3-26.会話編 他力信の特性-回心とは-

B君 祖師は信に一念があると教えられたが、その文言上の根拠は無量寿如来会の「一念の浄信」という文言にある。その上で十八願成就文の「聞其名号信心歓喜乃至一念」の「一念」を信の一念と理解された。この信一念は信が開発する初起一念と理解されているが、ここで疑問に思うのは、この初一念はその初一念のときに自覚的に認識できるのか、或いは初一念時には自覚的に認識できなくても、事後的に実際の信体験の上で初一念を想定ないし認定することができるのか、ということだ。

 

A君 どうしてそんな事を考えたのか。

 

B君 「聞其名号信心歓喜乃至一念」の一念は行の一念とするのが元祖の解釈だが、祖師が大経に直接の根拠の無い信一念をわざわざ異訳の無量寿如来会の文に根拠を求めたのは、祖師の信体験の上から、よほどの事情や理由があってそうされたのではないのかと思うんだ。

 

A君 つまり祖師には初一念のときに自覚的に初一念を認識できた、ないしは事後的に初一念を自ら想定ないし認定することができたと考えているんだね。

 

B君 うん。それにね、少なくとも事後的に初一念を想定することができるものでなければ、信一念は観念的ないしドグマであると言われかねないことになる。

 

A君 君は信一念を観念的な理解にとどめずに、実証主義の立場からさまざまな信体験において信一念を必ず見いだすことができる、と考えているんだね。

 

B君 そう。そのような考えが正しいかどうかは、数多くの信体験のサンプルが必要になるし、そのサンプルは回心という心理的現象が可能な限り正確に叙述された精度の高いものでないといけない。精度の低いサンプルだと誤答につながるおそれがあるからね。

 

A君 確かに信一念を観念的な教義レベルに終わらせるのではなく、信体験に信一念があることを実証的に確認してゆく作業を行った研究はこれまでになされたことはないだろう。そこに目をつけたのはどうしてなんだい。

 

B君 信一念は自覚的には分からないという論調が多く見られるよね。おそらくこの論調は、初一念のときに自覚的に信一念を認識できなければ他力信ではないという主張に対して反駁するところに意味があると理解されるが、事後的にも初一念の有無を想定することができないのか、ということが疑問になってきたんだ。

 

A君 確かに祖師は「建仁元年辛の酉の暦、雑行を捨てて本願に帰す」とだけ言われていて、自らの信体験を詳述した著作はない。だから詳しい事情は分からないが、建仁元年という年単位のスパン内で信体験があったと認識されていたことは確実に分かる。その信体験が特定の年度に起こったということは、その年の1月に起こったか2月に起こったか、ないしは12月に起こったか分からないというものではないだろうと推測できる。

 

B君 自らの信体験を事後的に評価してみると、あのときに信が開発したと理解されたということなのか、それを知りたいと思ったんだ。

 

A君 信一念が自力が廃って如来の救いを受け入れるときのあるべき理念であるというのは理解できるし、自力の計らいがどこかの時点を境にしてなくなったという実感の上からも信一念の存在を首肯することができる。しかし、初一念を自らの信体験の上に見いだそうとして事後的に認定する作業を丁寧に行うにしても相当な困難がつきまとうのも事実だ。

 

B君 そう。だからここで2つの選択肢が考えられるんだ。①1つは信一念という教義はドグマに過ぎないと理解し、信体験における初一念を認定する作業を放棄する。②2つは信一念はドグマではないし、事後的に信体験の上に見いだすことができるという確信の下に信体験における初一念を認定する作業を行ってみる。僕は②の方向を目指しているのだ。

 

B君 そこでA君の信体験を聞かせてくれないかな。

 

A君 ん?君の研究材料にしたいと言うんだね。まぁいいか。参考になるかどうか分からないし、君を収拾のつかない解決困難な混乱に導く事になるかもしれないよ。

 

B君 それでもいいから聞かせてくれないか。

A君 では、一つの参考程度に聞いておいてほしい。

 

A君 私が人生後半にさしかかったある日の夜、自宅ベッドの上でふと天井を見上げたとき、病院の病床で同じように天井を見上げている自分を想像してみた。老病によっていずれはそうした日が確実に来ることは間違いがないと思ったとき、蓮如上人の「雑行雑修自力の心を振り捨てて一心に阿弥陀如来、我らが今度の一大事のご後生、御助け候とたのみ申して候。たのむ一念のとき往生治定、御助け一定と存じ喜び申し候。」という文がふと思い出された。わざわざ宿善を積む難行によらずとも自力の思いを振り捨てて帰命すれば救われるんだと思えた。このとき人生で初めて心から阿弥陀仏に救われてみたいという思いになった。それで死のことが再び、問題になりはじめた。

 

B君 それ以前は救われたいという思いになったことはなかったのか。

 

A君 大学入学時に「阿弥陀如来に救われると壊れない幸せになる」と聞いたときはそうなりたいと願うようになったが、私の言う「初めて救われたい」という思いはその思いとはまったく異質なものだ。

 

B君 どうちがうのか。

 

A君 「壊れない幸せになりたい」という思いは「自力の思いを振り捨てて帰命する」という救済の視点というか要の抜けた、あこがれめいた思いに過ぎない。

 

B君 「自力の思いを振り捨てて帰命する」という救済の視点が定まったことで、その意味を知りたいと思うようになったんだね。

 

A君 単に意味を知りたいというだけではなく、そこにしか如来の救済が現実的に起こる場所はないという思いや感覚になったんだ。                                       

B君 なるほど。「壊れない幸せ」という観念に踊らされるのではなく、お聖教の文の中に「現実的な救済」が書かれていると理解したということだね。

 

A君 そう。これが長らく続いた呪縛から自由になった最初の踏み出しになったと思う。

 

B君 それで君の言う「死の問題」とはどういうことか。

 

A君 臨終に向かったときに自分の心の状態に大きな問題がある事に気づいてしまったということだ。これは以前から心に感じていた問題ではあったが、自力も他力も何も分からないまま死んで逝くことの重大さを再び思い出したということだ。頼るべきものや体を失って命を永遠に向かって放り出すとき、いい知れない不安に陥るという心の問題はまだ解決されないまま残っており、もう一度この心の問題に取り組もうと思ったということさ。

 

B君 それで。

 

A君 自力の思いを振り捨てて帰命すればその心の問題が解決がついて救われると思ったのだが、自力の思いというものがそもそもどういうものか分からなかった。だから帰命ということも分からなかった。そう思うとこれらを理解できない限り信は得られないと思えて落ち着かない気持ちになった。だから、二十歳代後半に精神的に捨てたはずの真宗を、もう一度はじめから自分の力だけで、他人の影響を受けずに心から納得のいくまで勉強し直してみようと思い立ったのさ。

 

B君 独自に勉強したのか。

 

A君 そう。可能な限り真宗の本をネットで購入したり、本願寺で購入して読んでみたよ。本を読んでも自力の思いと帰命のことは分からなかった。だからインターネットで法話の情報を入手しては本願寺などに説法を聞きに行ったり、とびきり優秀な知人が某会を脱退して信も得ているとネットで公表していたので、その人に東京まで来て貰ったりもしていた。しかし、いずれもいずれも聞いても分からない。何一つとして心から分かったという感じがしないんだ。

 

B君 うん。

 

A君 何一つとして自力も他力も分からないという思いのまま助かりたいと思って、宿善になるとかつて聞いていた正信偈などの拝読をその頃毎日数回から十数回の頻度でこっそりと行ったりもしたし、それに伴って念仏も称えてみた。拝読という読誦正行に相当な重きを置いていたのだが、そのうち読誦は自分が続けてできる行ではないと思うようになり、面倒くさい拝読よりも念仏の方が浄土の行としては簡単で効率的だと思うようになった。

 

B君 うん。念仏以外の行はある意味すべて難行だ。それで。

 

A君 何も分からないまま死んで逝くことの重大さに気づいたことから感じた、あの取り返しの付かない不安感はあたかも潮が引いてはまた満ちるように不安と安定とが交互に繰り返す日々が続いたんだ。その思いから法話を聞き求めるのだが、聞いても聞いても分からない。不安な気持ちになると救われたいという思いが心をとらえて離さないようになっていった。日々、そんな思いに囚われる時間が次第に長くなっていったように思う。そんなときだよ。こんな心の状態のまま死んで逝くのかとはじめて死に臨んだときの心境が現実の問題になったんだ。つまり現在の心境は命終時の心境とまったく変わらない。命終時の心境が現在の心境だということになると、命終の心境が極めて身近になるとともに死がグッと身近なものに思えるようになった。現在の心境が命終の心境であると理解できたことで現在と命終とが現実問題としてひとつにつながったんだ。そうなると、今日、明日死ぬかも知れない。そうなったらどうなるんだろうと深刻な気持ちに陥った。それでますます他力の信が欲しい、阿弥陀仏に救われたいと心から願うようになった。そう願うようになるとますますこのまま死んだらどうなるのかという思いに囚われる時間が長くなってゆき、ますます苦悩するようになった。その2つの思いが繰り返しながら続くんだ。これは心の病理現象じゃないかと思った。

 

B君 いずれ助かるだろうとは思わなかったのか。

 

A君 いや、思った時期があった。病理段階が深刻化する前にいずれ助かるだろうと思えた時期があった。必ず助けるとの大悲があると思っていたからね。だから、いずれは助かるだろうと思えたときはそれは嬉しかったものさ。でも、その救いがいつになるのかと考えると再び不安に陥った。いずれは助かるだろうと思うものの心は苦しかった。これが「若存若亡」と言われるものかと思ったよ。

 

B君 それでだんだんと絶望するようになっていったのかな。

A君 それはまだもう少し先の話。その前に自力の思いというヤツに気づいたのさ。B君 自分の心の中に自力の思いがある現実に気づいたんだね。

A君 そう。他力の信が欲しい。助かりたい、助かるだろうという思いが自力の心だと気づいてしまったんだよ。

 

B君 何がきっかけで気づいたのかな。

 

A君 助かりたいという思いは、まだ助かっていないという思いの裏返しだ。まだ助かっていないという自覚的な思いがあるから助かりたいという思いになって念仏を称えるという心理状態になっている。この心の中で起こっている現実に気づいたとき、この心理状態から一歩も抜け出ることができないことに気づいたのさ。念仏を称えてもまだ助かっていない状態のままだ。来る日も来る日も自分は助かっていない現実に否応もなく気づかされる。そのときにこの心理状態から抜け出られない限り、他力の信は得られないし、助かることはないのだと思えたんだ。そしてこのとき、これが捨てるべき自力の思いだと気づいてしまったのさ。

 

B君 蓮如上人の「雑行雑修自力の心を振り捨てて」の自力の心がどういうものか

分かり始めたということだね。

 

A君 諸善を行じて助かろうという思いはもともとなかったが、読誦という助業を念仏に優先させていた思いが雑修、念仏で助かりたいとの思いが自力であると思った。その頃、その教学上の区別は付いていなかったが、雑行雑修という行をなす思いというものはみな助かりたいという思いを共通にしており、この助かりたいという思いが自力の心だと感じたんだ。

 

B君 うん。自力の計らいという問題は深刻な自分の心の中の問題であると分かったんだね。

 

A君 そう。これはたいへん深刻な問題だった。その心理状態から抜け出ようとしても一歩たりとも抜け出ることができない。抜け出ることができない時間が無為に過ぎてゆくだけで、このまま死んで逝くしかないのかと思えた。そう思うと助かりたいと思うが、この思いがそのまま自力の心で、助かりたいと思えば思うほどその自力の思いで心が完全に八方塞がりになってしまう。心が厚さ1メートル以上もあるゴム状の球体の中に閉じこめられて、内側から壁に体当たりでぶつかっても跳ね返されてしまう思いだった。自力の思いの事を「薄皮一枚ままならぬ。」と表現された妙好人がいたことを思い出したが、とてもそういう感覚ではなかったよ。

 

B君 その心理状態に陥って説法を聞いていたんだね。

 

A君 そう。だからどうすればこの八方塞がりの状態から抜け出られるのかとばかり布教師に質問していたよ。

 

B君 聞くべき所を聞かず、自分の心ばかりを見ていたんだね。

A君 そう。

B君 自分の心ばかりを見るのではなく、大悲を聞くんだと教えられなかったのか。

 

A君 教えられた。でもその意味が皆目分からなかった。「その大悲が分からないから質問しているだ。」などと食ってかかる勢いで質問したよ。

 

B君 大悲が分からないから自分の心しか見えないんだね。

A君 そうだね。これには参った。もう自分ではどうにもこうにもならなくなった。

B君 それが自力と他力の断絶という絶望感だね。

 

A君 そう。絶望するしかなかった。助かりたいと思った瞬間、それがすぐに自力の思いに転化するのだからね。本当に「自力地獄」といっていい状態だよ。これが自力の思いに囚われた者の心理状態だ。祖師が「疑網」と言われた意味が分かったような気がしたよ。自分の助かりたいという思いがマスクメロンの網状の1本1本の固い筋のようにたちまち心を覆って心を閉じこめてしまう感覚だ。

 

B君 それからどうなったのか。

A君 この悶々とした状態がしばらく続いたよ。

B君 その先を聞かせてくれないか。

 

A君 「自力地獄」に陥るとそこから抜け出ることはできないと観念しかけていたとき、ある布教師の説法で如来の大悲が私にかけられていることと大悲が届いているということをことを聞いた。それが心に残って、それはどういうことなのだろうかと自問自答した。そうこうするうちに、形のない大悲が大経という形を取って七高僧へと本願が連綿と伝え続けられ、それが現代にいたって法話という形を取って今私が大悲を聞いているのだと気づいたのさ。そのとき、連綿と伝えられてきた大悲はこうした歴史的な具体性をもった力になって私に届いていたのかと思えるようになった。そしてこの大悲の力はその後どうなってゆくのだろうかというところに思いを至したとき、この大悲の力は私をそのまま浄土へと引き連れてゆくのかなぁと思えた。そのときに頭の中で何かがはじけて分かったような気がして、大悲を感受する思いになり、感涙するようになった。このときを「A時点」というよ。このときはこれが救いであるのなら、何と簡単な救いであろうか、これ以上に易しい救いは他にはないと感じたよ。

 

B君 大悲が届いていると気づいてどうなった。

 

A君 そう気づいても救いらしき手応えはないままだ。後生のことは分からないままだし、地獄の底で仏の呼び声とやらは聞いていない。手応えがないから自分はまだ救われていないという根強い思いはそのまま心の中に残ったままだった。

 

B君 それで。

 

A君 ある日、その同じ布教師の説法を聞いたとき、その布教師が話す阿弥陀仏の慈悲の言葉が、あたかも阿弥陀仏自身が私に語りかけているような感覚になった。これが大悲が届いているということなんだと納得できた。このとき、阿弥陀仏の直の声が聞こえたということではないよ。「あたかもそう聞こえた」ということだよ。そのことはそのときにも自覚的に認識していたことだった。いうなれば布教師の言葉に阿弥陀仏の大悲が乗って私に直接届いたという感覚であったから、「あたかもそう聞こえた」ということだ。この時点をB時点というよ。

 

B君 それで。

 

A君 ご示談の時間になったので、そこで真っ先に質問した。「今日は布教師の先生の言葉が阿弥陀仏が説法しているかの如く聞こえて、大悲が私に届いていることが分かった。さあ、問題はここからどうすればよいのか。」と質問したのさ。今から思えば、ずいぶんと間抜けな質問をしたと思うが、そのときはそれなりに必死だったんだ。

 

B君 どのような回答があったのか。

 

A君 「もうそれで終わり。気づけば終わり。」だと言うんだ。「大悲が届いてることに気づいたのに救われていないと言うのは迷いが深い。」とも言われた。

 

B君 すぐに理解できたのか。

 

A君 理解できなかった。大悲が私に届いている思いとともに大悲に感涙する自分がいるものの、他に何ひとつ変わったことはなかった。これでおしまいと言われても、救いというものがどういうものなのか分からなかった。

 

B君 それで。

 

A君 大悲を感受しているものの、このままが救いであると言われても本当にこんなに簡単な救いであっていいのか、という思いがあった。また、大悲を感受して感涙しているものの、これが他力の信心ではなかったら、私の後生は一体どうなるのだろうかという思いも残った。

 

B君 それで。

 

A君 それで繰り返し繰り返し自問自答したし、祖師が住まわれた稲田にあるお寺に行って得られるはずのない指南を祖師に求めた。何かが感じられるかも知れないと思って祖師の見返り橋に立ってみたりもした。言葉としての教えは聞くことはもちろんできるはずもないが、ここに行って気づいたことは、仮に私が救われていないとしてももう自分のできることは何ひとつ残されていない、ということだった。後生がどうなるのかについてはこれまでと同じように何も分からない。このまま死んで逝くしかない状態は何も変わることがなかった。でも、その命終時に私がどうなるかは今この私に届いてる阿弥陀仏の大悲次第だと気づいて思いが変わってしまったんだ。心が翻ったような感覚、命終の先に体ごと倒れ込んで飛び込んでいくような感覚を覚えた。大悲のままに死んで逝けばよいだけだったと思えた。その後はただただ大悲に感涙するだけだった。この時を「C時点」というよ。

 

B君 それが君の回心の体験だったんだね。

A君 今思えば、そうだったのかなと思える。

 

B君 信一念というのが分かったのか。

 

A君 いや、いつが信一念だったのかはそのときそのときに自覚的に分かったわけではない。ある状態から別の状態へと確実に変化したということは分かる。その時点が「A時点」という瞬間なのか「B時点」という瞬間なのか、「C時点」という瞬間なのか、或いは「A時点からC時点」を含んだ連続した期間にかけて生じた変化だったと理解して良いのか、そのときは正直言って分からない。ただ有り難うございますと感涙するだけで精一杯だった。

 

B君 それが、自力から他力へ変わってしまったと考えている根拠なんだね。

 

A君 そう。根拠はそれしかない。

 

B君 その後、死んだ後どうなるかという不安や助かっていないのじゃないかという不安は起こってこないのか。

 

A君 起こってこない。「大悲を感受するがまま」という思いが心を占めてしまっているので、そのような不安は起こらない。

 

B君 「それが他力の信じゃないとしたら」という思いは出てこないのか。

 

A君 出てくる。しばらくの間出てきたし、今でも出てくるが、それが不安を伴うものではなくなってしまった。大悲を感受していればそれだけでよい。大悲を感受できなくなったり、再び後生の問題が不安になってきたら、そのときはそのときだし、そのときでも大悲は私とともにあり、私が仮に地獄に堕ちようとも大悲は常に私とともにあり、仏と私とは一心同体だと図らずも開き直ってしまった気分だ。

 

B君 では、君が考える信前と信後の違い、つまり回心とは何だというのか。

 

A君 信が欲しいとか助かりたいという思いはなくなってしまい、これで地獄に堕ちるのであれば、感受している大悲もろともだという心の据わりができた。自力の思いが心を占めていたのがすっかり無くなってしまった。以前は感受できなかった大悲が心に感受できるようになった。それだけだ。人がどういう意味で回心という言葉を使うのかは分からないが、自分が回心という言葉を使うとしたら、この状態の変化にしか使うことができない。

 

B君 じゃ、その回心は何を契機として起こったと考えているのか。

 

A君 回心は、救われたいのに自分では乗り越えられない自力の壁に突き当たった苦悩と大悲が自分に届いているという思いの2つを契機として起こる心の現象だと思う。大悲を聞かされても、自力の思いから抜け出る事ができない大きな苦悩がなければ回心は生じないし、そうした苦悩があっても大悲を聞いて自分に届いていると理解されなければ回心は生じないと考えている。

 

B君 「救われたいという思い」や「自力の思いから抜け出る事ができない苦悩」は心の内側から起こった思いだから、これを「内薫」と名づけるとすれば、大悲を聞くというのは心の外からの働きかけだから、これを「外薫」と名づけることにしようか。内薫だけでは回心は生じないし、外薫だけでも回心は生じない。この両方が揃ったとき回心が生じるというんだね。

 

A君 そう思う。内薫は自分が意図的に意識して起こした思いではないし、本願を聞くというのも外からの働きかけだ。だから、回心は自分の心の中で起こった現象ではあるものの、自分(自我意識)とは無関係に勝手に生じ起こった現象のように思える。自分の意識(自我意識)を中心にして言うと、自分の意識とは関係なく心が勝手に無意識のうちに「救われたい」と思うようになり、自分の心が勝手に無意識のうちに「自力の思いから抜け出る事ができないと苦悩」するようになり、大悲が届いている事も外からの働きによって気づかされ、自力の思いがきれいに消えてしまったのだから、心が回転して転換したというに相応しいと思う。この回心は自分とは無関係に勝手に起こったものだとしか思えない。自分の力が足りたということはなかったし、自分の力はすべて自力の思いとなって跳ね返されたという思いしかないので、自分の力は間に合うものではないと思えるのだ。

 

B君 その内薫と外薫を君は本願力だというんだね。

 

A君 内薫を過去からの本願力との縁によるもの、外薫を現在の本願力との縁によるものという理解をすれば絶対他力という考えが成立する。でも、それとはちょっと違った解釈も成立すると思うよ。

 

B君 どんな解釈か。

 

A君 内薫は心の不安が意識レベルに到達せず無意識のレベルに留まっていたものが、やがて意識されるレベルまで次第に強くなってきたということ、外薫は説法を聞く事による気づきという心理的な影響や効果のことだ。宗教色を一切取り払ってこの回心という宗教的心理現象を理解し解明しようとすると、シナプス結合という脳神経回路の構築とシナプス結合の強弱が心の作用を決定し、決定された心の作用が意識に上って意識に提示されるという大脳神経学的現象に原因を求めざるを得ない。回心が自力の思いを生じさせていたシナプス結合が消失ないし弱体化されて、大悲を感じる新たなシナプスの再結合が促されたことによって生じた心の心理作用であると考えることもできる。そう考えると回心は真宗独自の現象ではなく、他の宗教でもあり得る自然現象だとの理解も可能になってくる。

 

B君 もともと仏教では三界唯一心心外無別法といって、すべての現象を心に還元する立場に立っているが、この立場と整合性をとろうとすると、君のように理解する事になるのか。

 

A君 いや、それは分からない。阿弥陀仏の本願力という外薫が固然とした実在として心の外にあるという考え方もありうる解釈だとは思うが、大悲が心の外に実在するという認識が間違いであるにせよ何にせよ、大悲が届いているという認識は私の心が認識したことでもあるので、その認識が内薫とともに協働して回心を生じさせたと理解する事も可能となる。つまりは内薫も外薫も自分の心の働きだということになる。大悲を感受する心の作用はこれまでになかった神経回路の再構築によって生じている自然現象のように思う。

 

B君 本願力による回心か心のもともと持つ作用としての回心か、ということだね。

 

A君 その両者は対立するものではない。心のもともと持っている作用としての回心であると理解しても、心の作用として生じたその作用そのものが本願力だと理解することができるからね。心の作用の全てが解明されて何らかの手かがりを得ることがあれば、もっと確実に回心という宗教的心理現象に迫ることができるだろう。

 

B君 そうすると、どちらかに固執する必要もないということだな。

 

A君 そう。肝心なのは心の自然現象としての捨自帰他が現実に起こり、大悲を感受しつつ念仏称えて生きてゆく事と念仏称えて大悲を感受しながら死んで往く事であって、その現象を説明する学解などの哲理が大事なのではないからね。哲理は所詮哲理に過ぎない。本当のものではない。

 

A君 横道にそれてしまったが、本題に戻ろうか。

 

A君 私の信体験をどう理解するかについては、いくつかの解釈が考えられる。①1つは信一念が判然としない体験は他力の信ではないと考える。②2つは信一念を「A時点」又は「B時点」又は「C時点」に求めて他力信と認定する。③3つは信一念を信体験の上に求める知的作業を放棄して、「A時点からC時点」にかけて自力の思いが廃って本願にゆだねたことで十分とし、他力の信と認定する。

 

A君 さあ、君ならどの立場をとる?これが君の提示した問題意識を追求してゆくとぶちあたる困難な課題だよ。でも、だれでもがぶつかる問題だと思うがね。

 

B君 信一念の教義に忠実な立場は①か②になる。③はとりにくい。君はその問題についてどう考えているのか。

 

A君 あまり結論を急ぐなよ。

B君 ②の立場はとっていないのか。

 

A君 仮に②を取ると、信一念を「A時点」とするか「B時点」とするか「C時点」とするかの認定に困難がつきまとう。

 

B君 具体的には?

