1-19.本願まこと-歎異抄第3条に見る祖師の信

おのおの十余カ国のさかひをこえて、身命をかえりみずしてたづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問い聞かんがためなり。・・親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてはべるらん、また地獄におつるべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知さぜるなり。たとひ法然聖人にすかせられまいらせて念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆえは、自余の行をもはげみて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄におちて候はばこそ、すかされたてもつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよび難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもってむなしかるべからず候か。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし

 

 「愚身が信心」とは、結局、どのようなものなのか。あらためて問われると、即答できず、考え込んでしまうのではないでしょうか。

 「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」と祖師が言われているのだから、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと信ずる」ような信だということはすぐに思いつきます。でも、「念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてはべるらん、また地獄におつるべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知さぜるなり。」と言われると、「信じる」とは念仏が往生の行であると信じることではないのか、という釈然としない疑問が残ります。しかし、祖師がそのように言われている以上、念仏が往生の行であるかどうかは分からなくとも信には何の影響はないと理解しなければなりませんが、何をどのように信じるのが信なのか、が分かりにくくなってしまいます。「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもってむなしかるべからず候か。」と祖師が言われているところから考えれば、祖師が「本願まこと」と信じていることがわかりますが、では、「本願まこと」と信じるとは、どういうことなのか、が上記の法語からは明確ではありません。
 
 本願とは、いうまでもなく十八願のことですが、十八願の信楽とは、御名を聞いて信心歓喜することです。御名とは私を摂取して浄土に迎えんという如来の勅命のことですから、御名を聞いて信心歓喜するとは、如来の浄土に生まれさせるという勅命を聞き受けたことをいいます。如来の勅命を聞き受けているという心理作用には、浄土に迎えんという如来の願心はまことであると直感している心理作用があるのではないかと思います。直感ですから論理的な推測ではありません。また、願心のまことを知覚しているということでもありません(人の五感による知覚のようなものではありません)。願心まことという思いには、何かの根拠がある訳でもありません。しかし、現に如来の願心が私に届き、願心がそこにあり、私は如来の願心を聞き受けているという自覚があります。それは、如来の願心があることを意識し、意識している願心を仰ぎ、願心のあることを喜んでいる私がいると私は認識しているからです。私にとって、如来の願心はある、のです。観経に「諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。・・この心すなわち・・この心これ仏なり」とあるがごとくです。

 「ただ如来の願心を仰ぎ、喜んでいる私がいる」と認識していると言いましたが、この認識は信そのものではなく、もともとの生まれつきの意識が願心を意識するようになったことから生じた意識です。私が願心があると認識している事実は私自身も疑うことのできない事実として現実のものです。ここから、次のようなことも言い得ます。本願に誓われた信楽が我が身に生じている事実から「本願まこと」と思わざせるを得ないと。デカルトは思っている我の存在だけは疑いようがないということから「我思う。故に我あり。」といい、フッサールは、私が知覚している事実だけは疑いようがない事実であるから、そこを出発点として人が確信に至るための条件を考えて現象学なる哲学を構築したと学習しました。如来の勅命を聞信した者にとって疑いようのない事実は、大悲心があるということです。この疑いようのない事実がありながらも、念仏は、「まことに浄土に生まるるたねにてはべるらん、また地獄におつるべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知さぜる」ものなのです。念仏で浄土に往生できるかどうかは凡夫の智慧では分からないのです。

 さて、祖師は、関東の同行を前に明確に答えなければならない立場に立たされてしまいました。そこで、まず祖師は、①念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてはべるらん、また地獄におつるべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知さぜるなり、たとひ法然聖人にすかせられまいらせて念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ、と言い切られました。これは祖師の本当の思いでしょう。次に、②そのゆえは、自余の行をもはげみて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄におちて候はばこそ、すかされたてもつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよび難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかしと断定されました。これも祖師の本当の思いでしょう。如来の願心を前に自力の計らいが役にも立たないことを知らされたお言葉でしょう。最後に、③弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもってむなしかるべからず候か、といわれました。しかし、弥陀の本願まことにおはしますということについては、それ以上のことは歎異抄には書かれていません。祖師は、「念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてはべるらん、また地獄におつるべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知する」ことはできないが、「本願まこと」という思いを胸に抱きつつも、その思いを言葉や論理で説明することができなかったのだと思います。念仏称える者を救うというのが本願か、往生が決定したと知られる御名を聞いて救うというのが本願であるかの概念的理解は人によっては区々になるかもしれませんが、どちらにせよ、如来の願心まことという思いに違いが生じることはありません。