私の言いたいこと

 私の言いたいことはシンプルです。

回向された如来の願心を仰ぐ。口にはときどきお念仏。これだけです。

 最初に如来に願心あり。浄土の完成を告げる御名が回向され信と念仏になる。信も念仏も、如来の願心によって私に生じ起こることが遠い昔から決まっていたのでした。
 

  念仏にはまたく別の様なし。
  ただ申せば極楽へむまると知りて、心をいたして申せばまいる也。

                法然聖人 「つねに仰せられる御詞」

 


一枚起請文といい、上の御詞といい、法然聖人はまことに有り難い御詞を残されました。

 法蓮房信空という方が法然聖人に「古来先徳はみんなその遺跡があります。しかるに上人はいま精舎一宇も建立なさっておりません。もし入滅なされたならば、その後、どこをご遺跡といたしましょうか。」と尋ねられたとき、聖人は、「あとを一廟にしむれば遺法あまねからず。予が遺跡は諸州に偏満すべし。ゆえいかんとならば、念仏の興行は愚老一期の勧化なり。されば念仏を修せんところは、貴賤を論ぜず、海人漁人がとまやまでも、みなこれ予が遺跡なるべし」(四十八巻伝・巻三十七)と言われたとのことです。

私もあなたも念仏申す人はみな法然聖人の遺跡なのです。