者にこそ弥陀悲心の招喚の願意が速やかに伝わるのだ。二河の比喩では「われむしろこの道を尋ねて前に向かいてゆかん。すでにこの道あり。かならず度るべしと。この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。・・また西の岸の上に人ありて喚ばひていわく・・」とある。この「この念をなすとき・・たちまち」とは、念仏の行をもって往生せんと思い立った人にこそ弥陀の大悲が速やかに到り届けられることを表しているのだよ。

 

C子さん 問題は念仏申す事が仏の願意に称う事だと受けとめられるか否かというところだね。

A君 そう。ここを極難信というのだが、念仏が浄土往生の正行だと気づき、それが仏願であると受け入れるだけのことなのだがね。この「南無阿弥陀仏で救う願意」と「南無阿弥陀仏で救われることへの気づき」というあうんの呼吸は教える事ができない。教えられるようなものであれば極難信とは言わない。自力称名の思いが障害となって文句ばかりの心になっている人には、そのまま浄土に生まれさせる願心だということに気づいて欲しい。それだけだ、念仏行を往生の行として選び取ったあとはね。自力の計らいが生じた人にこそ願心を聞いてその計らいが廃ると言われるのは、あくまでも念仏の行を選び取った人に言えることなんだ。

 

B君 気づくという事は大事な事なんだね。

C子さん 気づくか気づかないかの差のようだけど、脳内の神経細胞ニューロンの発火状態はまったく違ったものになるようね。意識されないときは脳神経細胞の発火は局所的に止まるけど、意識されたときは局所的だった神経細胞の発火が増強され、それが遠位にある前頭前野頭頂葉に発火が伝わり、そこから脳全体に発火が連続し、脳全体が情報をやり取りしているかのように神経細胞の発火が連続して起こってくるって本で読んだわ。きっと願意の意味に気づいて願力の信が開けるときも脳内では活発な活動が起こっているのだと思うわ。念仏を称えて仏の願心を憶念しているときの脳内の活動と未信の者が念仏を称えているときの脳内の活動にはどのような差異があるのか、興味深いわよね。

A君 きっと自力の計らいで心が閉ざされているときの脳内活動が消えて、新たに弥陀の願心を聞き受ける脳内回路が形成されるとともに情動を司っている部位の脳内活動も活発になっていると思うよ。大経に信心歓喜とある。信心には南無阿弥陀仏一つで私は救われてゆく歓喜があるからね。そのまま救うという願意に気づくという事は私の思いや力は何の資助にもならなかった。ただ南無阿弥陀仏だけで私は仏に救われるのであったと気づく事なんだ。これを捨自帰他というし、二種一具の深信ともいうんだ。この気づきは意識の表層で生じるものではなく、心の内奥に根ざしたものであり、意識下で生じた大悲への無疑心が意識によってとらえられたとき信知とか信楽と言われる他力信になるんだろうと思うよ。

 

B君 少しばかり戻るけど、いいかな。善導は東の岸で見た白道を「清浄ノ願往生心ヲ生ジルニ喩フ。スナワチ貪嗔強キユエニ、スナワチ水火ゴトシトイフ。善心微ナルガユエニ白道ノゴトシトイフ。・・善心ヲ染汚スルニ喩フ。マタ火炎ツネニ道ヲ焼クトイフハスナワチ嗔嫌ノ心功徳ヲ焼クニ喩フ」と言われているが、ここでいう清浄の願往生心とは如来の願力の白道の事だろうか、それとも凡夫の起こした浄土往生の至誠心のことだろうか。

A君 それは釈迦の発遣と弥陀悲心の招喚を受ける前で、かつ「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ」という思いになる以前のことだよね。そうすると答えは自ずと決まってくる。それは諸行往生の至誠心のことだ。諸行往生の至誠心であっても清浄な浄土を目指している心だから清浄の願往生心ということができる。

B君 その清浄の願往生心は水火によって湿り焼かれるため浄土に至る事が決して出来ない白路なんだね。では、どの時点で諸行往生の白路が願力の白道になるのか、というと釈迦の発遣と弥陀悲心の招喚を受けてそれを聞くときに白路が願力の白道に切り変わるんだね。善導は諸行往生の白道の上を人が弥陀悲心の招喚を聞いて歩んでいったかのように比喩を造っているが、弥陀悲心の招喚を聞いたときにそれまでの白路が願力の白道に切り替わったという理解をするのが適当だということだね。

 

A君 そういうことになる。但し、自力の白路が全分他力の白道に切り替わるといっても、その白路が願力の白道に繋がっているのではなく、白路とは完全に断絶している全分他力の願力の白道が弥陀の悲心招喚によって突然開けるという点に注意をして欲しいな。それに、私や君のような凡夫ははじめから諸行往生の白路を選択せず、南無阿弥陀仏の願力の白道をゆくしかないのだ。善導と元祖によって指南されている廃立の教えのとおり、最初から諸善ではなく念仏の一行を立てるしかない。元祖が専修正行ノ願生心とか専修正行の人とか言われているのは、南無阿弥陀仏で救われると心が決まり称名して浄土に生じる事を願じている真実の行信のことを言われているんだが、専修正行とは南無阿弥陀仏を称する事が浄土の正定業であると受けとめて称名する事を指している。だから念仏を行じつつその念仏が浄土の正定業であると仏が定め置き給うたと心で受けとめて欲しいんだ。

 

C子さん そのように心で受けとめると、「水火ノ難ニ堕スルコトヲ怖レ」ていた気持ちはどうなるの?

A君 諸行往生を目指す際に不可欠な至誠心を損なうものが内心の貪嗔であったため善導が怖れたのはその貪嗔だ。仏の至誠心は真実心だから内心の貪嗔に損われない。この仏の至誠心によって往生すると信知した善導はもう貪嗔を怖れる事はなくなったと思うよ。この点は「水火ノ難ニ堕スルコトヲ怖レ」るという経験のない私は推測するしかないのだが。

 

C子さん あなたはどうだったの?

