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1-5.浄土対面してあい違わず

1.論考編

光明師のいわく、ただうらむらくは、衆生のうたがふまじくをうたがふことを。浄土対面してあい違わず。弥陀の攝と不攝とを論ずることなかれ。こころ専心にして回すると回さざるとにあり。
                      -善導-化身土巻


 浄土対面してあい違わず、とは理解しづらい表現です。

 たとえば、浄土に往くための試験があったとします。80点取らなければ浄土には行けないとします。私は20点だったとすれば、条件に合わず、浄土には行けません。20点取らなければ浄土には行けないとしても、私が0点だったとすれば、条件に合わず、浄土には行けません。これが、浄土対面してあい違う、ということでしょう。「あい違う」というのは、浄土が呈示する合格条件と私の条件とが違い合っている状態です。

 では、条件を合わすにはどうすればよいか、考えてみましょう。

 これも言われれば、簡単なことです。

 私の点数に合わせて浄土の合格点を決めればよいのです。私が30点であれば、浄土の合格点を30点以上とすればよいし、私が0点であれば浄土の合格点を0点と設定すればよいのです。そうすれば、合格の条件に合わないという事態は起こりません。そのため、「あい違わず」ということになります。浄土の合格点を決めるのは、私ではありません。如来が決めます。

 では、如来は、浄土に行ける点数をどのように決めているのでしょうか。

 それは、すべての者が浄土に行けるように決めています。すべての者を浄土に往かせるために決めるのですから、すべての者が浄土に往くことになるのは間違いがありません。それが、十八願の「十方衆生」ということです。聖人から善人、悪人、極悪人まで浄土に往けます。そうしますと、浄土にゆけない人は誰もいませんから、「浄土対面してあい違わず」ということになります。浄土には往き易し、というのは、このことです。

 如来が、念仏する者を浄土に救わんと誓っているのであれば、念仏することで私は浄土に往けます。罪の深い人も浅い人も念仏する人であれば、浄土に往けます。罪の浅深は問われていません。罪以外のことも問われていません。ただ、念仏することだけです。

 いかがですか。浄土に往き易しと思いませんか。浄土に往くことがこんなに容易なことであるとは知りませんでした。念仏の易行性とは浄土へ往きやすいということなのです。信もまた同じです。浄土に往くことに間違いはないと聞くことだけで恵まれる信ですから、いただき易すの安心です。

 さて、冒頭の善導の言葉の全体は、

 

専ら念仏して浄土に往くことに間違いはないと聞くことだけで恵まれる信ですから、疑う必要はありません。念仏する衆生を弥陀が浄土に摂することは確実なことだから、弥陀が本当に摂するかどうか、を論じる必要はありません。ただ浄土に生まれられると思って専ら称名念仏するかどうかにかかっています。それなのに、弥陀が衆生を浄土に摂するかどうかを衆生が疑っていることについては、ただうらめしく思うだけです。

だいたいこんな意味になるでしょうか。

 うらめしく思っているのは善導だけではありません。三世諸仏が御名による浄土往生を証成されているのも、衆生が弥陀の攝と不攝を論じて疑っているからです。三世諸仏の証成は、弥陀同体の大悲なるがゆえに阿弥陀如来の大悲の如く心に染み入ってきます。