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1.論考編

1-21.自然

自然といふは、 自はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。 然といふは、しからしむるといふことばなり。 しからしむるといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにて あるがゆえに法爾といふ。 法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆえにし…

1-20.本願まことと信楽不思議

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもってむなしかるべからず…

1-19.本願まこと-歎異抄第3条に見る祖師の信

おのおの十余カ国のさかひをこえて、身命をかえりみずしてたづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問い聞かんがためなり。・・親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人の仰せをかぶりて、信ずるほかに…

1-18.三願転入の御文

ここをもって愚禿釈の鸞、・・・久しく万行諸善の仮門を出でて双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるに今ことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。 教行信証化身土文類にあるこの御文を三願転入の…

1-17.十八願の生因と自力の計らい

前回、前々回と雑行、雑修について述べてきましたが、自力の思いをもってなす自力の行という観点から見ますと、雑行も雑修も自力の行です。これらはそれぞれ十九願、二十願における生因としての自力の行です。十八願による救いを求める者がこれらの行を行じ…

1-16.雑修

雑行の次に、祖師は正助行について専修と雑修とがあり、専修には五つの専があるとされています(浄土真宗聖典第2版395頁「正助について専修あり雑修あり」等)。この五専は五正行の各正行の一行を専らに修することで、専礼、専読、専観、専称、専讃嘆の5つで…

1-15.雑行

化身土巻において、正行と雑行につき善導の文を引文されています(浄土真宗聖典第2版387頁・就行立信釈)。 その引文では、善導は、浄土三部経の読誦、阿弥陀仏の浄土の観察憶念、阿弥陀仏への礼拝、阿弥陀仏の御名の称名、阿弥陀仏への讃嘆供養を正行とし、そ…

1-14.如来の救いにおいて自分は悪人であるとの自覚は必要か?

人として自分の内なる悪性を自覚し、それを抑制しつつ善人たらんと向上を願うことは大切であると思いますが、如来の救いに遭うにおいては、悪人であるとの自覚を持ったり、或いは、その自覚を深めなければ救われないということはありません。善人であるとの…

1-13.機の深信

自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、こうごうよりこのかた常に没し、常に流転して出離の縁あることなし-機の深信 祖師は愚禿抄(下)において、二種深信を「他力至極の金剛心、一乗無上の真実信心海なり」(真宗聖典第2版521頁)としながらも、この機の深信について…

1-12.大悲心と信と二種深信

如来の大悲心は如来の至心であり、満足大悲円融無碍の信心であり、回向心です。疑蓋まじわることがなくなるのは、如来の三心の故にです。心中において、如来の大悲心に対する不信が有ることなし、という状態は、如来の大悲心が心中に来現し、心に刻み込まれ…

1-11.「信は願心より生ず。」-実機を知らされたから自力の計らいが無くなるのか?

自己の罪悪の深さや実機を知らされ、自力では助からないと知らされたことによって自力の計らいがなくなる、という考えは正しいか、これがここでの問題です。 上記のように考える者は、自己の罪悪の深さや実機を知らされたことによって地獄に堕ち、そのとき自…

1-10.自力の計らい(疑蓋、疑心)とは何か。

祖師は三一問答において 如来の至心をもって諸有の・・群生界に回施したまへり。すなわちこれ利他の真心を彰す。故に疑蓋まじわることなし。 信楽すなわちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。この故に疑蓋間雑あることなし。 欲生すなわちこれ回向心な…

1-9.往生の行因と乃至十念-大行論

祖師は行巻において、大行とは如来の御名を称する事であると指定しています。その一方で、称名は南无阿弥陀仏であるとの解釈を述べられています。このため、大行とは称名行であるのか、御名であるのか、ということが真宗教学上、問題となりました。大行は私…

1-8.十八願の三信と出体釈

如来の大悲心は真実の至心であり、衆生を摂取するについて疑心のない決定心であり、また、衆生を浄土に往生させるとの決定の欲生心です。この大悲心は南无阿弥陀仏の徳号として成就されました。 ところで、衆生における至心、信楽、欲生の三信につき、祖師は…

1-7.如来の三心と衆生の三信(一心)

十八願の三信とは、衆生の生因としての至心、信楽、欲生のことですが、この三信を如来の三心から考えてみましょう。 祖師は 如来の至心をもって諸有の・・群生界に回施したまへり。すなわちこれ利他の真心を彰す。故に疑蓋まじわることなし。 つぎに信楽とい…

1-6.同心

思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案に同心せば、仏に成るべし。同心とて別になし。機法一体の道理なりと云々。 御一代聞き書き末242 御思案に同心するとは、弥陀如来の五劫思惟の本願に同心するということで…

1-5.浄土対面してあい違わず

光明師のいわく、ただうらむらくは、衆生のうたがふまじくをうたがふことを。浄土対面してあい違わず。弥陀の攝と不攝とを論ずることなかれ。こころ専心にして回すると回さざるとにあり。 -善導-化身土巻 浄土対面してあい違わず、とは理解しづらい表現で…

1-4.往生決定を聞く信

ただ、心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、声について決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。かく心得つればやすきなり。往生は不定に思へば…

1-3.機法一体の南无阿弥陀仏

前回、「至心信楽欲生我国・・・若不生者不取正覚」が南无阿弥陀仏であることを述べましたが、蓮如上人は機法一体の南无阿弥陀仏と言われました。 もともと、「機法一体の南无阿弥陀仏」という用語は、安心決定抄に登場する用語です。この安心決定抄において…

1-2.十八願中にある南无阿弥陀仏

「至心信楽欲生我国、乃至十念、若不生者不取正覚」 十八願に上記の文があります。十八願の成就の文には、「聞其名号信心歓喜乃至一念即得往生住不退転」とあります。この十八願文と十八願成就文との対応関係を考えてみますと、十八願文の「至心信楽欲生我国…

1-1.阿弥陀如来の救いッぷり-十七願と十八願とその成就文

阿弥陀如来の救いッぷりは意外も意外、想像すらできなかった。これが如来の救いであるならば、こんなにたやすい救いはない。 如来の選択の願力(十七願と十八願)は、釈迦に大経を説法させ、その教えが七高僧から祖師へと伝わり、浄土真宗となって今私が聞いて…