 

A君 信一念を「A時点」に求める場合、A時点において存在した「まだ助かっていないという思い」をどう理解すればよいのかという悟性の問題が生じる。この思いは自力の思いではないとしなければ、信一念を「A時点」に求める立場は成立しない。

 

A君 「まだ助かっていないという思い」が無くなった「C時点」に信一念を求めるとすると、A時点で大悲を感受した思いをどう理解すればよいのかという悟性の問題が生じることになる。A時点での大悲感受の思いは信ではないとしなければ「C時点」に信一念を求める立場は成立しない。

 

A君 「B時点」に信一念を求めると、「A時点」に求める場合の問題点と「C時点」に求める場合の問題点を同時に抱え込むことになる。

 

A君 このように②に立つと困難な問題がつきまとう。一番簡単で楽なのは①か③の立場をとることだ。

 

A君 そもそもこのような問題が生じたのは、事後的に信一念を認定しようとする作業は悟性を唯一の頼りとする。悟性というのは知的な心の作用の事だ。論理や概念を重視した心の作用の事だ。しかし、信は悟性ではない。悟性ではないとすればなんだというのかというとよく分からない。悟性ではないから、一応、感性の領域の問題だとしておくよ。信という感性の領域の問題を悟性が取り扱うと、悟性は教義を重視することになるから、教義に合致しているか否かだけを考えて①の結論をだすことになる。逆に③を承認すると信一念の教義を捨て去るか、信一念の概念を再構築するかの決断をしなければならなくなる。ここに悟性を重視することの問題性がある。

 

B君 悟性を重視すると君の信は他力の信ではないということになってしまいかねないよね。

 

A君 実は、自分自身でもそのように考えたことがある。そのことは上に述べたとおりだし、今でもときどきそう考えることがある。でも、これが他力信ではないために地獄に堕ちるようなことがあったとしても、そのときは大慈大悲の仏も私ともに地獄に堕ちて下さる、私は仏とは一心同体という心の据わりがある。だから、他力信ではないとしても心や気持ちの上では何の問題もないのさ。

 

B君 心の状態としてはそれでいいのだろうが、悟性はどうなったのか?

A君 悟性を重視しなければ何の問題も起こらないさ。悩まなくてすむ。だから個人的には親和性を覚えるよ。

 

B君 そりゃあそうかもしれないが、なんかモヤモヤした感じが残るよ。

 

A君 そのモヤモヤ感は他力信に対して悟性的アプローチ(悟性的思索)をとるときに生じてくる問題だよ。君が感じるモヤモヤ感は悟性が満足していないモヤモヤ感だ。このようなモヤモヤ感は阿弥陀仏というものの存在を考えるときにも出てくる。でも他力信はこの悟性的アプローチに対して超然としているのだ。そんな悟性が何になるという超絶感が他力信にはある。悟性的アプローチでは到達し得ない領域にあるのが証果や他力信だと思う。だから、悟性によって他力の信や回心を理解しようとしても、いずれどこかの時点でこの悟性的アプローチは完全に放棄されなければならない運命にあるように思える。

 

B君 たとえば、死を迎えたときとか。

 

A君 そうだね。そのときは悟性は完全に役立たなくなる。大悲に命をまかせるだけだ。さて、この続きの詳細は別の機会にしようか。それまでに一応の答えを用意しておくよ。納得のゆく答えを用意できるかどうか保証はしないけどね。ただ先取りして言っておくと、私は、A時点で大悲心を聞き受ける回心(捨自帰他)が不足なく成立し、成立した回心の意味を悟性が正しく理解したのがC時点だったと目下のところ考えている。C時点の思いが回心の完成型ではあるが、回心が成立して自力世界への後戻りができなくなったのはA時点であると思う。初一念はこの1度限りだ。B時点やC時点の感情や思いのことは初一念ではない。B時点のそれはA時点の初一念に伴って生じた後続する感情や感覚であったり、C時点のそれは悟性的認識による納得感・モノ落ち感であると思う。初一念はその直後から感情面に深い影響を与え、心の状態(落ち着き状態)を決定する要因になる。また思想面に至るまで幅広くかつ深く影響を及ぼし、その影響は長期的には宗学の修得や行動(念仏行や表現活動など)にも及んでゆく。妙好人は一生涯、臨終の際までその影響下にあるのではないかと思う。

1-30.他力信の特性

他力信の特性を列挙してみる。信の特性はこれらに限定されるものではないし、いくつかは重複している。感じるままに考えたもので教学的に整理したものではない。
①.大悲感受性
②.事実性
③.現在性
④.未来指向性
⑤.過去因縁性
⑥.純真性
⑦.意識非対象性
⑧.無所得性
⑨.非言語性
⑩.仰信性
⑪.信順性
⑫.分離性・委託性
⑬.静寂性
⑭.不変性・確定性
⑮.仏因仏果性
⑯.所与性・回向性
⑰.受動性・受容性・自力無功性
⑱.平等性・無縁性
⑲.念仏発動性
⑳.念仏一体性
㉑.機法一体性
㉒.無意識性
㉓.連続性
㉔.隔絶性

①の大悲感受性は、信は無量光寿の大悲を感受するものであるということ。大悲を感受しているのが信であり、大悲の感受以外に信と呼べるものは何もないということ。
②の事実性は、信は心に属する事実であるということ。信は単なる思想や考えなどではなく、無量光寿の大悲を受けていることを事実として実感できるということ。
③の現在性は、信は常に現在に属しており、過去の一時期のものではないし、未来に属するものではないということ。無量光寿の大悲はつねに現在において感受するものであるということ。
④の未来指向性は、信には往生決定という未来指向性もあるということ。
⑤の過去因縁性は、信は無量光寿との浅からざる過去からの因縁を喜べるということ。
⑥の純真性は、信は無量光寿の大悲を受けるときには一切の計らいが介在せず大悲を純真にそのまま受けるものであるということ。
⑦の意識非対象性は、信は意識の対象にはならないということ。無量光寿の大悲を受けているとの思いがあるものの、その思いと大悲が意識の対象となるだけであり、信が意識の対象になることはないということ。
⑧の無所得性は、信はただ無量光寿の大悲を受け容れるだけであり、何かを得たという実感を伴うものではないということ。大悲には五感で感得できる実在感のようなものはないということ。
⑨の非言語性は、大悲の感受は概念として言語化することができないということ。大悲は言語化することができる対象領域にはないということ。あえて信と大悲を言語化すれば南無阿弥陀仏となるということ。
⑩の仰信性は、信はただ無量光寿の大悲を仰ぐばかりであるということ。
⑪の信順性は、信は任せよとの無量光寿の大悲に信順するものであるということ。
⑫の分離性・委任性は、信は後生の問題を如来の領域の問題であって私が解決すべき問題ではなかったと自分の責任領域から分離して、無量光寿に私の往き先を委ねきってしまうということ。
⑬の静寂性は、無量光寿は静寂であること虚無のごとくであり、信は動乱することがなく、静寂であるということ。
⑭の不変性・確定性は、信は変動せず変化がないということ。大悲を感受している思いが不変的にあり続けるということ。往生は確定したとの思いが不変的にあり続けるということ。
⑮の仏因仏果性は、信は無量光寿が成就した仏因仏果によって生じるものであるということ。信の全因縁は仏の無量光寿にあるということ。
⑯の所与性・回向性は、信は無量光寿によって与えられるものであって、自ら求めて得られるようなものではないということ。
⑰の受動性・受容性・自力無功性は、信はただ無量光寿の大悲を受け容れるしかないということ。自分から無量光寿を掴みにいこうとしたり、自分の心を制御・作動させることを手段として無量光寿に触れようとしても触れられるものではないということ。信には自力及ばずの思いが必ず伴っているということ。
⑱の平等性・無縁性は、信はいつでもどこでもどんな状況にあっても心の中に開け起こるものであるということ。能力、才覚、思い、善悪など自分の側に属する一切のものは信に関係するものではないということ。無量光寿の大悲はそれらに無縁の平等の大慈悲であるということ。
⑲の念仏発動性は、信は無量光寿の大悲を感受すれば必ず念仏行として発動するということ。念仏行として発動しない信はないということ。
⑳の念仏一体性は、信は念仏発動の心源として念仏と一体であるということ。念仏は無量光寿の救いの法源として、また大悲を感受させる法源として信と一体であるということ。
㉑の機法一体性は、信と念仏は無量光寿の大悲によってもともと一対の機受として仕上げられているということ。計らい煩うことがないように信と念仏は大悲が仕上げているということ。衆生に作為を求めるものではないということ。
㉒の無意識性は、信は無意識の領域に深く根をおろしており、意識せずとも大悲を感受し、また無意識のうちに念仏として発動するようになるということ。感受も念仏も自然になさしめられ、ことさらに作為を必要としていないということ。
㉓の連続性は、信は大悲が無量光寿へとわがいのちをつなげてゆくと感じさせるものであるということ。
㉔の隔絶性は、信は世間で起こる縁起の影響を受けることはなく、信もまた世間における縁起に影響を与えることがないということ。信を得た者の我執などの思いが三業として起業して世間に善・悪の影響を与えることはあっても、信と世間とは隔絶しているということ。

自分は大悲から隔絶されていると心から感じている方がいるとすれば、その隔絶感は、自力の思いに覆われた心が自力と他力が完全に断絶していることを素直に感じ取っている絶望感であると言える。この絶望感はやがて自力の思いが廃ることを予兆させるものである。この自力と他力の断絶を自分の力で乗り越えようとしても不可能である。ここに大悲からの救いを受け入れる回心が成立する契機がある。大悲は受け入れるしかないから、意図することなく自力が廃捨されて回心が自然と起こるものである。この回心ののちは、これまで感じていた仏との隔絶感は消失してしまい、大悲を感受する心の世界が開けて仏と自己とに連続性があることを感じられるようになる。ここに信の不思議と面白みがある。

3-25.会話編 念仏往生(続々) 南無阿弥陀仏 妙味と教学

B君 信の味わいは教学とは別だと考えている人は多いように見受けられるが、君はどう考えているのか。

A君 信の妙味とは大悲を感受していることから味わえる感じや思いのこと、摂取不捨の阿弥陀仏に南無(信順無疑)となっている心の状態を基点として生じる思いのことだ。最近法友となった人から「南無阿弥陀仏を与えられている実感があるからそこに喜びが生じる。」とのコメントを貰ったが、その実感や喜びが信の妙味だね。

B君 自分の信を語るに教学を語る事で代替しようとする人もいるが、自分の妙味を感じるがままに話をしてくれる人もいるよね。
A君 妙味を感じるがままに話をしてくれても見事に教学に合致している事に気づくことがあるよ。信を明かした大経の教説を学問化・体系化したのが教学だから当然といえば当然なんだが。

B君 何か身近な例を挙げてくれないかな。
A君 先日アップした「3-24会話編」についてお便りをくれた人がいた。その方が述べている妙味を紹介するよ。
-引用-
南無阿弥陀仏が往生の証拠とお聞きして「南無阿弥陀仏が完成して南無阿弥陀仏という証拠が届いている世界に生まれさせて頂けて南無阿弥陀仏のおいわれをお聞きするご縁に恵まれて私の往生が決まってしまっていることを喜べるまで阿弥陀さまが全部お手回しして下さっていたこと」を、よかったなぁ嬉しいなーって思えるまでお育て頂いたことを改めて喜ぶご縁になりました。われとなえわれ聞くなれどつれてゆくぞの親のよび声。お念仏はいつもお慈悲に満ちて頼もしいですね。
-引用終わり-

A君 以上を分節して解説してみようか。
①.南無阿弥陀仏が完成して南無阿弥陀仏という証拠が届いている世界に生まれさせて頂けて南無阿弥陀仏のいわれをお聞きするご縁に恵まれて私の往生が決まってしまっていることを喜べるまで阿弥陀さまが全部お手回しして下さっていたこと。これを①とする。
②.よかったなぁ嬉しいなーって思っていること。これを②とする。
③.お念仏はいつもお慈悲に満ちて頼もしいですね。これを③とする。
①は法蔵菩薩が因願を成就し、果上の御名を回向したことと信の発得は仏の全因縁であることを語ったもの。
②は回向された御名が信となったことを語ったもので、十八願成就の聞信のこと。③は十八願の称名のことで、大利を得るとされている念仏と信が不二であること。を述べている。

B君 妙好人の話される言葉の中には教学とぴったりと一致する内容が含まれているということだね。もう少し詳しく説明してよ。
A君 大経には、法蔵菩薩四十八願、ことに十二願と十三願、十七願と十八願・十一願が成就されて光の仏となられた事が説かれている。その十二と十三の願成就は法蔵菩薩が正覚を開き、無量の光と無量のいのちの仏となったことを、それらの願と十八、十一の願成就は法蔵菩薩の正覚成就の因果がそのまま衆生往生の因果となったことを、十七の願成就は法蔵菩薩の正覚成就の因果がそのまま衆生往生の因果となった不思議を諸仏が現に讃嘆・証成していることを意味している。釈迦の大経所説の説法はその十七願成就の証ということになる。

B君 「法蔵菩薩の正覚成就の因果がそのまま衆生往生の因果となった」とはまま言われていることだが、その真に意味するものはなんだろうか。
A君 法蔵菩薩が無量の光といのちの南無阿弥陀仏となった、その南無阿弥陀仏を因願に対して果上の名号というのだが、この名号は、仏覚を開かれた阿弥陀仏智慧と大悲の世界においては衆生の往生成仏がすでにこの名号によって完全に決まってしまっていることを意味している。説法でしばしば聞くと思うが、「名号のおいわれを聞く」とは「法蔵菩薩の正覚成就の因果がそのまま衆生往生の因果となった」ことを聞くということなんだ。衆生からすればどんなに仏の摂取決定心にあがらい続けても必ず仏になることが決まってしまっているということだ。私の未来の果は既に定まっているので何ら自力の行を必要とすることなく仏の救済にあずかることができる。これこそが真に意味する所だ。

B君 私の未来の果が成仏という果となることが決まっているのであれば、その因は何だというのか。
A君 その因が南無阿弥陀仏だ。

B君 南無阿弥陀仏が因とはどういうことか。
A君 法蔵菩薩が無量光・無量寿南無阿弥陀仏となったことによって衆生を摂取するに何の疑心疑退もない仏の摂取決定心が果上の御名として成就した。この仏の摂取決定心を聞いて無疑の心となり、この信となった南無阿弥陀仏が往生の因となるということだ。
B君 つまり阿弥陀仏の願心が成仏の因ということか。
A君 そうだ。

B君 そうであるならば、どうして信心正因ということをいうのか。往生浄土が既に決まっているのであれば信は不要ではないのか。
A君 仏の摂取決定心中において私が浄土往生することは既に決まっているが、それが現に実現して次生に私が成仏するか否かは、仏の摂取決定の大悲を受け入れた現在の信によって決まる。だから信心正因ということをいうのだ。

B君 私が浄土往生することが既に決まっているということは、いずれ信を得ることも決まっているということか。
A君 そう。確定している。誰もがいずれ今生か次生か遠生に仏の大悲心を領解することが確定している。

B君 いずれ信を得ることが確定しているのであれば、信を求める事は不要ではないのか。
A君 「阿弥陀仏の報土に往生することが確定している」ということをどのように受け取るかは人それぞれになるが、「報土往生することが既に決まっている」ということを聞いて無疑の心で受けとめて歓喜する人もいる。同じことを聞いても不定の信に留まる人もいる。或いは、信を求める事は不要だと考える人もでてくるだろう。それが宿縁というものだ。大経には不定の信に留まり疑情胎宮に閉じこめられた人であっても「仏智乃至勝智を信じ、諸々の功徳をなして信心回向すれば自然に化生する」と説かれ、これに対し、南無阿弥陀仏の成就によって私の往生は決定していることを聞いて信心歓喜し浄土往生を願ずるようになれば弥陀浄土に蓮華化生したのち「智慧明らかにしてみな自然虚無の身無極の体を受けることになる。」と説かれている。現在の信不信がその報土往生の岐路となるので信心正因という事が言われるのだ。

B君 つまりどんな人であっても南無阿弥陀仏の成就によって将来の報土往生は決定しているが、信不信によって次生の報土往生か、遠い先の報土往生かが分かれてくるということだね。

A君 ここで私が面白いと思うのは、仏の大悲心である摂取決定心において決定している果が現在の無疑信を開くということだ。
B君 普通は現在の因によって未来の果が決まると考えるのが常識的だよね。
A君 常識的にはそうなんだが、真宗の信は逆なんだ。既に仏によって報土往生が決定しているということを聞いて無疑となる信なんだ。果上の御名によって私の浄土往生が決まってしまっており、それを聞くことで信が生じる。未来の果が現在に影響を与えて無疑の信を開くとも言えるし、果上の御名によって報土往生が決まってしまったという思想が無疑の信を開くとも言える。仏の大悲心や果が変わることはないので無疑の信も変わることがない。これは通常の理解を超える信だよね。もう一度言うと、果上の御名によって報土往生が決まった。そのことを聞くことで無疑の信が開けた。その信が次生の報土往生を決める正因になる。その全因縁は法蔵菩薩の大悲心と御名の成就にある。だから祖師は遠く宿縁を慶べと言われている。

B君 決定要期という言葉があるが、今のことと関係しているのかな。
A君 関係しているよ。往生成仏という未来の果が決定していることを無疑の心で受けたとき、その決定した果を期する思いが生じる。その思いは元祖が「南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いとりて」と言われる往生決定の思いだ。未来の果が不定な状態で往生を期待するのではなく、既に決まった浄土往生を期待する思いだ。不定な状態で往生を期待する思いを不定希求の思いという。この不定希求の思いがあるために不足を補おうとして念仏を称えるのだが、その称名は自力の行に堕してしまうのだ。既に決まった報土往生を期待する思いの念仏には不足の思いがないので自力の思いが混じることがない。これが如実の行であり如実の信だ。南無阿弥陀仏の願心に相応しているから如実と言われる。

B君 諸仏が御名を不可思議真実功徳であると称讃するとはどういうことか。
A君 凡夫が仏として生まれる因縁はすべて願力成就の御名にあるから御名の不可思議功徳を諸仏は讃嘆し証成している。祖師は大悲の成就たる御名を大悲回向と言われ、浄土往生の真因は願力回向によるとされている。この大悲回向によって信が次々に開けてゆくので、弥陀の因果が衆生世界に縁起して無限の菩薩を生み出していることになる。この不可思議を讃嘆しているということだ。その讃嘆は、法蔵菩薩の願心のとおり現に信を生ぜしめている南無阿弥陀仏の不可思議を証成することにもなる。

