2-10.大経思想の受容と事実

 宗教は、自分が認識している世界と人をどのように理解するのかに関する理解の枠組みを提供し、人の精神世界に働きかけ、一定の方向を指し示し、その方向に進むことを教示します。

 例えば、キリスト教では、この世界は神が作りたもうた世界であり、人は原罪をもってこの世を生きており、世界の終末において神の国に往けるかどうかは、神を信じることができるかどうかによると理解し、神を信じるように進むべき方向を指し示します。

 次に仏教では、あらゆる事象は縁起しているものであり、その真理に通達することによって仏の覚りを開くことができるとし、真宗では、人は智慧がないために仏の覚りを開くことはできず、また、智慧がないために煩悩によってこの世界が苦海となり、人は常に苦海に沈輪し、果てしもなく輪廻している。しかし、阿弥陀仏の浄土世界があり、阿弥陀仏を信じることによって人はその浄土世界に救われてゆくと理解し、浄土に生まれることを教示します。

 このように、認識している世界と自分とをどのように理解するのか、についてあの理解の枠組を提供するのが宗教です。では、このような宗教思想を受け入れるとき、確かな事実を得ることができるのでしょうか。また、その事実とは、どのようなものなのでしょうか。以下、真宗思想を受け入れた場合に関して述べてゆきます。

 視覚、聴覚、触覚などの五感で世界を認識しているのと同じような確からしさ(ロボット工学ではクオリアと呼んでいるものです)をもって事実と言えるものが真宗にあるか。

 そう問われれば、あると言えます。

 仏様に願心がある。大悲心がある。そのような思いが私にはあります。そして、そのような思いを内に抱いている自分がいる。このように私が認識していることに対しては、疑いを差し挟む余地がありません。仏様に願心があるとの思いを私が持ったことは、意識による認識であり、五感による認識ではなので、五感で世界を認識している感じ方とは異なりますが、疑いを差し挟むことのできない事実として認識されます。この阿弥陀仏の願心を仰いでいるというのが他力の信ですが、阿弥陀仏の願心を仰いでいる自分がいる、という認識は、その信の状態を自らの意識が認識している認識です。阿弥陀仏の願心を仰いでいる状態、そして、その仰いでいる状態を認識している自分、その自分をさらに認識するという多重構造の認識となります。このような認識が生じるのは、阿弥陀仏の願心を仰いでいる心理状態があるということが最初の前提となります。この心理状態に変化が生じて過去の心理状態になってしまうということがあれば、以上のような多重の認識構造も過去のものになってしまうでしょう。ところが、阿弥陀仏の願心を仰いでいる心理状態が恒常であれば、この多重の認識構造が恒常に内心の主観的事実として存在し続けることになります。そのため、阿弥陀仏の願心を仰いでいるということが常に現在の事実となってしまうのです。阿弥陀仏の願心には、阿弥陀仏の願心を仰いでいるという意識状態を疑いようのない事実にしてしまう働きがあるのです。

 このような多重の認識構造を内心の主観的事実と呼ぶとすれば、この内心の主観事実は、丁度、「あの人が好き。自分はあの人が好き。」「あの人が好きな自分がいる。」と思っているのと同じ認識構造です。あのひとが好き、というのは、内心の主観的事実であり、この事実を疑おうとしても、好きである間は疑いようのない事実です。そして、そのような感情を抱いている自分がいるという認識は、自分の存在を認識すると同時に、そのような感情を抱いている自分がいると認識していることです。これは、そのような感情を抱いている自分がいると認識している自分がいることをさらに認識していることになります。このような認識は、合わせ鏡の中の自分の鏡像を無限に認識することに例えられますが、無限に自分を認識することはなく、せいぜい、好きだという感情を抱いている自分がいると認識している自分がいる、という程度に留まります。阿弥陀仏の願心を仰いでいる心理状態は、あの人が好きという心理状態と同じように、それが認識の対象となるのです。

 では、なぜ阿弥陀仏の願心を仰ぐようになったのか、と言えば、如来が私を救うと願われているからだ、と答えることができます。如来が私を救うと願われているというのは、私の中の思いです。その思いがあるから、阿弥陀仏の願心を仰いでいるのだ、と答えることができますが、如来の願いがあるという思いは、そのまま如来の願いを仰いでいるということです。つまり、如来の願いがあるという思いがそのまま信です。

