1-8.十八願の三信と出体釈

 如来の大悲心は真実の至心であり、衆生を摂取するについて疑心のない決定心であり、また、衆生を浄土に往生させるとの決定の欲生心です。この大悲心は南无阿弥陀仏の徳号として成就されました。

 ところで、衆生における至心、信楽、欲生の三信につき、祖師は無疑の真実信心(一心)とされました。その一方で、祖師は三信の出体を釈されています。最初は、「如来の至心をもって回施したまへり。この至心は如来の徳号をその体とせるなり」と釈され、続けて「信楽はこの至心を体とする」「欲生は信楽を体とする」と釈されています。

 「この至心は徳号を体とする」の「体とする」とは分かりにくい表現ですが、衆生の至心の本体、ものがら中身という意味でしょう。如来の徳号と衆生の至心とは別々のものではなく、徳号が衆生の至心のものがら・中身であり、徳号とその至心とは一つのものという意味に理解するのが適当だと思います。

 如来の大悲心を聞けば自然と信が生じるようになりますが、その信とは私を救うという大悲心が私の心中において認識されるようになったということです。大悲心があると認識されるようになったということは、心中に大悲心がある、大悲心が印現しているということです。私の心の中で阿弥陀仏に南无している状態=南无阿弥陀仏が成立しているということです。この心中において大悲心があると認識されている状態、ないしは心中に大悲心を感じていることが衆生の至心です。大悲心があると認識し感じる思い以外に私に真実誠の心は見あたりません。ですから、私にとって、私に“ある”と認識されている大悲心が至心です。その大悲心は私の心に移り込んで“ある”と認識されている大悲心ですから、私の(心の中の)至心です。衆生の至心は如来の大悲心である南无阿弥陀仏と一つのものであり、大悲心の他に至心があるのではありません。これを「この至心は徳号を体とする」というのでしょう。

 次に祖師は、「信楽は至心を体とする」と言われましたが、私の心中において認識され、あると感じている「大悲心(=至心)」につき無疑の状態となっている。これが信楽です。ですから、信楽は(私の内心にある)至心に対する信相です。これが「信楽は至心を体とする」ということでしょう。信楽は「私の(心の中にある)至心」に対する無疑の心相ですが、「至心を対する」とはその信楽は至心それ自体をものがらとし、至心に由来して生じているという意味であると理解できます。もちろん、信楽も至心と同様に徳号をその本体、ものがら・中身としています。

 欲生は信楽を体とする、ということについて言えば、この場合の欲生とは浄土に往生できるとの衆生の思いのことを意味していると思われます。如来の浄土に往生させるぞという呼び声に対する無疑信は、往生できるという往生決定の思いになります。ですから、欲生は信楽が浄土往生できるとの思いとなって表れたものということです。
 
 まとめると、心中にあると感じ認識している大悲心、私の心に移り込んだ心中の大悲心が衆生の至心であり、大悲心に対する心相が衆生信楽であり、信楽は決定往生の思いとなる。出体釈の意味は分かりづらいのですが、このような論理ではないかと思います。

 徳号として成就された如来の三心がそのまま衆生の至心、信楽、欲生の三信となるのですが、如来の三心が衆生の心にきれいに反転したのが衆生の三信であり、この衆生の三信はいずれも無疑の信一つになります。徳号がそのまま衆生の至心となるという所をまず押さえた上で、南无阿弥陀仏に対する信じ方は無疑の信楽、無疑の信楽から欲往生の思いが生じるという論理展開が成立することを祖師は言われたかったのでありましょう。