B君 上記①は御名の成就と諸仏の讃嘆によって大悲が回向されており、釈迦弥陀の大悲によって調熟されてきた全因縁を悦ぶものだということになるかな。
A君 そう。釈迦弥陀は慈悲の父母種々に善巧方便しわれらが無上の信心を発起せしめたまひけり、という和讃のとおりだ。仏の大悲を感じ取っているから言えることだ。この感受が信のすべてなんだ。

B君 ②は、①の大悲の回向を受けて信順無疑となって大悲を受け入れて歓喜している様を表している。これが他力の信相であり、願成就文の「聞其名号信心歓喜」ということだね。南無阿弥陀仏が届いているいう実感があるから喜べるというコメントも同じことを言われたものだね。
A君 摂取するという大悲に南無(信順無疑)しているので、この心相を南無阿弥陀仏と名づけて良い。
B君 ③は自力を交えずに念仏を称えている様相を述べたものだね。
A君 そう。南無阿弥陀仏の心相のままに称えている如実の念仏行だ。これが信具足の称名大行だよ。大悲を感受するままがままに称える念仏だから念仏が頼もしいという表現ができる。真に頼もしいのは、念仏を称える心の中に感じている大悲なのだ。

B君 それが念仏往生ということだね。
A君 法蔵菩薩の正覚成就の証である南無阿弥陀仏が私の往生成仏の因果となって私の往生が決定し、次生に報土往生してゆく。もっと短く言えば、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信となり行となって往生してゆく。もっと短く言えば、南無阿弥陀仏 往生の業が念仏往生だ。もっと短く言えば、南無阿弥陀仏という一言になる。この一言の南無阿弥陀仏に私の往生と弥陀の両因果のすべてが収まっていると言うことだね。これが念仏往生だということだよ。

B君 つまり、南無阿弥陀仏は弥陀正覚成就の証。南無阿弥陀仏は報土往生の因果。私の信行は既にこの南無阿弥陀仏に用意されている。このため現象界に私の信行となって必ず現われる、ということだね。
A君 南無阿弥陀仏は弥陀正覚成就と報土往生の因果の証であるから、南無阿弥陀仏から行を出すと「南無阿弥陀仏 往生の業」となる。さらに信を出すと大行と大信となる。信行を御名に摂して言えば「弥陀正覚成就の証 南無阿弥陀仏」になる。弥陀正覚成就の証を御名に摂して言えば、「南無阿弥陀仏」になる。元祖が「南無阿弥陀仏にて往生するぞ」と言われたのはそういう心だと思う。

B君 阿弥陀仏の正覚成就の証である南無阿弥陀仏を名号大行、南無阿弥陀仏を称名する行を称名大行というよね。でも南無阿弥陀仏の信となったのを大行とは言わないのは、なぜなんだろうね。
A君 さあね。でも私は南無阿弥陀仏の信となったのを大行と言って良いと思う。信も南無阿弥陀仏だからね。名号大行たる御名に自力疑心がまじわらずそのまま大悲を心に映し取っている如実の信だ。喩えれば、御名が鏡に映り込み、鏡の中に映し取られた御名が御名そのものであるように両者はぴったりと相応して何の差異もないようなものだ。そうはいっても信は御名の複製物であるというのとは違う。無形の大悲がそのまま私の心中に入り込んだのが信であって、信は大悲だ。大悲を感受している味わいを表現するとそうなる。

B君 君が「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信行となった」という言い方をするのは、そういう味わいからなんだね。 
A君 そう思う。それにね、表現を簡潔にすることは議論する際に効率的だし、思考するに適している。誤解の無いように言っておくが、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信行となった」という捉え方や思想は古くからあったことだ。

B君 君の発想や物事を考える視点は「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信行となった」ということに尽きてしまうのかな。
A君 そう。たったこれだけを基点にして考えてゆくと観念的になりがちな行信論を自分なりにきちんと整理することができるようになるよ。念仏往生という教説も「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信行となった」ということを忠実に伝える教えであるはずだという単純な発想にも繋がってくる。

B君 その表現は信の味わいをなるべく忠実に表現しつつ、教学的使用にも耐えられるようになっているということかな。
A そう。法蔵菩薩の大悲の願と私の往生の因果が同時に成就されていることを表し、かつ自力疑心が一点も混じることのない他力の信の境地を端的に表している表現だと思うよ。南無阿弥陀仏とはもともとそういうものなんだ。

B君 僕は教学と味わいは別だという発想をする人が多いのは残念であり、それは誤った風潮だと思うが、どう思う?
A君 信が開けた者にとっては、本来、教学と生きた味わいとは融合しているはずだ。仏と大悲と信と念仏について、大悲を感受している思いに照らし合わせながら、その思いに忠実に組み立てたのが教学だから、教学は信を表現した1つの方法だと思う。そういう視点に立つと、紹介したような方々が教学の修得に力を入れて勉強し、教学を味わい深い視点から解説できるようになって欲しいと思うんだ。元祖が「南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いとりて申す他に別の仔細なきなり」と言われているのは、法蔵菩薩の正覚と衆生往生の因果の同時成就という教説やその味わいを背後に控えた信の深みを簡潔に表現されたものだと思うが、このような親しみやすく信の妙味を表現してゆくことが信を受けた人に課せられている使命ではないだろうか。

3-24 会話編 念仏往生(続編) 南無阿弥陀仏が往生決定の証拠になるとは?

〔設 問〕

御文(四帖目8通)に次の文がある。この文と念仏往生の教えとは異なるのか。

当流の信心決定すといふ体はすなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。かるがゆゑに阿弥陀仏のむかし法蔵比丘たりしとき「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますときその正覚すでに成じたまひしすがたこそいまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふもただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。

 

A君 上記の文には口称の念仏は一度も登場していないため、念仏往生を教えたものであると理解することに困難を感じる向きがあるかもしれないね。

B君 整合性をとりにくいとすれば、上記の文をどうとらえるのだろうか。

A君 某所ブログで、南無阿弥陀仏が(決定往生の)証拠だと述べた某氏に対して上記文を挙げつつ文証はこの一箇所であり、「この1箇所のみを殊更に重視する」と反論するコメントが投稿されていた。

 

B君 真宗教義上の問題を文証の多寡で決着を付ける態度は良い事なのだろうか。

A君 文証が何カ所あるかという数の問題ではない。その内容が念仏往生の教えにとってどういう位置づけになるのかを考える事が大事だと思う。

 

B君 上記の文は念仏往生の教えとは異なってはいないと君は考えているのだね。

A君 そう。元祖法然聖人の念仏往生の教えを理解するに際しては、あまり口称に拘泥せず、南無阿弥陀仏による往生が念仏往生であると理解しておけば良いと思う。

 

B君 念仏往生をどう理解すればそういう結論になるのかな。

A君 元祖の念仏往生の教えは十八願による往生のことで、念仏とは十八願の乃至十念のことだが、この念仏は至心・信楽・欲生の三信を具備した念仏であり、御名を如実に行じる念仏のこと。大経の十七願及び十七願成就文と十八願成就文とを一連に理解し、得られたところの阿弥陀仏の救いの在り方に照らせば、念仏往生を如来大悲の願力たる南無阿弥陀仏による往生とか、如来の御名を往生の真因とする往生の事だと理解して良いと思う。

 

B君 念仏往生は大経に由来すると理解して良いのかな。

A君 そう。十八願の往生については上記の成就文の他にも大経下巻の「衆生往生因往観偈」に「その仏の本願力、御名を聞きて往生せんと欲へば皆ことこどく彼国に到りて自ずから不退転に到る」とある。「胎化得失章」に「もし衆生ありて明らかに仏智ないし勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心回向すれば、このもろもろの衆生七宝の華のなかにおいて自然に化生し・・身相・光明・智慧・功徳もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん」「弥勒まさに知るべし、それ菩薩ありて疑惑を生ずるものは大利を失すとする。この故にまさに明らかに諸仏無上の智慧を信ずべし」とある。「流通分弥勒附属章」にも「仏弥勒に語りたまわく、それかの仏の名号を聞くことを得て歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす」とある。念仏往生の淵源は以上の文にある。

 

B君 御名を往生の真因とするとは、どういうことかな。

A君 御名を往生の真因とするとは機受の上で御名が信となり行となることをいう。

 

B君 それはどういう意味か。称名は如実の行と言われる理由と合わせて述べてよ。

A君 御名が行者の行となっていることを如実修行というのだが、祖師の高僧和讃曇鸞讃」に次の和讃がある。

不如実修行といへること鸞師釈してのたまわく、一者信心あつからず若存若亡するゆえに。二者信心一にならず決定なきゆえなれば、三者信心相続せず。余念間故とのべたまふ。三信展転相成す。行者心をとどむべし。信心あつからざるゆえに決定の信なかりけり。決定の信なきゆえに念相続せざるなり。念相続せざる故決定の信を得ざるなり。決定の信を得ざる故信心不淳とのべたまふ。如実修行は信心ひとつに定めたり。

祖師は浄土文類聚鈔において淳心・決定心・相続心の3つを「淳一相続心」とし、「一心すなわち深心、深心すなわち堅固深信、・・無上心、無上心はすなわち淳一相続心、淳一相続心はこれ大慶喜心なり。大慶喜心を獲れば・・」と言われ、「二尊の大悲によりて一心の仏因を得たり」と言われている。淳一相続心は一心のことだと言われ、その一心が仏因だとされている。仏因とは仏になる因ということで一心が仏因であるというのだ。「如実修行は信心ひとつに定めたり」と同じ意味の文章は本典にもある。本典には「一心これを如実修行相応となづく」と言われている。

B君 それはどういうことか。

A君 如実修行相応とはもともと真如法性に適った修行の事だが、阿弥陀仏たる摂取不捨の大悲に南無した心相は南無阿弥陀仏となり、この南無阿弥陀仏の心相が南無阿弥陀仏の口称となる。この信行はともに南無阿弥陀仏という真如法性に適った如来の大行に相応している。如来の大行に相応した心が如来回向の一心であり、この一心から顕現している口称の念仏は御名の大行がそのまま顕現したものだから大行と呼ばれるに相応しいものになる。如実修行相応とは真如法性に適った修行の事ではあるが、それは信の有無によって決まるので「如実修行は信心ひとつに定めたり」とか「一心これを如実修行相応となづく」と言われたのだと思う。御名がその行者の信とならなければ称名が如実修行となることはないから、真宗では信が往生の真因とされている。

 

B君 つまり蓮如上人が言われる「六字の心」とは「摂取せん」との大悲の招喚に「南無」したことをいい、南無阿弥陀仏が私の心相となればその心相は「如実修行」となるが、そうでなければ「不如実修行」になってしまうということかな。

A君 そう。「六字の心」となった心相が他力の信。この信の有無次第で称功を見ない如実の念仏行となるか、不如実修行とされる念仏行となるかが分かれる。心相が南無阿弥陀仏の相になっているから南無阿弥陀仏と称える口称の行はその心相と相応するので、その行も「如実修行相応」と言われ、そうなってなければ「不如実修行」になる。このことをまずもって理解しておくことが必要だと思う。

 

B君 その信について蓮如上人は「他力の信心獲得すといふもただこの六字のこころなりと落居す」と言われているんだね。

A君 そう。摂取不捨の大慈悲たる南無阿弥陀仏に帰命する状態は南無阿弥陀仏の心相となった状態であり、その上で南無阿弥陀仏と称する行は南無阿弥陀仏に相応するので、その称名は南無阿弥陀仏如実に行ずる行相となって「如実修行相応」と言われる念仏となる。南無阿弥陀仏そのものが信となり行となる。その信行は南無阿弥陀仏そのものだ。信と行が不二であると言われる理由はここにあるし、信即称名・称名即信とされる理由もここにある。

 

B君 そのことと念仏往生とはどう関係するのかな。

A君 念仏往生の念仏とは南無阿弥陀仏に相応する如実の念仏のことだが、如実念仏の行者は信の決定によって十八願力の往生が決定することになる。善導大師は信を各所で強調されている。①「一心に信楽して往生を求願すれば上一形を尽くし下十念を収む。仏の願力に乗じてみな往かざるはなし」②「信を生じて疑いなければ仏の願力に乗じてことこどく生ずることを得(観経疏玄義分)」③「無量寿経にのたまふがごとし。仏阿難に告げたまわくそれ衆生ありてかの国に生ずるものは皆ことごとく正定の聚に住す。十方の諸仏みなともに彼の仏を讃嘆し給う。もし衆生ありてその名号を聞きて信心歓喜すなわち一念に至るまでせん。かの国に生ぜんと願ずれば即往生を得て不退転に住す」と。またこの経をもって証す。またこれ証生増上縁なり(観念法門)」④「弥陀の本弘誓願は名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで定めて往生を得と信知して即ち一念に至るまで疑心あることなし。故に深心という」⑤「然るに弥陀世尊、本深重の誓願を発して光明・名号をもって十方を摂化し給ふ。ただ信心をもって求念すれば上一形を尽くし下十声・一声等に至るまで仏願力をもって易く往生を得。」⑥「名を聞きて歓喜して讃ずればみなまさにかしこに生ずることを得べし(往生礼讃)」などを紹介できる。

B君 上記の下線部分が帰命の一心を表しているんだね。既に摂取不捨の大悲に帰命していることで摂取不捨の利益にあずかっているので称名以前に往生は決定となっている。この決定した往生が念仏往生といわれるんだね。

A君 十八願力による往生決定は信によって決定するという事だ。

B君 つまり願力の信心による往生決定の事だね。

A君 そう。念仏往生とは願力の信による往生決定とまったく同じなのだ。蓮如上人が「信心決定すといふ体はすなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。」と言われているように南無阿弥陀仏の六字のすがたとなった信心による往生の事だ。

 

B君 その心相が発露した称名念仏行と諸善とを行として相対し、そのどちらを往生の行として定めるかを明確にするときに、往生の行は称名念仏行であるとされたのが善導であり元祖なんだね。

 

A君 そう。その念仏行が往生行となるか否かは信いかんによる。だから善導を継承した元祖も称名行だけではなく信をも強調されている。例えば①「煩悩のうすくあつきをもかえりみず、罪障のかろきをもきをも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と唱えて声につきて決定往生のおもひをなすべし(法然聖人つねに仰せられる御詞二十七条御法語)。」②「ただ心の善悪をもかへりみず罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて口に南無阿弥陀仏ととなえば声について決定往生のおもひをなすべし。その決定によりてすなわち往生の業はさだまるなり。かく心得つればやすきなり。往生は不定に思へばやがて不定なり。一定と思へばやがて一定することなり(往生大要抄)。」③一枚起請文には「ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもひとりて申す他に別の子細候はず。」といわれている。「南無阿弥陀仏にて往生するぞというおもひ」とか「決定往生のおもひ」が祖師の言われる「一心の仏因」のことだ。祖師は念仏正信偈で元祖について「生死流転の家に還来するはこと決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ること必ず信心をもって能入とすと」と言われている。

 

Cさん 蓮如上人は五帖目8通(浄土真宗聖典1195頁)に十八願を「南无阿弥陀仏といふ願」と呼ばれていたけど、念仏往生と関係があるの?

A君 おおありだよ。ちょっと考えてみて。

 

Cさん エッと十八願は「至心信楽欲生我国、乃至十念、若不生者不取正覚」よね。「至心信楽欲生我国」は真実信心、「乃至十念」は数を問わない如実の念仏行よね。

A君 「至心信楽欲生我国」は真実信心、それを蓮如上人の言葉でいうと・・・。

Cさん 蓮如上人の言葉で言うと、タノム。

A君 タノムを別の言葉で言うと・・。

Cさん アッそっか。帰命とか南无だわね。

 

A君 「若不生者不取正覚」が成就されると・・・。

Cさん 摂取不捨ね。ってことは阿弥陀仏だわね。摂取して捨てざれば阿弥陀と名づくと観経にあったわよね。

 

A君 となると・・・。

Cさん 「至心信楽欲生我国、若不生者不取正覚」が成就すれば、タノム者を摂取して捨てたまわず、だから、南无阿弥陀仏というわけね。

A君 そう。それを機法一体の南無阿弥陀仏という。しかも「乃至十念」も如実の南无阿弥陀仏だろ。

Cさん 十八願では信ある者が摂取されるから南无阿弥陀仏、行も南無阿弥陀仏ね。

A君 そう。だから十八願は私の身の上に南无阿弥陀仏の成就を誓った願なんだ。

 

Cさん じゃ十七願はどうなの。十七願も御名の成就と回向を誓った願なんでしょ?

A君 そうだけど十八願は私が南无阿弥陀仏になることを誓った願だと理解できる。

Cさん 十七願で誓われた御名の成就と諸仏の讃嘆による回向が私の上に働いて私が南无阿弥陀仏になったって訳ね。

A君 そう。十八願の信行が成就された姿が十七願に誓われた南無阿弥陀仏の御名ということだ。蓮如上人は「信を得るとは本願を心得るなり、本願を心得るとは南無阿弥陀仏を心得るなり」と言われているけど、この意味はもう分かったよね。

Cさん ええ。十八願が私の上に成就すると、私の心相が南無阿弥陀仏になるのよね。私の心相が南無阿弥陀仏になるということは、タノム者を助けるという南無阿弥陀仏のおいわれのとおりになるということね。それは私が阿弥陀仏に摂取されて浄土往生してゆく私の姿なのね。それが南無阿弥陀仏なのね。

 

B君 だから南無阿弥陀仏が真実浄土往生の証拠となるというのだね。

 

A君 そう。私が阿弥陀如来に摂取されている心相が南無阿弥陀仏、その心相が行となったのが南無阿弥陀仏称名念仏。ここで気づくことはないかい?

Cさん 何かしら。分からないわ。

 

A君 Cさんは、元祖の至心釈を知らないかい?

Cさん よくは知らないけど、善導大師の有名な御文に関する釈ね。

A君 そう。法然聖人は至心とは内外相応をいうと理解しているよね。私の心相も南無阿弥陀仏、行相も南无阿弥陀仏だよ。これは内外相応だよね。

Cさん アッそうか。信を得て念仏する姿が凡夫の至心なのね。分かったわ。

 

A君 信を得て念仏を称えている姿のほかに凡夫の至心はないんだよ。その凡夫の至心は仏様の至心なんだ。本願のまことを深信し念仏を称えることを元祖は、聖道における総の至誠心と区別され別の至誠心と言われている。祖師は念仏のみぞ真実にておわしますと言われた。念仏は称えられる御名が真如にかなったものだという理解を示されたものだと思うが、心相も外相もただ南無阿弥陀仏の真実あるのみだということなんだろうね。

 

B君 ますます南無阿弥陀仏は真実浄土往生の証拠になってくるよね。

A君 そう。信ある人は南無阿弥陀仏が往生決定の証拠であることを信によって領解するが、信の無い人にはそれが自らの往生決定の証拠であるとは分からないものなんだ。

Cさん 「南無阿弥陀仏が往生決定の証拠」という文は御文章に多くは書かれていないけど、真宗教義にとってとても大事なことを教えている御文だと分かったわ。それは念仏往生の教えと同じ意なのね。

 

A君 御名の成就によって往生は確定した。それが南無阿弥陀仏という意味だから、蓮如上人は「他力の信心獲得すといふもただこの六字のこころなり」と言われたんだ。

-上記のCさんの会話部分は既出の「会話編6」の字句を若干に修正したもの

 

Cさん 信心正因称名報恩という教えは念仏往生の教えと異なっているの?

A君 違いはないよ。いずれも南無阿弥陀仏を真因とする往生の事だ。

 

Cさん どうして言い方が違ったものになるの?

A君 念仏往生の外相として現れた念仏を諸行に対比して元祖は念仏を勧められた。それは聖道自力仏教が仏教の中心であった時代に念仏による浄土往生を浄土仏教として独立開宗するために念仏を強調する言い方になった。祖師は念仏往生の教えを本願力回向という観点から念仏を大行大信として組み立て直され、またその称名大行たる念仏に報恩としての意味を与えた。蓮如上人は自力称名念仏が盛んな時代にあって信を強調して他宗と区別する必要があったので称名を報恩行として強調された。

 

Cさん 言い方の違いだけなの?

A君 元祖、祖師、蓮師三者三様であるが、いずれも願力回向の南無阿弥陀仏を浄土の真因とする大経往生を言われたものだ。大悲を感受する信を心に収めた称名は大行であり、かつ報恩行なんだ。称名大行を強調するか称名報恩を強調するかはそれぞれの時代の要請に合わせて変容し得るが、どの時代にあっても南無阿弥陀仏たる大悲を信行の因とする聞名往生という本質部分は少しも変わることはない。その本質部分が念仏往生であると理解しておけば言い方に拘泥する必要はないし、その言い方の違いで念仏往生の理解に違いが生じることはない。拘泥すると無用な論争になりかねない。

 

B君 最初に君は「あまり口称に拘泥しない」と言ったが、それはどういう意味か。

A君 称名報恩と言っても、報恩たる念仏行は大悲の感受に伴って相続されるものだ。それは淳一相続心での念仏だから如実の大行であることに違いはない。報恩行だからこそ自力疑心の混じらない如実の大行だと言える。称名を報恩行と位置づけても念仏を軽視することにはならない。つまり口称念仏に与える意味に拘泥する必要はないということが一つ目。二つ目は「憶念の心つねにして仏恩報じる思い」があれば心で憶念しているだけでも良いということ。外相に声として表さなくても良い。憶念の心が常にあれば声にしなくても念仏往生となるから、念仏の軽視にはならないよ。

3-22.会話編 念仏往生 念仏の勧めとは?

