1-7.如来の三心と衆生の三信(一心)

 十八願の三信とは、衆生の生因としての至心、信楽、欲生のことですが、この三信を如来の三心から考えてみましょう。

 祖師は

如来の至心をもって諸有の・・群生界に回施したまへり。すなわちこれ利他の真心を彰す。故に疑蓋まじわることなし。
つぎに信楽というは、すなわちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。この故に疑蓋間雑あることなし。
欲生すなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるが故に疑蓋まじわることなし。

と言われています。

 至心は如来の真実心。
 この如来の至心を衆生が聞き受けるとき衆生如来の至心に疑心あること無し、となります。衆生如来の至心を聞いて疑心あること無しとなったことを衆生の至心といいます。

 如来信楽如来の疑心のない心。
 如来の疑心のない心とは衆生を摂取することに疑いのない摂取決定心のことです。この如来の摂取決定心を衆生が聞き受けるとき衆生如来の摂取決定心に疑心あること無し、となります。これを衆生信楽といいます。

 如来の欲生心は浄土に生まれさせるという決定心。
 浄土に生まれさせるという如来の欲生心を衆生が聞き受けるとき衆生如来の欲生心に対して疑心あること無し、となります。この無疑信を衆生の欲生心といいます。衆生の欲生心は浄土に生まれられることに対する無疑信ですから、決定要期の往生心となります。

 如来の三心を衆生がそのまま聞き受けるから、如来の三心が衆生の心にきれいに反転し、衆生の三信になります。如来の三心が衆生の心に反転したのが衆生の三信であり、この衆生の三信はいずれも無疑の信一つになります。衆生の至心は如来の至心に対する無疑である、衆生信楽如来信楽に対する無疑である、衆生の欲生は如来の欲生に対する無疑である、ということです。これが衆生における真実の一心です。

 最近、亡くなられた梯和上のご著書を読んでいましたところ、面白い記述がありました。

隆寛は、具三心義に 『所帰之願真実なるが故に、能帰之心を真実心と名くるなり、此義を以ての故に、至誠心を立てる』 といい、極楽浄土宗義にも『是即弥陀の本願を指して、名つけて真実と為す、真実願に帰するの心なるが故に、能帰心を以て、真実心と為す』 といい、至誠心の体を本願の真実と定め、所帰により能帰に名づけて、能帰の心も真実心と名づけられるといわれている。
という記述でした(「法然教学の研究」261頁)。

 

 「所帰之願真実なるが故に、能帰之心を真実心と名くる」、つまり、如来の御名に帰命した能帰の信を至心と名付けるということです。この能帰の心は、所帰の願の真実なるこのに対する無疑信です。隆寛律師の釈を参考にすれば、信楽と欲生についても同じことが言えます。衆生を摂取することに疑心のない如来の決定心に能帰する信を信楽といい、この能帰の心は無疑信であるということです。衆生に回向する如来の欲生心に能帰する信を欲生といい、この能帰の心は無疑信であるということになります。

 以上の隆寛律師の理解は、如来の至心と衆生の至心とは一体のものとして理解していることが分かるでしょうか。能帰心とは、帰命する心、信楽のことですが、帰命する対象は如来の至心です。帰命する対象が如来の至心だから、如来の至心に対する信も至心となるというのですから、帰命の対象となる如来の至心とは別に帰命する至心があるのではありません。
 では、どうして如来の無疑信を衆生の至心というのかと言えば、至心の大悲心を信受するということは如来の大悲心が私に現前するということです。大悲心が現前するということは、私の心中において、大悲心のあることを私はつねに認識するようになるということです。至心の大悲心があると私の心は感じるようになるのです。私によってあると認識されるようになった如来の大悲心は如来の至心です。私の心の中にある如来の至心の大悲心ですから、それがそのまま私の至心です。如来の至心に対する無疑信がそのまま衆生の至心となるのです。
 また、浄土に連れて帰るという大悲心をそのまま無疑で信受すれば、浄土に生まれられるという思いになります。これが衆生の欲生です。
 いずれも、大悲心が私の心に入り込み、私によってあると認識されている大悲心を指して、至心、信楽、欲生と言われたのだと理解できます。私の心に現れ出でた大悲心を指して祖師は真実信心の一心と言われたと理解できます。真実信心は私の心に入り込んでしまった如来の大悲心そのものです。大悲心が真実信心であり、真実信心は大悲心なのです。大悲心の他に信心はありません。

 このように如来の三心と衆生の三信とがピタッと対応しています。如来の三心と衆生の三信との間にはいかなる計らいも介在していません。隙間がありません。信に恵まれるとは、如来の三心をそのまま頂くことであり、信とは如来の三心に自力の計らいをまじえない状態である、ということが分かるでしょうか。

 信に恵まれようとして、自力の計らいをまじえないように努力しようなどと考えてはいけません。如来の三心を聞き受けるだけなのです。


追記

 講談社/浄土仏教の思想十一を読んでいて、証空上人も隆寛律師と同じような考えを述べている事が分かりました。 

法蔵菩薩の因中にして六度万行を捨てたまひし心(衆生には六度万行の行は堪えがたいとして本願の行から外して捨てた心)は真実なりと知るは我らが真実なり。別に法蔵の御心を離れて真実を尋ぬべからず。何を以て知るとならば、願に十方衆生至心信楽と誓いたまへる御心に、その至心とは今我らが真実となるべしと意得るは、凡夫の真実なり。

講談社/浄土仏教の思想十一・114頁

 

 

如来の本願は真実なりと知るは我らが真実ということを述べています。真実なりと知るというのが、隆寛律師の言う「衆生の能帰之心」ということになります。次に「今我らが真実となるべし」と意得る、とは分かりにくいですが、南无阿弥陀仏という真実と我らが一体になると心得る、という意味でしょうか。