A君 私は諸善往生を求めてはいなかった。だから貪嗔を怖れる事はなくなかった。貪嗔の心が凡夫にあるのは当たり前の事だと受けとめていた。だからこれをなくそうという思いはなかった。信前信後を通じて貪嗔そのものを怖れる事はなかった。貪嗔が内心にとどまっている限りではね。問題だったのは自力の計らい心だった。弥陀の願意を聞き受けると、さっき述べた自力の計らい心はなくなってしまった。貪嗔そのものは内心に留まっている限り怖れることはないが、それによって世間的な悪業を造る事は今でも怖れている。その悪業は自分に跳ね返ってくるから。そういう意味で身業や口業で罪悪を造ることを怖れる気持ちはある。しかしこの罪悪を怖れる気持ちは浄土往生とは関係のないものだ。ただ南無阿弥陀仏によって往生するばかりと信知しているからね。十七願十八願力による往生は善悪とは無関係なんだ。これを横超の願力というんだ。全非比校は横超の願力のことだ。仏の願力は善悪にかかわらない無条件の大悲であるから、仏の手違いによって救われない事態にはなることはなく、私は必ず救われると聞いて欲しい。このことを善導は百即百生と言われている。仏のされることに1つも間違いがないということを善導は確信していたんだ。だから自力の計らいで苦悩している人は百即百生の願意を心で受けとめて欲しい。いったんそのように受けとめると、自分の行き先は弥陀まかせという気持ちに落ち着く。そうすると今度は、仮に仏に手違いがあったとしても自分の行き先は弥陀まかせだから、仮に地獄に堕ちるようなことがあったとしても常に弥陀の大悲とともにあるという心境になるよ。機法一体の南無阿弥陀仏とか仏凡一体とはこの心境を言うんだ。

3-19.会話編 執持鈔を通じて-仏にまかせることと決定往生の思い

執持鈔二章

 往生ほどの一大事凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすじに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず・・まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちからにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふべきなり。されば、われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも定むべからず。

 故聖人、黒谷源空聖人の御ことばなり の仰せに「源空があらんところへゆかんとおもはるべし。」とたしかにうけたまわりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまいらすべしとおもふなり。このたびもし善知識にあいたてまつらずば・・われ地獄に堕つるといふとも・・・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかばひとりゆくべからず。師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。・・・生死のはなれがたきをはなれ浄土の生まれがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず・・。善悪の生所わたくしの定むるところにあらずということなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

 

A君 上記に「われとして・・定むべからず」「わたくしの定むるところにあらず」「わたくしの定むるところにあらずということなり」と三度にも亘って私が往くべき所を「私が定めるものではない」と強調されているよね。この「私が定めるものではない」とはどういうことなんだろうね。

 

B君 私は悪業を造っているから地獄に堕ちると勝手に決めてはならないし、善行をしたから極楽に往けると勝手に決めてはならないという意味だよね。

 

A君 元祖は決定往生の思いによって往生は決定すると言われているけど、どうして自分の行く先を自分で決めてはいけないというのかな。

 

B君 仏様の大悲を聞きながら自分の行く先を自分が決めるのは自力の計らいになるからだね。これを上記の一行目に「凡夫のはからふ」とか最後の方に「自力」と言われているよ。

 

A君 もう少し丁寧に説明してよ。

 

B君 仏様の大悲は私を浄土に生まれさせるというものなのに、私は悪業を造ったから地獄に堕ちると思うことは、その大悲に背いて大悲を無駄にしていることになるよね。悪業を造ったから地獄に堕ちるとの思いは、仏様から見たら仏様の大悲を無視した自分勝手な思いとなる。だから、仏様の立場から見たら自力の計らいとなるんだ。

 

A君 うん。じゃあ善行をしたから極楽に往けるという思いはどうなんだい。

 

B君 それも自分の勝手な計らいになるよ。仏様が為すのと同じような真実の善であるならば浄土にも往けようが、凡夫が善行をしたからといって浄土に往けるということはないんだよ。仏様の大悲によらなければ浄土には往けないのに、凡夫のなす善で浄土に往けるとの思いを持つことは、その大悲によるのではなく、自分の善行をあてにして浄土に行こうとしているのだから、せっかくの大悲をないがしろにしにしてしまうことになるんだ。だから仏様から見たら大悲に反した勝手な計らいになる。

 

A君 つまり凡夫の善人悪人というものは、仏様の目から見たら大差はないということかな。

 

B君 自力で浄土へは往けないという点では、大差はないというのではなく、全く差はないというべきだね。全く差はないのに善を頼りにしたり、悪がやまらない自己を卑下したりして浄土に生まれる事ができないなどと考えることは、ともに大悲をないがしろにする思いだから、凡夫の浅智による愚かな自力の計らいという事になるのさ。

 

A君 そう言われても、自力で計らう思いを自ら離れることが出来るのだろうか。確かに、そのような思いが捨てられたならば自力を捨てて他力に帰する姿になるのだろうが、それは自分の力では無理なことだよね。そのように無理なことを覚如上人は言われているのだろうか。

 

B君 他力に帰するというところがポイント。他力というのは仏様の御力のこと。他力に帰するというのは自分の力で他力に帰するということじゃないんだ。自力は自然と廃るものであって自分の力で捨てることができるものではないんだ。浄土の生まれがたきを一定と期すること、さらにわたくしの力にあらずと言われているだろ。

 

A君 ほうほう。わたくしの力じゃなければ何の力なんだい。

 

B君 それが如来の御力といわれているものだよ。わが身とわが行き先を仏様にゆだねると仏様の力によって自分の行く先が決まるということだよ。私の行き先は私ではなく仏様が決めることなんだね。仏様の力によって行く先が決まるというのは、仏様の力によって行く先が決まるという思いになることだ。

 

A君 うん。じゃわが身とわが行き先を仏様の力にゆだねているとの思いになったら、自分の行く先は地獄でもなく浄土でもなく不定ということになのかな。

 

B君 そうじゃないよ。仏様の力によって行く先が決まるとの思いになったら「浄土の生まれがたきを一定と期する」ということになるのさ。これは元祖が言われている「決定往生の思い」のことなんだ。

 

A君 じゃ詰まる所、浄土へまゐるべしともまた地獄へゆくべしとも定まらないのではなく、浄土往生は決定と思いが定まるということなんだね。

 

B君 そうだよ。

A君 それじゃ、覚如上人にも往生決定の思いがあったということなんだね。

B君 そうだね。

A君 覚如上人に決定往生の思いがあったことは、どの文で分かるのだろうか。

 

