2-4.視点の転換と五重の義の理解

 ①宿善、②善知識、③光明、④信心、⑤名号(称名念仏)の五重の義、成就せずは往生はかなうべからず。

 この五重の義をどのように理解するかは、問題があるところです。最初に宿善が挙げられているので、宿善がなければ往生はできないと理解して宿善を求めなければならないと理解すれば、如来の救いにあずかるには宿善を求めることが必要になります。このような考えから、宿善を求めよと教化する者がいます。

 しかし、このような理解は十八願に約束された往生浄土の救いに反しています。

 十八願の救いは、名号の成就により浄土往生は決定しており、それを信受するかどうかだけが問題となるだけです。その信も名号のいわれを聞くことによって信が開けおこるので、我が方が求めなければならないものは何一つとして無いように名号は成就されてあります。そうすると、名号のいわれを聞きながら、宿善を求めるというのは、全くの聞き損じということになります。

 では、最初に宿善とあることをどのように理解すれば、名号信受の教えに合致するかということですが、これは、最後に挙げられている名号(念仏)から信心、光明、善知識、宿善と順次、遡って理解すれば分かり易いと思います。すなわち、今、私が念仏申している身となったのは、私に信心が恵まれたからであり、その信心は如来の光明によって開け起こったものであり、我が方の思いは何も必要ではなかったと信解し、その信解は真宗知識による教導のお陰であり、その真宗に巡り会うことができたのは、遠く、如来によって宿縁を受けていたからだと喜ぶのです。理解する起点を最後の念仏において、その称えている念仏の因縁を考えてみれば、信心から宿善までのすべてが如来によって用意されていたと喜べるのです。これが念仏往生です。

 以上の視点から理解した上で、今度は、宿善から順次、念仏までを見てみましょう。そうすると、既に真宗の教えに巡り遭っているのは如来から頂いた宿縁のお陰であり、そのお陰で、如来のお救いの正しい教えを聞くことができているなぁ。その教えを聞くがままが如来の光明に照らされているのだなぁと感じとり、その光明に照らされて信心が開け起こり、念仏を称えているという思いに至ったのだなぁ、という思いになります。これが十八願の救いに合致する正しい理解です。そうしますと、宿善から念仏までもがいずれもいずれも既に如来が用意したものであり、我が方で用意すべきものは何一つとしてなかった、ということになります。このような思いを自力無功といい、この心相に至るのが如来の救いッぷりの真骨頂なのです。因みに、蓮如上人は、「当流には信をとることを宿善といふ」(浄土真宗聖典第2版1308頁)と言われています。

 視点を変えれば、理解しやすい事例の1つです。