B君 「阿弥陀仏はまかせよと勧めており、念仏は勧めていない」とある布教師が言ったことを契機として、阿弥陀仏は念仏を勧めていない、いや、勧めているという議論が始まったばかりだが、君はどう考えているのか。

 

A君 「阿弥陀仏は念仏を勧めているか否か」という問題の立て方というか、その表現がどうもしっくりと来ない。阿弥陀仏の場合には、「念仏を勧めているか否か」という言い方ではなく、「我が名を称えられん。称えん衆生をば摂取せんと願われているか否か」という言い方であればとてもしっくりとくる。このような問題の立て方をすれば、どういう展開になったか興味深いね。ただし、答えはどちらも願われていると回答すると思うけどね。この問題は阿弥陀仏の願いとはどういうものかがポイントになりそうだね。

 

C子さん 私には大悲を感受している思いがあるから、南無阿弥陀仏を称えると仏様と悲喜交流しているような感じになるわ。気づけばいつのまにか称念している自分に気づくのね。仏様が称えるなと言われたとしてもこの称念は止まることがないと思う。常に感じている大悲の感受がその念仏に先行しているのね。感受に応じて念仏しているので私の称える念仏であっても私の行ではないという思いにもなるのよね。私の行であるなら行を勧められているという言い方には何の違和感もないけど、念仏は大悲感受の自然の行であって私の行ではないだから、阿弥陀仏が念仏を勧めるとか勧めないとかという範疇の問題ではないように思えるの。その議論には仏の悲願とか大悲という観点が抜けているように感じるわ。

 

B君 そんな感じもするが、どのように論理的に説明してゆけばよいのだろうか。

 

A君 阿弥陀仏の救いのあり方を出発点として考えてゆくしかないだろうな。新たな問題が生じたときは、常にそうした思考が求められる。議論の展開次第では、議論の前提となっている阿弥陀仏の救いのあり方に関する理解の仕方が相互に異なっていたことに原因があったのかとあとから気づくことがあるし、前提となっている理解は共通しているけれども、その後の論理展開の過程で異なる意見に枝分かれしていったことに気づくこともある。だから、最初に行うべきは、議論を始める前提となる阿弥陀仏の救いのあり方に関する基本的な理解を明示しておくことが大事になる。これが本題を考える上での出発点だ。これをおろそかにすると議論が空転するばかりで、互いに悪感情しか残らなかったという結果にもなりかねない。

 

A君 もうひとつ大事なことがある。それは「念仏を勧めている」とか「まかせよと勧めているのであり、念仏は勧められていない。」とは、それぞれどういう意味で言われたのかを確定しておかなければならない。議論がしっくりと来ない原因はここにもある。また「念仏は勧めていない。」とはどのようなシチュエーションで言われたのかによっては答えは変わってくる。

B君 シチュエーションやその意味によってはあり得る表現だということかな。

A君 そうだね。

B君 「まかせよと勧めているのであり、念仏は勧めていない」とは必ずしも念仏往生を否定する趣旨にはならないと考えているのか。

A君 そう考えている。

B君 どうしてそう思うのかな。

A君 そのことを理解するには、私の理解する「阿弥陀仏の救いのあり方」を最初に聞いて理解して欲しい。次に願成就の文と観経下々品の文について考えてみよう。

 

B君 阿弥陀仏の救いのあり方について、どう考えているのかな。

 

A君 最初に大経の所説や教相から考えてみよう。大経思想を要約して阿弥陀仏の救いのあり方を言うと十七願・十八願とその各成就文に集約される。「十七願の誓い」は我が名を諸仏に称讃されんという願いだが、これは一切の衆生を浄土往生させる働きのある我が名の成就を誓い、諸仏に我が名の成就とその功徳を証成讃嘆して貰い、諸仏に我が名が讃嘆されるのを衆生に聞かせて信心歓喜させるという大悲を顕している。「十八願の誓い」は「十七願の誓い」に従って我が名が諸仏に讃嘆されるのを聞いて我が救いを至心に信楽して我が国に生まれられると思うて我が名を称えられん。かかる機の衆生を浄土往生させるという大悲を顕している。その各成就文は御名たる南無阿弥陀仏による救いが円満に成就されていることを仏が保証し証成したものだ。この大経思想を真宗の教学風に構成し直せば、「十八願成就の相である南無阿弥陀仏は、摂取不捨の大悲を具現し十八願力として作用していることを今まさに諸仏は讃嘆しており、讃嘆されている南無阿弥陀仏はこれを聞いた衆生の上で十八願に誓われた信因と行因となり浄土往生が決定する」となる。これは大悲を受け入れた者の心相が南無阿弥陀仏の信となり、南無阿弥陀仏を称念する念仏行が往生行になるということだ。これが衆生の上に顕現する大悲心の現れ方だ。

 

B君 うん。

A君 次に、本願成就文の「聞其名号信心歓喜」は浄土往生の真因が成就されるのは大悲の成就を告げる御名を聞くことによる、と教えたものだ。信因と同時に行因も成就する真宗の至極を教えたものだが、「心相と行相に現れた南無阿弥陀仏の御名が真実浄土往生の真因である」ということになる。これをひと言でいうと「南無阿弥陀仏を聞かせて救う」となる。

 

B君 じゃ次。観経下々品の悪人往生の文だ。観経下々品には「汝もし念ずるにあたはすばまさに無量寿仏の御名を称すべし」「かくのごとく心を至して声をして絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。」と説いているが、その教説は先の大経思想と整合するのかそれとも相反するのか。

 

A君 表現上の差異はあるものの、その勧める信因・行因は完全に一致している。「無量寿仏の御名を称すべし」と釈迦仏が勧めているのは、一切の自力の行や一切の自力の思いを廃捨させ、ただ仏の御名を称すること、ただそれだけで往生は決定して往生行となる大悲を教え勧めたものだ。「心を至して声をして絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称する」の信は十八願の信すなわち「聞其名号信心歓喜」と同じ信であり、その行は乃至十念の本願念仏と同じだ。信行とも一致している。その信行について祖師は大行・大信の順番で教えられているが、大行・大信とは阿弥陀仏の大悲たる南無阿弥陀仏のことだ。

 

B君 じゃ念仏往生とは?

A君 念仏往生という思想は、阿弥陀仏の救いのあり方を端的に表現したものだが、十八願による往生を念仏往生という。十八願は信因として三信を、行因として乃至十念の念仏を定めているが、この十八願の信因と行因はともに「南無阿弥陀仏」であるから、南無阿弥陀仏を真因とする浄土往生のことを念仏往生というと理解して良い。大悲たる南無阿弥陀仏の大行と大信を浄土往生の真因とする往生のことだ。念仏往生は大行と大信から構成されることを明らかにしたのが祖師の本典だ。

 

A君 念仏往生の念仏とは信を具足した称名あるいは信を内包している称名のことだ。行者の外形に顕現している念仏行をとって念仏往生というのだろうが、元祖が「ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申す外には別の子細候わず」とともに「決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いと(る)」と言われている信行によって浄土往生するというのが念仏往生の思想だ。

B君 念仏往生とは南無阿弥陀仏を往生の信因とし行因とする浄土往生のことだね。短く言えば南無阿弥陀仏で往生するということが念仏往生なんだね。

A君 そうだよ。念仏往生の念仏とは称名としてあらわれた南無阿弥陀仏のことだ。衆生が声帯を震わせてナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツと一語一語を連続して発語する行いは南無阿弥陀仏の大悲が私の上に作用している行である、と心に領解しているか否かで往生の得否が定まる。領解すれば往生が定まる。領解していなければ往生不定となる。この領解によって定まった往生を念仏往生というんだ。この領解によって仏の御名が称名念仏に全顕されたものになって、称名が即大行となるんだ。「全顕」とは御名の働きの全てが顕れているというほどの意味だ。

 

A君 善導の光号摂化の教えは光明・名号の働きによって往生することと光明・名号の働きが信因となって往生することを顕したものだ。ここから両重の因縁というのだが、光明・名号という大行と光明・名号の働きによる信という大信の2つを明かした浄土往生だから、これは念仏往生と同じ思想だということが分かるだろう。また浄土論註の覈求其本釈も阿弥陀仏の十八願力による浄土往生を顕したものだから、これも念仏往生と同じ思想だ。表現が異なるだけで、大悲他力で浄土往生するものだから、念仏往生と同一の思想だ。同じ事象を指す語としていろいろあることが分かるだろう。

 

B君 いよいよ本題ね。まず「阿弥陀仏はまかせよと勧めている」とは、君はどういう意味に理解しているのか。

 

A君 「阿弥陀仏にまかせる」というのは、南無阿弥陀仏に全顕されている本願大悲、善導の二河喩にはその大悲を「呼ばう」と喩えられ、祖師は行巻の六字釈で帰命は本願招喚の勅命とされているが、この大悲招喚に呼応して大悲を心に受け入れることや大悲を受け入れている心の状態のことだ。「まかせる」とはその大悲を心に受容し大悲の働きにゆだねきっている他力信のことを表現したものだ。元祖の言う「南無阿弥陀仏にて往生が決定するぞと思い取る」思いのこと。この思いは南無阿弥陀仏と完全に相応しているので「一心」といわれる信となるんだ。信は摂取せんの大悲たる南無阿弥陀仏に相応するものなんだ。

 

B君 阿弥陀仏に我が往生のいかんをまかせるとどうなるのか。

A君 大悲を聞いてその大悲にまかせると、浄土往生の真因としての南無阿弥陀仏が行者の上に信因・行因として成就されるので、その後には後念相続としての本願念仏が全顕する。これが十八願の念仏往生だね。この意味で「阿弥陀仏にまかせよ」と勧めるということは念仏往生を勧めるのと同じことになる。

 

B君 祖師の六字釈は、称名行が不回向の行であることをあらわされたものであると理解しているが、この釈は行に関する釈にとどまらず、信にも関わってくるのか。

A君 当然信に関わってくる。祖師の六字釈は称名行は行者にとっては不回向の行であることをあらわされたものだが、裏を返せば、称名は実には南無阿弥陀仏そのものであるから行者の行ではなく、仏から回向された大行だということだ。その仏の大行は行者に対して大悲招喚の大悲として現れ出て全顕されているから、そこに信が開け起こっており、行者の大行には大信が具足している。これは称功として信が生じたのではない。大悲の願力たる南無阿弥陀仏によって信が開けたのだ。南無阿弥陀仏による信が開け起こって称える念仏が南無阿弥陀仏の大行そのものとなるのだ。行者の大行となったその大行に大信は当然に備わっており、行者の大行は行者にとって大信となっている。祖師は六字釈中に善導の「必得往生」の必得を釈して「即得」とし「即の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり」と言われている。行者の大行となった称名から大信を別開しているのだ。大行は大信の故に大行となるのだよ。信がなければ称名は大行とは言われない。

B君 つまり、もともと行者側の心相である帰命を如来大悲の招喚として理解されたのは、念仏行者の心相たるべき帰命は大悲招喚を受け入れた行者の信を表し、その信のうえの念仏行はもはや行者の行ではなく、仏の大行そのものだというんだね。

A君 そう。だから祖師の六字釈は称名行が大行であるということを表すと同時に行者のものになった大行には大信を具備していることをも表しているということだ。大悲の招喚によって大信と大行がともに成就されていることを表されているんだよ。

 

B君 じゃ「阿弥陀仏にまかせる」が念仏往生と同じことを勧めているのだとしたら、「念仏は勧めていない」をどのように理解したら、念仏往生を必ずしも否定した趣旨にはならないというのかな。

A君 信が開け起こるのは大悲にまかせ、大悲を受け入れる以外にない。大悲は摂取不捨の願心として顕われる。南無阿弥陀仏はその摂取不捨の願心成就を全顕し、衆生の浄土往生に万に一つの間違いもない大悲成就を伝えるものだ。称名行をあとまわしにしても南無阿弥陀仏として伝えられている大悲の成就を聞いて心から受領し安堵すれば信は生じ、念仏は自然に後続する。この考え方を端的に表しているのが成就文の「聞其名号信心歓喜」の文だ。この文は衆生が大悲を稟受する究極の信の成就を表し、その信の因は大悲を聞く聞そのものであると教えたものだ。「念仏は勧めていない」を、大悲の聞信を先に勧め、その後に称名行は自然に発露するという考えを示したものであるとすれば、念仏往生を否定したことにはならないと理解できる。つまり機相の上では最初に大信が生じ、そののちに大行たる称名念仏が称えられるという事象の起こる時系列で考える考え方に立ったものと言える。

 

B君 観経下々品の教え方はそれとは異なっているよね。

A君 異なっている。観経では「汝もし念ずるにあたはすばまさに無量寿仏の御名を称すべし」だからね。

B君 教え方は異なるが、そこから生じる結果は同じということか。

A君 そう。教え方は違っているが、願心を受けとめるという結果は同じだ。善導の「一心専念弥陀名号・・是名正定之業」に続いて「順彼仏願故」とあるように無量寿仏の御名を称すべしとの教えを受け入れることは、「称名しつつ」その称名が阿弥陀仏の悲心招喚の願心にかなうことだとしてその願心たる摂取不捨を聞き受けているということだ。大経ではその「称名」を省いているだけで、南無阿弥陀仏の願心を聞くことを勧め、それを聞いて受け入れていることを聞其名号と言われているんだ。表現は異なれど摂取不捨の願心を領受し自力が廃捨されて信が生じる結論は同じだ。

 

B君 教え方が異なるのに、どうして同じ結果が生じるのだ?

A君 そのようなことが可能になるのは、念仏は大悲たる南無阿弥陀仏が全顕したものであり、南無阿弥陀仏は念仏として顕現するからだよ。名号がその働きによって称名へと全顕するので名号即称念といい、称念は名号が全顕したものなので称名即名号という。同じように名号はその働きによって信心へ全顕するので名号即信心といい、信心は名号が全顕したものなので信心即名号という。だから、称名即信心、信心即称名ということも言える。これが真宗の至極だ。ここで名号を仏願と言い換えても良い。仏願・名号とその機受の相である信心称名、これらはすべて南無阿弥陀仏の大悲が大悲のままに働いている大悲の諸相だ。だから大悲たる南無阿弥陀仏の働きによって大経の「聞其名号信心歓喜」が成立するし、念仏に現れた大悲たる南無阿弥陀仏の働きによって観経下々品の教え方が成立する。いずれの教えであっても、その教えから生じる機受の結果は同一の信行(南無阿弥陀仏)となる。

 

B君 大経と観経の説かれ方の差異は、願心を受け入れる際に、称名しつつその称名が仏願にかなうことだと受け入れるか、南無阿弥陀仏の成就を聞いて仏願を受け入れるかだけの違いだというんだね。

A君 そのとおりだよ。ともに摂取不捨の願心を受け入れることに違いは生じない。だから、善導の十八願取意の文のように信を省いて念仏を称える者を救うのが大悲だと言い換えてしまってもよいし、祖師のように願成就文に立って十八願を信願であると理解してもよい。それは称える念仏も大悲を仰ぐ信も南無阿弥陀仏という大悲たる大行の働きによるものだからだ。信に働く南無阿弥陀仏によって如実の称名は称えられるし、念仏に働く南無阿弥陀仏の大悲によって信は開け起こる。そのいずれの場合も南無阿弥陀仏の働きによって浄土往生の真因たる信因と行因が完全円満に具備されるのだから、念仏を先に出して信を後にしても良いし、信を先に出して念仏を後にしても良い。その先後によって仏の救いのあり方に異なるところが生じることはないのだからね。いずれも南無阿弥陀仏による往生決定だ。名号たる念仏を先に出して信を後にする場合には、その先に出した念仏は救いの法という意味合いが前面に出てくる。名号による信を先に出して念仏を後にする場合には念仏は報謝という意味合いが前面にでてくるが、機受の相の上で信と称名に先後をもうけているだけで、本来は信と称名は一体のものだ。念仏はつねに救いの法として感受され、同時に報恩行となるものだ。それは信がそのように感受させているのだ。その信もまた大悲の顕現であるから、大悲即名号・名号即大悲、名号大悲即称名・称名即名号大悲、大悲即信心・信心即大悲名号、称名即信心・信心即称名となるのだ。

 

B君 そうすると「阿弥陀仏はまかせよと勧めており、念仏は勧めていない」との言い方は十八願を信願と理解する立場や聞其名号の教えと親和性があるというのか。

A君 そう理解することが可能だ。機受の相の先後に着目した言い方だ。この場合、念仏は報恩行という理解につながりやすい。

 

B君 シチュエーションによってはあり得るということを言ったが、それはどういうことか。

A君 例えば「念仏往生を勧められて念仏を称えて助かりたいと思っているが、なかなか救われない」と信仰を吐露した人がいたとしようか。ここで問題となっている念仏は自力の念仏であることは明らかだ。しかし、南無阿弥陀仏の御名だけが真実浄土往生の真因である以上、それと異なる自力の行や自力の思いは廃されなければならない。諸行はもちろん念仏行も自力の行に留まっている限り往生の真因にはならない。「念仏を称えて助かりたい」と思っている心を廃捨させて願心を聞き受けて貰うには、念仏では助からないことを明確に伝えるしかない。この人に阿弥陀仏は念仏を勧めていると伝えても、その人はそれまでと同じ気持ちで念仏することを続けるだろう。この場合には「阿弥陀仏はまかせよと勧めており、(自力)念仏は勧めていない」と勧めることは大悲を受け入れ、自力念仏の思いを廃捨させるのに有効な説法になり得る。これは大経の「御名を聞きて信心歓喜」するように導く大経所説に親和性がある説き方だと言える。念仏という自己の行に重きを置く思いを改めさせて、大悲を聞く事に力を入れて大悲を勧める教え方になる。

 

B君 対機説法としての説き方として有効であり、許容できるということだね。逆に阿弥陀仏は念仏を勧めているという説き方が有効である場合とは、どういう場合なんだ。

A君 例えば、「聞其名号と聞いていますが、聞いても聞いても救われません。」という人がいたとしようか。その人に大悲を聞き受けるんだと勧めても、きっとこれまでと同じような聞き方をこれからも続けるだろう。その場合には、聞き方が問題ではないと知らせるために「阿弥陀仏は念仏を勧めているから念仏を称えることが阿弥陀仏の願いに称(かな)うことなんだ。」と教え勧めることが有効になるのではないだろうか。

 

B君 つまり、そのどちらの説き方が有効であるのかは、説教を聞く人の心の置き所によって変わってくるということだね。

A君 聞という行や称名という行が自力の行として行われる限り、浄土往生の真因はその人に成就されることはない。その自力の思いを廃捨してもらい大悲を受け入れて貰うにはその人の心の置き所が念仏行か聞法かに応じて「聞き方は問題とならない。ただ念仏を称えることが大悲に称うことだ」と勧めたり、或いは、「阿弥陀仏は念仏を勧めてはいない。ただ大悲を聞くだけだ」と勧めることになる。大経の説き方や観経下々品の説き方は真実大悲を受け入れて貰うための仏の便法であると思う。

 

B君 そうすると、大経の説き方や観経下々品の説き方のいずれが良いのかということを議論すること自体意味が無くなってしまうんだね。

A君 そう。意味がなくなってしまう。理解しておきべきことは最初に言ったように「南無阿弥陀仏の御名と大悲だけが真実浄土往生の真因である」ということだ。大悲を心から受け入れて貰うための便法としての説き方は、機に応じて念仏を強調する説き方になるか、聞くことを強調する説き方になるか、の違いはあるが、大悲を聞き受けて貰う事が最も大事なことだ。そのことを聞き受けた精神世界では、先の大悲即名号・名号即大悲、名号大悲即称念・称念即名号大悲、大悲即信心・信心即大悲名号、称念即信心・信心即称名の意味がすんなりと分かるようになる。これが阿弥陀仏の救いの現れ方だからだ。ここに真宗の至極があると思う。最初にC子さんが言ったように、大悲を領解すれば、大悲を感受して南無阿弥陀仏を称念することで仏と悲喜交流している思いになり、わが行ながらもわが行ではないという思いになる。勧められるべきは、このような大悲への思いを現実に生じさせる働きをもつ如来の大悲たる南無阿弥陀仏である、ということを強調したい。あとは観経下々品の「称名しつつ」阿弥陀仏の悲心招喚の願心を受けることを勧めるのか、称名行をあとまわしにして大悲たる南無阿弥陀仏を受領すれば信は自然に生じ、念仏は自然に後続するという考え方に立って大悲を受け入れることを勧めるかは機に応じて使い分ければよいことだと思う。このような理解に到達すれば、それ以上の議論は不要になると思うんだ。

 

C子さん 念仏の先後が重要な問題ではなく、念仏の先後を問わず大悲を領解することが大事だと言ってくれれば、とてもよく納得できるわね。大悲という観点が抜けると議論がおかしな方向に進んでいくのね。

 

A君 信前の人に仏の説く説かれ方に2つの説かれ方があるということを述べたが、信後はどうかというと、心の中に阿弥陀仏の大悲を常に頂いているので、C子さんが言うように自然に南無阿弥陀仏を称念するようになる。これが十八願成就の姿だ。そのため阿弥陀仏は念仏を称えられんと願われていると聞かされると、その仏の大悲を感受し念仏をまた称えることになる。また、摂取するとの仰せであると聞かされるとその大悲を感受して念仏をまた称えることになる。どちらも信心の行者にとっては仏の大悲を感受させる言葉としてすんなりと受け入れる事ができるんだ。大悲を感受している者にとって、それらの言い方はともにしっくりと心に落ち着く言い方になるから首肯できるんだ。信も称名もともに大悲の顕現であるから、大悲即名号・名号即大悲、名号大悲即称名・称名即名号大悲、大悲即信心・信心即大悲名号、称名即信心・信心即称名ということが容易に理解できるのだよ。

