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2-13.私にとって南无阿弥陀仏とは一体なにか?

南无阿弥陀仏とは、私にとって一体、何でありましょうか。 祖師は、南无阿弥陀仏の南无の字義を解釈して如来の呼び声だと言われましたが、私にとって南无阿弥陀仏とは、如来の慈悲を感じることです。 如来の呼び声である以上、その呼び声を聞く、ということ…

2-12.法蔵の本覚と始覚-お経には書いていないこと-

阿弥陀という仏様は、どのような苦労をして南无阿弥陀仏となられるのでしょうか、勝手に想像してみます。 そもそも、仏様が衆生を救うには、どうすればよいのでしょうか。仏様のまま、衆生の外から衆生を救うのでしょうか。それとも、自らが衆生になり切り、…

2-11.念仏と信と自我

如来の大悲心を受容し、大悲心を仰ぐようになる前は、信を得るために何がしかの役に立つのではないかと思って念仏を称えています。自分の利益のために何か役立てようとの思いを自我というならば、他力信の念仏にはその自我はまじりません。 阿弥陀仏の願心を…

2-10.大経思想の受容と事実

宗教は、自分が認識している世界と人をどのように理解するのかに関する理解の枠組みを提供し、人の精神世界に働きかけ、一定の方向を指し示し、その方向に進むことを教示します。 例えば、キリスト教では、この世界は神が作りたもうた世界であり、人は原罪を…

2-9.信を考える視点

信を考えるに、2つの視点があります。 1つは、如来の大悲心を受けるという視点 2つは、如来の大悲心を受けている状態ないし如来の大悲心を受けているという私の思いを私の意識の視点から観察するという視点 1つめの如来の大悲心を受けるという視点から信…

2-8.月指す指

週刊○○誌に「月指す指」という漫画が連載されていました。西本願寺の僧籍を取得するために仏教学院で受講する生徒達の物語ですが、真宗の教義が述べられる場面はほとんどありませんでしたが、それなりに面白いので毎週購読していました。 この「月指す指」と…

2-7.自力無功と死の受容

如来の本願が間違っていたら、どうなるのか。如来の願心を喜んでいる人は、この点にいて、どのように考えるのかを考えてみます。 如来の本願が間違っていたら、どうなるのか、そんなことを信後の人が考えることがあるのかと、訝しく思われるかも知れません。…

2-6.リアルに想定してみましょう。如来の三心を聞き受けるとは?

まず、リアルに想定してみましょう。自分が死ぬ存在であるということを。 私は、必ず、死んでゆきます。 死に至るまでの経過が急激な外力によるものではなく、病的な緩慢な経過である限り、何らかの微細な変化から始まります。それは最初自覚できません。そ…

2-5.信を得ることが人生の目的か?

信を得ることが人生の目的である、と考える必要性はありません。信を得ることが人生の目的であると考え、信を得るために自分の生活を犠牲にするということも必要もありません。 世間では、資格の取得にせよ、起業にせよ、成功するには少しばかりの才能と懸命…

2-4.視点の転換と五重の義の理解

①宿善、②善知識、③光明、④信心、⑤名号(称名念仏)の五重の義、成就せずは往生はかなうべからず。 この五重の義をどのように理解するかは、問題があるところです。最初に宿善が挙げられているので、宿善がなければ往生はできないと理解して宿善を求めなければ…

2-3.視点の転換と至心

至心は、如来の至心と衆生の至心という観点から考える必要があります。如来の側に立ったときは「約仏」といいあらわし、衆生の側に立ったときは「約生」といいあらわします。その約仏とか、約生という言い方はどうでもいいことですが、便利な言い方です。 さ…

2-2.視点の転換と十八願の味わい

祖師は、「よくよく本願を案ずれば、親鸞一人がためなり」と言われましたが、これは、十方衆生のうちで極悪最下な者が自分であるという意識から、そのように思わずにはいられなかったのだと思います。 では、十方衆生のうちで極悪最下な者が自分であるという…

2-1.夜と霧-視点の転換

ナチの強制収容所から奇跡的な生還を果たしたユダヤ人の精神科医ヴィクトール・フランクルに「夜と霧」という著書があります。強制収容者生活において希望がもてず自殺を考えているという2人の囚人仲間から深刻な悩みの相談を受けたときのことが記されてい…