2-5.信を得ることが人生の目的か?

 信を得ることが人生の目的である、と考える必要性はありません。信を得ることが人生の目的であると考え、信を得るために自分の生活を犠牲にするということも必要もありません。

 世間では、資格の取得にせよ、起業にせよ、成功するには少しばかりの才能と懸命な努力を必要とします。一流と言われるためには、その後の日々の努力が必要とされます。その過程においては自分の生活を犠牲にすることも余儀なくされることがあるかも知れません。しかし、如来の救いをそのような世間の常識で計ることはできません。信を得ようとして何かを犠牲にしながら求めても、その努力次第で得られるものではないのです。

 私の側から言えば、信を得ると言いますが、信は自分の自助努力によって得るものではなく、如来から与えられるものです。如来にとっては私に信を与えて浄土に生まれさせることが如来の全存在をかけた使命なのです。信を得させることが如来の存在目的であり、この目的を果たすために如来は寿命無量を誓われました。この誓いがあるから、私は自己の全存在や全人生をかけなくても、如来に自然と救われるようになっているのです。だから、信を得ることは私の人生の目的ではありません。信を得るために自分の生活を犠牲にすることもありません。

 私はそのときそのときに応じて求めるものが違います。信を得たいと思っているときは、信を得ることを当面の目的とします。でも、自力では得られないものと知りました。それを知って信に恵まれました。信に恵まれたら、今後は、別のものを求めるようになります。

 では、信を得たのち、私は何を求めればよいのでしょうか。私は人生の目的を達成したから人生を終えていいのでしょうか。そうじゃ、ありません。信を得たいと思っていた頃と同じように、いろいろと、そのときそのときに応じて求めるものが違います。求めるものは自分が決めればよいのです。自分の人生にどんな意味合いを求めるかは、自由に自分で決めるべきものです。他人から「これが人生の目的だ」と大上段に構えられて言われる筋合いのものではありません。

 劫ごう多生にも遭えないものが信だから、信を求めることは人生の目的ではなく、劫ごう多生の目的だ、と考えたとしたら、得られもしない信に狂わされた人生になること必定です。
 また、人生の目的を知ったという意識になった人は、私は人生の目的を知った、彼は人生の目的を知らない、という意識から、人生の目的を知った人と知らない人というように人を差別的に見てしまう癖が付きます。そして、人生の目的を知らない人は哀れで可哀想だ、これに対して、人生の目的を知った私は、何と幸せ者かとという錯覚に陥ります。この錯覚のまま生き甲斐を感じて生きることは悲劇です。この錯覚が強固なものになればなるほど、自己を強く束縛する幻影となり、そこから脱することが困難となります。カルト宗教的人格形成の完成です。

 如来の大悲心を感じるとき、生死を如来にまかせることができ、自らを縛り付けていた宗教的な心理的拘束やこだわりから自由になれます。人生の目的だと思い込んでいた心の縛りからも自由になれます。