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2-11.念仏と信と自我

 如来の大悲心を受容し、大悲心を仰ぐようになる前は、信を得るために何がしかの役に立つのではないかと思って念仏を称えています。自分の利益のために何か役立てようとの思いを自我というならば、他力信の念仏にはその自我はまじりません。

 阿弥陀仏の願心を仰いでいる心理状態が他力の信です。この心理状態は、如来の大悲心を受け、ほれぼれと大悲心に身と心を委ねている状態です。大悲心の他に信というものが心中にあるわけではありません。このとき、大悲心を受けている心の内側にあっては、ただ大悲心を受けているだけです。自我の思いが混じることはなく、ただ大悲心があるのみ、です。大悲心は仏と同じです。大悲心は仏であり、仏が大悲心です。大悲心があるのみということは、仏があるのみ、です。他力信の念仏はこの状態から生まれてきます。仏様が有り難い、尊い。大悲心が有り難い、尊いという思いからの念仏です。ここには、念仏をなにがしかのために称えようという自我意識による態度決定が介在することはありません。大悲心と念仏とがひとつになっています。大悲心が称えさせる念仏ということです。摂取不捨の大悲心が南无阿弥陀仏の仏様であるならば、口称の念仏は仏様が称える南无阿弥陀仏の念仏ということになるでしょう。また、念仏を称えると如来の大悲心を想念することになります。そうしますと、念仏は大悲心を感じて称え、念仏を称えては大悲心を感じるという円環が成立することになります。

 さて、念仏の行動を促す心理的な構造が意識下の心の中にいったん構築されてしまうと、苦しいときや悲しい出来事に遭遇するときにも、自然とこの構造が働いて念仏がでてきます。このようなときの念仏は、自らの幸せなどを仏に祈る祈りのこころを伴うことがありますが、苦しみや悲しみに遭遇して大悲心を思い、大悲心に救いを求めるとき、大悲心にふれて自然と念仏となります。

 苦しみや悲しみなどの情動を呼び起こす心象は絶えず私の識内に形成されてゆきます。この認識世界では次々に心象が生み出され、私はその心象世界においてわき上がる情動に日々囚われ続けています。そのなかにあって、この念仏はほんのいっときですが、安堵できる精神世界となります。一時的にせよ自我意識を離れることのできる、このような精神的世界を心の内に抱え込んで私は生きています。