1-4.往生決定を聞く信

ただ、心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、声について決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。かく心得つればやすきなり。往生は不定に思へば、やがて不定なり。一定と思へばやがて一定することなり。
               昭和新修法然全集59頁「往生大要抄」 

 

 元祖法然聖人のお言葉です。

 信前において、この文にはじめて接したときは新鮮な驚きを感じました。行の問題ではなく心の問題だと。心の問題と言っても、善悪の問題ではなく、決定往生の思いがあるか無いかの問題であり、それだけの違いに過ぎないと分かったからです。信後において、この文はそのとおりだと思いました。

 では、「心に往生せんとおもえ」るのは、どうしてでしょうか。これが今回の問題です。

 答えは簡単です。
 それは如来が私の往生を決定して下さっているからです。

 如来が私の往生を決定して下されている、と聞かせて頂くからです。私の往生が決定していると聞くから決定往生の思いが生じるのです。如来の御名は、私の往生が決定していることを知らせる名告りであり、如来の勅命とは、往生が決定していると私に知らせるお知らせなのです。お知らせを受けて、なおもその内容に間違いではないかと疑うのは、疑いすぎであり、わさわざ通知をくれた人に対して失礼です。如来からの通知は通知のまま受け取れば良いのです。既に如来からの通知を受け取っているから、念仏を称えているのではありませんか。
 通知を受け取っていても決定往生の思いが無いのは、その通知の内容を知らないということになります。或いは、通知の内容を知っててもその内容を疑っているということになりますが、如来からの直々の通知ですから、疑う必要はありません。如来からの往生決定の名告りである南無阿弥陀仏をそのまま受ければ、「口に南無阿弥陀仏ととなえれば、声について決定往生のおもひ」が生じるのです。ここに自力の計らいはありません。往生は決定したとの通知のとおりに、そのまま聞き受け取れば往生は決定です。

 では、如来が私の往生を決定して下さっている、とはどういうことでしょうか。

 如来は、光明無量・寿命無量の仏になること(十二願十三願)とその国土の完成とその完成を告げる御名の成就(十七願)を誓い、その御名を聞けば私が自然と信楽し念仏を称えられるようにと誓われ(十八願)、その証果として私に大涅槃を証させることを誓われました(十一願)。これらの誓いは南无阿弥陀仏となってことごとく成就されました。今現在において浄土への往生人が蓮華中に化生している浄土の有様が大経に説かれていますが、この大経の説法も十七願が成就されたあかしです。そうしますと、私が浄土往生することは阿弥陀如来にとっては既に遠い昔に決定されたことであり、私が浄土往生しないということは万が一にもありえないことなのです。これが如来の至心であり、如来の摂取決定の信であり、如来の大悲回向心です。だから、真宗において説法を聞くとは、私を必ず救うことに決定している如来の大慈悲と完成した救いの法を聞くということになるのです。

 さて、その上で、もう一度、読み直して下さい。

 

ただ、心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、声について決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。かく心得つればやすきなり。往生は不定に思へば、やがて不定なり。一定と思へばやがて一定することなり。

どうですか、私を必ず救うことに決定している如来の大慈悲と完成した救いの法を聞くから、このような「決定往生のおもひ」になるのです。

 元祖が一枚起請文に、ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもひとりて申す他に別の子細候はず、といわれた「南無阿弥陀仏にて往生するぞというおもひ」も「決定往生のおもひ」と同じです。

この思いは、私の往生を決定したという大慈悲のとおりの思いとなったものであることが分かるでしょうか。