2-21.思うと思わざる-架橋するもの

 究極の問いは、いくつか考えられますが、今回は、私を救うという大悲心があるという思いは世間でよく言われる「思い込み」ではないのか、という問いについて考えてみます。

 「思い込み」という言葉は、「単なる思い込みに過ぎない」などと使われるように、客観的な事実とは異なることを事実と思っているということを意味しています。例えば、自分は癌かも知れないという思いに囚われるような場合です。思い込みとこれに対応する事実関係が存在するときには、客観的事実関係に照らせば、その思い込みが間違いであるかどうかを判定することができます。癌であるとの思い込みが正しいかどうかは医学的見地から客観的に判別でき、このような場合には、思い込んでいたと自ら反省することができます。あるいは、「思い込み」という言葉は、他の人から見た場合、客観的事実による裏付けがない絵空事のようなものを信じているようなときにも使います。このときは、客観的事実に照らしてその思い込みが間違いであるかどうかを判定することはできません。そのため相互理解に至ることは極めて困難となります。

 大悲心があるという思いは、客観的事実関係に照らして判別することができるようなものではありません。では、そのような思いを持っている人が、その思いは思い込みであるのかどうかを自問自答したとき、どのような答えがあるでしょうか。

 私は、私を救う大悲心があると思い込んでいるのですから、思い込みと区別を付けることは極めて困難です。この思いは深く心の奥底に根ざした思い込みのようです。生来もっている欲や怒りは自ら除去することができませんが、それは心の奥底に根ざしているからです。情動は心の奥に根ざし、心の奥からわき上がるものです。大悲心があるという思いは、情動とは異なり、常に平穏で静かであり、変動せず、変化もせず、一定であり続けます。自ら除去することはできそうにありません。ここから推測するに、この思いは情動と同じように意識の及ばない心の奥深くに根ざしてはいるものの、情動とは異なる根ざし方・異なる部位に根ざしていると思われます。

 阿弥陀仏に救われて浄土に生まれるというのも思い込みなのか、という問いに正直に答えるならば、私の脳内の思い込みでしょう。浄土に生まれるかどうかはわかりません。嘘かも知れないし、本当かも知れません。私に言えることは、ただ、私を救うという大悲心がある、ということだけです。

 往生一定と思え。
 往生不定と思えば、不定なり。
 往生一定と思えば、一定なり。

法然聖人のお言葉に、このような意味のお言葉*がありました。

 

*  心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、声について決定
往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。かく心得つればやすき也。往生は不定におもえばやがて不定なり。一定と思えばやがて一定する也。
              往生大要抄(昭和新修・法然上人全集60頁)

思うか、思わざるか、の違いです。この両者の間にはとてつもなく深い断絶があります。到底、自助努力で乗り越えられそうにありません。どうすれば、その断絶を乗り越えられるのでしょうか。
 この深い深い断絶を架橋するものが、仏の正覚成就と往生成就は同時であるという教説です。この教説が南無阿弥陀仏です。仏の正覚成就によって既に私の往生は成就しにけり、ということですから、往生治定の思いが私に生じます。南无阿弥陀仏は仏の正覚と私の浄土往生を成就したあかしです。これ以外に、断絶を架橋するものはありません。ですから、その教説=南無阿弥陀仏を我がものとして下さい。聞けば、自然と我がものになります。