B君 「浄土の生まれがたきを一定と期する」というところかな。

 

A君 正確にはそれは祖師のお言葉として引用しているものだね。よく読むと分かるよ。覚如上人はその祖師のお言葉を引用され結論として「これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。」と言われている所から覚如上人にも同じ「浄土の生まれがたきを一定と期する」思いがあったということになるだろうね。

 

A君 執持鈔五章には「もし弥陀の名願力を称念すとも往生なお不定ならば正定業とはなづくべからず。われすでに本願の名号を持念す。往生の業すでに成弁することをよろこぶべし。かるがゆえに臨終にふたたび名号をとなへずとも往生をとぐべきこと勿論なり。・・しかれば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定の思いに住せばかなうべからず。」って書いてある。「往生の業すでに成弁する」「往生をとぐべきこと勿論なり。」「平生のとき不定の思いに住せばかなうべからず。」というところが覚如上人の思いが述べられている所だね。  

 

A君 「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも定むべからず。」と言われながらどうして「往生をとぐべきこと勿論なり。」ということになるのだろうか。

 

B君 それはね、浄土に生まれさせるという大悲があるからなんだよ。そのような大悲を無疑で感受しているから往生決定の思いとなるのさ。他力に帰するとは仏様の願いを受け入れてその力にわが身とわが行き先をゆだね、往生は決定との思いになるという事だよ。

 

A君 じゃ君は確実に間違いなく浄土に往けると考えているのかい?

 

B君 自分の理性では浄土に往けるかどうかは分からない。が、しかし他方では往生決定の思いがあるんだよ。不思議だね。どうしてそうなるのだろうか。

 

A君 理性とか悟性というのは、脳の機能のうち認識した事実や経験則などを根拠として論理的に推論して予測や判断する知的機能のことだが、確信というのはそうした悟性によって得られた予測や結論の確かなことを指している言葉だと思うんだ。根拠や推論の確からしさが誤りようがないという程度にまで達したとき人はそれを確信したと言うのだと思う。そのような悟性で浄土に往けると考えているのが往生決定の思いじゃない。往生決定の思いは悟性ではなく、別の何か、言うなれば感性とか情を司っている脳の機能ないしは心が大悲を感じ受けているのだろう。だから、君のように「悟性では浄土に往けるかどうかは分からないが往生決定の思いがある。」ということになるのだろうね。

 

B君 ここが他力の信の面白い所であり、分かりにくい所なんだろうね。

 

A君 そうなんだ。往生決定の思いを確信というには違和感がある。それは浄土へ往ける根拠や推論の確からしさが誤りようがないというほどに明確になったというものではないからだ。しかし、往生決定の思いがないのでもない。往生決定の思いはある。往生決定の思いには悟性による確からしさというものはないが、往生は決定と感じられるものなんだ。

 

B君 決定往生の思いの根拠をいうのであれば、大悲があるからということになるだろうね。

 

A君 そういうことだね。大悲があるというのが根拠だとしても大悲はあると何故言えるのかと問われると、自分がそう感じているからとしか言いようが無くなってしまう。それが大悲を無疑で受けているということだよ。他力の信を無根の信という理由はここにあるんだろうね。

 

B君 覚如上人はひとすじに如来にまかせたてまつるべしと勧めているが、如来にまかせたてまつれば、「浄土の生まれがたきを一定と期する決定往生の思い」になると覚如上人は言われていると理解しても良いよね。

 

A君 そう。結局は元祖と同じことを言われているんだ。そのことは執持鈔五章の先の文からも分かる。他力の信とは単に如来にまかせたということではないんだ。如来にまかせれば必ず往生決定の思いが生じる。決定往生の思いがなければ如来にまかせたことにはならないんだよ。

 

B君 つまり祖師は無疑をもって真実信とされたけど、それは本願の三心のうちの信楽という語を根底に据えて信を解釈されたという事であって、欲生を真実信から除外ないし無視されたのではないということだね。

 

A君 そうさ。決定往生の思いは本願の三心の一つの欲生だ。無疑たる信楽と欲生たる決定往生の思いとはもともと分離不可能な一つの心なんだ。無疑の信を欠いた決定往生の思いはないし、決定往生の思いの生じない無疑の信はないのだよ。天親菩薩が一心と言われたように信楽と欲生とはもともと一心なんだよ。

 

B君 じゃ祖師が浄土往生は決定と言われずに、「たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまいらすべしとおもふなり。悪道へゆかばひとりゆくべからず。師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所わたくしの定むるところにあらずといふなり。」と言われているのはどういうことなんだろうか。

 

A君 祖師には決定往生の思いがありつつも、地獄に堕つる身という根強い思いがあったのだろう。

 

B君 つまり?

 

A君 「浄土に往けるかどうかは分からない」という思いどころか、祖師には「地獄に堕つる身」という根深い思いがあり、この思いと対峙しなければならなかった。祖師はこの思いをどのように受けとめて理解したら良いのか、ハタと考え込まれたのだろうと想像できる。往生は決定したとの思いが生じたことによっても消え去る事がなかった地獄に堕つる身という思いについて祖師が出された答えが、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし。」と言われた源空聖人の仰せに信順し、「とたしかにうけたまわりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまいらすべしとおもふなり。」ということだったんだよ。そして「われ地獄に堕つるといふとも・・・悪道へゆかばひとりゆくべからず。師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなり」という結論に至ったんだね。

 

B君 つまり?

