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1-11.「信は願心より生ず。」-実機を知らされたから自力の計らいが無くなるのか?

1.論考編

 自己の罪悪の深さや実機を知らされ、自力では助からないと知らされたことによって自力の計らいがなくなる、という考えは正しいか、これがここでの問題です。

 上記のように考える者は、自己の罪悪の深さや実機を知らされたことによって地獄に堕ち、そのとき自力の計らいが無くなって他力本願に帰命すると説きます。

 しかし、これは間違いです。

 自力疑心がなくなるのは、如来の願心を聞くからです。自己の罪悪の深さや実機を知らされたからではありません。自力の計らいがなくなり信が生じるのは如来の願心、大悲心を感得するからです。

 自力疑心がなくなるのは如来の願心を聞いて感得するからですが、それまでは救われようとする思いが疑蓋となって自らを心の中に閉じこめてしまいます。この状態はどうにもこうにもなりません。この疑蓋から抜け出る方法がありません。このような状態において如来の願心に間違いはないと聞くと、願心に間違いがないのであれば私の側で用意すべきものは何もなかったと気づく(感得する)ので、自力の計らいは何の意味もなかったと分かってしまいます。そのとたん、疑蓋はなくなります。如来の願心を基点として自力の思いが翻ってしまうのです。

 祖師は

如来の至心をもって諸有の・・群生界に回施したまへり。すなわちこれ利他の真心を彰す。故に疑蓋まじわることなし。
信楽はすなわちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。この故に疑蓋間雑あることなし。
欲生すなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるが故に疑蓋まじわることなし。

と言われています。

 

 A、故にBという文章です。Bの根拠がAに示されています。如来に至心、満足大悲円融無碍の信心、大悲心なるが故に疑蓋まじわることがなくなると言われているので、疑心がなくなるのは如来の至心、満足大悲円融無碍の信心、大悲心があるためです。ここには、「実機を知らされたことによって地獄に堕ち、そのとき自力の思いが無くなって他力本願に帰命する。」という論理はありません。あるのは、如来の至心、如来の満足大悲円融無碍の信心(如来衆生を摂取することについての揺るぎのない決定信=如来信楽)、如来の大悲心なるが故に疑蓋まじわることなし、という論理だけです。ここに、如来の願心によって起こった信の純粋性があります。願心以外に衆生が付け加える余分なものは一切介在しないので、信は純粋に願心から起こったものだということが分かります。私の言い方であれば、大悲(願)が信である、信が大悲心であるということになります。