 

C子さん 阿弥陀仏の願いとは「摂取せん」という願いであるといえるし、「念仏を称えられん。念仏を称える衆生を摂取せん」という願いであるとも言えるということね。どちらも摂取せんという願いであることに違いがないから、すんなりと受け入れることができるわね。

 

A君 「念仏を称える衆生を摂取せん」という大悲を聞き受けるときは称名が信の内容になるが、単に「摂取せん」という願いを受け入れるときは称名は報恩行となるのだから信の内容にならないのではないかと思う向きがあるかも知れない。しかし、前者の称名も後者の称名も南無阿弥陀仏と相応した信の上の行であり、その南無阿弥陀仏が称名として顕現しているだけであるから、何の違いはない。さきに言ったように信とは南無阿弥陀仏と相応するものなんだよ。また、後念相続する念仏によって阿弥陀仏は念仏を称えられんと願われていることを感受することになるから、称名は信の内容にもなってくる。いずれの場合であっても何の違いは生じない。称名は救いの法の顕現であると同時に報恩行という意味合いをもっている。前者より念仏往生といってもよいし、後者より信心正因称名報恩といってもよいのだが、どちらも南無阿弥陀仏を信因・行因とする浄土往生に違いはない。言葉は異なるが、心の中に生じている同一の事象を指し示している。

 

A君 ちなみに、選択本願念仏集に「南無阿弥陀仏 往生の業には念仏を先とす」とあるが、この「先とす」は諸行や助業をうしろに置き捨てて念仏行を先とするという意味だから、ここでの議論には関係しないよ。

 

B君 冒頭の「念仏往生 念仏の勧めとは?」に対する回答としては、どうなるのかな。

A君 仏の大悲たる南無阿弥陀仏を心から頂く事を勧められているということ。それは、諸仏や善知識が摂取不捨の大悲を聞くことを勧めらている、あるいは、念仏を称えられんと願われている念仏を称えつつその摂取不捨の大悲を頂くことを勧めているということだ。阿弥陀仏はただただ摂取の願心を受けとめて我が名を称せられんと願われているだけだよ。

3-21.論考 ある白道解釈 プラス 会話編

 以下において論評の対象にする白道解釈は次の引用文である。この引用文はある真宗系を自称している団体のホームページ(平成31年1月10日現在)からそのまま転載したものである。

 阿弥陀仏は、「どんな人も必ず絶対の幸福に助ける」と命を懸けてお約束なされている。ではどうすれば絶対の幸福に救われるのか。阿弥陀仏は「聞く一つで救う」と約束されているとお釈迦さまは明かされている。親鸞聖人も蓮如上人も、善知識方は一貫して 「仏法は聴聞に極まる」と教えられている。だが、どれだけ根拠を挙げられても、「この世で無上の幸せになるのに、本当に聞く一つでいいのだろうか?」と頼りない気がするのが実態ではなかろうか。そんな私たちに少しでも分からせようと、親鸞聖人が仏の化身と仰がれる善導大師は、二河白道の譬えで教示されている。「二河」とは火の河と水の河。その間に「白道」が向こう岸(彼岸)へと延びている。彼岸は極楽浄土、此岸は、私たちの住む娑婆世界である。この世のどんな道も「死ぬまで求道」だから、苦しみに終わりはない。やがて必ず死ぬ時が来る。いつまでも此岸にはいられないのだから、釈迦は「彼岸に向かって白道を行け」と勧められる。「白道を行く」とは、「阿弥陀仏の本願を聞く」ことである。ところが白道(聞法心)の幅は、四五寸と極めて細い。そのうえ、水の河と火の河の波が逆巻いて、常に白道を覆い隠してしまう。水の河とは欲の心である。私たちは欲の塊だから、順境には欲に溺れて仏法が聞けない。欲が邪魔されると腹が立ち、逆境には怒りの炎が、白道を焼き払う。進めば進むほど、水火の波は激しく白道をかき消し、欲や怒りの煩悩が聞法を妨げる。しかも、果たして白道は向こう岸まで届いているのか、どうかも分からないから、「本当に聞く一つでいいのだろうか」と、善知識方の教えであっても頼りない心が出てくる。そんな心に付け込んで現れるのが群賊である。「なぜそんな危ない道を行くのだ。手っ取り早く助かる道を教えてやる。おまえは騙されているのだ。戻れ戻れ」と呼び止める。水火の波が細い白道を覆い隠す不安な時に、群賊が現れるから、なかなか仏法は聞けなくなるのである。その中を、此岸の釈迦は「断固その道を行け」と専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される。その弥陀の呼び声が聞こえた一念に、私たちは絶対の幸福に救われるのである。絶対の幸福に救われれば、水火の二河はそのまま煩悩即菩提と転じて、浄土へ向かう明るい白道となるのだ。この二河白道の譬えからも、善知識方の教えは聴聞の一本道であることは明らかである。頼りない気がするのは、いまだ弥陀の本願を聞信していない証だから、水火の難を突破して、真剣に弥陀の本願の本末を聞きなさいと、善導大師は教導されているのである。

-引用終わり-

 

論評に入る。

 上記の引用文の趣旨を要約すれば次のとおりである。

①.阿弥陀仏は聞く一つで絶対の幸福に救うことを約束しているのだから、釈迦も

善知識方も真剣に聞くことを勧めている。

②.真剣に聞いてゆけば群賊が現れて聞法を邪魔する。

③.それに打ち勝って真剣に聞法してゆけば弥陀の呼び声を聞くことができる。

④.弥陀の呼び声を聞けば絶対の幸福になれる。

 

 これらを柱とする上記の引用文は、同文の最終行に述べられている結論のように「阿弥陀仏の呼び声を聞いて絶対の幸福に救われるためには真剣に本願の本末を聞きなさい。」ということを大テーマとし、この大テーマの下に善導の二河譬を援用してその二河に挟まれた白道を聞法心の事だとか、絶対の幸福に救われればこの二河は煩悩即菩提と転じて浄土に向かう白道になるとしている。しかし、これらのテーマは善導の二河譬のテーマとはまったく異なる。上記引用文は善導の二河譬のテーマとは異なる大テーマの下で論旨が展開されているので全体として二河譬とはまったく異なるストーリー展開に改変されている。それに伴い、白道や群賊の語句に異なった意味を付与している。上記引用文は善導の製作テーマや元祖らの釈とは異質であるから、以下この引用文を「本異釈」と略称する。

 以下において、元祖の釈などと異なる重要な点を簡単に列挙する。最初に善導の二河譬のテーマと本異釈のテーマの違いについて摘示する。その際に善導の二河譬を便宜上、前段と後段の2つに区分する。人が三定死に到り着くまでを「前段」とし、三定死ののち二尊の発遣と招喚を受けて白道を歩み出して浄土に到り着くまでを「後段」とする。以下「譬喩前段」とか「譬喩後段」と略称する。善導の譬喩については浄土真宗聖典第2版分冊七祖編466頁・観経疏上品上生釈回向発願心釈に出ているので、直接、原典で確認する事をお願いしたい。なお、この点に限らず原典が出版され入手が容易なものは必ず原典で確認するという態度が大事である。この態度が嘘や虚言による宗教心理的拘束状態からわが身とわが心や家族を護る盾になるから、必ず、原典で確認する事をお願いしたい。

 

異なる点その1-テーマと白道の語句の意味の違い

 本異釈は「この二河白道の譬えからも、善知識方の教えは聴聞の一本道であることは明らかである。・・・水火の難を突破して、真剣に弥陀の本願の本末を聞きなさいと善導大師は教導されているのである。」と結論を述べている。

 しかし、二河の譬喩は前段も後段も聴聞の一本道を教え勧めたものではない。また、聞法心とか絶対の幸福に救われれば二河がそのまま煩悩即菩提の白道になるということをテーマとしたものでもない。なお本異釈では弥陀の呼び声を聞いた後の白道とは絶対の幸福のことであるのか、二河が煩悩即菩提となってこれが白道になるのか判然としないが、両者のことであると理解しておく。

 さて善導は「マタ一切ノ往生人等ニマウサク、イマサラニ行者ノタメニ一ツノ譬喩ヲ説キテ信心ヲ守護シテモッテ外邪異見ノ難ヲ防ガン。」と述べて譬喩を説き始めている。ここに譬喩を製作した善導の意図が明確に示されている。祖師は愚禿抄下巻に「二河ノナカニツイテ一ツノ譬喩ヲ説キテ信心ヲ守護シテ、モッテ外邪異見ノ難ヲ防ガン」と善導の製作意図をキチンと押さえている。善導の製作意図は二尊が他力信心を群賊から守護する様相を表すことにある。他力信心は願力の白道として浄土に至り着くまで二尊によって守護されており、念仏往生の願生者は外邪異見の難に陥ることがない様相を表す所に善導の製作意図があり、これが善導の設定した二河譬喩のテーマである。善導の製作意図であるテーマと本異釈のテーマは明らかに異なっている。

 この点をもう少しつぶさに検討する。

 まず譬喩前段のテーマは凡夫には諸行往生に必要な至誠心が欠けているので凡夫往生はできないという事、譬喩後段は凡夫にとって弥陀の願意を聞くことが唯一の浄土往生の方法であり、この方法は自力が介在せずまったくの願力によるので聞がそのまま信となる信心が願力によって守護されているという事である。この各テーマに即して譬喩では異なる2つの白道が登場する。1つは諸行往生に必要な至誠心たる願生心を白道とし、2つは弥陀招喚の願意を聞くことによって生じる他力信心を白道とする。前者の白道は至誠心の欠如によって潰えてしまい人は東岸に立ちすくんでしまい三定死に陥る。人はこの白道を進むことができない。これは凡夫の至誠心を用いた諸行往生は不可能であることを教えたものである。これが譬喩前段のテーマである。後者の白道は三定死を覚悟したのち人が二尊の発遣と招喚を受けてはじめて進んでゆける白道であり、この白道が浄土に一直線に繋がっている。善導は合釈において「アルヒハ行クコト一分二分スルニ群賊ラ喚バヒテ回ストイフハスナワチ別解・別行・悪見人等妄リニ見解ヲ説キテタガヒニアイ惑乱シ、オヨビミズカラ罪ヲ造リテ退失スルニ喩フ」と解説し、釈迦や弥陀はこの白道を群賊から守護している様相を述べている。これが譬喩後段のテーマである。この前段と後段の2つのテーマを対比すれば、凡夫の至誠心たる願生心は二尊によって守護されておらず、弥陀招喚の願意を聞くことによって生じる他力信心は二尊によって守護されていることが分かる。

 元祖は前者の白道を「雑行中ノ願往生心ハ白道ナレドモ貪嗔水火ノ難ノ為ニ損セルヲ被ル」とし、譬喩後段の白道を願力の白道と釈している。昭和新修法然上人全集448頁に収録されている「三心料簡事」の白道事において元祖は2つの白道について次のように述べている。①「雑行中ノ願往生心ハ白道ナレドモ貪嗔水火ノ難ノ為ニ損セルヲ被ル。何ヲ以ッテ知ルコトヲ得ル。釈ニ伝ク諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向カウ也云々ト。諸行往生ノ願生心ノ白道ト聞クナリ。」②「次ニ専修正行ノ願生心ヲ願力ノ道ト名ク。何ヲ以ッテ知ルコトヲ得ル。仰ニ釈迦発遣指南スルヲ蒙リ、西方ニ又タ弥陀悲心招喚ヲ籍シ、今二尊ノ意ニ信順ス。水火二河ヲ顧リミズ、念々遣ルルコトナク彼ノ願力ノ道ニ乗ジテ、捨命已後彼ノ國ニ生ズルヲ得ル。正行ノ者、彼ノ願力ノ道ニ乗ズルガ故ニ、全ク貪嗔水火ニ損害サレズ。是以譬ノ中ニ云ク、西岸上ニ人有リテ喚ヒテ言ク、汝一心正念直チニ来レ、我能ク汝ヲ護ラン。衆テ水火ノ難ニ堕スルコトヲ怖レザレ。合譬ノ中ニ伝テ言ク西岸上ニ人有リテ喚バフトハ、即弥陀ノ願意ヲ喩フ也云々。専修正行ノ人、貪嗔煩悩ヲ恐ルベカラズト也。願力ノ白道ニ乗ズレバ、豈ニ火焔水波ニヨリ損セラレルヲ容レンヤ云々。」

 祖師も前段の白道を願力の白道と区別し、「自力小善の路」などと言われている。 教行信証真実信巻には「眞ニ知ンヌ 二河ノ譬喩ノナカニ白道四五寸トイフハ白道ハ、白ノ言ハスナワチコレ選択摂取ノ白業 往相回向ノ浄業ナリ 黒ハスナワチコレ无明煩悩ノ黒業二乗人天ノ雑善ナリ 道ノ言ハ路ニ対セルナリ 道ハスナワチコレ本願一実ノ直道 大般涅槃無上ノ大道ナリ 路ハスワハチ二乗三乗万善諸行ノ少路ナリ 四五寸トイフハ衆生ノ四大五陰ニ喩トフルナリ 能生清浄願心トイフハ金剛ノ真心ヲ獲得スルナリ 本願力回向ノ大信心海ナルガユエニ破スベカラズ コレヲ金剛ノゴトシトイフナリ」(浄土真宗聖典第2版1の244頁三一問答法義釈欲生釈・カタカナ表記に変換)。愚禿抄下巻には「群賊悪獣トハ群賊トハ別解別行異見異執悪見邪心定散自力ノ心ナリ 悪獣トハ六根六識六塵五陰四大ナリ」「白道四五寸トイフハ白道トハ白ノ言ハ黒ニ対ス 道ノ言ハ路ニ対ス 白トハスナワチコレ六度万行定散ナリ コレ自力小善ノ路ナリ 黒トハスナワチコレ六塵四生二十五有十二類生ノ黒悪道ナリ」「能生清浄願心トイフハ無上ノ信心 金剛ノ真心ヲ発起スルナリ コレハ如来回向ノ信楽ナリ」とされている(同536頁・カタカナ表記に変換)。

 元祖のいう「願力の道に乗じる」というのは二尊の意に信順することである。願力の道は他力信のことである。この願力の白道はそのまま祖師に承継され、選択摂取ノ白業・往相回向ノ浄業とか本願一実ノ直道・大般涅槃無上ノ大道とされ、この大道については能生清浄願心トイフハ無上ノ信心・金剛ノ真心・如来回向ノ信楽ナリと表現されている。これに対して、雑行中ノ願往生心という白道については万行諸善の小路とか自力小善の路と名称を改められている。二河譬で行き詰まる白道と二尊によって守護されている白道を善導が対比されていることが、元祖が選択本願念仏集において「余行をもって往生の本願としたまわずただ念仏をもって往生の本願としたまえる」と述べる理由となっているし、祖師が念仏諸善比校対論において有願・無願対とともに護・不護対を挙げる理由ともなっている。諸行は二尊による守護を受けられない非本願・無願・不護の行であり、念仏は二尊の守護を受ける本願・有願・護の行とされているのである。このように元祖や祖師は善導の製作意図を正確に理解され、より明確に表現された。これに対し、本異釈では譬喩前段の白道を「聞法心」に改変し、譬喩後段の白道を絶対の幸福とか、絶対の幸福になれば二河は煩悩即菩提の白道になるなどと改変し、本来の意味を変更してしまっている。善導と元祖らの釈とはまったく異質なものである。譬喩前段の白道は聞法心ではないし、同後段の白道は絶対の幸福などではない。

 元祖が白道と言われているのは上記①の雑行中の願往生心をもって往生する方法と同②の仏の願力をもって往生する方法の2つであるが、白道とは阿弥陀仏誓願に定められている阿弥陀仏の浄土に生まれるための浄土往生の方法、言い換えれば、弥陀の浄土への生因のことである。弥陀の誓願には十九願、二十願、十八願の三願があり、それぞれ特有の生因が規定されている。生因はいずれの願においても行と信から構成されている。上記①の方法は十九願に定められている生因である。二河の譬喩で言えば前段の白道である。凡夫ながらの至誠心をもって諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向カウ事を生因とする。十九願には菩提心を発し諸々の功徳を修して至心に発願して我が国に生ぜんと欲せんとある。元祖はこの白道は貪嗔水火ノ難ノ為ニ損セラレルとする。だから祖師はこの道を万行小善の小路、不護などとされた。上記②の方法は十八願に定められている生因である。二河の譬喩で言えば後段の白道である。その十八願の生因とは十七願にその成就が誓われている南無阿弥陀仏の御名そのものを凡夫の信行とする生因である。この御名が弥陀の悲心招喚である。この招喚を受けて生じたのが他力の信であり、この信が願力の白道である。十八願には至心信楽して我が国に生ぜんと欲して乃至十念せんとある。十七願の南無阿弥陀仏が十八願の信となり行となったことをいう。元祖が火焔水波ニヨリ損セラレルことがないとされる白道とは、この願力による浄土往生の生因のことである。南無阿弥陀仏が信になるとは摂取不捨を表す阿弥陀仏に信順(南無)することであり、南無阿弥陀仏が心の心相になったことを至心・信楽・欲生我国の三信というのである。南無阿弥陀仏が行になるとはその信に伴って念仏申すことである。元祖は専修正行ノ人の願力ノ白道は火焔水波ニヨリ損セラレルことがないとしているが、元祖の言う専修正行ノ人とは弥陀の悲心に信順して念仏を称えている者のことである。十八願の生因がその人に具現している者のことである。この南無阿弥陀仏の信行はいずれも願力たる南無阿弥陀仏によって生じた生因であり、南無阿弥陀仏そのものであるから貪嗔水火ノ難に害されることがない願力の白道とされるのである。だから祖師は真実信巻において、この白道を白ハ選択摂取ノ白業・往相回向ノ浄業、道ハ本願一実ノ直道・大般涅槃無上ノ大道ナリとしつつ、その大道を能生清浄願心トイフハ金剛ノ真心ヲ獲得スルナリ。本願力回向ノ大信心海ナルガユエニ破スベカラズ。コレヲ金剛ノゴトシトイフナリと明示されたのだ。祖師が上記①の方法を小路などと表現を改め、願力の白道と区別されているのは①の方法は仮の方法であるのに対して、②の方法が真実の生因であることを明確にするためである。仮とは正しい浄土の生因ではないことを表している。浄土への生因には真と仮があるので、それに対応した願にも真と仮がある。祖師は十八願を真実の信願、十七願を真実の行願とされているのに対して、十九願を仮の願とされている。それぞれの願にはそれぞれの生因が別々に定められているが、それらの生因はいずれの願においても行と信から構成されるものである。元祖が本願・非本願、祖師が有願・無願対とともに護不護対を挙げるのは、十九願の仮の生因と十八願の真実の生因を対比されて言われたことである。ところが本異釈でいう聞法心とか絶対の幸福などという代物は十九願にも十八願にもない異物である。いずれも十九願や十八願の生因の信行ではない。聞法については二十願に「我が名字を聞きて」とあるが、それは念仏を行じる基底となるものであり、二十願の願意を広説した阿弥陀経には執持名号一心不乱若一日乃至若七日とあるので、二十願の生因は執持名号一心不乱の不断念仏行である。絶対の幸福というものは行でも信でもない。得体の知れない意味不明の抽象概念に過ぎない。また、煩悩即菩提も真実の信行とはされていない。

 重ねて強調しておくが、元祖は譬喩後段の白道を願力の白道と言われているが、これは十八願の至心・信楽・欲生我国の信をもって乃至十念の念仏を行じる信と行を生因とするものである。この真実の信行を絶対の幸福とか煩悩即菩提に置き換える事には賛同しかねる。絶対の幸福などでは往生の生因が何であるのかまったく分からなくなってしまうからである。そもそも阿弥陀仏の十八願は絶対の幸福に救うとか煩悩即菩提にさせるという誓願ではない。至心・信楽・欲生我国の信をもって乃至十念の念仏を行じる者を浄土に生まれさせるという誓願である。その生因たる信行はともに十七願にその成就を誓われた南無阿弥陀仏がそのまま凡夫の信行になったものである。念仏を行じる者の自力は一切介在しない。この願力たる生因は南無阿弥陀仏そのものであると明示するところに真宗の至極があるのに、その生因を絶対の幸福などと言い換えることはその至極を失わせるばかりか、信の味わいにも合致していない。

 

異なる点その2-群賊の意味やストーリーの展開の違いなど

 次に、本異釈では自力の聞法心を励ますために次のように説く。「私たちは欲の塊だから順境には欲に溺れて仏法が聞けない。・・逆境には怒りの炎が白道を焼き払う。進めば進むほど水火の波は激しく白道をかき消し、欲や怒りの煩悩が聞法を妨げる。しかも・・本当に聞く一つでいいのだろうかと善知識方の教えであっても頼りない心が出てくる。そんな心に付け込んで現れるのが群賊である。「なぜそんな危ない道を行くのだ。手っ取り早く助かる道を教えてやる。おまえは騙されているのだ。戻れ戻れ」と呼び止める。・・その中を此岸の釈迦は「断固その道を行け」と専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される。」としている。断固その道を行けとしている道とは聞法心のことである。

