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2-13.私にとって南无阿弥陀仏とは一体なにか?

 南无阿弥陀仏とは、私にとって一体、何でありましょうか。

 祖師は、南无阿弥陀仏の南无の字義を解釈して如来の呼び声だと言われましたが、私にとって南无阿弥陀仏とは、如来の慈悲を感じることです。

 如来の呼び声である以上、その呼び声を聞く、ということがあります。呼び声を聞くということは、大悲心を聞いて感じるということです。大悲心を聞いて感じる場において、私と仏様とが出会うことができます。私と仏様とが出会うとは、私の心において仏様の大悲心を感じるということであります。私の心が大悲心を感じている状態は私が摂取不捨の如来に帰命している状態ですから、私の心の内に南无阿弥陀仏が成立しているということになります。大悲心を感じ、如来に帰命していることが南无阿弥陀仏です。

 如来への帰命の思いが口称となったのが念仏であります。そのため、心も行も南无阿弥陀仏となります。心身に南无阿弥陀仏が充ち満ちているということです。

 阿弥陀経の「執持名号一心不乱」と観無量寿経の「無量寿仏の御名を持つ」とは、
単に称名の行について述べたものではなく、大悲心を感じ、如来に帰命している場が心に開けている心相を述べたものでありましょう。この心相が開けるとき、浄土三部経の教説の真意と経の文言が私の上に現実になったことを心から理解し、悦ぶことができます。