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1-12.大悲心と信と二種深信

 如来の大悲心は如来の至心であり、満足大悲円融無碍の信心であり、回向心です。疑蓋まじわることがなくなるのは、如来の三心の故にです。心中において、如来の大悲心に対する不信が有ることなし、という状態は、如来の大悲心が心中に来現し、心に刻み込まれ、大悲心があると認識されている状態です。この心中に認識される大悲心は如来の至心、信楽、欲生心が至り届いたものですから、認識されている大悲心が如来の至心であり、私を摂取することに揺るぎのない決定心であり、私を浄土へと召喚する大悲であるという思いになります。

 このように信は如来の大悲心から生じ、大悲心それ自体が信となるものであります。大悲の願と信とは一つのものです。願と信とが別々にあるのではなく、願そのものが信となるので、大悲心と信との間には隙間がありません。この願と信の間に自分の思いを差し挟んで願と信とを分離させようとしても、そのようなことはできません。

 救われたいと思えば思うほど、自分の思いや才覚その他、自分の持ち前のものを利用して助かりたいという思いを強くもたれると思います。それは当然のことであります。ところが、このような思いはすべて不信であり、又、その名号をもって助かろうとする思いはすべて自力の計らい、となってしまいます。また、自分は善ができないから救われないのではないかとか、悪人だから救われないのではないか、という思いも自力の計らいになります。このことは、如来の大悲心があることによって救われるという信とは対立する思いであることことから、おわかりになると思います。このような計らいがない状態とは、如来の大悲心が私の心中に届いている状態です。如来の大悲心を感じている状態です。大悲心が私の心中に届くと自力の計らいがなくなります。自力の計らいが無くなったということは大悲心があると認識し大悲心を感じているということです。

 大悲心を感じ認識しているということには二種の深信があるということです。

 大悲心を感じ認識しているということは、私をそのまま救うという大悲心が私の心の中に届き入り込み、私はこの大悲心によってそのまま浄土へと救われてゆくという思いになります。その大悲心に自分の生死を丸ごと委ねているということです。これが如来の本願に乗じて往生すると深く信じるという法の深信です。

 また、大悲心を感じ認識しているということは、大悲心の他に自分の修善などを付け加えて助かろうなどと思う自力の計らいはまったく無用だったのであり、自力の計らいでは如来の救いには遭えないことと自覚するようになったということです。この自覚が機の深信です。

 大悲心を認識し感じていることが二種深信となるのです。