 この本異釈は善導の譬喩における群賊に聞法心を妨害する者との意味を与えているが、譬喩前段や同後段の群賊の意味とは異なっている。しかも群賊の登場と聞信との順番を前後逆にしている。さらに本異釈は白道を進んでいる途中の者に「弥陀の呼び声が聞こえる」というストーリーを登場させているが、二河の譬喩にはそのような出来事は登場しない。

 まず、群賊の意味に違いがある。

 二河の譬喩では群賊は二回登場するが、いずれにも聞法心を妨害するという意味はない。そもそも譬喩前段の白道は至誠心のことであり、同後段の白道は十八願における生因たる真実の信行のことである。いずれも聞法心ではないからそこに登場する群賊に聞法心を妨害する者という意味は出てこない。最初の群賊は譬喩前段に登場するが、譬喩前段では群賊悪獣によって身を滅ぼされてしまうことを怖れた人が浄土往生を目指し、浄土に諸行を回向して西方に向かおうとするのであるが、煩悩のために往生に必要な至誠心が損なわれて、この人は三定死の状態に陥る。善導の合釈では「群賊悪獣詐り親しむ」とは衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩えるとされている。聞法心を邪魔する者という意味はない。次に出てくる譬喩の群賊とは譬喩後段の二尊の発遣と招喚を受けたのちに登場する群賊である。弥陀の悲心招喚に信順し諸行を廃し念仏行者として願力の白道を歩み始めたのちの異見・異解の者からの呼び戻しを群賊としている。この群賊とは念仏往生とは異なる異見・異解の者達のことである。譬喩後段のテーマは、既に願力の白道を進んでいる者の他力信は二尊によって群賊から守護されているので、その信を損なわせるものは何一つとしてないことを表すことにある。譬喩後段の群賊を具体的に想定すると、聖道門を離れて浄土往生を目指す人には聖道の者からの呼び戻しがあり、浄土門に入り念仏往生を目指すと聖道の者や諸行往生の者からの呼び戻しがあり、真実信心による念仏往生の者には聖道の者や諸行往生の者や自力念仏の者からの論難がある。善導はそれらの者から論難を受けても二尊による守護を受けているので真実信心は破壊されないということを譬喩後段のテーマとしているのである。善導はすでに観経疏上品上生釈深信釈において「解行不同の人」「地前の菩薩ら」「初地以上の十地以来」「化仏・報仏」の四重の破人が真実信心の念仏行者を論難して真実信心を破壊しようとしても破壊されないことを述べていた。そのため祖師は、譬喩後段の白道を願力回向ノ大信心海ナルガユエニ破スベカラズ。コレヲ金剛ノゴトシトイフナリと押さえている。これは祖師が二河に挟まれた白道を人が歩んでいることを解釈するあたり上記の善導の深信釈にある四重の破人を意識したものであり、その破人によっても願力の白道たる他力信は破壊されず金剛の真信であると指南されたのである。しかし、本異釈では自力の聞法をする者に対して聞法を妨害する者として群賊を登場させて改変している。また次に見るように本異釈は、譬喩後段に登場する弥陀招喚を聞いて歩み出した信心の行者に対して呼び戻す群賊を登場させていないのである。

 次に、前後逆の違い。

 善導の譬喩には三定死の状態に陥った人が「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」という思いになった直後に弥陀の悲心招喚を聞いて白道を歩み始め、そののちに東岸の群賊が呼び戻したとある。群賊の登場は弥陀の悲心招喚を聞いたあとのことである。これに対し、本異釈では釈迦の発遣と弥陀の悲心招喚を聞く前に群賊を登場させ、それを聞いたのちには群賊を登場させていない。群賊の登場と弥陀の招喚を聞く出来事が前後逆になっている。このように群賊の登場を逆にしたことには2つの問題がある。1つは上述したように、譬喩後段の最も重要なテーマを完全に消去した点である。善導の二河譬のテーマは、二尊が群賊からの論難から他力信心を守護しているので他力信心は四重の破人によっても破壊されず浄土にまっすぐに向かっているということにあった。祖師が譬喩後段の白道を願力回向ノ大信心海ナルガユエニ破スベカラズ。コレヲ金剛ノゴトシトイフナリと押さえられているこの譬喩のテーマを意図的に消し去ったのである。2つめの問題は、弥陀の悲心招喚の前に群賊を登場させ、その群賊の呼びかけに対抗して「此岸の釈迦は「断固その道を行け」と専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される。」としている点である。これにより聞法心という自力の白道を行けと二尊が勧めているという意味に変えてしまった。しかし、二尊の発遣と招喚は自力聞法を勧めるものではないし、群賊の呼び返しに対抗するためのものではない。本異釈は、群賊によって白道たる聞法心を妨害されてはならないと戒める目的に合わせて出来事の順序を変え、かつ、二尊の発遣と招喚は自力聞法を勧める趣旨へと改変してしまっているのである。しかも本異釈では群賊は「手っ取り早く助かる道を教えてやる。おまえは騙されているのだ。戻れ戻れ」と呼び止める。」としている。ここから、本異釈では、群賊に自分の団体で聞法することを妨げる外部の者に異安心者との意味を与えて本来の意味を変えてしまっているように推察される。先に述べたとおり、譬喩後段の群賊とは他力信心を破壊しようとする四重の破人のことであり、聞法を妨げる者という意味はもともとない。

 次に、三定死を登場させない違いがある。

 譬喩には三定死の状態に陥った人が「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」という思いになった直後に弥陀の悲心招喚を聞いて二河に挟まれた白道を歩み始めたとある。白道を歩み始めたのは三定死ののち弥陀の悲心招喚を聞いたあとのことである。これに対し、本異釈では釈迦の発遣と弥陀の悲心招喚を聞く前から聞法という白道を歩み始めたことになっており、三定死を登場させていない。聞法心という白道が途切れるのではなく、そのまま続いていることになっている。群賊が「戻れ戻れ」と呼び止める。」と記述している事からもそれが分かる。しかし、自力の思いが完全に行き詰まるという意味での三定死がある。それは、自力と願力の白道が完全に断絶していることから生じる苦悩である。私の浄土往生の生因は南無阿弥陀仏として成就されている仏の一方的な慈悲を私達が聞き入れるしかない。これ以外に私に残されている浄土往生の方法はない。聞法心という自力を励ますことと仏からの一方的な慈悲とは相容れない。十七・十八願力は私の自力の思いを受け入れることはないからである。そのため両者は完全に断絶しているのである。聞法心をいくら励まして真剣に聞いても、その真剣さのゆえに願意を聞き入れることには繋がらない理由がここにある。自力は捨て物であると言われるゆえんである。本異釈はこれに反して聞法心という自力を励ますことを勧め、自力の思いに三定死があるという点を完全に無視している。自力の思いの故に行き詰まるということを教え、その自力の思いとはどういうもので何が問題であるのかを分かるように説明しなければ自力と他力の分斉を説いたことにはならない。本異釈の重大な問題点はこの点にもある。

 

 以上、本異釈は、善導の製作意図とは異なる意図の下に、譬喩前段にある至誠心たる願生心という諸行往生の生因たる白道とはまったく異なる聞法心を至誠心になし替え、譬喩後段にある十八願の生因を願力の白道とはまったく異なる絶対の幸福などという異物に置換したことで元祖や祖師の釈とは異なる解釈や意味を二河譬に与え、全体として二河譬とは全く異なった別の造り話を創作したものといえる。テーマの設定からストーリー展開や語句の意味に至るまで、ことごとく異なるものに改変しているので、もはや二河譬とは言えない異物になっている。

 

会話編

A君 上記について少し議論しようか。

B君 二河の譬喩を造り替えることはそもそも許されるのだろうか?

A君 造り替えることが絶対に許されないとする理由はない。それが許されるかどうかは真宗教義に合致しているかどうかで判断すべきだと思う。合致しなければその造り替えには何の価値もないし、かえって有害である。

 

B君 本異釈の問題点はどこにあるのか?

A君 まず形式的なことを指摘すれば、善導の製作した二河譬とは異なっていることを明示しつつ、その改変が真宗教義に合致していることを示した上で団体会員にその改変理由を説明すべきだ。だがそのような手続きを踏んで説明している箇所は見られない。

B君 ストーリーを改変したことを明示しないまま団体会員を教導すると、会員は教導されたストーリーが善導が製作した二河譬そのものであると誤信してしまう。団体内部だけに留まるならば誤ったストーリーでもいいのかもしれないが、会員がそれを善導の二河譬であると外部の知識人に話をしたときその会員は思わぬ大恥をかくハメになってしまう。

A君 そうだね。大恥をかかせないために改変した点と改変理由を明らかにしておかなければならないだろうし、それを説明しないのは宗教者として誠実な態度であるとは言えない。それにもまして最大の問題は会員の獲信を妨げるものに改変してしまっていることにある。

B君 真宗教義と合致しているのかという実質的な観点からも認められないというんだね。

A君 そこに入る前にもう少し説明を続けるよ。善導の二河譬は、諸行往生を目指した人が自身の至誠心の欠如に直面して頓挫してしまったのちに願意を聞いて浄土往生を果たすというストーリーだ。真宗内には諸行往生を目指す人はいないはず。念仏往生を求めている人しかいないはず。だから、念仏往生を目指している自力の念仏の行人が善導のいう譬喩前段の三定死、つまり至誠心の行き詰まりに直面することは考えられない。この点が二河譬をそのまま当てはめることができない理由となる。また、念仏往生を求める自力の行人に合った二河譬に改変することが必要となる理由にもなってくる。この意味での改変は許されると思う。

 

B君 改変するとすれば、君ならどのように改変するのか?

A君 善導の譬喩を改変する気にはならない。善導の譬喩は譬喩としていただき、善導の製作意図を正しく理解していれば良いことだからね。ただ自力念仏往生を願う人には、教行信証化身土巻において祖師がどのような思いが自力の思いになると言われているのかを正しく理解し、その自力の思いが自分の心の中にあることを内省して明確に自覚することが求道(ぐどう)における重要な転換点になるということを知っておいて貰いたい。祖師は「本願ノ嘉号ヲモッテオノレガ善根トスルガ故ニ信ヲ生ズルコト能ハズ」と言われている。念仏を仏が回向した仏の真実の行であると正しく理解せず、念仏を自らの往生の資助たる善根にする思いを述べたものだ。もっとひろく言えば、弥陀の十七願・十八願の願意を聞きながら自分の思いや努力、真剣さなどおおよそ自分の側に属するものを自分の往生の資助にしようとする思いのことを自力の計らいとする。仏が一方的に救済するものだと受けとめれば信が生じるのに、この思いがあるが故に信が生じないのだ。いくら真剣に聞法しようと、真剣になろうとする心そのものが自力である以上、信が生じることはない。このため自力念仏往生を願う者は自力の思いから抜け出る事ができないという意味での三定死に直面することになるのだよ。

B君 じゃ本異釈は自力念仏往生を求める人に合ったストーリーになっていないというのか?

A君 まったくなっていない。

B君 どんな点が?

A君 譬喩前段の十九願の生因たる至誠心を他のものに替えるならば、二十願の願意を広説した阿弥陀経の執持名号一心不乱の念仏に置き換えるのが適当であると思うのだが、聞法心に置き換えるのもいいだろう。しかし、聞法心を励ますというのは自力の計らいであり、この計らいは捨て物であり、聞法心は自力の故に三定死に行き着くという点を明示しなければ真宗教義に合致したものにはならない。

B君 その自力というのが、弥陀の十七・十八願の願意においては本願疑惑心になってくるのだね。

A君 弥陀の十八願の願意は十七願に成就を誓った南無阿弥陀仏をもって救うということにある。本願疑惑心とは、そのように聞いて南無阿弥陀仏で救われたいと願って念仏を称えつつ聞き求めている人にだけ生じる思いだ。十九願や二十願のように自力の思いや行をもって生因とする救済の原理とはまったく異なっているんだ。この救済の有り方を聞いた人は十八願の生因のとおりの身になろうとするので行因としての念仏行を行うようになるが、心因としての信心が欠如している。だから信を求め、そのために聞き求めて信を得ようとするのだが、その思いは本質的に自分の思いを資助にして助かりたいということだ。そのため、その自己の思いに囚われることになり、願意を無視してしまうことになる。聞き求めるという自分の思いがまったく不要なように阿弥陀仏南無阿弥陀仏を成就されたのだが、その願意を正しく理解せず、大きな思い違いをしている思いが聞いて助かろうという思いなのだ。聞き求めることで弥陀の願意を聞けるという思いこそが願意に背く大きな誤解であり、本願疑惑心なのだ。

B君 だから、そのような思いは思いとしていったん横に置いておいて、十七・十八願の願意を説く説教師の声が聞こえるままに願意を聞くということが大事になってくるのだよね。

A君 そうだね。聞法心を励まして聞くというのは一見すると良いことのように思えるのだが、その実は弥陀の願意を願意として聞くことを妨げてしまうクセ物なんだ。このことに気づかないといけない。聞法心を励ますことがどうしてクセ物になるか、C子さん、C子さんなりの説明を聞かせてくれないか?

C子さん 南無阿弥陀仏という御名が完成したということは私が浄土往生できる浄土の完成と私が浄土往生できることを意味しており、弥陀の願意はそのことを知らせて信じさせて救うことにあるのよね。凡夫の力を借りずに浄土往生できることを知らせるメッセージだと言っていいわ。そのメッセージを聞いて心に受けとめて受け入れるだけで自分の往生は決定することになっているのね。それなのに自分の聞法心を励ましたり、微弱な聞法心を強くしなければ願意を聞けないと思ってしまうとすれば、それは図らずも弥陀の願意に反することになってしまうの。だからその自力の思いを本願を疑惑している本願疑惑心とか疑情と名づけているのよ。

A君 そうだね。だから聞法心を励まして聞くことを奨励するのは、弥陀の十七願・十八願の願意とは逆のことを奨励する結果になってしまうんだ。そうではなく、聞法心とか真剣に聞くとかいう思いは自力の思いであり、その思いのためにいつまでも疑情が廃ることはないとまず気づいてもらう事、次に自力の思いすらも必要としないように弥陀の救いは円満に出来上がっていると聞いて気づいてもらう事が大事になってくるんだ。真宗において説くべきことはその一点だけなんだよ。聞法心を励む事を推奨することではない。ところが、本異釈では、「此岸の釈迦は断固その道を行けと専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される」と改竄しており、自力の聞法を勧める内容にしてしまっているんだ。とんでもない改変だ。

B君 自力の聞法は行き詰まることに気づいてもらうには、譬喩前段にある至誠心の行き詰まりを表している三定死に代えて、自力の思いから逃れられずに苦悩し行き詰まってしまうという三定死を登場させるストーリーが必要になってくるんだね。

A君 そういうことになると思うよ。

B君 真剣に聞くのは自力だというと、じゃ何もしないでいいのか、という反論が予想されるが、それに対してどう答えるのかな?

A君 そういう反論をする人は、これまで述べた事がまったく耳に入っていない人だ。十七・十八願の願意を願意のままに聞くことを勧めているのであって、何もしないでいいと言っているのではない。その違いが区別できないというのでは、とてもとてもおぼつかないよ。

 

B君 じゃ、大経に「たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも必ずまさにこれを過ぎて、この経法を聞いて歓喜信楽し受持読誦して説の如く修行すべし」とあるのをどう解釈すればいいのか問題になるよね。これは釈迦が聞法心を励ましているのではないのかな?

A君 「経法を聞いて歓喜信楽し」とあるのは、この経法とは仏の御名の南無阿弥陀仏の法を広説した大経のことだ。この聞くについては祖師が「経に聞というは仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり」と教えられている。聞くとは聞がそのまま信となるように聞き方をいうのだ。聞即信という聞き方だ。この聞を如実の聞ともいう。「聞いて歓喜信楽し」とはその聞即信のことだ。「三千大千世界に充満すとも必ずまさにこれを過ぎる」というのは自力の思いが廃り、他力の信が生じるのはそれほどに難しいものであることを教えたものだ。他力信は極難信であることを表している。自力の思いでは他力の信の世界には入れないことを教えたものだ。火宅無常の自力に囚われた世界を離れて仏の御名を如実に聞くことを教え勧めたものだよ。自力の聞法を真剣に励むことを教えたものではない。

 

B君 他に問題点は?

A君 絶対の幸福が白道だとか、弥陀に救われたら煩悩即菩提となり二河が白道になるいうのはまったく頂けない。これでは往生の生因が何であるのかまったく皆目分からないものになってしまう。せっかく元祖や祖師が十八願の往生の生因は他力信心に伴う念仏行であると懇切丁寧に教えてくれているのに、その甲斐をまったく無にしてしまう大改悪になってしまう。改悪という言葉では言い尽くせないほど悪質だ。弥陀の願意がまったく分からないものになしかえてしまい、浄土往生の生因を隠蔽してしまうからだ。この生因を隠蔽するということは獲信を妨げるということだ。このような言い換えは真宗人として誠実な態度であるとは言えないばかりか、あるまじき態度だ。十八願の願文を絶対の幸福に救うと言い代えるのも、往生の真実の生因を隠蔽してしまうので許されない。善導が本願取意の文として「十方ノ衆生、我ガ国ニ生ゼント願ジテ我ガ名字ヲ称スルコト下十声に至ルマデ我ガ願力ニ乗ジテ、モシ生マレズハ正覚ヲトラジ」と言い換えたのとは訳が違う。善導の取意の文には往生の生因が「我ガ国ニ生ゼント願ジテ我ガ名字ヲ称スルコト下十声に至ルマデ、我ガ願力ニ乗ジテ」と明示されている。我ガ名字ヲ称スルとは念仏の行、願力に乗じるとは聞がそのまま信となったことで行信が明記されている。しかし、十八願の願文を絶対の幸福に救うと言い代えると何が生因であるのは皆目分からなくなってしまう。これが最大の問題点だ。先にも述べたが白道とは浄土往生の生因ことだ。その生因は行と信から構成されている。十八願、十九願、二十願の生因は真と仮があるもののいずれも行と信として願文や三経に記載されたり開示されている。十八願の信行としての他力信と念仏行を生因として定めている願意を絶対の幸福とか煩悩即菩提に置換してしまうのは浄土往生の行信を隠蔽してしまうことになる。

B君 本人は分かり易く言い換えたつもりになっているのだろうが、トンでもなく思い上がっているとしか言いようがないということか。

A君 いや、そうではない。巧妙に隠された意図や本心がある。会員を自己の主宰する団体に勧誘したり団体会員として求める気持ちになって貰うためには、いくつかの条件が不可欠だ。求める希望や求める目的を会員に与える事、求めなければ大きな弊害が待ち受けている事の2つを心に強く印象づける人的操作が不可欠になる。この団体の長の場合、生きて絶対の幸福になるという希望や人生の目的を与えること、死んで地獄に堕ちるという将来の行き先を会員に対比しつつ呈示し、心にその印象を植え付けて求めさせる操作をしているのだ。強烈なコントラストをつけてね。堕獄という畏怖と人生の目的の付与によって人の心を印象操作しようとしているのだ。絶対の幸福という訳の分からぬ代物であるが変わらぬ幸せという響きをもった幸福になることが人生の目的であるとして誘引し、求道を動機付け、それを正当化するための手法が実に十八願の願文を絶対の幸福に救うと改変することであったり、十七願・十八願の生因を隠蔽して善導は二河譬で聞法を励ましていると改変することなのだよ。あるいは信一念の体験を、地獄に堕ちて地獄の釜の底をぶち破った一念にそのままという弥陀の呼び声を聞いて絶対の幸福に助かるという黒白・明暗ハッキリとしたコントラストをもったストーリーに造り替えることなのだ。さらにそれが間違いだと指摘する者からの話を聞かせないためにこの団体の長は自らを蓮如上人以来の大善知識、絶対無二の善知識などと会員に崇めさせり、外部には正しい願意を教える者はいないと印象づけて会員が他団体で聴聞する気持ちにならないようするために二河譬を改変し会員を操作してきたのだ。「此岸の釈迦は断固その道を行けと専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される」と改変し、釈迦・弥陀も自力の聞法を勧める内容に改竄してしまったんだ。二河の譬喩は聞法の一本道を教導していると虚偽のストーリーに造り替えて利用することも厭わない人物なのだ。もっと言えば、団体会員に対し、真剣な聴聞をしてゆくと群賊が現れることを予め刷り込んでおき、それらの者との会話を拒絶するよう巧妙に誘導する意図の下に本異釈を創作し、会員を囲い込む目的で改変を施したのだ。その結果として、退会する者に対しては人生の目的を放棄した人生の落伍者であるとの烙印を押し、押される方はそれが心の深いトラウマとなり、十年、数十年と心の傷を抱えて生きてゆくことになる。実際には退会しても何の不都合はなく、どこに行っても聴聞できる自由を得たのだと思えば良いことなのにね。本異釈はそのようなトラウマを抱えさせてしまうように二河譬喩のテーマからストーリー展開から語句の意味まで改竄してしまっているのだ。

 弥陀の願意を説く者が真宗教義に忠実である限り、私達には誰からでも弥陀の願意を聴聞する自由がある。弥陀の願意が説かれていなければそこを離れる自由もある。元祖や祖師らの著作から願意を頂く事もできる。私達にはそうした取捨選択の自由が保障されているのである。正当な真宗団体であるならば、弥陀の願意について真仮の分斉が正しく説かれている限り、どこに行って聞かれてもよいと押し出してくれる。自分の所でしか真仮の分斉を聞くことはできないと教導するのは正当な真宗の団体が行うことではない。まして、蓮如上人以来の大善知識、絶対無二の善知識などと会員に崇めさせるように教導していたのはありえないことである。この人物は以上に述べた改変や手法を巧みに組み合わせて会員を心理的に拘束してきたのであり、この改変と手法が会員を団体につなぎ止める力の源泉になっているのだ。だから、原典で確認する作業を地道に行い、自分で真宗教義を確認して理解してゆく事がこの力に対抗できる唯一の策となるのだ。

B君 南無阿弥陀仏が真実の信行として往生の生因になるということを正しく理解している人であるならば、このような改変は絶対にしないよね。

A君 この本異釈は団体の抱える問題点のほとんどが網羅されていると言っても良い見本だ。

 

B君 他に問題はあるかな?

