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1-13.機の深信

自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、こうごうよりこのかた常に没し、常に流転して出離の縁あることなし-機の深信

 祖師は愚禿抄(下)において、二種深信を「他力至極の金剛心、一乗無上の真実信心海なり」(真宗聖典第2版521頁)としながらも、この機の深信について自利の信心なりと釈している箇所(同522頁)があります。その意味は、機の深信だけでは利他の真実信心ではなく、法の深信を伴う機の深信でなければ利他の真実信心ではないと宗学においては解釈されているようです。法の深信を伴わない機の深信とは、どういうものか、ここでは、祖師が上記の自利の信心なりと釈された意味を探ります。

 祖師は、自らも「地獄は一定すみかぞかし」という告白をされたと歎異抄に書かれていますが、このような思いが形成される原因として3つのことが考えられます。 1つは、聖道門の難行の末に自己の悪性に関する思いが上記の思いとして形成された(以下①と表示)。
 2つに、如来の願心を聞き受けたことによって自力無功と知らされ、自己のいかなる行も出離の行となる行ではなかったと思い知らされた(以下②と表示)。
 3つに、信を得たのちも自己のそのような悪性が知らされるにつけ、「地獄は一定すみかぞかし」という思いが深まった(以下③と表示)。

 このうち、①は他力の信ではなく、②が他力信ということになります。③は②の思いに至ったのちの信後の味わいです。このような視点から善導の機の深信の文を眺めると、一方で自利の信を述べたものと理解し、他方で法の深信を伴ったときに利他の信であるとした祖意を理解することができると思います。

 最近、亡くなられた梯和上のご著書を読んでいましたところ、上記に関連すると思われる面白い記述がありました。

「・・・かくて、善導においては、法蔵の如く真実心であらねばならぬという教説に呼応して、痛烈な懺悔の実修が行われ、その懺悔をとおして、「決定深信自身現是罪悪生死凡夫、廣劫已来常没常流転無有出離之縁」という機の深信が呼びおこされ、さらに機の深信と一具なる法の深信が成立していくのであった。」
という記述でした。「法然教学の研究」260頁

 「機の深信が呼びおこされ、さらに機の深信と一具なる法の深信が成立していく」というところに、法の深信を伴わない機の深信とそれを伴う機の深信とがあり、それが順次に成立するという理解を梯和上は示されたものと私は理解しました。自利とされた機の深信は、「法蔵の如く真実心であらねばならぬという教説に呼応して、痛烈な懺悔の実修が行われ(た)」から生じた思いです。

 実は、難行道を経ずとも、これと似た思いに至ることがあります。

 以前にも書きましたが、実機が知らされて自力が無功となるのではありませんが、如来のお救いに遭いたいという思いが深まってきますと、どうしても自力の行を行って助かりたいと思い、如来の救いにあずかるには自己の行や自己の思いがなにがしか役立つだろうと考えます。しかし、そのような自力の計らいに囚われている限り、如来の救いに遭えないことが分かってきますと、救われたいという思いがそのまま自力の計らいとなり、この思いが私の心を覆ってしまい、自分はこの思いに閉じこめられて、そこから脱出することは到底できないと感じるようになり、ついには、このような自力の計らいのまま死んでゆくことを覚悟させられました。自力の思いに囚われている間はその思いからどうしても抜け出ることができないことを身をもって知ります。このときの心理状態としては、如来の救いに自分はもう遭うことはないのだという悲壮な思いに沈みます。この思いは、このまま死んでゆくことを受け入れるしかできない、死が如何ともし難いものである以上、死後の命の行方はなおさら如何ともし難い、自分になすすべはないという思いに凝縮し、その一点で苦悩します。これが、上記の①に相当する思いです。それはまだ自力から自由になれず、自力に捕縛されて苦しんでいる世界です。

 如来の願心が真実まこと、往生決定の如来の至心を聞き受けることから自力の思いが廃ります。如来の大悲心を聞いてみると、自力の計らいは、如来の救いの前には何の意味もなかった、何の功も無かったということが分かりますから、本願信受ののちは、自力の計らいはきれいに消えてしまいます。自力無功を身をもって知ることになります。こうして、真実信には自力無功の思いが必ず伴います。これが伴わない本願信受は考えられません。「死が如何ともし難いものである以上、死後の行方はなおさら如何ともし難い、自分になすすべはない。」という信前に形成された思いとそれに続く自力無功と知らされた思いとは、信後においても変わることはなく、その思いは残り続けます。法の深信を伴いつつ「自身は現に・・・出離の縁あることなし」と知らされたとき、この言葉の中に、自力が役立たないと知らされた心相があると読み取ることができます。そのため、法の深信を伴ったとき機の深信を真実信心であると祖師は解されたのでありましょうし、法の深信を伴わない機の深信は、自力の信心であると理解することが可能だったのだと言えます。

 さて、信を頂いた後、毎日毎日、凡夫としての生活が続いて行きますが、その生活の中で自己の悪性が知らされることがあり、人によって知らされる程度がまちまちになるものと思います。より深く悪性が知らされる人は懺悔し、そうでもない人は懺悔には至らない、ということもあると思います。ここで、注意をしておかなければならないことは、自力の思いが廃るということと自己の悪性の認識とか罪悪性の認識とは別のものだということです。私は、自力の思いから離れられないためにこのまま本願の救いにも遭えず、後生に飛び込んでゆくのだなぁという思いによって「出離の縁など自分にはないなぁ」という思いに至りましたが、それは、自己の罪悪性からの「出離の縁あること無し」という思いとは別物です。私は法蔵の如く真実心であらねばならぬという教説に呼応して、痛烈な懺悔の実修を行うということを怠った者です。痛烈な懺悔の実修とその懺悔をとおして、「決定深信自身現是罪悪生死凡夫、廣劫已来常没常流転無有出離之縁」という機の深信が呼びおこされた者ではありません。これが善導との違いです。自利真実を徹底して求めて自己の悪性が知らされたた善導のような聖者の機の深信は自己の悪性が知らされていない私のような者にはありませんが、法の深信を伴った自力無効の自覚である機の深信は、そのいずれの者に共通する思いでありましょう。

 本願信受と同時に廃る思いとは、如来の救いに自らの行を足しにしようとする思いです。真心を持ちたいという思いが廃るのではありません。ですから、信後においても真心を持ちたいと強く願うことがあってもおかしくありません。信後の日々の生活の中で自己の悪性が知らされることがあっても、人によって知らされる程度がまちまちだと思います。より深く知らされる人は懺悔し、そうでもない人は懺悔には至らない、という違いが生じるとすれば、それは心根の良い人間になりたいという思いの強弱の違いに求められるのだと思います。ですから、自己の悪性が知らされて懺悔されている方は、本当の意味で素晴らしい人格の人だと言えるでしょう。