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2-17.大悲心と認識と機法一体

 大悲心と認識の関係について考えてみます。

 以前、「大事なことは大悲心を受けているということだけです。」と書きました。「いま、ここで、如来の大悲心を受けている」ときの私の心理状態は「大悲がある」と感じています。「大悲がある」と認識しているということです。「大悲がある」とという思いです。「大悲がある」という思いには必ず豊かな感情が伴います。大悲に包まれていると表現するする人もあれば、「有り難いとしか言いようがない」という人もいるでしょう。

 私は、私の認識にのぼった大悲心をさらに思索の対象としてアレコレと考えますが、①大悲心があるから大悲心は私に認識されているのでしょうか。②私に認識されているから大悲心があるのでしょうか。どちらでしょうか。

 どちらとも言えそうですが、常識的には前者の方でしょう。

 しかし、私の認識のそとにあって私の認識を離れた大悲心の存在を私は認識することができません。大悲心が存在していても認識されなければ大悲心は何の意味もありません。私に認識されることがなければ大悲心はその存在を顕すことができないのです。大悲心の側から見れば、大悲心は私の認識を介してはじめてその存在を私に知らしめることができるのです。ですから、大悲心があると認識している私の認識は、大悲心が大悲心として存在するためになくてはならないものなのです。大悲心がその存在を全うするには、私によって認識されることが不可欠です。しかし、私の認識能力では大悲心を認識することはできません。ですから、大悲心からすれば、大悲心を認識する私の認識を自ら用意しなければなりません。大悲心が私の心の内側に入り込み、私の認識として姿を変える他に、私に大悲心を認識させるすべはありません。大悲心があるという思いは大悲心が私の心に入り込んだことから形成された思いであり、その思いは大悲心の一部と考えることができます。

 あると認識されている大悲心を阿弥陀仏に、その認識を南无と言い換えれば、大悲心を認識しているところに南无阿弥陀仏が成立することになります。

 さて、私によって大悲心が認識されている事実状態について考えてみますと、大悲心と認識とを分離することはできません。事実としては、大悲心が認識されている状態があるだけです。そうしますと、大悲心があると認識している事実状態が大悲心に遇っている状態ということであり、同時にその状態が信ということになります。私の内心において大悲心と信とが分離不可能な状態で一つとなっています。救いの法と機(信)とが一つとなっているので、これを機法一体の南无阿弥陀仏ということができます。救いの法である大悲心が法のまま信となる、信はそのままが法である、ということです。

 内心において救いの法と信とが一体であることを別の表現で表せば、

  南无阿弥陀仏が南无阿弥陀仏を仰信(認識)する。

と言えるのではないでしょうか。摂取不捨を意味する南无阿弥陀仏が救いの法であるとともに、その救いの法が摂取不捨を仰信(認識)する信でもあるということです。

 「念々の称名は念仏が念仏を申すなり。」

 これは一遍上人の思想表現ですが、それを真似れば、「南无阿弥陀仏が南无阿弥陀仏を仰信し、南无阿弥陀仏を申すなり。」ということになるでしょうか。

 機法一体の南无阿弥陀仏という表現は、如来の救いは自力の思いが全く介入しない、ということを反顕したものです。如来の救いは自力の思いを全く介入させない救いであること、救われた状態とは自力の思いが全く介入しない状態であることを表した思想表現です。この点に重要な意義があります。南无阿弥陀仏を聞いて私が南无阿弥陀仏となって南无阿弥陀仏を称える。ここには自力の思いは全く介入しておりません。

 結びとして

 大悲心があるという認識・思いは、衆生から言えば自力の思いを全く介入させずに大悲心を認識したものであり、如来から言えば大悲心が自らを顕現させ、自らの存在を知らせんが為に私に認識させるよう働いた結果として、私に大悲心を認識させているということになります。

 夜空にある満月を見あげて月に魅入ったとき、認識しているのは満月あるのみです。私の認識は、ただ月を認識するのみの状態となります。私の認識を水に例えれば、大悲心の月はただ水に月影を映すのみ、です。この例でいうならば、信とは「水に映った大悲心」です。水という私の認識に映った大悲心の他に信らしきものは何もありません。私によって「あると認識されている大悲心」が信でありましょう。