 

A君 「源空があらんところへゆかんとおもはるべし。」との源空聖人の仰せに信順した思いとしてご自身の心の中に「たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとのおもひ」がかたまり、それでよしという思いになられたんだ。この思いは決定往生の思いが大悲に対する信順無疑の心から生じる思いであるのと同じように、元祖の仰せに対する信順無疑の心から生じた思いだ。祖師は元祖を阿弥陀仏の化身と思われていた事から元祖の仰せは阿弥陀仏の仰せであると受けとめて信順していたんだよ。

 

B君 大悲に対する信順無疑の心から生じる思いは決定往生の思いだけでじゃなく、わが身とわが行き先を仏様の大悲にゆだねた、ないしゆだねているとの思いや元祖や祖師と同じ所に参らせていただくという思いなど多様な思いが生じるんだね。

 

A君 そう。そして、それらの多様な思いはすぐに浄土に往生できるとの思いに収斂していくんだが、再び「浄土に往けるかどうかは分からない」という思いや「地獄に堕つる身」という思いが繰り返し生じたときでも、「わが身とわが行き先を仏様の大悲にゆだねている」という安堵感やわが行き先は仏様が生まれさせると言われている浄土であるとの思いで心が満たされるようになってゆくんだ。信の者はこのような思いを胸に抱えている事から、祖師は「故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとのおもひ」になっていたんだよ。

 

B君 「善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかばひとりゆくべからず。師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらん」というお言葉はそうした思いの中から出てきたお言葉なんだね。

 

A君 祖師のこのお言葉をわたくしなりに言い換えると、「仏の仰せにすかされたてまつりて悪道へゆかばひとりゆくべからず。仏とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、仏の生まれさせんと仰せられるところへまゐるべし」と言い換えることができる。これは大悲に対して無疑となっている事から生じる大悲と私とは一体であるとの思いなんだが、これと同質の思いが、私の行く先が地獄であろうとどこであろうと元祖の往かれた所と同じ所に参らんという思いなんだろうと思われるんだ。ここに祖師は心の落ち着き所を見いだされたのだと思う。それで「生死のはなれがたきをはなれ浄土の生まれがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。」と祖師は言われ、「浄土往生は一定と期」されていたんだ。往生一定を期するとは一つに定まった往生を期する思いのことで、決定往生の思いのことだ。

 

B君 覚如上人はこの祖師のお言葉に、自力が廃って他力に帰した姿とはそうした姿であると言われたんだね。

 

A君 そう。善悪の思いに囚われることなく、ただ仏様の御力にまかせて決定往生の思いに住している事を自力が廃って他力に帰した姿になったというんだ。

4-12.こだわるところが間違っている。 未信の者がこだわり、信の者がこだわらないこと 信の者がこだわり、未信の者がこだわらないこと

未信の者がこだわるのは「わかりたい」「救われたい」「信が欲しい」「後生の不安を解決したい」ということですが、信の者はそういったことに対するこだわりはまったくありません。未信の者がこだわるべきなのにこだわらないのは大悲への理解です。大悲への思いがないために大悲を理解しようとの思いが不足しているのです。

 

信の者がこだわることと言えば、例えば善を求めなければ信は得られないとか、三願を転入しなければ信は得られないなどと言われると「バカなことを言うものじゃない。大悲とはそういうものではない。」と強く反発します。これが信の者のこだわりです。信の者には大悲が見えているので、信はそういうものではないことが理屈抜きで体感で分かっています。信に関する誤った主張に対して信の者が批判するに際しては聖教の文をその批判の根拠にしますが、実のところは、大悲の救いを実感しているところと違うことを言われるとその違いを敏感に感じるのです。だから、間違いだと即座に判断できるので、その間違いにこだわってしまうのです。聖教の文はその体感していることを都合よく書いているので利用しているに過ぎません。実感していることがまさに聖教に書かれているから、そのような利用ができるのです。これに対して未信の者には大悲が見えていないので「救われたい」「信が欲しい」「後生の不安を解決したい」とこだわっていること自体が間違いであることが分からないのです。信の者には大悲が見えているが故のこだわりがあり、未信の者には大悲が見えないが故のこだわりがあるのです。

1-29.信心が同一になる原理と事実認識の方法

御伝抄に次のような文があります。

①.善信房申していはく、

往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまわりしよりこのかた、まったくわたくしなし。しかれば聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信が信心も他力なり。かるがゆえにひとしくしてかはるところなしと申すなり。

②.大師聖人仰せられてのたまわく、

信心のかはると申すは自力の信にとりてのことなり。すなわち、・・。他力の信心は善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も善信房の信心もさらにかはるべからず。ただひとつなり。・・・信心のかはりおはしまさんひとびとは、わがまいらん浄土へはよも参りたまわじ。

 

他力よりたまわらせたまふ私のない信心だから他力信心は同じになるという説明は、他力信心が同一となるべき原理ないし理屈について言及されたものです。この説明が成立するためには仏が凡夫に授けるものは人によって異なるものではないという前提が必要になります。このことを仏様が保障しているのが十七願と十八願とそれらの成就文です。この十七願とその成就文において仏様は、私が往生してゆく浄土の完成したことを告げる御名を聞かせてすべての者を救うことを保障しています。この完成した救済の原理のため仏様に与えられる他力信心は同一になることになっています。その救済の原理によって生じる信は十八願の信心たる至心・信楽・欲生となります。この十八願の信心の特質は大悲を無疑の心で受けていることにあり、ここからこの信を至心信楽といい、また無疑の故に欲生という往生決定の思いとなります。祖師が「わたくしなし」の「わたくし」と言われているのは大悲に対する自力の計らいのことを指しています。この計らいがなくなっていることが無疑という信の特質です。信の特質は大悲に対する無疑の状態になることにありますから、この特質から他力の信はすべて同一になるものなのです。この信の同一性は他力信心の特質です。

 

善信房は自分の信心は源空聖人の信心と同じだといい、源空聖人も善信房の信心と同じだと言われました。二人のもっている信心は同一だとの認識を互いに示し合ったものですから、この部分は救済の原理の問題や信の特質の問題ではなく、信心の同一性に関する認識はどのようにしてなされるのかという問題になってきます。他人の内心における無疑の事実状態は意業たる憶念、口業たる念仏や説教、身業たる礼拝等となって表現されることになりますが、善信房や源空聖人は信心が同一であるとの認識を表明されたのは何をもってなされたことでしょうか。善信房は源空聖人の御説法を拝聴し、その内容が自らの上に現実化していることをもって同じ信心であると認識されたのでありましょうし、また源空聖人においても善信房の言動をもって判断されたのでありましょう。

