1-14.如来の救いにおいて自分は悪人であるとの自覚は必要か?

 人として自分の内なる悪性を自覚し、それを抑制しつつ善人たらんと向上を願うことは大切であると思いますが、如来の救いに遭うにおいては、悪人であるとの自覚を持ったり、或いは、その自覚を深めなければ救われないということはありません。善人であるとの自覚を持っている人は善人の自覚のままで救われますし、悪人であるとの自覚を持っている人は悪人の自覚のままで救われます。つまり、善人・悪人の自覚は、如来の救いとは無関係です。仮に、悪人であるとの自覚がなければ如来の救いには遭えないとしたら、善人であるとの自覚をもっている人は自己の悪性を認識しなければ救われないということになります。しかし、それでは如来の無条件の救いをまえにして無条件で救われない、ということになりますので、如来の救いッぷりとは異なるものになってしまいます。如来の救いッぷりは、如来の御名のいわれを聞かせることで救うというものです。信不信の問題は信不信の問題であり、善悪の問題とは関係がありません。その信不信の問題に善悪の問題を持ち込むことは避けるべきでありましょう。もちろん自身の悪性を見つめることは大事なことであり、内省することを勧めることは大事なことですが、それを獲信に結びつけようとすることが間違っているということを言いたいのです。

 仮に、如来の救いに遭うにおいては、悪人であるとの自覚を持ったり、或いは、その自覚を深めなければ救われないと考えてしまうと、救われるために内省する行が奨励されることになりますが、これは自力を策励する結果となり、如来の御名とは異なるものを如来の救いに持ち込むことになります。如来の御名を聞かせるという救いッぷりとは異なるものを如来の救いに持ち込むと、際限なく、その計らいに縛られることになります。「聞其名号信心歓喜」という御文には、唯一「名号を聞く」とあるだけです。聞くといっても聞き方の問題ではありません。聴聞において一方的に聞こえてくる如来の大悲心を聞くということですから、衆生の行というものはありません。諸仏が讃嘆する御名のいわれを一方的に聞いて歓喜するのですから造作もいらない「聞其名号信心歓喜」ということであります。

 祖師が「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」と言われている「仏願の生起」とは、如来衆生には出離の縁のないことを見抜かれ、その衆生がいるために如来が選択の本願(=十七願十八願)を起こした、ということですが、この御文は、自らは出離の縁のない悪人であることを内省して知ることを要求する御文ではありません。如来が大慈悲を起こされたゆえんが衆生である私にあり、私の存在が如来の大慈悲の目当てであるということであり、私を離れて如来の大慈悲はないということを示されたものです。したがって、如来の大慈悲を受けている我が身であるということを認識することが眼目となっているのであり、その大慈悲は善人であるとか悪人であるとかの自覚にかかわらず、衆生である私に向けられたものであることを理解し、そのうえで信解する以外に眼目はありません。
 そして、「仏願の本末」とは、如来の大慈悲は名号を成就し衆生にその名号を聞かせるために回向していることを述べたものです。本とは名号の成就、末とは回向されている名号が衆生に届き、衆生がその名号のいわれを聞いていることを言います。その名号を聞いて信心歓喜するのですが、如来のお手回しは完全であり、欠け目なく円満であるので、衆生はただその名号を聞くだけで往生の因である信心が開け起こるのです。ここにおいて、衆生の行や計らいは無用であります。悪人であるとの自覚を必要とするか、などという議論は、この信の味わいを知るものにとっては誠に無用の長物です。

 「善人なおもって往生する。いかに況や悪人おや。」といわれていますが、「悪人なおもって往生する。いかに況や善人おや。」ということもできます。如来の救いのお目当て(=正機)とは出離ができないすべての衆生であり、その衆生に善人悪人の区別があるのかもしれないが、出離できない衆生を善人と悪人とに分けて、そのうちの悪人のみを正機とするという意味ではありません。凡夫である限り、善人悪人を問わず、ともに浄土往生させるというのが如来の大慈悲心であります。そのため、自分は悪人であるという自覚の有無は、如来の大慈悲心をまえにすれば、まったく問題とはなりません。だから、悪人であるから救われないと思う必要は全くありません。悪人の私だから救われるのだと思えばよいのです。悪人の自覚のない者は、悪人でも救われるのだから私はますます救われると思えばよいのです。