2-19.役に立つのか

 大悲心を受けたとして、それが何か役に立つのか。

 

 いのるによりて やまひもやみ いのちのぶる事あらば
 たれか一人としてやみしぬる人あらん。  浄土宗略抄

 

 念仏称えて病気が治ったり、命が延びるものであれば、たれか一人として病み、死ぬ人があろうか、と浄土宗略抄には記述されています。同様に念仏を称えることで自己の我欲を満足させることはできません。自分の都合の良いように因縁を作り上げることはできません。南无阿弥陀仏は、浄土往生以外に役に立つことはありません。否、浄土往生できるのかについては分かるよしもありませんが、如来の計らいによって浄土往生できるという思いが、現在、あり続けるだけです。

 役に立つか、とは、私が望むことを実現する手段として何らかの作用・効力を有するのか、ということです。私が望むことは安楽に生活することです。周囲の世間が穏やかに過ぎてゆくことです。このようことを実現する手段として大悲心が役に立つことはありません。念仏申すこともその実現に役立ちません。もし、自分の望むことを実現させるために南无阿弥陀仏が役に立つのであれば、この世に1人の支配者を生み出してしまうでしょう。大悲心も南无阿弥陀仏も私を不二の世界に迎え入れるものです。その不二の世界では、自我はなく、我のもの、我が意志というものはありません。その大悲心や南无阿弥陀仏が私の自我や欲望を助長させるような働きを持つことがあるとしたら、それは偽物です。大悲心や南无阿弥陀仏は十八願、十一願の願いのとおりの働きしかないと理解するしかありません。

 大悲心を受けたとしても世俗的なことについて役に立たないということは、縁起が支配する因縁の世界で生き、世のことは世のならいに従いながら汲々として生活をしてゆくしかない、ということになります。この縁起の多くは苦悩を引き起こすものです。だから、毎日、止悪、我慢と忍耐の連続ですが、その心に大悲心が至り届いています。大悲心にひたるとき日常の苦悩は多少和らぐ思いがします。その様子は、大経に

それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず。もし三途勤苦の処にありて、この光明を見立てまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし

 

と記述されている中の、「三途勤苦の処にありて休息を得て」いる様子さながらです。心理的に癒されている点では役に立っていると言えます。この娑婆世界の苦悩が無くなれば言うことはないのですが、臨終までのしばらくは、我慢するしかありません。