信心の有無は三業では判断できないと巷でいわれていますが、実際には上記のように同一であることを互いに認識しうるものです。三業では判断できないといわれるのは仏様の大悲と向かい合っているかどうか本当のところはその当人でしか分からないという意味なのでしょうが、その考えを支持しているのが他力信は三業ではないという理解だろうと思います。この理解に立つと、無疑という心の状態は三業ではないので信心の有無を三業では判断できないという理屈が成立することになります。しかし、社会生活の上では三業とくに口業で他力信心の有無を判断しているのが通例でありましょう。自力の思いの有無をその人の言動から判断したり、他力信と異なる教説を説く者の言動から他力信の有無を判断しています。そうしますと、信心の有無は三業では判断できないと言われる理屈を適用するのが適当な場面は極めて限定されるのではないかと思います。例えば、悪業を犯したから他力信心の者ではないと主張することは間違っていますが、この間違いの理由として三業では信心の有無を判断できないとの理屈が使われることがあります。しかし、この場合においてその理屈を持ち出さなくても説明は可能です。他力の信はただ大悲を無疑で受けることであって、他力の信心は悪人を善人にすることを保障するものではないし、大悲を無疑で受けている人であっても悪業を犯す可能性を持ち続けている存在であると説明すれば足りることです。歎異抄第13章の祖師のお言葉で説明すれば十分な説明となるのであり、さきの理屈を持ち出さなくても良いことです。また三業では判断できないという理屈は、次のような場合の説明に困ることになります。例えば、自力で求めれば他力の信を得られるし、自分の経験上自力一杯求めたから他力の信が得られたという人がいたとします。この人が他力の信を得ているかどうかは三業では判断できないということになるとどういうことになるでしょうか。この理屈は明らかに誤った教説を唱える者を弁護しかねない理屈になってしまいます。このような場合においてはこの理屈に何の正当性がないことは明らかです。無疑という心の状態は三業ではないとしても、他力の信心の有無はその人が表明する信に関する言辞によっておおよその内心の状態(大悲に対する無疑・有疑の状態)を推認することができるというのが正しい論理ではないかと思います。さきの理屈は、内心が無疑の事実状態になっているかどうかを推認することができない真偽不明の状態に陥った場合にはじめて妥当する理屈であり、その場合に限ってのみ妥当する理屈であると思われるのです。

1-28.信心定まるとき往生定まる。往生定まるとき信心定まる。

①.御消息に次のような祖師のお言葉があります。
真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚の位に住す。このゆえに臨終待つことなし。来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。

②.往生大要抄に次のような元祖法然聖人のお言葉があります。
ただ心の善悪をもかへりみず罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて口に南無阿弥陀仏ととなえば声について決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。かく心得つればやすきなり。往生は不定に思へばやがて不定なり。一定と思へばやがて一定することなり。

この①②を読んでスッキリと理解できたでしょうか。前者には往生の業はでてきません。真実信心の行人についての摂取不捨と正定聚の位、信心と往生決定だけです。真実信心の行人は摂取不捨によって正定聚が定まり、信心によって往生が定まるという理屈です。後者は決定往生のおもいによって往生の業が定まるという理屈です。決定往生の思いがなければ往生の業は定まらず往生不定となります。

いったい真実信心の行者の信心・決定往生の思いと往生決定・往生の業と摂取不捨と正定聚の位とはどのような関係にあるのでしょうか。

まず後者②について
決定往生の思いによって往生の業が定まると言われています。往生の業が定まるとは南無阿弥陀仏の声つまり自分の念仏行が往生の業として定まるということです。念仏が往生の業として定まるかどうかは決定往生の思いの有無次第ということになります。念仏を称えるから決定往生の思いになるというのではなく、決定往生の思いがあるから念仏が往生の業となるのです。信があれば念仏は真実の大行となり、信がなければ念仏は仮の行になると祖師は言われていますが、もともと元祖の教えにあったことです。決定往生の思いになればその当人は往生は決定したとの心情から念仏を称えるとともに往生は決定したと口に出して言うようになります。そして決定往生の思いによって念仏を往生の業であるとの思いが定まるのです。これを「決定往生のおもひをなすべし。その決定によりてすなわち往生の業はさだまるなり」と言われているのです。このような言い方になる適例として、例えば目の前にリンゴが1つ有るのを見たときリンゴは客観的存在物であるように思えます。そのためリンゴがあると言いますが、正確には脳内にリンゴの像が認識されているだけです。その像は脳内で作り上げられたものです。人類の脳は共通した構造を持っているため同じようなリンゴの像を造ることができますが、昆虫の脳で認識されたリンゴの像はずいぶんと違ったものになっていると想像できます。つまり、私達の認識のそとに認識を離れて映像通りのリンゴが客観的に実在しているとの確証はどこにもありません。脳内のリンゴの像は脳内にあるだけです。脳はリンゴの像を自ら造り出した映像であるとはちっとも思っていないのでリンゴがあるという言い方をしますが、それはリンゴが客観的に存在していると脳が判断し、そのように思い込んでいるからです。これは脳の錯覚の一種です。これと同じようなことがここでも言えます。誰かが「私の往生は定まった」というとき、その人は往生は定まったと思っているので往生は定まったと言っているのですが、あたかも脳の錯覚によってリンゴが客観的に存在しているかのごとく、往生が定まったという言い方になってしまうのです。正確に言うとすれば、往生が定まったとの思いを心に抱いているというのが適当です。だから聞いている方も、あの人は往生が定まったと言っているが、往生が定まったとの思いを持っているのだなとその言葉を脳内で変換して理解するのが適当です。摂取不捨の大悲によって信の決定たる決定往生の思いが生じ、その思いよって念仏が往生の行であると心から大悲を受けとめることができるようになります。これが往生の業がさだまると言われている意味です。決定往生の思いのあるなしによって往生決定、往生不定が決まるので、思い次第ということになりますから、祖師は次に見るように往生の業定まるという言葉は使われず、信心が定まることによって往生が定まると言われています。
以上、信の者の思いというものには決定往生の思いや念仏が往生の行であるとの思いがあります。この思いが生じた理由や証拠について信の者に聞いてみて下さい。大悲があるからとか南無阿弥陀仏が往生の証拠だという回答がされますが、それも大悲があるという思いであり、南無阿弥陀仏が往生の証拠だという思いがあるだけです。どこまでも思いから離れることは出来ません。このように信の者の思いというのは多様な様相を呈します。

