2-9.信を考える視点

 信を考えるに、2つの視点があります。

 1つは、如来の大悲心を受けるという視点

 2つは、如来の大悲心を受けている状態ないし如来の大悲心を受けているという私の思いを私の意識の視点から観察するという視点

 1つめの如来の大悲心を受けるという視点から信を考えると、信は、如来の大悲心をそのまま受けること以外にはありません。そのままとは文字通り、そのまま、です。如来の大悲心のままに、ということです。願心は、あるがままの私を浄土に連れ帰るということですから、私の方が浄土に往くのに用意するものは何もなく、私はこの身このまま、ということです。これを別の言葉で言うならば、計らいなく、ということです。

 祖師は、三心釈において、至心、信楽、欲生という如来の三心をあげて、衆生に至心なし、法爾として信楽なし、真実の回向心無しとしたうえで、至心、信楽、欲生という如来の三心の「故に疑心無し」と結ばれています。また、聞というは仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし、と述べています。いずれも、如来の三心に対する疑心の無いことを述べたものです。もう少し敷衍していうと、真実の信願と真実の行願が仏願として起こされ、その願が成就され、その結末として御名が衆生に回向されて、私の上に御名が実現し、事実となってゆきます。これらの一連のことはすべて如来の至心、信楽、欲生の三心によるものです。仏願の生起本末とは、仏願は真実の三心のない私のために起こされたということです。祖師は、この大悲心を聞いて疑心のないことを聞というのだとされました。ここから聞は信であり、信は聞であるといわれますが、生起本末の「末」とは、疑心無く仏願を受け入れて念仏する姿となったことを「末」というと考えられます。この姿が御名の回向を受けた最終的な姿であることから、この姿となったことを「末」というのがふさわしいと思うからです。また、凡夫の最終的な姿は、浄土往生して仏になるということですから、「末」を成仏と考えることも可能だと思います。

 さて、如来の至心、信楽、欲生の三心は、如来の摂取不捨の大悲心にまとめることができますから、如来の摂取不捨の願心を聞き、その願心について計らいを入れないということが信であり、聞ということになります。では、願心について計らいを入れないとどうなるのでしょうか。計らいを入れないのですから、願心がそのまま私の心に印現するということです。印現とは願心が心に刻みつけられていることですが、私の心に刻み込まれた願心は私の心から離れることがなく、失われることもありません。願心が願心のままに私の心に移り込んでしまい、私の心に意識され、私は常々願心を意識し、仰いでいるという状態になります。

 2つめの、如来の願心を受けているという私の思いを私の意識の視点から観察するという視点に立って信を考えてみます。私はこの視点から信を眺めることを信意識と命名しています。

 信後においてはいろいろな思いが交錯します。それは、どうして自分はこのような心理状態になったのであろうか、これは本当に如来の救いということなのか、など様々な思いが生じてきます。これは私の意識が心の内なる傍観者のごとく私の信の状態を観察するところから生じるものです。これは、凡智による観察ですから、真実を知覚することには決して至りません。いくら傍観者のごとくに観察を続けても、決して如来の願心が真実であるかどうか、分かることはないということです。

 さて、ここで不審に思われるであろうことは、如来の願心が真実であると知覚されたから信が生じたのではないのか、という疑問でしょう。理詰めで考えれば、当然にそのように思われるのは無理もありません。しかし、願心の真実を知覚したから信が生じたのではありません。願心が真実であり、間違いのないものだと聞き受けたのが信ですが、何故にそうした信が生じるかは、答えようのない問題です。ここに信の不思議があります。脳神経科学では、意識は脳内の前頭前野の皮質を中心に神経ネットワークが形成され、ニューロンが発火して脳内の情報を伝達していることによって生じるのであろうと推測されていますが、信もまた新たな神経回路の形成によって生じたものなのかもしれません。

 仮に信がそのようなものであったとすれば、私の肉体の死によって信は消滅してしまうのではないか、という思いも生じます。これも、信意識から生じる思いの1つであります。このような思いは、生きている限り起こるものですが、これによって心に印現された願心がなくなることはありません。

 では、先の「私の肉体の死によって信は消滅してしまうのではないか」に思いに対し、私がどのように考えているのかと言えば、次のとおりです。信の意識は死によって消滅するだろう。だが、それは私が構うことではない。信が私の心に開け起こった因縁は如来の因縁であり、その因縁があるのであればあとは如来の領分の問題である、と思っています。これは、私の生死の問題を如来に丸投げしていることになり、自分の責任の範疇ではないとあきらめている態度ですが、これは1つの態度であります。アドラーの心理学では解決課題という用語が使われていると仄聞しました。そして、アドラーは誰の解決課題であるかを考えます。この用語に従えば、上記の私の態度は、私の生死の問題は私の解決課題ではなく、如来の解決課題だとして理解するものです。

 私は、信の生じた私の心を、このように傍観者として観察し、アレコレと考え続けています。この傍観者としての私が如来の大悲心が至心であるかどうか、知ることはできません。それを知るだけの智慧がないからです。

 しかし、如来の大悲心を受けるという信そのものの視点では、如来の大悲心はまことの至心であると受けとめているのです。矛盾するようなことを言いますが、信そのものと信を傍観者として観察する時に生じる思いとは、別々なのです。

 以上、信を考える上では、「如来の願心を受けるという視点」と傍観者としての私の意識の視点から観察するという視点の2つの視点があります。後者の視点からの観察においてさまざまに生じる思いがありますが、後者の思いは自力の計らいではありません。
 なお、信について会話をする際、私は信について自分が意識していることをお話します。これは、傍観者としての視点に立ったものです。床に就くときは念仏を称え願心をしみじみと味わいつつ眠りに就きます。このときは傍観者としての視点はありません。あるのは如来の願心だけです。

 願心をそのまま受けて大悲心を味わう世界をそのまま言葉でお伝えすることはできません。言葉でお伝えするときは、常に傍観者の立場から、傍観者としての言葉でしかお伝えできません。これが如何ともし難い限界です。真宗教学というのも、傍観者としての視点から人に伝えるために思想形態としてまとめあげられたものだと考えています。そして、教学をたんなる思想ないし教学として理解するのではなく、その人がその人なりに慈悲心を味わった思いを思想ないし教学体系として表現したものであると理解し、教学はその人の味わった思いを教学を通じて味わいなおすためにあるのだと思っています。