2-3.視点の転換と至心

 至心は、如来の至心と衆生の至心という観点から考える必要があります。如来の側に立ったときは「約仏」といいあらわし、衆生の側に立ったときは「約生」といいあらわします。その約仏とか、約生という言い方はどうでもいいことですが、便利な言い方です。

 さて、至心はまことの心ですから、衆生は至心を持ち得ません。しかし、十八願文には衆生の生因として「至心」と書かれています。至心を持ち得ない衆生の至心とはどういうことでしょうか。

 如来の立場から考えると、分かり易くなります。

 如来の至心を衆生が聞き受け入れたとき、如来からすれば、如来のまことの言葉を受け入れた衆生のすがたに衆生の至心を見るのです。私がまことの言葉を人に伝えるとき、その言葉を聞き入れて信じてくれる人は、私にとっては、まことをもった人だと思えるのと同じようなものです。如来は、如来のまことの言葉を聞き受けてくれた者を至心の人と喜んでくれるのです。よく、まことの言葉を聞いてくれたと。

 如来のまことの心を聞き入れたこと以外には、私の至心はありません。私の心の内に至心の心を求めるのではなく、如来の心にまことのあることを聞くのです。如来のまことの心を聞いたとき、聞いたことに嘘や偽りはありません。聞いたことに嘘や偽りはないと思える。これが私の至心です。

 至心は至誠心ともいいますが、自力の至誠心に対して弘願他力の至誠心があります。法然聖人は、総別の至誠心があるとし、別の至誠心について「別というは他力に乗じて往生を願う至誠心なり。」と言われています。この至誠心は他力に乗じて往生を願う心ということですから、深心(=他力に乗じる信楽)と回向発願心(=欲生心)のことだと分かります(梯和上「法然教学の研究」280~281頁あたり)。

 如来の至誠心を聞き受けるとき、その聞き受けた私の心を至心とか至誠心と如来から讃嘆されるのです。