つぎに前者①について
真実信心の行人は摂取不捨の故に次生仏となることが定まると祖師は言われました。真実信心の行人ですから、真実の信心をもって念仏行を行じている者ということですが、元祖の言う決定往生の思いとなり、念仏が往生の業であるとの思いが定まって念仏を行じている人のことです。その信心につき祖師は、信心が定まることによって往生が定まると言われています。往生が定まるとは上記のとおり私の往生は決定したとの思いになることです。「信心の定まるとき往生また定まる」とは、信心が定まるとき決定往生の思いまた定まるということです。その信心が定まることと往生定まる思いとは同じ心の状態を指しています。信心とは大悲に対する無疑の心の態度をいいます。大悲は私を往生させるということですから、その大悲に対して無疑になるということは大悲によって往生が定まったという思いになることです。逆に、決定往生の思いには大悲に対する無疑の心があります。祖師が信を上記の多様の思いをもってしてではなく、大悲に対する無疑をもって信であるという理解を示されたのは誠に卓見だと思います。上記に見た多様な思いの根底に共通してあるものは何か、祖師はよくよく洞察されて上記の結論を示されたのだと思います。しかし、無疑の心とそれらの思いとは別々の心ではありません。決定往生の思いは大悲に対する無疑の心から生じている思いであり、無疑の心と一体となった思いです。その他の思いも無疑の心と一体であり、それら全体でひとつの心であると言っても良いかと思います。この決定往生の思いになっていることを祖師は正定聚の位と言われました。信心と決定往生の思いと正定聚の位は同じ心の状態を指しているのです。信は決定往生の思いであり、決定往生の思いに定まった心の状態を正定聚の位というのです。信は即正定聚です。それにしても祖師が信とは無疑であるという論述を教行信証に残されていなければ祖師の亡き後真宗内で信を巡って激しく紛争が勃発し、その対立の結果、真宗はさまざまに分裂していたであろうと思います。ここに祖師の偉大さが伺われます。

さて決定往生の思いになる理由について焦点をあてて明確にその理由を理解しておかなければなりません。焦点をあてるべきは摂取不捨の大悲です。この大悲を抜きにして決定往生の思いになることはありません。念仏を称えることが往生の行であると深く信じると言っても、念仏を称えることが大悲に順じることであると大悲を直に受け入れなければ始まらないのです。大悲は私を浄土に生まれさせるという事につきてしまいます。その大悲は私が感じ受けられるように私に向けられているですから、向けられている大悲をただ感受するばかりです。大悲に思いを向けようと心を仕向けることなく一方的な大悲をただ感受するばかりです。往生は大悲たる仏様が既に定めて下さいました。ですから仏様の心においては私の往生は既に一定となっているのです。ここが理解され心情において受けとめることができれば決定往生の思いが定まり、このとき信心は定まります。仏様の心において私の往生は決定であると理解し、そのように心情として受けとめられるかどうかという所が要です。元祖が言われるように罪悪の有無や軽重は関係がないのです。また善行に励むことも関係ありません。これを明確にされた元祖に敬服するばかりです。

冒頭に「信心定まるとき往生定まる。」と並んで「往生定まるとき信心定まる。」と書きました。信心も決定往生の思いも同じ心の状態を指した言葉ですから、「信心定まるとき往生定まる。」といっても「往生定まるとき信心定まる。」といってもどちらも真です。

3-18.本尊と助業

B君 A君は本尊についてどう考えているの?

A君 名号本尊であれ、木像本尊であれ、絵像本尊であれ、阿弥陀仏の大悲を表現したものであればどれでも良いと思うよ。大悲を表すものである限りはいずれがダメだということはないよね。

B君 名号本尊固執しないということだね。
A君 そう固執しない。御本典に本尊についての記述はないよ。だから本尊を設置するかどうか、設置するとしてもどのような本尊を設置するかは教義に反するものではない限り、各人の思いに委ねられていると考えて良いよね。だから固執しない。

B君 「聞其名号」は本尊を指定したと解釈できないのかな。

A君 名号本尊固執する者は「聞其名号」を根拠にするのだろうが、それは根拠にならない。南無阿弥陀仏という御名を聞くとは大悲の起こりが私にあり私に大悲が懸けられていると聞く事だよ。本尊に関する教えではない。

B君 大行を南無阿弥陀仏とする教えは本尊を指定したとは解釈できないのかな。

A君 本尊を指定したとは解釈ではない。南無阿弥陀仏とは仏様の最勝真妙な無形の働きに名づけたものであり、最勝真妙な働きは心の内に大悲を感受する働きとなるものだ。大悲を感受していることがその働きであり大行なのさ。その働きは称名へと展開するから、祖師は大名とは無碍光如来の御名を称することだと言われつつ、その称名は大悲の働きであるとして称名は南無阿弥陀仏であると言われた。南無阿弥陀仏という記号を本尊にするかどうかとは関係ない。

B君 南無阿弥陀仏という御名をどう理解すれば良いんだろうか。
A君 大悲の持つ摂取不捨という無形な仏様の御心を言語的な認識ができるようにあえて意味化した語が南無阿弥陀仏だよ。南無阿弥陀仏は無形の大悲そのものとの関係では大悲を指し示す名称であり、大悲を指し示す指示語になる。大悲という語も心に感受している大悲との関係ではその大悲を指し示す指示語になってしまう。南無阿弥陀仏とか大悲という語が指し示しているものは、心で感受している大悲のことだ。それ以外に南無阿弥陀仏を観念的実在として理解するむきがあるかも知れないが、意味はないよ。感受している大悲ですら悟性で捉えようとしても捉えがたいものであり、何か確かなものがあるわけではないが、何もないわけでもない。捉えようがないのが大悲なのだ。だから大悲は感受するしかないのだ。感受しているところに大悲が現れるんだな。このような大悲を指し示したものが南無阿弥陀仏という語であり、その語は大悲は感受している様をも表しているんだ。それが南無阿弥陀仏という語の持つ意味なんだ。それは浄土の成就を告げる仏様の心を表しているのだよ。南無阿弥陀仏という語そのものは指示語だからその指示語そのものが大事なわけじゃあない。仏様の御心を表わす意味が南無阿弥陀仏にはあるから名号を粗末にすることができないだけだ。仏様の御心を表しているのは名号だけじゃない。

