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1-17.十八願の生因と自力の計らい

1.論考編

 前回、前々回と雑行、雑修について述べてきましたが、自力の思いをもってなす自力の行という観点から見ますと、雑行も雑修も自力の行です。これらはそれぞれ十九願、二十願における生因としての自力の行です。十八願による救いを求める者がこれらの行を行じる際に思っていることは、自分を善行ができる良い者に仕立て直して、その善行を頼りに浄土往生の身になりたいという思いです。このような思いを十七願十八願の救いに持ち込もうとするとき、十七願十八願に表れている如来の思いに反することになります。十七願十八願に表れている如来の思いとは、浄土往生は既に決定しているから信じて安心しておくれ、という思いなのです。雑行とか雑修とかの自力の行をもって往生決定の身になりたいという思いは、その如来の思いに反するので嫌われるのです。蓮如上人が「雑行、雑修、自力の思いを振り捨てて一心に阿弥陀如来、今度の一大事の往生たすけたまえとたのみ申して候」と言われて、雑行、雑修、自力の思いを振り捨ててと言われている理由は、ここにあります。

 嫌われるのは雑行、雑修ばかりではありません。

 罪が深いから助からないという思いも、十七願十八願に表れている如来の思いに反することになります。おおよそ、自分の思い、善悪、才覚、能力など自分の側の要素を浄土往生の決定の可否と結びつけて、それらの要素のありかたと決定往生とを関連づけようとする思いは、すべて如来の思いに反することになるのです。この思いを自力の計らいといいます。自分の中にある上記の要素をもって浄土往生の可否を決めようとするので自力の計らいといいます。またこれを自力計度の機とか疑情などといいます。この計らいを疑情というのは、無条件での如来の救いを無条件であると信受せず、真っ向からそれに反している思いだからです。無条件の救いである事を聞きながら信受していないという事それ自体が如来の願心を計らい疑っているという事です。如来の本願は本当なのかという疑念が本願疑惑という疑いになるのではありません。

 十九願、二十願における生因に対して、十八願の生因は、十七願で誓われた諸仏が讃嘆する南无阿弥陀仏が成就し、その成就は私が浄土往生することが決定したことを知らせる名告りであるということを聞いて、それを信楽して念仏申すこと、です。ここには自分を善行ができる良い者に仕立て直して、その善行を頼りに浄土往生の身になりたいという思いは微塵もありません。また、自分の思い、善悪、才覚、能力等と決定往生とを関連づけようとする思いも微塵もありません。「本願を憶念して自力の心を離る。これを横超他力と名づくるなり」と祖師は言われています。自力の心を離れて称える称名行が真実行であり、専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗の行なのです。その称名においては、ただ、阿弥陀如来が私の浄土往生を既に決定して下されていた、という思いが伴いこそすれ、その行をもって我が往生の資助とするという思いは微塵もありません。その理由は、如来の大悲心を信楽しているからです。信楽しているとは如来の大悲心が私の心に感得されているということです。大悲心ありと受けとめているということです。大悲は既に私に届き、私をすくい取らんとしていると思っているということです。南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いとっているということです。ですから、その大悲心以外に何かを求める思いが止んでしまうのです。

 

「再掲」

  ただ、心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、声について決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。かく心得つればやすきなり。往生は不定に思へば、やがて不定なり。一定と思へばやがて一定することなり。

  昭和新修法然全集59頁「往生大要抄」

 

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもひとりて申す他に別の子細候はず。但し、三心四修と申すことの候は、皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候也。この外におくふかきことを存せば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候べし。

  一枚起請文