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1-9.往生の行因と乃至十念-大行論

1.論考編

 祖師は行巻において、大行とは如来の御名を称する事であると指定しています。その一方で、称名は南无阿弥陀仏であるとの解釈を述べられています。このため、大行とは称名行であるのか、御名であるのか、ということが真宗教学上、問題となりました。大行は私が浄土往生する行因ですが、念仏が行因だとすれば、念仏を称えないときには行因を具足しないということになります。しかし、十八願文では乃至十念とされており、念仏は乃至されています。念仏が乃至されているということは、念仏を称えることができないときでも浄土往生できるということです。称名を大行として理解することと念仏が乃至されているということの関係をどのように考えたらよいのでしょうか。

 十住毘婆沙論には、「ふかく大悲を行する人は、衆生を愍念すること骨体に徹入するがゆえになづけて深とす。一切衆生のために仏道をもとむるがゆえににづけて大とする」とあります。大行とは衆生の行ではなく、仏様の救済行のことです。

 祖師が大行を如来の御名を称する事であると指定されたことについては、称名行は衆生の行ではなく、深く大悲を行ずる仏様の救済行のことだと理解しなければなりません。

 そこで、仏様の行とは何か、ですが、仏様の救いの法は御名を衆生に回向し聞かせて如来の大悲心を信ぜしめることです。その大悲心が御名の形をとって衆生に回向されて信となり、念仏として称えられる。如来の救いのあり方をこのような動態としてみたとき、この動態全体が仏の救済行であることから、その全体を大行として理解することが適当です。大行には御名と信と称名行のすべてが揃っていることになります。そこで大行と指定された称名行は、御名がそのまま信となった上での称名行として理解するのが適当であります。このような理解は、称名行から徹頭徹尾、衆生の行であるという側面を排除して理解しようとするものです。称名を如来の大行であると指定しつつも称名は南无阿弥陀仏であるとの解釈を述べられたのは、全分本願乗托・自力無功という信に立って称名念仏は南无阿弥陀仏の働きが具体化した如来の救いであると理解されたからです。

 衆生の念仏行である南无阿弥陀仏如来の救済行であるため、報土への浄土往生・成仏へと繋がってゆき、さらには、還相の菩薩として還ってくることの行因となるものです。この還相の菩薩が再び、誰かの信となり念仏となり、再び、浄土へ還帰してゆきます。この働きが無限に円環してゆくのが法蔵菩薩の大乗菩薩道だと思います。ここには如来の働きがあるのみで、主体的な私というものはありません。この法蔵菩薩の大乗菩薩道が大行ということになります。

 ところで、大行は如来の救済行全体であると考えると、御名を聞き信が開け起こったところに如来の救済行が現実のものとなっていますから、一度も称名できないときでも大行は私をとらえて離さず、浄土往生の行因は私に円満に完備しています。信によって行因が私のものになった、信心に行因が円備している、ということです。このため、十八願文では乃至十念と乃至され、1回も念仏を称えられなくても、それが往生浄土の障りとはならないのです。その後の念仏は、大行たる如来の救済行が口称となったものですから、その口称の念仏も大行であることはいうまでもありません。口称の念仏は音声化された南无阿弥陀仏でありますから、口称の念仏も南无阿弥陀仏そのものです。称名することから衆生の自力の計らいを取り去れば、称名と御名は同じなのであります。ですから、大行とは称名念仏か御名かという議論は実はあまり意味のない議論であることが分かるでしょう。

 さて、以上は、如来の救済行は、如来の一人働きであるということを述べました。その一人働きの如来の救いに私の計らいを入れようとすると、どうなるでしょうか。その結果は、如来の大行を妨げとなり、信が生じることはありません。私は如来の仏行をそのまま受け入れるしかないのです。仏行をそのまま心に受け入れたことを信というのです。仏行が私の心に働きかけ、心の中にあらわれたことを信というのです。信と称名はともに仏行であり、一つのものです。仏行が心に表れたものを信といい、口称となったものを大行というのですから、大行と信とはともに仏行であり、これを2つに分けられるものではありません。