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2-15.常念仏の衆生

 私は、大きな声で念仏することはありません。本願寺築地別院などにたまに出向いて本尊に面と向かったときも、大きな声で念仏することはありません。心の中で南无阿弥陀仏と数回から十数回念じるか、せいぜい、口の中で数回つぶやく程度です。心の中で南无阿弥陀仏と念じるのは、朝目覚め始めたとき、歩行中、休み時間中、ぼっとーとしているとき、トイレに入っているとき、お風呂に入っているとき、就寝前、就寝後の意識のある間、その他気づいたときには心の中で南无阿弥陀仏と念じています。

 どうして声を出して念仏申せないのか、といいますと、私には、宗教に対する嫌悪感があるために、極力、宗教とは無縁、無関係という立場をとっておきたいからです。人に念仏しているところを聞かれたくないからです。
 
 また、私は本願寺などにたまに出向いて本尊に面と向かったときでも、あまり頭を下げたり、念仏申すことはしません。どうしてかと言いますと、あまりその気になれないからです。外で対面するご本尊は、あまり有り難くないからです。私の心の内にあるご本尊が有り難いため、常日頃念仏申すときは自分の胸の内に向かって(手を合わせ)念仏申しております。

 

念仏といふは、かならずしも口に南無阿弥陀仏ととなふるのみにあらず。阿弥陀仏の功徳われらが南無の機において十劫正覚の刹那より成じいりたまひけるものを、といふ信心のおこるを念仏といふにてあるなり。

                安心決定抄本


                           

念仏三昧といふは、機の念を本とするにあらず、仏の大悲の衆生を摂取したまへることを念ずるなり。
                 安心決定抄末

 



 念仏を大悲心を憶念する信そのものと理解する思想が述べられているように思われます。信が恒常であるならば、その者は常念仏の衆生となる道理です。