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1-20.本願まことと信楽不思議

1.論考編

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもってむなしかるべからず候か。

 祖師は、「・・・法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもってむなしかるべからず候か。」と反語を用いていますから、結局、祖師は、「本願まこと」と思われていることが分かります。では、「本願まこと」とはどういうことか、考えてみましょう。

 「本願まこと」は、「十八願の願文まこと」というのとは、違います。「十八願の願文まこと」ということになれば、「至心に信楽し欲生我国の思いで念仏を称える者を必ず浄土に生まれさせる。もし浄土に生まれなければ正覚をとらない」ということになりますが、まだ浄土に生まれてもいないのですから、浄土に生まれさせる本願にまちがいないとは言えません。浄土に生まれてみてはじめてまことであったと分かるのであり、それまでは分かりません。

 本願とは、本願文のことではなく、如来の選択の願心のことです。大慈悲心のことです。本願まこととは、選択の願心がまことである、ということです。如来の選択の願心とは、浄土の完成と往生決定を告げる御名を私に聞かせて救うという願心のことです。私が浄土往生せずば仏にならないと誓って仏になったのですから、私の浄土往生は決定しました。如来が御名を告げるのは、如来が仏になったと同時に私の浄土往生が決定したことを私に告げるためです。私に浄土往生が決定していることを告げて聞かせてそれを信じさせる(信楽させる)というのが、如来の十七願と十八願の眼目です。この眼目にあらわれた如来の「私を浄土に往生させるという大悲心」が選択の願心です。この願心がまことの心なので、「本願まこと」と言われます。まことの願心であると聞くので、本願まことと受けとめられます。願心がまことであると聞き、心に本願まことと受けとめたことを至心信楽といいます。
 どうして、願心まことと受けとめられたのかというと、願心がまことであると聞いたからです。どうして願心がまことであると聞けたのか、という質問に対しては、説明することが不可能です。そのように聞いている、としか言いようがありません。これは心の受け止め方の問題です。論理的に説明されて理解できたから、そのように受けとめられるようになったというものではありません。本願まことと受けとめられたのは、本願力によるものだと納得する以外に納得するすべがありません。

 ここからが問題です。願心がまことであると私の智慧によって本当に分かるのか、ということです。

 通常の理解であれば、まことと分かったから、まことと受けとめた、という理解になるでしょう。しかし、願心がまことであると聞いてそのように受けとめていても、願心がまことであるとは私の智慧では分からないのです。本願まこととという思いがないのではありません。本願まこととという思いがあっても、本願まこととは分からないということです。これは一体、どうしたことでしょうか。言えることは、まことと受けとめているのは私の智慧で受けとめたのではない、ということです。私の心の中の何が本願まことと受けとめたのでしょうか。分かりません。あえて推測して言えば、私の意識にかからない心がまことと受けとめたということになるでしょうか。ここに信楽不思議があります。祖師は「不可思議の信楽」と言われていますが、祖師が不可思議と言われたことを自分に引き寄せて推測してみますと、どうして、本願まことと聞き受けたのかが分からないという思いが祖師にはあったと偲ばれます。また、どうして自分が信楽を喜ぶ身になったのか、それも分かりません。それは本願力によるのではないか、と訝しく思われるかも知れませんが、本願力がどのようなものかは知るよしもありません。本願力によると聞かせされて教えられても、私の智慧ではそれが分からないのです。思うに、言葉や知能や智慧によって理解したという分かり方とはまったく異質な受けとめ方をしているのでしょうが、それがどのようなものかは分かりません。
 願力をタノムということが言われますが、「憑む」という字はもともと馬が氷の柱にぶつかって氷の柱と一体になった事をあらわす表意文字であり、如来の救いは一方的に私にぶつかってきたものであり、私が予め予期したものではないということを表していると聴聞したことがあります。私にして見れば如来からの一方的な救いですから、丁度、如来が一方的に私の心の中に進入してきたという感覚です。どうして救われたのかは知るよしもありませんが、大経に如来が大慈悲を起こしたと説かれ聞いているので、せいぜい、さもありなんと思うのが関の山です。願心に対する自力の計らいがなくなったからといって、凡智で分からないことが分かるようになったということはありません。

 心得たと思うは心得ぬなり、心得ぬと思うは心得るなり。

 蓮如上人の上記の逆説的な表現は、信楽の不思議を体感し、心得ぬ(分からないなぁ)と思っている者はほんとうに信を心得た者だ、と言われたものだと考えれば、理解できるお言葉です。ただ、分かることが1つあります。如来に大悲心があるということだけは分かります。この分かるというのは、私の心にそのように響いてくるということです。