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1-15.雑行

1.論考編

 化身土巻において、正行と雑行につき善導の文を引文されています(浄土真宗聖典第2版387頁・就行立信釈)。

 その引文では、善導は、浄土三部経の読誦、阿弥陀仏の浄土の観察憶念、阿弥陀仏への礼拝、阿弥陀仏の御名の称名、阿弥陀仏への讃嘆供養を正行とし、その中でも称名を正定業、称名以外を助業に分けて、正助業の正行以外の諸善を雑行として区別しています。

 真宗では、正行と雑行との区別は、もともと阿弥陀仏の浄土往生の行となる善であるか否か、で区別されると考えられています。正行はそれ自体が直に阿弥陀仏の浄土往生の行であるのに対して、雑行とされる諸善のうち世俗的な世間の善は浄土の行ではありませんし、出世間の善はもともと聖道の行でありますので浄土の行ではありません。それらの諸善は、浄土に生まれるための行として行うときに浄土の雑行と呼ばれることになります。

 以上につき、祖師は、「雑の言において万行を攝入す。五種の正行に対して五種の雑行あり。雑の言は人天菩薩等の解行雑せるがゆえに雑という。もとより往生の因種にあらず。回心回向の善なり。かるがゆえに浄土の雑行というなり。」と述べています(浄土真宗聖典第2版395頁)。
 この意味は、①五種の正行に対して五種の雑行があること(選択本願念仏集には五雑行の五つを明かされています)、②雑行には五種の雑行の他にも人天菩薩等の解行があること、③そのいずれもが往生の因種ではないということ、④雑行は回心回向の善である、ということです。ここで②の人天菩薩等の解行とは、世間の善と出世間の善の総称です(世福、戒福、行福の三福と言われる)。③の往生の因種とは、阿弥陀仏の浄土往生の因種のことです。もともと阿弥陀仏の浄土往生の因種ではない諸善を阿弥陀仏の浄土往生の因種として回心回向するときその諸善を浄土の雑行というとされています。回心回向とは、阿弥陀仏の浄土の行ではない諸善を阿弥陀仏の浄土に往くための行であると思い、浄土に向けることです。回心回向する諸善には五種の雑行と人天菩薩等の解行があることになります。このような回心回向の行を行う者のために阿弥陀仏は十九願を建立され、十九願所定の三心で行じる者のために臨終に来迎することを誓われたのです。臨終に来迎があるかどうかで浄土往生できるかどうかが決まるため、十九願の行者は臨終まで往生不定の思いがつきまとうことになります。

 ところで、他の仏と他の仏の浄土往生の行としての礼拝、読誦 観察、称名、讃嘆供養は五雑行となりますが、この五雑行を阿弥陀仏の浄土への往生の行として回心回向するというのは、何かおかしいように思えます。礼拝、読誦 観察、称名、讃嘆供養の各行を行うのであれば、他の仏への行ではなく、最初から阿弥陀仏への行として行えばよいはずだからです。そこで、回心回向するのは、五雑行以外の人天菩薩等の解行であると解するのが適当であると思いますが、過去に行った五雑行という善を阿弥陀仏の浄土への行として回心回向するということも認められるのかも知れません。

 それはさておき、その上で祖師は、雑行と言っても、一つの善を専らにするか、二つ以上の善を行うか、その修する善の修し方(能修の行相)の違いから雑行を専行と雑行とに区別しています(浄土真宗聖典第2版395頁「雑行について専行あり、また雑行あり。」)。この後者の雑行とは専行に対して、諸善を兼行して修する修し方を意味しています。つまり雑行という場合、修する善のもの柄は何かという観点から、正行と雑行とが区分され、さらに雑行とされる善の修し方の観点から専行と雑行とが区分されることになります。

