1-1.阿弥陀如来の救いッぷり-十七願と十八願とその成就文

阿弥陀如来の救いッぷりは意外も意外、想像すらできなかった。これが如来の救いであるならば、こんなにたやすい救いはない。

如来の選択の願力(十七願と十八願)は、釈迦に大経を説法させ、その教えが七高僧から祖師へと伝わり、浄土真宗となって今私が聞いて念仏している。教えが伝えられていることは歴史的事実であり、この事実を疑う余地がない。この歴史的事実を介して私に如来の願力が届き、聞いて聞えてくるのは、ただそのまま救うという如来の大悲心であった。この如来の願心をそのまま受けとめたとき、私が感じた感想は、上記のようなものでした。

 さて、この素朴な感想を大経所説の教えに照らし、論理の言葉として表現すれば、どのようなことになるのかを考えてみました。

 祖師は、大経所説の十七願を真実の行願、十八願を真実の信願とされ、この二願を重視されました。阿弥陀如来の救いッぷりを理解するには、十八願だけではなく、十七願と願成就文とを一緒に読み合わせて十八願を理解するのが分かり易いと思います。

 十七願 衆生のために浄土を建立した我が名を諸仏に称讃され、

     我が名を衆生に聞かしめん、という誓いです。

 十八願 諸仏に称讃される我が名を聞いて至心に信楽して十念する者を

     浄土に生まれさせん、という誓いです。

 

十八願の願文には「諸仏に称讃される我が名を聞いて(至心に信楽する)」ということは述べられていませんが、十八願成就文に聞其名号・信心歓喜にある「其の」とは十七願で誓われた諸仏称讃の我が名を指していますので、十八願は、「諸仏に称讃される我が名を聞いて至心に信楽して」と補うことができます。

 このように十七願と十八願とは御名を聞かせて救うという一連・一体の願として理解するのが適当です。十七願と十八願の願事を合わせ述べれば、我が名を成就し、諸仏に我が名を称讃させて衆生に御名に聞かせ、我が名の成就として衆生の浄土往生が決定していることを信じさせ、浄土に往生させん、という願事になります。簡単に言えば、如来衆生に御名を聞かせて救うということです。現実の歴史的事実に照らして言えば、大経から七高僧から祖師へと伝わり、浄土真宗となって、今私が聞いているという事実にこの如来の救い方を見いだすことができます。そして、今、私に聞こえてくるのは、浄土の完成とそれを告げる如来の御名であり、その御名はそのまま救うとの如来の願心の表れですから、私に聞こえてくるのは、そのまま救うとの願心です。

 真実の行願の成就により、如来の救いの法である南无阿弥陀仏を私は既に説法として聞いていたのに、そのことを気付かずいたところ、あるときその事実に気付き、如来の願心が心の底から理解できるようになりました。ここに「意外も意外、これが如来の救いであるならば、こんなに容易いものはない。」と感じた理由があります。十七願に誓われた御名の成就と回向とによって十八願の信が生じるように既にお手回しされていた、そのことに遅ればせながら気付いたということになります。気付いたときは既にお救いの手の中にあり、私の努力や思いは何も必要なかったと知ったので、あっー、こんなに簡単なことはないと感じたのでした。

 如来の救いッぷりは、「御名を聞かせて救う。」です。この外に救いはありません。
このことについて善導は、

御名を聞きて往生せんと欲すれば、みなことごとくかの国に到る。
                      往生礼讃 大経礼讃

 

と言われ、元照律師は、弥陀は名をもってものを接したまふ。
と言われています。「もの」とは衆生のこと、「接する」とは摂取して救うという意味であると解説されています。弥陀は名をもって衆生を救うのですが、「名をもって」とは名を聞かせて救うということです。
この文に続く一文は、次のようになっています。

(弥陀は名をもってものを接したまふ。)
ここをもって耳に聞き、口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入する。永く仏種となりて、頓に重罪を除き、無上菩提を獲証する。 教行信証行巻

 

 善導や元照律師の御文はいずれも如来の救い方を極めて簡便に言い表したものであり、見事な表現です。これらは、願成就文の「聞其名号信心歓喜即得往生住不退転」を言い代えたものですが、まことの信が生じるとき、この御文や願成就文は、信の境地を適切に言い表したものであると思えてきます。

 信を得たいと思うのは人情ですが、信を求めて聴聞しても信は得られません。その理由は、信は如来の大悲心を聞くことであり、信を得ようと努力して得られるものではないからです。信が欲しくば、そのまま救うとの如来の願心を聞く以外に方法はありません。如来の願心はどのようなものか、それを聞くのです。説法する者の声が聞こえてくるままに如来の大悲心を聞くのです。如来の大悲心が心に染み入り、如来の大悲心に感応道交するとき、“聞名欲往生” “聞其名号信心歓喜”というのです。大悲心を聞くとき、“大悲心はある”と感受し、あると認識します。その大悲心は「私をそのまま救う」と願っていると思えてきます。この思いがあるために、大経には何が書いてあるかと問われた讃岐の庄松同行は「庄松助けるぞ」「庄松助けるぞ」と書いてあると答えたのでした。