2-7.自力無功と死の受容

 如来の本願が間違っていたら、どうなるのか。如来の願心を喜んでいる人は、この点にいて、どのように考えるのかを考えてみます。

 如来の本願が間違っていたら、どうなるのか、そんなことを信後の人が考えることがあるのかと、訝しく思われるかも知れません。

 しかし、一度は考えることがあると思います。それは、如来の願心が真実まことであるかどうかは、残念ながら、凡夫の智慧では分かりません。死後があるのかどうかも、死んで地獄に堕ちるのかのかどうかも、浄土に生まれるのかどうかも、凡夫の智慧では皆目分かりません。そのため、私は、如来の本願が間違っていたらどうなるか、ということを考えてしまいました。

 私は、つぎのような思いに至りました。

 如来の本願が間違っていたら、如来が大嘘をついたことになる。如来が大嘘つきであれば、大嘘つきの如来も地獄に堕ちるであろう。ともに地獄に堕ちるのであれば如来と一緒に堕ちよう。しかし、私が地獄に堕ちるのであるとすれば、それは如来が大嘘をついたからではない。地獄が自分が行くべき所であるならば、嫌でもそこに行くのだろうから、それを免れることはできない。仕方のないことだ、という思いです。この心の据わりがあるために、自らの死を受容してしまいました。因みに、上記の思いは「地獄に堕ちるというのであれば、」ということであって、地獄は一定と確定していると認識しているわけではありません。

 上記のような思いが私の心の据わりとなっています。この心の据わりは、「自分の命の行き先は如来まかせ」という思いから生じています。「自分の命の行き先は如来まかせ」という思いは、私の後生の行き先の問題に関しては、如来の願心を聞き受けているだけでそれでよし、聞き受ける以外に私のできることは何ひとつない、という思いから生じています。この思いは、如来の願心を聞き受けているところに安住し、自分の思いや行は何の役にも立たないという思い、です。自分の思いや行は何の役にも立たないというのは、自分の生死の問題に対してです。自分の生死の問題に対しては何の役にも立たない。この思いを自力無功といいます。自分の思いや行は何の役にも立たないという思いがあるために、如来の本願まかせという思いにもなります。このようなことを考えますと、自力無功という思いには、私の心を如来の願心に据わり付けて動揺させない働きがあるようです。

 このことは、その他のさまざまな疑念に対しても、同様に作用します。例えば、「如来という存在が分からないし、如来の願心というのもあるかどうか分からないではないか」「どうして如来の願心を喜べるのか、ぬか喜びではないか。」という疑念を持つこともあります。しかし、自力無功という思いがあるために、「ぬか喜びであればあったで仕方ない。」「如来の願心を頂いている他に、私の出来るものは何もないのだから。」という心の据わりが変わることはありません。
 
 私は、上記のように自問自答した時期がありましたが、これは他の人でも同じだろうと思いますが、どうでしょうか。このような自問自答は、本願を疑う疑情ではありません。本願を疑う疑情とは自力に功を求める思いのことです。自力の思いが消尽すれば、本願を疑う疑情はきれいに無くなってしまいます。
 
 ところで、自らの死を受容してしまえば、後生の問題は解決です。後生の解決とは、「地獄に行かないことに確定したことであり、そのことを私が認識し確認することだ。」と考えている人がいるかも知れません。しかし、如来がましますればこそ後生など気にすることはなかった、という思いになることも後生の解決の仕方です。そうした思いになるのは、如来の大悲心があると分かったからです。

 父親を殺した阿闍世がその罪の重さから地獄に堕ちると煩悶し、その苦悩のあまり、でき体中にでき物ができて膿をつくり腐臭を発するほど煩悶していたのに、釈尊の導きによって、衆生の悪心を破壊せば、われつねにあび地獄にありて無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もて苦悩とせずと自ら告白したように変わってしまったのも、大悲心に触れたからに違いありません。

 ところで、信後においても、世間的な苦しみや不安を前にしたとき、ついつい、心はそこから逃げてしまいそうになることがあります。そんなときでも、避けようのない苦しみだから、苦しみを引き受けてしまおうという覚悟ができれば、苦しみはなくなります。ただ、これは自らのマインドセットを自ら変えることが必要です。死の受容は大悲心を知ったことからそれが可能となりましたが、マインドセットを自ら変えるには、エイッと思い切らなければなりません。心理学者のアドラーは苦悩は人間関係にあるといったそうですが、人間関係の苦悩、経済的な苦悩、病気の苦悩など、生きている限り尽きることはありません。私は、そうしたことに直面したとき、開き直ることにしています。実際にその苦悩を引き受けることができなくても、引き受けてやると自分に言い聞かせます。どうにもならないのであれば、そのどうにもならないところを進んで行くしかないのだから、その苦悩を引き受けろ、覚悟を決めろ、と言い聞かせることにしています。そうすると、そこから逃げようとしたときよりも、心はずっと楽になります。このことは、先に述べた、死を受容するという思いになったことから学んだように思います。