2-2.視点の転換と十八願の味わい

  祖師は、「よくよく本願を案ずれば、親鸞一人がためなり」と言われましたが、これは、十方衆生のうちで極悪最下な者が自分であるという意識から、そのように思わずにはいられなかったのだと思います。

 では、十方衆生のうちで極悪最下な者が自分であるという意識を持たない者は、「本願を案ずれば、私一人がためなり」という思いにはなれないのでしょうか。

 なれます。視点を変えると、私一人がための本願であったという思いになれます。

 十方衆生を、私と、私とともに同時に存在する私以外のすべての衆生と理解するのは空間的視点から衆生をとらえる考え方です。しかし、遠い過去から続いてきた私という存在のあり方を考えるという視点に立ったとき、衆生とは私がこれまでに存在したありとあらゆるあり方の存在を指す言葉として理解することができます。

 衆生とはかぎりなく生を受けるもの、かぎりなく姿形を変えて生を受けるものということです。私は遠い過去においては地獄の住人となったり、餓鬼という異形の者であったり、修羅や畜生というすがたをとったときもあったことでしょう。何度そのような姿となったか、数知れません。そうしますと、私の存在のあり方を1つ1つピックアップしてゆくと、私がいかなる衆生とならなかったことはなかったということに気づきます。私はありとあらゆる衆生という形をとって存在し続けてきた者です。だから、如来は、いかなる衆生の形をとっても私が救われるように一切の衆生を救うと誓われなければ、私を救えなかったのです。これは私の過去から現在に至るまでの無限の生命という時間的視点から考えたものです。

 どうですか。本願は私一人のためのものだった、という思いが生じませんか。

 この考え方は、本願は衆生1人1人のためにあるという考えです。1人1人に1願あり。1人1人に1名号あり。1人1人に証果が用意されている。如来は聞いてくれよという願いをもって1人1人に付き添われ、いつも私1人のそばを離れず、見守られているのではないかという感がします。真宗の空華という学派でいわれる数数(さくさく)成仏という考えを徹底すれば、このような考えに至るでしょう。