読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

1-21.自然

自然といふは、
 自はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。
 然といふは、しからしむるといふことばなり。
 しからしむるといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにて あるがゆえに法爾といふ。

  法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆえにしからしむるを法爾といふ。法爾は、この御ちかひなりけるゆえに、およそ行者のはからひのなきをっもってこの法の徳のゆえにしからしむるといふなり。すべて、ひとのはじめてはからわざるなり。このゆえに義なきを義とすとしるべし。    ・・・・・途中省略・・・・・
自然というは、もとよりしからしむるといふことばなり。
弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。

 


 自然は、おのずからしからしめるということ、そのようになさしめるもの、それが自然であると言われています。法爾は弥陀仏の誓いによってそのようになさしめている、ということで、自然と同じ意味でしょう。

 では、自然とは何のことでしょうか。私なりに補ってみます。

 私は弥陀仏の誓いによって私がかくあらしめられた(念仏をとなえるようになった)そもそもの縁起を自然と呼んでいると思います。私という存在と迷い、如来の覚りの世界、これらが織りなす如来側の縁起が自然であると思います。如来側の縁起とは、生死が迷いであると知らない私のために誓願を建て信を与えて誓願のあることを信じさせた縁起、つまり一実真如から起こった仏願の生起本末のことであり、往生と信の縁起に関する善導の光号摂化(両重の因縁)のことです。現在の私を存在あらしめた私だけが抱えている過去からの縁起が私の側にはあるのでしょうが、その縁起の果てしない深みは私の思い及ぶところではありません。私の死後における私の存在を存在たらしめる因縁は現在も果てしもなく積み重ねられてきていると思います。しかし、私の縁起すべてを如来が我が縁起と引き受けるとき、如来の果てもなく深い慈悲による縁起が私の縁起に加わり、私の行く末は如来の縁起にしからしめられることになります。

 しからしめるとは、どいうことでしょうか。

 水が流れるには縁起があり、その縁起に従って水が流れるが如く、如来の縁起もその縁起が働き動くままに縁起してゆくということでしょう。
 迷いの私が死に行く先のことについては自然(如来の側の縁起)にまかせるしかなく、死に行く先について私があがらったり、知りたがったりしても無力であることが知らされるだけです。今は、念仏を称えるようになったことも、死に行く先のことも如来の縁起にしからしめられているのですから、あらがうことなく、ただ如来に自分の生死をおまかせするだけです。如来が私を仏にするというのであれば、それにお任せするだけです。如来が私を見捨てて地獄に落とすというのであれば、いたしかたありません。仏になるか地獄に堕ちるかは如来にしからしめられているということであり、このおまかせという心理状態も如来の縁起によってしからしめられているということになります。私のすべてが如来に然らしめられているということです。

 「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちは」といわれている「この道理」とは、「弥陀仏は自然のようを知らせる料」のことですが、如来の縁起が弥陀仏という御名になったことだと理解できます。弥陀仏という御名となったのは如来の側の縁起です。御名は如来の全縁起を担ったものですから、「この道理」とは、如来の縁起を担っている如来の御名によって私の信や生死がしからしめられている、その御名の働きのことです。
 
 祖師は、弥陀仏の誓いやその向こうに人智の及ばないなにものか、何かを問うこともできないなにものか、を見据えていたのだと思います。そのなにものかが弥陀仏の誓いとなって私に現前している。だからただおまかせするしかない、そのおまかせすることも法の徳によるのだと諦観されていた。これが大悲心に打ちまかせた信の世界であります。この自然法爾の法語は感覚的で知的理解を超えるような法語ですが、浄土教の枠を大きく超え、縁起という真実の一辺に触れたような法語であります。信の世界は、このような感覚的なものであり、その人にしか感じ得ないものではあるけれど心の奥底で共感できる何かがあります。如来の果てもなく深い慈悲による縁起は私には分からないながらも、果てしなき如来のの縁起によってしからしめられるものであることに気づくとき、ひとははじめてはからわざるなり、といわれ、沙汰できるものではないから沙汰すべきにはあらざるなりと言われたのでありましょう。

 元祖が「世間の習い事に従い、念仏申せ。」「愚者に還りて念仏申せ」と言われたことにも、上記のような如来の縁起に対して謙虚にならざるを得なくなった諦観を感じさせてくれます。