2-14.信一念について

 人は、常にこの世界の視覚映像等を連続して認識しており、その映像等は一瞬たりとも途切れることはなく、常に連続して映像等が認識されると思っています。しかし、私達の大脳(視覚野と前頭前野)が認識するまでには複雑な処理が必要になります。目からの視覚情報は最初に視覚野に入りますが、視覚野では線として処理をする部位、丸いものを処理する部位、人の顔を処理する部位、動いているものを処理する部位、色を処理する部位などさまざまな役割分担があります。そして、視覚野に情報が届いただけでは映像として認識することはできません。視覚野からそれらの処理を経た視覚情報が前頭前野に送られ、さらにそこから視覚野に送り返されるという過程を経て映像として認識されることになります。そのため、認識するまでには時間がかかります。そして、目からの視覚情報は連続するものではなく、とぎれとぎれに入力されています。とぎれとぎれの視覚映像を大脳はそれを勝手に補正して連続する視覚映像として作り上げています。これが現在、脳科学によって明らかにされた研究成果のようです。他の知覚も、上記と同じように情報を処理する部位があり、一定の経過を経て認識されるようになると考えられます。

 さて、信一念とは、他力の信心が開け起こる時刻の極速のことだと祖師は言われました。祖師は、大経の「信心歓喜乃至一念」を大経異訳の無量寿如来会にある「一念の浄信を起こして」という御文を根拠に、一念とは行の一念ではなく、信心が開け起こる一念と理解され、その一念を時刻の極速と解釈されたものです。

 時刻の極速とは、時刻の極限ということですから、人が認識できる時間ではありません。では、どうして、祖師は認識不可能な時刻の極速に他力の信心が開け起こると言われたのでしょうか。祖師は、認識できない時刻の極速を認識できた、ということなのでしょうか。

 理屈で考えれば、時刻の極速は人が認識できる時間ではありませんから、祖師がその極速を認識されていたと理解することには無理があります。そこで、発想を変えて考えるしかありません。私は、如来は大悲を聞いた瞬間に間髪を入れず直ちに救い取るという救いの理念として、時刻の極速と祖師は言われたのだと理解しています。

 しかし、信の一念から、一念覚知という問題が起こりました。信が開け起こった時刻を記憶しなければ、真の信ではないという見解の登場です。このような見解が誤っていることは比較的理解されやすいのですが、時刻には実時と仮時があり、信一念の一念は仮時であり、その仮時は分かるという見解が登場したことから、これに惑わされる人が多く出てきました。

 実時とは時計が刻んでいる入る時刻のことです。仮時とは火に触れて熱かった瞬間、殴られて痛かった瞬間ということで、感覚的に認識される瞬間のことです。そして、実時は分からぬが仮時は分かるという見解は、他力の信が開け起こった瞬間を実時として認識することはできないが、仮時として認識されると主張します。仮時として認識されない信は、真実の信ではないという判定に用いるために、真実の信には仮時があるということを主張するものです。この見解は、“自力一杯求めて自分は善ができぬ悪人と知らされたとき、地獄は一定と地獄の釜の底にたたき落とされると同時に如来の呼び声を聞いて助かる。”という立場からの主張と軌をいつにします。地獄にたたき落とされたときが極楽の蓮の台に救われるときだ、ということになりますと、その認識は劇的に変わるということですから、仮時として認識されないはずがないという主張になってきます。

 この仮時が認識されなければ他力の信ではないという見解は正しいのでしょうか。

 間違いです。

 まずもって、“地獄は一定と地獄の釜の底にたたき落とされると同時に如来の呼び声を聞いて助かる。”という立場が間違っていることは、別の箇所で述べたとおりです。ここでは信一念が仮時として認識されなければ、真実の信とは言えないのか、ということに絞ってお話しします。

 信とは、心に如来の大悲心を聞き受けている状態のことです。大悲心を受けていれば、大悲心を受けていると感じることができます。ですから、この状態は、人の認識の対象となります。信を得ている人で如来の大悲を聞き受けていると認識することはできない、と主張する人はいないでしょう。

 しかし、人の認識の対象となるということと、信が開け起こった瞬間は誰でもが認識することができるか、ということとは別の問題です。信を得たが、信が開け起こった瞬間は認識していないという人は、いくらでもいると思います。他人の信のことは分かりませんが、自分のことは分かるので、そのように推測しています。
 祖師は、信不信の判定において、仏願の生起本末を聞いて「疑心あることなし」としか示されませんでした。ここで祖師が言われていることは、「疑心あることなし」ということだけです。そして、いつの時点で「疑心あることなし」なのかということですが、それは、仏願の生起本末を聞いて、と言われています。仏願の生起本末を聞くとは、如来の大悲心を聞くということですから、如来の大悲心を聞くときはいつでも、疑心あること無し、ということでなければなりません。つまり、いつもいつも「今、大悲心を聞いて疑心なし」、「今、大悲心を聞いて疑心無し」、「今、大悲心を聞いて疑心無し」ということでなければなりません。問題とするのは、過去の一時点で疑心無し、ということではないのです。真実の信は、常に今聞いて疑心無し、ということです。常に、今この瞬間だけを問題としますので、過去においてどのような認識が生じたかは、さして重要な問題とはなりません。ですから、過去に信心が開け起こった瞬間を認識した、ということがあったとしても、それは重要な問題ではないのです。最も重要な問題は、今この瞬間はどうか、ということですから、過去の認識を問題する必要はまったくないのです。

 また、信を得ての上においては、現在ただ今、大悲心を受けている他に自分がどのように信を認識しているかは大事な問題ではありません。大事なことは大悲心を受けているということだけです。一念の仮時を認識しなければ真実の信とは言えないという考え方は、「今聞いて疑心なし」ということの他に、信受した一念に関する認識の有無を問題としている点で余分な物を付け加えている点で間違っています。信は、常にいまここで如来の大悲心を受けているかどうか、が問題なのです。私にとって大事なことは、いまここで如来の大悲心を受けていること、だけです。これ以外のことで大事なことはありません。