2-8.月指す指

 週刊○○誌に「月指す指」という漫画が連載されていました。西本願寺の僧籍を取得するために仏教学院で受講する生徒達の物語ですが、真宗の教義が述べられる場面はほとんどありませんでしたが、それなりに面白いので毎週購読していました。

 この「月指す指」という言葉は、大智度論に出てくる言葉のようです。月を指さして月を見ろと人に言っても、人は月を見ないで月を指す指ばかりを見ていること、ですが、真理を教えた言葉の意味解釈ばかりして、真理そのものを見ないということを教えた言葉です。真宗で言えば、月とは如来の願心のことです。指とは、如来の願心を教えている大経所説の教説のことです。人は、如来の願心によって救われよと教えられても、願心を仰ぎ見ることをしないで、その教説の字句等の意味や解釈にこだわっている状態を喩えたものです。

 如来の願心を教えられても願心を仰ぎ見ないのは、願心が言葉を超えており、願心の大悲心が分からないからです。人は概念的にしか理解することができないために、言葉を超えた願心が分からず、願心に向き合おうともしません。願心を受け入れようとも思わないのです。ただ、いますぐ救われたいとは思うのですが、大悲心に向こうとしないのです。ここが本願の信の難しいところであり、おもしろいところでもあります。

 如来は、救いたいという願いを聞いてくれるだけでよい。聞いてくれれば直ちに救うと願われています。その如来の気持ちを聞こうともせず、どうすれば救われるのかとばかり考えたり、自分の心ばかりを見つめているのです。いますぐに救われたいと思うのですが、それは、自分の都合を優先させていることに気づきません。如来の思いに思いが至っていないのです。

 今、私が念仏を称えている姿は如来の大悲心が私に届いている姿であり、その如来の大悲心は私を浄土に連れてゆくという真実まことの大悲心だから、私が浄土に往くことは確定しており、決定している。だから、私はその大悲心をいただくだけでいいんだよ。我が方でどうにかして助かりたいという思いをもって救いを求める必要はないんだよ、と指し示しても、救われたい、何とかしてという思いをもって救いを求めようとするのです。

 何の価値もないと道ばたにうち捨てられている小さな花が自分の存在に気付いて貰おうとして一生懸命に花を咲かせているのに、その上を踏み歩いているようなものです。その花の存在に気付いてあげるということが大事です。如来の願心に目を向けないのは、その花の存在に気付いてあげられないことと同じなのです。自分の思いばかりを優先させずに、如来のことに心を至して下さい。心を至すとは、如来の思いに心を向けて如来の思いを優先させてあげて下さい、ということです。如来の至心が私の思いに優先するとき、私の思いなどはどうでもよいことになってしまいます。