A君 本異釈では絶対の幸福になったら煩悩即菩提になるとされているが、元祖や祖師が教えている他力信心においては念仏の行者が現生で煩悩即菩提になるとはされていない。この点も大きな異なりだ。煩悩即菩提とは聖道の証果つまり仏の証果として仏の智慧の世界から煩悩を眺められて言われたことだ。凡夫の身にあっては煩悩は煩悩のまま、煩悩が菩提になることはない。これも絶対の幸福があるという心象操作のための重要な手段となっている。苦悩は苦悩のまま味わいつつも、つねに大悲を頂き感受して生きてゆくのが念仏者の生き方なんだ。それを祖師は念仏者は無碍の一道なりと言われている。この無碍の一道とは、他力の生因たる信が誰にも破壊されず浄土への一本道となっていることを表しているんだ。

 

B君 他に問題はあるかな?

A君 阿弥陀仏の呼び声を聞くというのも頂けない。現に阿弥陀仏の呼び声が聴覚に聞こえてくるというものではないし、心の声として聞こえてくるというものでもない。善導が「西の岸の上に人ありて喚ばふといふは、すなわち弥陀の願意に喩ふ」「弥陀悲心をもって招喚したまふによりて、いま二尊の意(御心)に信順して」と言われているように呼び声を聞くのではなく願意を心で受けとめて信順することしかない。この他に信の体験はない。この事が分かっている人に対して弥陀の呼び声を聞くというのはいいかもしれないが、何も知らない人が聞いたら本当に弥陀の呼び声を直接聞く体験があると大きな誤解をする事になってしまう。或いは、意図的にそのように誤解することを誘発するのを狙っているのかも知れない。絶対の幸福にはそうした不可思議な超自然的な出来事であるかのように思わせて、その体験をした者としての自らの権威を最大限にまで高める目的のためにね。

 

B君 他に問題はあるかな?

A君 重要な問題点はあらかた言い尽くしたと思うが、仏法は聴聞に極まるとか聞く一つという意味について触れておきたい。極まるとは聞法の真剣さが火中を突破するような命がけの心境に達したことをいうのではない。真剣に聞くというのは聞く心構えや態度のことであるが、これは自力で聞くという行のあり方を指している。前にも述べたが、自分の側に属している心の属性の一つだ。他力の願力を聞くとはその自力を廃して聞くことを意味している。極まるとは、自力の思いが廃されて願意を願意のまま受けとめて聞いている聞信のことだ。聞く一つという意味も、聞がそのまま信となるような如実の聞のことだ。この聞信以外の聞き方をしていても決して浄土往生の真因にはならない。真因になるのは聞がそのまま信であるような聞のことだ。この聞が極まった聞であり、聞く一つと言われるところの聞だ。仏法は聴聞に極まるという本来の意味の聞だ。火中を突破するような命がけの心境に達したとしても自力を離れることはできない。自力では極まった聞になることはない。だから極まるとは聞法の真剣さのことではない。また真宗では「真仮の分斉を説くとか聞く」と言われるが、その意味は、信に時剋の一念があって地獄の釜の底に堕ちた瞬間に弥陀仏の呼び声を聞いた一念に絶対の幸福に救われるという意味ではない。正しい意味は、聞法心や念仏行をもって弥陀仏に助けられたいなどの思いに代表される自力の思いの正体は実には十八願に対する本願疑惑心である事、この本願疑惑心が弥陀の願意を受け入れることを妨げるものであるからその思いに囚われず、既に私の往生は決定しているという弥陀招喚の悲心を聞く事、聞いて受け入れる事、これによって本願疑惑心は一念にすべて消滅してしまうという事を説くことであったり、そのように聞くことを意味している。真宗が他の宗教と区別される点があるとすれば、この点だけだ。自力が廃って他力へと転換する、他力への転換により自力が廃る、というのが真宗の至極だ。白道を聞法心だとか真剣な命がけの聴聞によって弥陀の呼び声を聞いて絶対の幸福になるなどというのは、その真宗の至極を明らかにするのではなく、真宗の至極を完全に隠蔽してしまうものなのだ。この団体の長も自力が廃り他力に帰するというが、それは言葉だけでその内実が伴っていないのだ。

 

B君 そうすると本異釈には最初から最後まで真宗らしいところは一つも無しということか?

A君 そう、一つもない。かけらもない。

B君 真宗を標榜しているのだから、どこかいい所は1つ位はあるんじゃないか?

A君 皆無だ。真宗を標榜しているものの中身は似て非なるものだ。いや似ても似つかない偽物だ。悪臭ふんぷんとし、とても清浄な信から等流してきた釈ではない。心が汚染された人物による汚染された釈だ。

C子さん ほんとうよ。真宗の教義に暗く、無知すぎるほどのクソミソ知識よね。

B君 また言うかな。美人らしく、もっと上品に振る舞えよ。

C子さん 無理。まだまだ言い続けるつもりよ。

A君 願力の他力信は汚染を嫌うんだよ。自力の計らいを嫌うようにね。

 

3-20.論考 元祖の白道解釈 プラス 会話編

昭和新修法然上人全集448頁に収録されている「一.三心料簡事」の出だしから中頃にかけて、息慮凝心の定善と廃悪修善の散善は貪嗔邪偽等の血毒が交わるが故に雑毒の善、雑毒の行と名付ける。虚仮の行とは至誠心において嫌われる余善諸行である。この虚仮雑毒の善では往生は不可であると言われている。これに対し、選取された真実とは本願功徳即ち正行念仏であり、その根拠として一切善悪の凡夫生まれ得るは皆阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるなしという玄義分の文や凡夫に施す真実について彼の阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じるとき一念一刹那も真実ならざることが無った旨の文を引用するとともに、その真実を施す相手先は機の深信の文に出てくる悪人である。造悪の凡夫はこの仏の施す真実に由るべきであると断じている。諸行を用いた凡夫の至誠心は真実ではないため往生は不可能であり、阿弥陀仏の真実の至誠心による大願業力に乗じる以外に凡夫往生はあり得ないという元祖の立場を表明したものである。これに白道事という以下の文が続き、そのあとに「二.定善中自余衆行雖名是善、若比念仏者全非比校也伝事」という文が出され、念仏は本願の行であるのに対して諸善は本願の行に非ずと言われる。諸善は凡夫の雑毒の善、虚仮の行であるのに対して念仏は仏の真実心だから比べものにならないとの意である。この両者の間に挟まれる形で白道事が述べられているのだが、上記の対比を念頭に置いて元祖の白道の解釈を簡単に眺めてみよう。

 

白道

 

雑行中ノ願往生心ハ白道ナレドモ貪嗔水火ノ難ノ為ニ損セルヲ被ル。何ヲ以ッテ知ルコトヲ得ル。釈ニ伝ク諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向カウ也云々ト。諸行往生ノ願生心ノ白道ト聞クナリ。以上、A部分。

 

次ニ専修正行ノ願生心ヲ願力ノ道ト名ク。何ヲ以ッテ知ルコトヲ得ル。仰ニ釈迦発遣指南スルヲ蒙リ、西方ニ又タ弥陀悲心招喚ヲ籍シ、今二尊ノ意ニ信順ス。水火二河ヲ顧リミズ、念々遣ルルコトナク彼ノ願力ノ道ニ乗ジテ、捨命已後彼ノ國ニ生ズルヲ得ル。正行ノ者、彼ノ願力ノ道ニ乗ズルガ故ニ、全ク貪嗔水火ニ損害サレズ。是以譬ノ中ニ云ク、西岸上ニ人有リテ喚ヒテ言ク、汝一心正念直チニ来レ、我能ク汝ヲ護ラン。衆テ水火ノ難ニ堕スルコトヲ怖レザレ。合譬ノ中ニ伝テ言ク西岸上ニ人有リテ喚バフトハ、即弥陀ノ願意ヲ喩フ也云々。専修正行ノ人、貪嗔煩悩ヲ恐ルベカラズト也。願力ノ白道ニ乗ズレバ、豈ニ火焔水波ニヨリ損セラレルヲ容レンヤ云々。以上、B部分。

 

 三心料簡事は、A部分とB部分において述べているそれぞれの浄土往生の方法を対比する構成となっている。この構成の仕方から、作成目的は両者を対比することにあると言える。A部分の浄土往生の方法は凡夫の雑行中の願往生心をもって往生する方法であり、B部分の浄土往生の方法は仏の願力をもって往生する方法である。前者の凡夫の雑行中の願往生心は白道なれども貪嗔水火の為に損われており、仏の願力の白道は全く貪嗔水火に損われないと述べる。前者は凡夫の至誠心は貪嗔邪偽等の血毒が交わるが故に損われ、後者は仏の至誠心だから悪が混じわらないので損われることがないというのである。このように雑行中の願往生心と専修正行の願生心の両者を対比されてその違いを明確にしている。この違いが全非比校の文の理由にもなっていると考えられる。

 雑行中の願往生心は白道なれども貪嗔水火の為に損われることを何を以て知るかというと、元祖は善導の合釈の文に「諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向フ云々」とある事からそれを知る事が出来るとされ、「諸行往生ノ願生心ノ白道ト聞クナリ。」と言われている。元祖が諸行往生の願生心も自力ながらも一応は浄土に向かう道だから白道であると理解されていたことが判る。

 元祖が述べる「諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向フ云々」とは善導の文の合釈中の「人道ノ上ヲユキテ西ニ向フヲ行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向フニ喩エル」とある文の事である。「云々」と言われているのはそれと直接関連している三定死に到り着くまでの比喩の文とそれに対応した合釈の文のことである。「人道ノ上ヲユキテ西ニ向フ」という文を比喩の文中に求めると、その文そのものは無いのであるが、「コノ人死ヲ怖レテタダチニ走リテ西ニ向フニ忽然トシテコノ大河ヲ見(る)」とある。ここから合釈の「人道上ヲユキテ西ニ向」った道とは比喩の「タダチニ走リテ西ニ向」った道を指しての事であると解釈できる。これによれば「西ニ向カ」った道というのは二河の中間にある白道ではなく、そこに辿り着くまでの道のことになるが、なぜ元祖がその道を白道と言われているのかというと、その答えは善導の譬えの中にある。比喩には東岸に立って見た二河の中間にある白道につき「ソノ水ノ波浪交ワリテ過ギテ道ヲ湿シ、ソノ火炎マタ来タリテ道ヲ焼ク。水火アイ交ワリテツネニ休息スル事無シ」と言われている。善導は釈迦の発遣と弥陀の招喚を出す前に「西ニ向」った道の先に続いている白道の様相をそのように喩え、浄土へと続いていたはずの道、つまり雑行中の願往生心が完全に行きづまってしまったことを三定死と表現している。「西ニ向」った道は自らの貪嗔邪偽のために断絶している白道と同じ道なのである。至誠心をもって諸善に励むとやがて心の中の貪嗔邪偽が問題となり、そのためついには浄土往生に相応しい至誠心が無い事に気づき、西方浄土往生の道としては完全に断たれていることに苦しむのである。元祖も自ら経験したことである。譬えの中の「コノ人死ヲ怖レテタダチニ走リテ西ニ向フ」の「タダチニ走リテ」というのは頭燃を払うが如く必死に諸善を行って浄土を願求する心の姿勢を言われたのである。そのような思いで諸善を行じるとき貪嗔邪偽の二河が立ち塞ぐのである。

 以上、元祖は「雑行中ノ願往生心」すなわち凡夫の至誠心も一応は浄土への白道ではあるが貪嗔邪偽のために浄土から断絶されている白道であると理解され、また何を以ってそれを知ることができると言えば、釈ニ伝ク諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向カウ也云々トと言われた。これは、諸行業を廻らして直ちに西方に向かう諸行往生の至誠心は貪嗔邪偽の水火のために断絶されている譬えとその合釈から言われた事であると窺える。

 これに対し、三定死の思いになったのちに釈迦の発遣と弥陀の招喚を受けて人が水火を顧みず白道に踏み出して西岸に到り着いたことを願力の白道に乗じて彼の國に生じることを得て仏と相見えて慶喜すると合釈している。この人とはおそらく善導自身のことであろうが、その人は釈迦の発遣と弥陀の招喚を受けて死を怖れずに浄土に歩みを進め、ついには浄土で仏と相見えた。善導は「雑行中の願往生心は貪嗔水火の為に潰える」が、これに対する弥陀の悲心招喚の白道は「貪嗔水火難の為に損われることがなく浄土へと一直線につながっている」ことを対比することによって悲心招喚の白道が唯一浄土への道であることを明確にし、浄土往生は釈迦の発遣と弥陀の招喚を受け容れることによって成就されることを言わんとしたものと窺える。

 同じ白道という言葉が使われていてもその白道の中身は全く別物である。諸行往生は至誠心をもって諸善を行じることを浄土に生れる生因とするのに対して、願力の白道は弥陀の悲心そのものを生因とするという明確な違いがある。善導が白道の比喩を製作された目的は、後者の願力による浄土往生の生因となる信心について釈迦と阿弥陀仏がその信心を守護する様相を教える事にあった。その信心とは二尊によって守護されている十七願十八願力所成の他力信心のことであり、他力信心が浄土につながる唯一の白道だと言われているのである。その生因は仏の願力による他力信心であるから貪嗔のために損なわれることがない。元祖はその善導の意を忠実に解釈されたから、二尊ノ意ニ信順する他力信心を本願力ノ白道と言われ、これに対する雑行中の願往生心は「白道ナレド貪嗔水火難ノ為ニ損セルコトヲ被ル。何ヲ以ッテ知ルコトヲ得ル。釈ニ伝ク諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向カウ也云々ト。諸行往生ノ願生心ノ白道ト聞クナリ」と言われた。だから、この「諸行業ヲ廻ラシ」とは諸善を浄土に回向するという意味であって、諸善を振り捨てるという意味ではない。善導や元祖が勧めているのは貪嗔水火の為に損われることのない願力所成の真実の南無阿弥陀仏つまり正行念仏であり、諸行業を廻らすことを勧めているものではないことが明らかである。「定善中自余衆行雖名是善、若比念仏者全非比校也伝事」の文に念仏は本願の行であるが、諸善は本願の行ではないとしてさらにそれを明確に示している。善導が注釈された観経は一経二宗と言われるものの定散十六観法を廃し念仏の一行を立てることを勧めている廃観立称のお経である。善導は白道の喩えでその廃立を明確にされた。元祖による指南を受けて祖師は愚禿抄に諸行往生の願生心の白道を白路とされ、弥陀の願意たる白道をこの白路と区別された。弥陀の願意が浄土往生への清浄な他力信心になる事を明確したのである。だから、教行信証の真実信巻には弥陀の十七・十八願の願意を意味する白道の解釈しか出していない。

 

A君 上記について少し議論しようか。まず、最初に確認しておきたいことは、元祖は諸行往生の願生心を白道と言われているが、それを白道と言われた理由は、凡夫ながらの至誠心であっても一応は浄土往生を目指すものであることや善導が貪嗔水火の難の為に浄土往生が損われるとは言えども白道であると述べているからだ。これに対して、釈迦の発遣と弥陀の招喚を受けた仏願力の白道は浄土へとまっすぐにつながっている。元祖はいずれにも白道という語句を使用しているが、白道とは浄土への生因のことだ。諸行往生の生因は諸行を至誠心をもって行じることであり、願力による往生の生因は願力そのものだ。それぞれ生因はまったく別だ。前者は自力、後者は全分他力でまったく相容れない生因となっている。生因がまったく相容れない別々の生因だということはそのどちらかを選び取らなければならないということになる。諸行往生の方法を取るのであれば願力の往生は取れないし、願力の往生を取るのであれば諸行往生の方法はとれない。二河白道の比喩に合わせて言えば、前者と後者の白道は同じ一本の白道の上に重なってあるのではないし、連続して接続している一本の白道でもないということだ。自力たる諸行往生の方法と他力たる願力による往生とは完全に断絶している。浄土往生の生因が相容れない別々の生因であるということは、私達の目の前にはこの二つの方法が並列的に与えれているということだ。諸行往生の方法を最初に選択した者は善導のように至誠心にゆきづまりこれを断念し、そののちに改めて願力による往生の方法を選び取ることになる。しかし、最初から諸行往生の方法を選ばず、願力による往生の方法を選ぶこともできる。その方法を選んだ者はそのまま願力の大悲を聞いてゆけばよいのだ。

 

B君 願力というが十九願、二十願、十八願と三つの生因がある。それぞれどの願に対応するのか。

A君 諸行往生は十九願に定める生因による方法であり、釈迦の発遣と弥陀の招喚を受けた仏願力は十七・十八願に定められている。十八願の生因は十七願に誓われた御名すなわち南無阿弥陀仏であり、その生因は南無阿弥陀仏の信と行だ。その信は十八願では三信と表示されている。その行とは十八願の称名念仏のことだ。善導が「弥陀ノ願意」と言われるのは南無阿弥陀仏によって救うという十七願と十八願の大悲心の事だ。それで元祖は三心料簡事に専修正行ノ願生心とか専修正行ノ人とか言われている。専修正行とは十八願力の信心称名のことであり、善導はそれを正定の業と言われている。善導のいう「弥陀ノ願意」を十九願による往生の方法と理解することはできない。

 

B君 君は二河白道の譬えは諸善往生を廃し、念仏の一道を立てたという理解をしているけど、その理由はなんだい?

A君 端的に言えば、①諸行往生は不可能であると言われている事、②願力の白道によって浄土にて仏と相見えたという事だ。つまり生因がまったく別である往生の方法を同時に行じることはできない。さっき言ったように前者は自力、後者は全分他力でまったく相容れない。諸行往生の方法を取るのであればそれと相容れない他力の願力による往生は取れないし、願力の往生を取るのであれば諸行往生の方法はとれない。だから浄土往生を願う者はそのどちらかの方法を選び取らなければならないことになる。諸行往生の方法が不可であるならば願力の往生を取るしかない。これが廃立の意味だ。

 

B君 念仏という言葉は白道の比喩には一度も出てこないけど、どうしてか?

A君 念仏が白道の喩えに出てこないのは信心を守護する様相を喩える目的で白道の比喩が製作されているからだ。その十八願の信には当然のことながら願力の念仏が必然的に伴うので省略されたのだと思う。善導は信の立て方について就人立信の方法と就行立信の方法があるとされているが、二河の比喩は就人立信の方法によったと考えられる。就人立信とは二尊の発遣と悲心招喚によって信が生じ、二尊によってその信が浄土に行き着くまで守護されている様子を喩えたのがこの二河の比喩だ。善導は称名念仏に他力信を含めて称名念仏を正定の業と言われることが多いが、ここでは念仏を省略して信心で願力を代表させたのだろうと思う。

 

B君 じゃ善導が諸行往生を目指した事には意味はないというのかな?

A君 なにがしかの意味はあるだろう。

B君 どんな?

A君 自分は真実の至誠心になり切れないという事を身をもって知り、諸行往生はできないという事を後世に伝え、元祖がその善導の意を理解して回心した所に意味がある。

 

B君 じゃ、真宗内において諸行往生を目指せと教えることも良しとしないのかな?

A君 良しとしない。祖師の教えを聞きたいという人に諸行往生を目指せと教えることは間違っている。機に合わない教えは意味がない。白道の喩えでは「弥陀の願意」を聞くとあるのでその人には本願の大悲を説き、また聞くべきだ。弥陀の願意とはさきのとおり十七願と十八願の悲心の事だ。

 

B君 じゃ真宗内において至誠心は真実になり切れない自己を知るために善を勧める事は良しとするのかな?

A君 良しとしない。

 

B君 どうして?真実になり切れないという事を知れば三定死の思いになり、そののちに釈迦の発遣と弥陀の招喚を受ける事に繋がるんじゃないのかな?

A君 繋がらないからダメ。

 

B君 どうして?白道の譬えでは繋がっているように見えるじゃないか。

A君 繋がっていない。白道の譬えにある諸行往生の願生心というのは至誠心をもって浄土往生を果たそうとする思いの事だが、懸命の努力をして知らされる事は真実になり切れないと分かるだけだ。その先にある弥陀の招喚を受け容れることには直接繋がっていない。諸行往生と願力による往生とは、前者は自力で、後者は自力を受け入れない全分他力だから、完全に断絶しているのだよ。

 

A君 白道の喩えの三定死の思いというのは、懸命の努力をして知らされる事は真実になり切れない自己であると分かった者が自力往生の限界を知ってどうにもこうにもならなくなった悲痛な思いのことだ。三定死はそのような状態になったというだけのことだよ。それでは十八願力の白道を進む事はできない。弥陀招喚の願心があること、その願心は無条件で私をありたけのままで救う願心だという事を聞いていかないと、その願心を受け入れる事はできない。当たり前の事だ、弥陀招喚の願心があることを知らないんだから願心を受け入れようがないじゃないか。それにさっき言ったように諸行往生は自力、願力による往生は全分他力、まったく相容れないから両者は完全に断絶しているのだよ。原理上、連続することはあり得ない。祖師は真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失すと言われている。真仮を知るとは真と仮の生因が自力と全分他力というまったく相容れない性質の独立した別々の生因だと知ることなんだよ。

 

B君 つまり弥陀招喚の願心を聞いていなければ三定死の状態のままそこにとどまってしまう事になるのだね。

A君 そう。仏の十七・十八願の願意を聞かず十九願による諸行往生を目指しても、ただ自力往生の限界を知るだけになってしまう。だから、弥陀招喚の十七・十八願の願意をよく聞く事が大事な事であって、真実になり切れないと分かることは大事ではない。真実になり切れないと分かっても、それが十七・十八願の生因そのものにはならないし、その生因を満たす前提条件にもならない。これが白路と願力の白道が断絶して繋がっていない論拠だよ。

 

B君 じゃ白道の譬えには大事な所、大事な教えが抜けているという事なのかい?

