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1-18.三願転入の御文

1.論考編

ここをもって愚禿釈の鸞、・・・久しく万行諸善の仮門を出でて双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるに今ことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。

 教行信証化身土文類にあるこの御文を三願転入の御文といいますが、これについて、どのように理解すればよいかを考えます。

 この御文は、その前にある「悲しきかな、垢障の凡夫・・」で始まる段において、仮の行をもってしては、出離その期なく、仏願力に帰しがたく、報土に入ることはない、と述べられている御文に続くものです。これは信巻で述べられている信を祖師が得られたうえで、その自らの信に照らして実感されている自らの思いを述べられたものと推察できます。そうしますと、その自らの思いに続いて述べられている冒頭の御文は、自らの思いを心の道程として書かれたものと考えられます。

 ところで、この御文を根拠として、三願を転入するには、まず、万行諸善の仮門に入り、定善散善の行を実地に行わなければ仏願力に帰し得ないと教える者がおります。

 その者は、定善散善の行が出来ないと知らされた者が次に称名念仏の行に専心して浄土往生を果たすことを願わなければ選択の願海に転入することはないと教えます。このような考えは、十九願が不要であるならば、如来が十九願を建立することはなかったということをその根拠とするようです。しかし、この御文からそのような結論を引き出す事はできませんし、これを根拠とすることもできません。

 如来は、機に応じて十九願、二十願、十八願を建立しました。十九願は万行諸善を浄土往生の行として浄土往生を願う機根のために建立し、二十願は称名念仏をもって浄土往生の行として浄土往生を願う機根のために建立し、十八願は十七願に諸仏が称賛する御名が浄土往生の決定の証であると信受させ称名する以外に救われようのない機根のために建立したものです。如来は、このように機根に合わせて三願をそれぞれ独立した生因願として三願を建立したのです。

 十八願の機になるために阿弥陀如来が成就し用意したのは諸仏によって讃歎される如来の御名だけであり、この御名を聞かせて信楽歓喜させて浄土に生まれさせるというのが十八願の眼目です。この十八願の信楽を得るためには十九願の万行諸善の行や二十願の称名の行を励行しなければならないという教えは願文にもありませんし、大経の経文にもありません。十八願は、十九願や二十願とは別の独自の救済方法=十七願による御名の回向を定めたものであり、十九願や二十願の所定の修行の先に十八願の救いがあるというものではありません。

 十八願の信楽を得るためには十九願の万行諸善の行や二十願の称名の行を励行しなければならないと考えることは、十七願十八願文やそれらの願成就文にはない救いの条件を衆生に課す解釈であり、十八願の救いに違背する考え方です。十八願の救いは、十七願に誓われた御名を聞かせて信楽歓喜させて浄土に生まれさせるという誓いです。それ以外に救いの条件は何もありません。その十八願成就の文には「その名号を聞いて信心歓喜」とあるだけであり、御名を聞くことによって十八願の信楽は生じるのです。これを逆から言えば、信楽は御名を聞くこと以外で生じることは絶対にありません。

 では、祖師は何故に三願転入の御文を書かれたのか、その意を考えなければなりません。

 浄土往生のために万行諸善や称名念仏の行を励むことは、十八願の大信と大行に対比すれば仮の行であり、その仮の行によっては報土往生はできません。祖師は、このことを化身土巻において経論釈を引用して述べてきましたが、自らの経験の上においても、久しく万行諸善の仮門を出で、方便の真門を出でたことで選択の願海に転入したと述べられました。万行諸善の仮門に留まっていたり、方便の真門に留まっていたのでは選択の願海に転入できないことを自らの経験に照らして述べ、そのことを後世の願生者に伝えるがために述べられたものです。祖師が真の行信と仮の行信とをはっきりと区別され、真は如来の大行と大信であり、選択本願であることを明らかにし、仮をもってしては報土往生はできないことを述べられた趣旨は、仮の信行に惑うことなく、真の信行を仰ぎ、奉行することを勧めんがためです。このことを理解するならば、十八願にしたがって浄土往生を願う者は、ただ御名のいわれを聞く以外に進むべき道はないことを正しく理解されますでしょう。
 祖師は、十九願、二十願にも十八願海に誘引する大悲心があると理解されましたが、そのことは、十八願の救いに直入することを求めている者に十九願の行を勧める根拠にはなりません。十八願の信海にでられて、十九願、二十願にも十八願海に誘引する大悲心があることを事後的に感ぱいされたものです。十九願の行から始めなければならないことを教えられたとの解釈をこの三願転入の御文から読み取ることはできません。

 十八願の救いのあり方はただ願心を聞くというあり方をしているのに、十九願や二十願の自力の行を十八願の救いに持ち込もうとすると、この思いは十八願の救いを撥ね付けてしまう疑情となります。これを自力の計らいというのですが、自力の計らいとは十八願の救いのあり方をあれこれを考えを巡らし、自力の思いのために如来の大悲心を受け入れられない心のあり方を言います。それは、願心を聞く以外に自分の思いや考えや行をもって救いの足しにしようとしている態度となってきます。十八願の救いを求める者に対して、教える者は、十八願のよる救いを説けばよいのであり、十八願の救いを説くにおいて、十九願の諸善万行に励むことを勧めることは十八願の救いの願意に背くことになります。これは厳に慎まなければなりません。仮に、十九願の救いを求める者であるならば、その者に十九願の願意を説き、諸善万行を励むことを勧める説相でも良いのですが、真宗人であるならば、十八願の救いに直入することを求めているでしょうから、その人にあった説相でなければなりません。それには、ただ如来の慈悲心を聞き頂くことだけです。