2-1.夜と霧-視点の転換

 ナチの強制収容所から奇跡的な生還を果たしたユダヤ人の精神科医ヴィクトール・フランクルに「夜と霧」という著書があります。強制収容者生活において希望がもてず自殺を考えているという2人の囚人仲間から深刻な悩みの相談を受けたときのことが記されています。

 フランクルはこの2人に「あなたには、あなたを待っている誰かがどこかにいませんか、あるいは、あなたによって実現することが待たれている何かがありはしないでしょうか。あなたを必要としている誰か、何かがあるはずです。」と助言しました。すると、1人は「自分には外国に子供がいる。その子は自分を待っているはずだ」と応えました。もう1人は「自分は科学者であり、書きかけの原稿がある。それはシリーズであり、それが完成するまでは死ぬに死ねない思いがある」と気づき、この2人は再び、希望を持つことができたというお話しです。

 自分がしたいと思うものがあっても、それを許さない極限状態の環境下においては、そのやりたいものは何の希望にはなりません。どうしても、自らが置かれた環境を考えてしまうからです。しかし、私に期待していてくれる人やものはないかと考えたとき、絶望的な環境下にあっても、私に期待してくれる人やものは考えつきます。私に期待している人は誰か、私に期待しているものは何かを考えるときは、自分の置かれた環境を考える必要がないからです。ですから、どんな環境下にあっても、私に期待していくれる人はいるか、私に期待していくれるものはないか、考えつくのです。視点を変えるということはほんのわずかなことですが、このわずかなことが大きな心理的な違いになります。
 
 さて、如来の救いを考えるときも、視点を変えてみてはいかがでしょうか。救われない、どうしたらよいかと困っている人は本当に困っているのでしょうが、困っている原因は自己中心の視点に立っているからです。救われたいという思いは、自己中心の考えです。自分が救われることしか考えていないからです。では、救われたいという気持ちとは別の視点を持ち得るのでしょうか。

 持ち得ます。それは、如来が私に何を期待しているのか、如来が私に願われていることは何か、という視点です。このような視点に立つと、いつまでたっても、いつまで聞いてもちっとも救われない自分、という考えはとりあえず横に置いておくことができます。そうしますと、はじめて、如来は何を私に聞かせようとしているのか、という大切な所に目が向くようになります。そのように視点に立って法を聞きますと、如来は私を救うという願いを私にかけ続けてきたことに気づきます。如来の大悲心に気づくのです。