 次に祖師は、雑行を修するときの思い(能修の心相)という観点から、浄土回向を専らにする思いと定散心雑する思いとがあるとして、専心と雑心とに区分しています。定散心雑するとは、それ以上の説明がないため文意を把握することが困難です。人天菩薩等の解行を行じる際の定心とはどういうことか分かりませんが、観法の行(=専観)を行じるに際しての息慮凝心のことでしょうか。散心とは、観法の行以外の罪福を信じて行う廃悪修善の心のことでしょうか。この定心と散心とが雑するのを「定散心雑する」と言われています。

 ところで、回心回向の行である雑行を行う者のために阿弥陀仏は十九願を建立され、所定の三心(菩提心、至心発願、欲生我国)で行じる者のために臨終に来迎することを誓われました。臨終に来迎があるかどうかで浄土往生できるかどうかが決まります。回心回向の行である雑行をもって浄土往生を願う者を十九願の行者といいますが、十九願の行者は臨終まで往生不定の思い(不安)がつきまとうことになります。そこで現生において弥陀に救われて往生決定の思いに住したいと切に願いつつ雑行を行うことになりますが、いくら雑行を修してもその願いが叶うことはありません。雑行は、十八願で誓われている報土往生決定の生因ではないからです。十八願には十八願に相応しい行因があるのです。その行因とは十七願に誓われた南无阿弥陀仏の成就を聞き信楽して御名を称することなのです。十八願の行者はただ南无阿弥陀仏の成就を聞き信楽して御名を称するだけなのです。往生決定の思いはこの信楽により生じるものなのです。

 浄土往生を願いながら雑行を修するということは十八願の行者にはありません。雑行を修して往生したいという思いがないのです。信楽することによって既に往生決定という思いになっているからです。ですから、そこからさらに進んで諸善を修して浄土に往生したいという思いを持つことはありません。当然のことです。

 信前における大きな思い違いとして、十八願の救いを求め決定往生の身になりたいと思いつつも雑行を修してそのような決定往生の身になりたい思うことがありますが、それは大きな間違いです。十八願の救いに遭うには十七願成就の御名のいわれを聞くしかないのです。

 最後に

 観経においては下品中生と下品下生に称名念仏が出てきます。これは、称名念仏を表面上は諸善の1つとして下品に登場させているのですが、最後の流通分において廃観立称されているので、この称名念仏は諸善の1つとしての称名念仏ではなく、実はまさしく正定業としての弘願の念仏であることになります。そうしますと、称名する者の思いによっては、正定業としての弘願の念仏であったり、諸善の1つとして称名念仏を位置づけて念仏することがあるということです。また、雑修のところで出てきますが、称名する者の思いによっては、助業の1つとしての称名念仏になることもあります。そうしますと、称名念仏には以上の三つの念仏が区分されるということが分かります。これは念仏する者の思い(能修の心相)による区別です。念仏を雑行の一つとして理解して行ずる行者の念仏、念仏を助業の一つと理解して行ずる行者の念仏、そして正定業としての本願の念仏、です。念仏が如来によって与えられたものであることには何の違いはありませんが、行じる者の思いが区々に分かれるということです。本当に大事なことは、雑行に励みながらも雑行では決定往生の身にはなれないと気づく事、念仏を称えることは、それが如来の定めた正定業であるとして弥陀の願心を受け入れるかどうか、ということです。気づけば(信受すれば)、それで往生は決定という思いになるとともに雑行や助業に励んでも助からないという思いになりますので、その時点から往生のために雑行等を励もうとする心はなくなります。これを雑行等を捨てるというのです。雑行等を励もうする思いが廃ってしまうのです。これを祖師は、雑行を捨てて本願に帰すと言われました。ここにいう雑行を捨てるとは、自力の思いをもってなす一切の行を雑行に代表させて、その一切の自力の行が廃ったことを雑行を捨てると言われたものです。「雑行を捨てる」と「本願に帰す」とは自力無功と本願乗托の二種深信を表したものと理解するのが適当です。