1-6.同心

思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案に同心せば、仏に成るべし。同心とて別になし。機法一体の道理なりと云々。              御一代聞き書き末242

 

 御思案に同心するとは、弥陀如来の五劫思惟の本願に同心するということですが、同心とは、どういうことでしょうか。

 弥陀如来の五劫思惟の本願とは、簡単に言えば、如来の願心ということですが、如来の願心は御名を聞かせてもって私を助けるということです。私を助けるという願心に同心するとは、助けて欲しいと私が仏様に願うことでしょうか。

 違います。

 同心とは、仏様が何をしたがっているのかについて、仏様の立場や願いを慮り、仏様の願心を受け取り、感じ取ることです。仏様の立場というのは、仏様という立場であるがゆえに、私を救わずにはおられないということです。仏様が衆生を救わないで放置するこということは、仏様にとっては衆生を見殺しにすることであり、仏様ではなくなってしまうのです。五劫のあいだ思惟をしたのは、南无阿弥陀仏という御名を聞かせることをもって救うことにし、そして、南无阿弥陀仏という御名の仏様になりました。南无阿弥陀仏という仏様になったということは、衆生の浄土往生が決定したということです。御名を聞くとは、私の浄土往生を決定させた仏様の業事成弁を聞くということです。仏様の業事成弁を聞くということは、私の方には何の苦労もいらず、この身このままで浄土往生ができるということを聞くということです。私には何も苦労させずに救うというところに仏様の思案の到達点があるのです。
 
 蓮如上人は、機法一体の道理が思案の頂上といわれていますが、機法一体の道理とは南无阿弥陀仏のことです。南无阿弥陀仏を聞けば自然と摂取不捨の信が私に開け起こるようになっています。摂取不捨の救いの法とそれを受ける信とはともに南无阿弥陀仏に備わっているということです。救いの法とそれを受ける信とが用意されてあるので、私は何も苦労知らすで、救われることになるのです。このようにして仏様が浄土往生を決定されたことを知るのを同心というのです。この知るは信と同じ意味です。この信には知的に理解するという側面もありますし、如来の大悲を感じるという情的側面もあります。故郷の母を思っては母心に感激することに似ています。故郷の母を大悲心に置き換えて下さい。故郷に母があるように如来に大悲心ありと信知します。