 では、如来が私を救うと願われている、というのは、事実でしょうか。少なくとも私達が日常認識しているような事実とは違います。ですから、事実ではなく、それは大経の教えであり、1つの宗教思想であるというべきでしょう。しかし、如来が私を救うと願われているという思いになっている私の心の状態は、内心の主観的事実です。大経の宗教思想(如来の大悲心)を受け入れるとき、阿弥陀仏の願心を仰いでいる、ということが内心の事実となるのです。阿弥陀仏の願心を仰いでいることから、その如来の願いが真実の願いであると理解できるようになるのです。

 この事実を基点として、そこから浄土思想という宗教性や思想を理解することになってゆきます。といっても、それは凡夫としての智慧による思想理解であり、その理解の正当性を智慧をもって分かるということにはなりません。それはあくまでも、宗教思想に過ぎません。そのため、仏の世界や真如という世界があるかどうかは、何も分かりません。仏様がいらっしゃるのかどうかも分かりません。ただ、感じて分かることは、如来が私を救うと願われているということだけです。この大悲を仏様というのであれば、仏様は私の心の中に感じることができます。仏様は心の中に常住しております。仏様は浄土で私を待ちきれず、常に私の心の内に来て下され、私を常に迎えて下されているのです。これが仏の常来迎であり、私の心と一つになった状態です。思いとしては、如来の願いがあるのみ。仏様があるのみ、です。

 如来が私を救うと願われているという大経の宗教思想を受け入れる、とは、如来が私を救うと願われていると思うことです。これを真宗学では、本願を信楽すると言います。本願に対して無疑になるとは、如来が私を救うと願われていると思うようになることです。如来が私を救うと願われていると思うのは、如来の願いをそのまま受け入れているということです。

 冒頭に、「真宗では、智慧がないために煩悩によってこの世界が苦海となり、人は常に苦海に沈輪し、果てしもなく輪廻している。」と書きましたが、この部分は、我が智慧、我が力、我が才、我が行、我が思いに代表される「我」によって生死を出離することができないことを教えたものです。如来の願いを受け入れるとき、我が力は生死の前にはまったく無力であるという思いになります。如来の願いがあるのみと言いましたが、如来の願いがある「のみ」とは、我が力は生死の前にはまったく無力であり、我が力を離れてしまっているという思いのあることをも含んだ表現なのです。次に、「阿弥陀仏の浄土世界があり、阿弥陀仏を信じることによって人はその浄土世界に救われてゆく。」と書きましたが、如来の願いを受け入れるとき、このような思いになります。

 以上のように、浄土思想の核となる部分が心の中で内面化されます。つまり、大悲心を受け入れたとき、大経に述べられている法蔵の物語は、私が感じている大悲心の由来・出自を述べたものであるとして、また大経は如来の大悲心が成就されたことを告げるお経として、また私がその大悲心によって生まれられる浄土の有様を述べたお経として、受け入れることができるのです。

 では、どのような心理的なメカニズムによって如来の願いを受け入れられるのか、ですが、これについて私には分りません。如来が私を救うと願われているという思いが私に生じたのは、如来が私を救うと願われているからだとしか、考えつきません。これはトートロジーですが、これ以上の答えは、自分の内心を内省しても答えは出てこないのです。ここに信楽不思議という思いが起こります。

 将来、脳科学によって信の不思議が解明されるかも知れません。私は、信は大脳における認識作用に何らかの恒常的な変化が生じたものだと考えています。脳内における物理科学現象を介さずに、他力信という特殊な心理作用が起動すると考えるのは、いささかナンセンスのように思われます。如来が私を救うと願われていると私が思っているとき、私の大脳のどの部位のニューロンが連続して発火しているのか、妙好人の信に特徴的な発火の仕方が将来、眼で確認されることになるかも知れませんが、ニューロンの発火が妙好人の信に特徴的な発火であるのかどうかの解釈問題が残るので、そのような特徴的なパターンが特定できるか疑問があります。仮にその特徴的な発火が特定できたとしても、それが何を原因としてどのようにして生じるようになったのか、については解明することはできるのでしょうか。その不思議が解明されることは永遠にないことかもしれません。