A君 抜けてはいない。「西岸上ニ人有リテ喚バフトハ即弥陀ノ願意ヲ喩フ」とあるからね。弥陀の願意とはそのままの私を無条件で救う、南無阿弥陀仏で救う十七願・十八願の願心のこと。自力の思いしか持ち得ない、他力の信を持ち得ない私のままで私を救うという大悲の事だよ。この弥陀の願意を十九願の願意と理解したのではムチャクチャな事になる。弥陀の願意というところが最も大事な所だ。善導はその大事な所をチャンと押さえている。

 

B君 じゃ肝心なのは三定死の状態に至ることではなく、弥陀の十七・十八の願意を聞くということなんだね。

A君 そう。だから自分の至誠心をもって諸行往生を目指す事は大事ではない。

 

B君 じゃ、弥陀のその願意を聞くことに注意を向けるとどうなるのか?

A君 願意を聞くことに注意を向けても、それが自力である限りは三定死の状態に至り着くだけだ。ただ、ここでの自力というのは先の自力とは意味合いが違ってきているし、三定死の意味合いも全く違うものになる。

 

B君 どういうこと?

A君 諸行往生を目指す者の自力の願生心とは自らの心を至誠心になし替えて浄土往生を目指す思いのことだが、浄土往生に相応しい至誠心を持ち得ないために浄土往生はできず死に臨むという危機的状況に苦悩しているのが善導のいう三定死だ。十七願十八願の願意を聞くことに注意を向けるようになった者の自力というのは願意を聞いて南無阿弥陀仏で救われたいという思いのことだ。同じ自力でも自力の中身が違ってきている。後者の自力の思いをもっと詳細に言えば、至誠心にはなれず南無阿弥陀仏で救われるとしても自分の持ち前の力や思いで南無阿弥陀仏を称えることを利用して仏力にすがり助けられたいという思いに重点が置かれるようになるのだ。これが本願疑惑心と言われるような自力の思いなんだ。ここでいう自力の思いというのは南無阿弥陀仏で救われると聞いてもそのとおりと受けとめられない心の状態をいうのだ。釈迦の発遣と弥陀の招喚を受けるというのは仏の十七・十八願力を受け入れてそのような自力の思いが廃るということだ。

 

B君 それは十七・十八願の願意を聞いていることによってのみ生じる思いなんだね。

A君 そう。その通り。願意を聞いて助かろうとする思いが出てきてそれが強まるほどその思いに囚われてどうにもならなくなるだよ。

 

B君 それは心理的に仏による救いを得られないまま死に臨むという危機的状況に苦悩している状態なんだね。その点で三定死の状態と同じなんだね。君が言う自力地獄の事だね。

A君 そう。仏にすがって助かりたいと思った瞬間にその思いはどうしたら助かるかという思いに転化する。念仏を称えて助かりたいという思いに転化する。それが自力の思いである事に気づき呻吟するのだ。助かりたいという思いが瞬時に自力の思いになるのだからね。どうにもならない。自力が廃らないと助からないのに、助かりたいという思いがそのまま自力の思いになるのだから、どうしようもなくなってしまう。助かりたいと思い続けても、今死ぬとなればこの自力の思いのまま臨終を迎えることになる。今日臨終を迎えても10年後に臨終を迎えても、20年後に臨終を迎えても自力の心のまま死んでゆく事態はまったく変わらない事実に気づく。つまり自分は助からないということに気づくのさ。助からないと気づけばますます助かりたい思う。その繰り返しで自力で計い始めた最初の立ち位置から一歩たりとも前に進めない。そこから抜け出る事ができない状態に苦悩するのだ。これが私が自力地獄と言っている状態の事さ。至誠心が行き詰まったことによる三定死とは明らかに異なる。但し、地獄と言っても無間地獄の釜の底に叩き落とされたという経験ではないよ。そんな経験は悪知識の架空の作り話さ。善導も元祖も祖師も誰もそのようなことは言っていない。

 

B君 十九願の諸善を励むことによって至り着く三定死ではなく、南無阿弥陀仏で救うという十七・十八の願意を聞いて至り着く三定死なんだね。よく分かるよ。

A君 私や君がそうであったように願意を聞いている限り誰でもが自然に至り着く所だ。しかし、この願意を聞いてゆく道が最も近道だ。諸行往生の方法を断念するまでの過程が省略されることになるからね。それに仏の救いは念仏を称えつつ、その称える南無阿弥陀仏の意味やいわれを聞いている内側にあるのであり、その外側には無いのだからね。

 

B君 善導は聖道門から浄土門に入った人間としてそれに応じた心構えで至誠心をもって諸行往生に励んだ末に三定死を経験し、その上で仏の十七願十八願の願意を聞いて願力の道に乗じる経験をし、それを白道の比喩に表現したんだね。

A君 そう。元祖も同じだし祖師も同様の道を辿られた。聖道の行たる諸善を浄土往生のために長らくされた期間に比べれば、南無阿弥陀仏で救うという仏の願意を聞かれてからは速やかに願力の道に乗じることができたんだろう。だから、私達は善導や元祖らの辿った十九願の諸行往生の道を辿る必要はない。非常な遠回りになるからね。一生涯かかっても願力の信は得られないかも知れない。祖師がその道は迂遠であるとされ、本願の直道を仰ぐべしと教えられているとおり、南無阿弥陀仏で救うという願意を聞いて聞き開く道を進めばよいことだ。祖師は三願転入の文と言われている箇所で、「宗師の勧化によりて久しく万行諸善の仮門を出でて双樹林下の往生を離る。・・すみやかに難思往生の心を離れて難思議往生を遂げんと欲す。」と書かれている。この文意はどこにあるかというと、既に万行諸善の仮門に入っている人はその仮門を出ること、既に自力念仏行を行じている人はすみやかに自力の心を離れよと教え、他力の願海に入れと教え勧めるところにある。いまだ諸行往生の願生心を持っていない人に諸行往生のために修善を開始せよと勧める文ではない。先の三願転入の文を生きているうちに必ず通過しなければならない求道の過程を教える文だと誤って理解するからおかしな事になるのだ。教行信証に真実の行信と仮の行信を明確に区分されている趣旨は仮を捨てて真実を取る事を勧めるためだよ。ここを間違えては真宗の教えではなくなるんだ。大切な所なのでもう一度言うが、先の御文はいまだ諸行往生の願生心を持っていない人に往生のために修善を開始せよと教え勧める文ではない。既に諸行往生の願生心を持って諸善を行じている者に万行諸善の仮門を出でよと勧める文だ。

 

A君 元祖は諸行を用いた凡夫の至誠心は真実ではないため往生は不可能であり、阿弥陀仏の真実の至誠心による大願業力に乗じる以外に往生はあり得ないということを表明しているが、その表明を聞いたとき、どういう思いになるだろうか?

B君 普通であれば、諸善を行じて往生を願う道は避けて、直ちに阿弥陀仏の真実の至誠心による大願業力に乗じる道を選ぶよね。

A君 そう。それが普通の感覚だ。あえて諸善を行じて往生を願う人はいないだろう。三心料簡事の元祖の意はまさしく阿弥陀仏の大願業力に乗じる道を選び取らせることにある。その廃立のために元祖は選択本願念仏集を製作されたのだし、念仏往生を説き続けられた。その結果はご承知の通りだ。

 

B君 つまり元祖は最も近い道を教えられたという事だね。

A君 そう。聖人ならいざ知らず、凡夫にとっては廃立の教えこそが浄土に直結する最短の道を教え勧める教えなんだよ。

 

B君 それなのに凡夫に信を得る方法として諸善を行う事や自己の団体に寄付する事が宿善となり信仰が進むと教える事はどうなんだろうか。

A君 廃立の教えによって廃された諸善をもう一度復活させて、信を得るための手段として諸善を教え勧めることは廃立の教えに反することになる。例えれば、正門から入ることを拒絶しながら裏口から取り込むのと同じだ。

 

B君 他力の信を得るために諸善を行じなければならないと考える前提には、善をなしえない自己の悪性に気づき、善導のいう三定死に到り着くまで善をしなければ他力信を得られないという誤った前提があるということなのかな?

A君 そう思う。悪性の自己に苦しむという心理状態に陥って苦悩するときにはじめて弥陀の願心を聞けるという誤った考えに立脚している。二河白道の比喩とその善導の釈を読むとき、そのような誤った読み方をするのは十七・十八願の願意を正しく理解していないからだ。十七・十八願の願意は南無阿弥陀仏で救うということにある。自力は不要で邪魔なだけだ。貪嗔邪偽のために諸善ができないことを経験的に知ることは十七・十八願の救いの条件や前提ではないことを正しく理解していないからだ。二河の譬えの白道は諸行を行じて三定死に行き着いた者がその行き着いた先でたまたま弥陀の悲心招喚の願意を聞いたことから出来上がった比喩だ。諸行を行じず、善導の言う三定死に行き着くことのない者にでも大悲は働き続けている。だから誰でもいつでもどんな状態のときでも悲心招喚の願意を聞き受ければ良いんだよ。

 

A君 二河の比喩は、いわば善導自身の失敗談と成功談を組み合わせて作成したものだと言える。失敗談とは諸行往生の方法では往生できないと途中で放棄せざるを得なくなった失敗のこと、成功談とは願力によって浄土往生が決定したということさ。失敗談を聞いて同じ失敗をしなければ成功しないと諭す比喩ではない。二河の比喩は、諸行往生を求めた善導がその方法では往生できないと知ったときに、願力による往生の道のあることを聞いてその方法に乗り換えることができたことを表すものだ。二河の比喩は諸行往生を求めた者に特有の道程であり、諸行を行うことが難しい凡夫が辿るべき道程ではないのだよ。それは聖道と同じような難行道なのだ。

 

B君 善をなしえない自己の悪性に気づき三定死に到り着くまで善をしなければ他力信を得られないという誤った考えでそれを教えることは、真宗を聞きたいと思っている人の宗教心につけ込んだ宗教的詐欺行為だよね。被害は財産だけではないよね。時間という取り戻せないものを奪ってしまう。一生という時間を奪われる事になるかも知れない。もうそろそろ気がついても良い頃だと思うのだけどね。

C子さん 極悪人、クソ知識といってもいい位よね。

B君 久々に登場したのにそんなにカッカするなよ。それにクソってまがりなりにも美人さんなんだし。

C子さん まがりなりにもっていうのは余計よね。美人は本当だけど。

 

A君 じゃ次に行こうか。どうしたら自力の思いは廃るのかということだが。

C子さん 善導や元祖の指南によって、諸行ではなく念仏を行じるようになっても、南無阿弥陀仏の願意に反する自力の思いが障害となって文句ばかりの心になっている人が抱えている問題ね。

 

B君 チョット待って。その前に確認したいことがあるんだ。善導は釈迦の発遣と弥陀悲心の招喚を受ける前に「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」という思いになったとき釈迦の発遣と弥陀悲心の招喚を受けたと書かれているが、この「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」とはどういう事なんだろうか。この「度ルベシ」という思いも自力の思いだよね。

A君 うん。そうだね。これも自力の思い。

B君 じゃ、「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」という思いになって歩み出そうとしたときの道とは、これまでの道とおなじ至誠心の道のはずだ。ということは、再び諸行往生の道を歩み出そうとしたときに怖れるなとの西岸上の人が喚ばうのを聞いてその道を歩み出したと理解できないか?

A君 それは大きな間違いだ。それでは三定死と合わないし、また諸行往生を成し遂げられることを表す比喩になってしまう。三定死は至誠心が行き詰まってしまいその状態で死を覚悟したときの心境だ。もう自分の至誠心をたよりにすることはできなくなっている。それに諸行往生ができるという事になれば、その人は諸行往生できるような善人であることになるが、善導の深心釈の二種深信のうちの「自身は是罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して出離の縁あること無し」と言われている善導の意図と合わなくなってしまう。善導の意図は、観経下々品の最下の悪人であってすらも転教口称の念仏の教えを受けて浄土往生したことを二河の比喩の願力の白道として表し、二種深信による浄土往生こそが百即百生の道であると教え勧める所にあった。だから、そのような解釈は善導の製作意図に合わないのだよ。

 

A君 じゃ次に行くよ。「弥陀ノ願意」を聞いてどうしたら助かるかという自力の思いになった者は念仏を称える行によって助かろうとする思いになる。これが諸行を廃して念仏の道を進み出した者の思いだよ。念仏で救われようとの思いになった事を指して「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」と言われているのだと思う。ここで善導は自力ながらも廃観立称しているだ。

B君 どうしてそう解釈できるのかな?

A君 「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」という思いは三定死の思いになったあとのことだけど弥陀の悲心召喚を聞く前の事だよね。つまり諸行をもって「カナラズ度ルベシ」という思いとは別の思いになったということだ。思いのものがらが変わったということさ。それは南無阿弥陀仏で助かろうとする思い以外には考えられない。だから「スデニコノ道アリ」というのは南無阿弥陀仏によって救われようとする道のことだよ。元祖は二尊ノ意ニ信順シテ願力ノ道ニ乗ジルと書いているね。十八願意に信順するというのは、その意を心に受け入れてそのとおりに実行することをいうのだよ。仏の意は念仏が浄土往生の正行だと言われるのであれば、そのとおりであると心で受けとめて念仏を申すという事だ。念仏行によって助かろうとしている者にこそ弥陀悲心の招喚の願意が速やかに伝わるのだ。二河の比喩では「われむしろこの道を尋ねて前に向かいてゆかん。すでにこの道あり。かならず度るべしと。この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。・・また西の岸の上に人ありて喚ばひていわく・・」とある。この「この念をなすとき・・たちまち」とは、念仏の行をもって往生せんと思い立った人にこそ弥陀の大悲が速やかに到り届けられることを表しているのだよ。

 

C子さん 問題は念仏申す事が仏の願意に称う事だと受けとめられるか否かというところだね。

A君 そう。ここを極難信というのだが、念仏が浄土往生の正行だと気づき、それが仏願であると受け入れるだけのことなのだがね。この「南無阿弥陀仏で救う願意」と「南無阿弥陀仏で救われることへの気づき」というあうんの呼吸は教える事ができない。教えられるようなものであれば極難信とは言わない。自力称名の思いが障害となって文句ばかりの心になっている人には、そのまま浄土に生まれさせる願心だということに気づいて欲しい。それだけだ、念仏行を往生の行として選び取ったあとはね。自力の計らいが生じた人にこそ願心を聞いてその計らいが廃ると言われるのは、あくまでも念仏の行を選び取った人に言えることなんだ。

 

B君 気づくという事は大事な事なんだね。

C子さん 気づくか気づかないかの差のようだけど、脳内の神経細胞ニューロンの発火状態はまったく違ったものになるようね。意識されないときは脳神経細胞の発火は局所的に止まるけど、意識されたときは局所的だった神経細胞の発火が増強され、それが遠位にある前頭前野頭頂葉に発火が伝わり、そこから脳全体に発火が連続し、脳全体が情報をやり取りしているかのように神経細胞の発火が連続して起こってくるって本で読んだわ。きっと願意の意味に気づいて願力の信が開けるときも脳内では活発な活動が起こっているのだと思うわ。念仏を称えて仏の願心を憶念しているときの脳内の活動と未信の者が念仏を称えているときの脳内の活動にはどのような差異があるのか、興味深いわよね。

A君 きっと自力の計らいで心が閉ざされているときの脳内活動が消えて、新たに弥陀の願心を聞き受ける脳内回路が形成されるとともに情動を司っている部位の脳内活動も活発になっていると思うよ。大経に信心歓喜とある。信心には南無阿弥陀仏一つで私は救われてゆく歓喜があるからね。そのまま救うという願意に気づくという事は私の思いや力は何の資助にもならなかった。ただ南無阿弥陀仏だけで私は仏に救われるのであったと気づく事なんだ。これを捨自帰他というし、二種一具の深信ともいうんだ。この気づきは意識の表層で生じるものではなく、心の内奥に根ざしたものであり、意識下で生じた大悲への無疑心が意識によってとらえられたとき信知とか信楽と言われる他力信になるんだろうと思うよ。

 

B君 少しばかり戻るけど、いいかな。善導は東の岸で見た白道を「清浄ノ願往生心ヲ生ジルニ喩フ。スナワチ貪嗔強キユエニ、スナワチ水火ゴトシトイフ。善心微ナルガユエニ白道ノゴトシトイフ。・・善心ヲ染汚スルニ喩フ。マタ火炎ツネニ道ヲ焼クトイフハスナワチ嗔嫌ノ心功徳ヲ焼クニ喩フ」と言われているが、ここでいう清浄の願往生心とは如来の願力の白道の事だろうか、それとも凡夫の起こした浄土往生の至誠心のことだろうか。

A君 それは釈迦の発遣と弥陀悲心の招喚を受ける前で、かつ「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ」という思いになる以前のことだよね。そうすると答えは自ずと決まってくる。それは諸行往生の至誠心のことだ。諸行往生の至誠心であっても清浄な浄土を目指している心だから清浄の願往生心ということができる。

B君 その清浄の願往生心は水火によって湿り焼かれるため浄土に至る事が決して出来ない白路なんだね。では、どの時点で諸行往生の白路が願力の白道になるのか、というと釈迦の発遣と弥陀悲心の招喚を受けてそれを聞くときに白路が願力の白道に切り変わるんだね。善導は諸行往生の白道の上を人が弥陀悲心の招喚を聞いて歩んでいったかのように比喩を造っているが、弥陀悲心の招喚を聞いたときにそれまでの白路が願力の白道に切り替わったという理解をするのが適当だということだね。

 

A君 そういうことになる。但し、自力の白路が全分他力の白道に切り替わるといっても、その白路が願力の白道に繋がっているのではなく、白路とは完全に断絶している全分他力の願力の白道が弥陀の悲心招喚によって突然開けるという点に注意をして欲しいな。それに、私や君のような凡夫ははじめから諸行往生の白路を選択せず、南無阿弥陀仏の願力の白道をゆくしかないのだ。善導と元祖によって指南されている廃立の教えのとおり、最初から諸善ではなく念仏の一行を立てるしかない。元祖が専修正行ノ願生心とか専修正行の人とか言われているのは、南無阿弥陀仏で救われると心が決まり称名して浄土に生じる事を願じている真実の行信のことを言われているんだが、専修正行とは南無阿弥陀仏を称する事が浄土の正定業であると受けとめて称名する事を指している。だから念仏を行じつつその念仏が浄土の正定業であると仏が定め置き給うたと心で受けとめて欲しいんだ。

 

C子さん そのように心で受けとめると、「水火ノ難ニ堕スルコトヲ怖レ」ていた気持ちはどうなるの?

A君 諸行往生を目指す際に不可欠な至誠心を損なうものが内心の貪嗔であったため善導が怖れたのはその貪嗔だ。仏の至誠心は真実心だから内心の貪嗔に損われない。この仏の至誠心によって往生すると信知した善導はもう貪嗔を怖れる事はなくなったと思うよ。この点は「水火ノ難ニ堕スルコトヲ怖レ」るという経験のない私は推測するしかないのだが。

 

C子さん あなたはどうだったの?

A君 私は諸善往生を求めてはいなかった。だから貪嗔を怖れる事はなくなかった。貪嗔の心が凡夫にあるのは当たり前の事だと受けとめていた。だからこれをなくそうという思いはなかった。信前信後を通じて貪嗔そのものを怖れる事はなかった。貪嗔が内心にとどまっている限りではね。問題だったのは自力の計らい心だった。弥陀の願意を聞き受けると、さっき述べた自力の計らい心はなくなってしまった。貪嗔そのものは内心に留まっている限り怖れることはないが、それによって世間的な悪業を造る事は今でも怖れている。その悪業は自分に跳ね返ってくるから。そういう意味で身業や口業で罪悪を造ることを怖れる気持ちはある。しかしこの罪悪を怖れる気持ちは浄土往生とは関係のないものだ。ただ南無阿弥陀仏によって往生するばかりと信知しているからね。十七願十八願力による往生は善悪とは無関係なんだ。これを横超の願力というんだ。全非比校は横超の願力のことだ。仏の願力は善悪にかかわらない無条件の大悲であるから、仏の手違いによって救われない事態にはなることはなく、私は必ず救われると聞いて欲しい。このことを善導は百即百生と言われている。仏のされることに1つも間違いがないということを善導は確信していたんだ。だから自力の計らいで苦悩している人は百即百生の願意を心で受けとめて欲しい。いったんそのように受けとめると、自分の行き先は弥陀まかせという気持ちに落ち着く。そうすると今度は、仮に仏に手違いがあったとしても自分の行き先は弥陀まかせだから、仮に地獄に堕ちるようなことがあったとしても常に弥陀の大悲とともにあるという心境になるよ。機法一体の南無阿弥陀仏とか仏凡一体とはこの心境を言うんだ。