B君 「あえて意味化した」というのはどういう意味なのかな。 

A君 例えば私が絵師であれば、私が感受している大悲を表すとすれば摂取不捨を意味する光明を基本的図柄として採用し絵にするだろうし、仏師であれば大悲を垂れる仏を人格化してその姿を彫刻にするだろうし、書道家であれば南無阿弥陀仏を書によって表現するだろうね。自分の感じることを表現し人に伝えたいと思うのが人の性さ。そうして大悲を形象化したものを礼拝の対象物としたのが本尊なのだが、胸の内で大悲を感受している者にとってはその感受している大悲が仏そのものなのだよ。その大悲を感じるがままに大悲を具象化することはできない。本尊という言葉をどうしても使ったり考えたいというのであれば、この形象化できない大悲こそが本尊だね。これを根源的本尊といってもよいと思う。「あえて」というのは形象化できない大悲を無理に具象化しようとするのだから「あえて」ということになる。

B君 具象化とはどういう意味なの。

A君 摂取して捨て給わぬという無形の大悲を認識可能な具体的な形象や言語に置き換え、代替させることさ。大悲を言語的意味をもつ記号に置き換えたのが南無阿弥陀仏。その言語的意味が大悲を指示している。言うなれば言語能力を有する衆生に大悲の言語的意味を了解させるのが南無阿弥陀仏という記号。木像本尊は摂取して捨て給わぬという大悲の意味を視覚に訴える形象にしたもの。絵像本尊も同様だね。これらは視覚を通じて大悲の意味を了解させるものだね。意味を了解させるという点ではみな等価値だよね。

B君 心の内に大悲を感受しているとはいったいどういうことなんだろうね。
A君 そう問われても悟性では答えようがないんだよ。それは南無阿弥陀仏とか仏様の大悲と呼ばれているものであるとしか言いようがない。南無阿弥陀仏とか大悲という仏教用語を用いないとすれば、心の内に感じているものを「それ」とか「これ」としか言いようがなくなってしまう。自分自身では「それ」「これ」が何を指しているか分かるが、「それ」「これ」では人に分かって貰えない。だから大悲とか南無阿弥陀仏という言葉を使って「それ」「これ」を説明することになるのだが、大悲とか南無阿弥陀仏という語句を使って説明すると説明したような気になるだけで、本当には説明したことにはならない。だから感受している大悲は感受して貰うしかないのだ。だけど大悲とか南無阿弥陀仏という語句を使うと説明したような気になってしまうのさ。説明される方も分かったようで実は分からないままになってしまうんだ。大悲とか南無阿弥陀仏という語句が指し示しているものが分からないままだからね。説明される方はとてももどかしい思いになるんだ。説明される方も困るだろうけど、説明する方も実のところもどかし思いをしているのさ。このようにしか説明できない仏様の働きを聞くという事と形象化した本尊をどうするこうするという事とはまったく次元の違う話なのだよ。

B君 そう言えば、以前、君は胸の内なる大悲が尊く感じられ、寺院などにある本尊はあまり有り難いとは思わないと言っていたね。

A君 うん。確かにそう言った。

B君 本尊はどうでもよいということなのかな。

A君 どうでもよいというと語弊があるのでそういうことは言わないよ。ただ本尊に関して確実に言えることは、胸の内に感じている大悲こそが本当に有り難く頂けるものであり、その大悲をあえて形象化したのが名号本尊であったり、木像や絵像本尊であるということだね。

B君 寺院などにある本尊はあまり有り難いとは思わないという理由はなんだい。

A君 さっきも言ったように、胸の内で大悲を感受している者にとってはその感受している大悲が仏そのものなのだよ。だから、その無形の大悲が根源的な本尊なんだ。その根源的な本尊に比べたらあまり有り難いとは思わないという意味だよ。名号・木像・絵像本尊がちっとも有り難くないと言っているのではないよ。名号・木像・絵像本尊はそれなりに有りがたいものさ。

B君 比較の問題なのかな。 

A君 そう比較の問題なのさ。それにね、どうして名号本尊や木像・絵像本尊が有り難いと思えるのかと言えばね、そう思わせる心の仕組みがあるのだよ。

B君 どんな仕組みなのかな?

A君 それはね胸の内で無形の大悲を感受している思いを中核とする心の仕組みさ。この大悲の感受があることで、大悲を意味する名号や木像・絵像本尊がその心の仕組みを刺激して大悲を再び感受させるところにその本尊を有り難いと思えるのさ。
B君 卑近な例でも良いから分かりやすく言ってくれないかい。

A君 そうだなぁ。あっと、そう言えば君はC子さんのことが好きだよね。

B君 えっ。突然なにを言い出すんだい。そっ、そんなことないよ、絶対に。

A君 隠さなくてもいいさ。君のC子さんに対する表情や態度を見ていれば誰でもすぐ分かるよ。みえみえだよ。 

B君 んで、それが何だっていうんだい。

A君 うん。君が好きで好きでしょうがないのは生身のC子さんだよね。

B君 笑顔や仕草がかわいんだよ。

A君 その笑顔が写っている写真のC子さんを見て、君は嬉しそうにしているよね。どうしてだい。

B君 写真の笑顔もかわいからさ。

A君 写真は生身のC子さんじゃないよね。

B君 生身のC子さんじゃないけど、写真の笑顔は生身のC子さんそのものだよ。

A君 C子さんの笑顔や仕草に接したときにある種の感情や思いが芽生え、その笑顔や仕草がその感情とともに記憶されたことだろうよ。感情とともに記憶されたときその記憶は非常に強固なものとなり、感情も会う度毎に深くなり常に意識してしまうほどに強いものになってきたのだろう。そのような状態になったときに写真の笑顔に接すると、C子さんへの感情や思いが写真に触発されてわき上がってくるんだろ。だから写真を見ると、そのときの思いが繰り返される。写真があたかもC子さんであるかのように感じるくらいにね。

B君 まあー、そういうことかな。

A君 それと同じだよ。

B君 つまり、名号や木像・絵像本尊のもつ意味を理解し、その意味に触発されると君の言う根源的本尊への有り難い思いがわき上がってくるということだね。その思いが自然と対象物へと向かうと言うことだね。

A君 そういうことさ。大悲を感受している根源的な思いが中核となり、それに浄土往生決定の思いなどが一体となった思いが日常的につねづね感じられることから、対象物にすぎない名号や木像・絵像本尊でも有り難く思えるんだ。有り難いと思う気持ちが大悲そのものではない対象物にも及ぼされてゆくという心理作用なのだろう。思いの対象が感受している大悲から物体としての対象物へと拡張してゆくと言っても良いと思うんだ。名号や木像・絵像本尊に対する思いは二次的なものであり、かつ拡張されたものだから、この心理作用を「二次的拡張作用」と言っても良いと思う。世間でも坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというじゃないか。この二次的拡張という心理作用は世間でもよく見られる現象なんだ。ここでついでに言っておきたいことは、もともと人が持っている心理作用に大悲を感受する思いが働きかけることはあっても、その思いが心理作用を変質させるものではないということ。仏様の大悲をあらわす物や話や言葉にだけに反応を示すだけ。だから何の害もなく健全で至福でいられるんだ。

A君 安心決定抄には、名号や形像本尊から得られる意味や思いについて述べている箇所があるよね。

B君 ちょっと読んでみるよ。
かるがゆえに念仏の行者、名号をきかば「あは、はやわが往生は成就しにけり。十方衆生、往生成就せずは正覚を取らじと誓いたまひし法蔵菩薩の正覚の果名なるが故に」と思うべし。また弥陀仏の形像をおがみたてまつらば「あは、はやわが往生は成就しにけり。十方衆生、往生成就せずは正覚を取らじと誓いたまひし法蔵菩薩の成正覚の御すがたなるが故に」と思うべし。極楽と聞かば「あは、はやわが往生すべきところを成就したまひにけり。衆生往生せずは正覚を取らじと誓いたまひし法蔵比丘の成就したまえる極楽よ」と思うべし、とあるよね。

A君 それそれ。

B君 心の内なる大悲への思いがあることによって名号とか極楽という言葉を聞いたとき、我が往生を定めた仏様の大悲が想念され、形像をおがみたてまつらば我が往生を定めた仏様の大悲を憶念するということになるんだね。

A君 そうだね。

B君 それはお聖教を読んでいても同じことが言えるよね。同じような心の仕組みが働いて自然と心に歓喜が多くなるんだね。

A君 そうさ。君がC子さんの写真を見るたびごとに心に喜びがわくようにね。そして大悲への思いがいよいよ嵩じてくれば、さっき言ったように僕が絵師であれば大悲を絵にしただろうし、仏師であれば仏の姿を彫刻にしただろうし、書道家であれば名号を書によって表現しただろう。僕にはそんな能力がないからしないだけだ。それにそうして作った本尊はいつもいつも持ち歩くことができない。胸の内にある根源的な本尊はいつも心で憶念し念仏することができるからそれだけでいいんだ。

B君 そうすると、本尊はいらないということになっちゃうんじゃないか。

A君 そうだね。私には礼拝の対象物となる本尊はなくてもよいよ。根源的な大悲を心で憶念し念仏することで仏の救いは完結しているからね。本尊を持つか持たないかはその人の自由であって往生には関係ない。祖師は総序にもっぱらこの行に奉え、この信を崇めよと言われているよ。この行や信とは感受している如来の大悲の働きとして現れた信や称名のことだが、一言で言えば大悲のことだよ。これに対して本尊は助業のうちの礼拝行に関する対象物だ。助業は助業、往生の正行ではない。本尊は助業として位置づけられるべき問題なのさ。

B君 じゃ、本尊の意味はどこにあるというのかな。

A君 さっき言ったように大悲の思いを喚起するきっかけになり、心多歓喜を得るというところに意味がある。それが助業の本来の意味だ。助業は最勝真妙の正行という仏様の働きの添え物だから力を入れなくてもいいんだよ。

B君 それは信後の人にとっての意味だよね。信前の人にとっては意味あるのかな。A君 仏の大悲を理解するきっかけになるというところに意味があるかも知れないし、心を仏に向かわせることになるというところに意味があるのかも知れない。あるいは理解を超える何らかの自然な働きがあるかも知れないという感覚に身をゆだねることが大悲を領解する縁になるかも知れない。だからおろそかにはできない。B君 信前と信後で意味が違ってくるのかな。

A君 そうだね。大悲への思いを中核とする心の仕組みに働きかけて大悲を感じるきっかけになるものであれば何でも助業になると思う。それは礼拝行などの人の行でなくてもいい。先の心の仕組みを刺激し大悲を偲ぶものになるものは何でも助業になると思うよ。元祖流に言えば念仏を促すものであれば何でも助業になる。助業は最勝真妙の正行という仏様の大悲の働きを感じ受けた上での助業だよ。信前には大悲を感受するということがないから大悲を表す名号や木像絵像は助業にはなり得ない。せいぜい仏縁になったり大悲を感受する縁になるかも知れないという程のものだ。

B君 どうして祖師は本尊を指定されなかったのだろうか。

A君 本尊は信後における助業の地位に位置づけられるからだと思う。仏の救いに直接かかわるものではない。だから御本典において言及されなかったと思う。

B君 大悲を感受している人の感受の仕方に関わる問題だから、本尊を設置するかどうか設置するとしてもどのような本尊を設置するかは各人の考えに委ねられているというんだね。

A君 うん。そうだね。
B君 最後に本尊を設置するとすれば、名号が最も良いのだろうか。

A君 それは君がいま言ったように、大悲を感受している人の感受の仕方に関わる問題だから何とも言えない。私にとっては一番しっくりと来るのはやはり名号だね。念仏として称えやすいように仕上げられてもうすっかり慣れ親しんでいるからね。また摂取不捨を無疑という心の態度で受けている心の姿は南無阿弥陀仏という姿だという理解の上でも名号が一番なじみやすい。でも、そうだからといって大悲を表す木像や絵像を否定することもできやしない。それは先に述べたように胸の内で無形の大悲を感受している思いを中核とする心の仕組みが人それぞれにあるからね。だから名号でなければならないということはないんだ。木像が有り難いと感じられ る人もいるだろうし絵像が有り難いと思う人もいるだろう。人が感じているところに他人がずけずけと入り込んで大悲を感じ受けている感情を否定することはできることじゃないよ。