3-1.本願まこと

A君 B君は「本願まこと」と心から思っているかい?

 

B君 ウーン、自分でもよく分からないなぁ。「本願まこと」と思っているようで
あり、そうはっきりと分かったとは言えないような、そんな感じかなぁ。
A君は、どうなの?

 

A君 僕もそんな感じだけど、「本願まこと」と思っていると言っていいんじゃな
いかなぁ。

 

B君 じゃあ、どんなふうに本願まことと思っているの?

 

A君 本願まことと聞いて願心を受け入れているのだから、本願まことと受け入れ
て受けとめているはずだ、ってことだね。自分のことを言うのは口幅ったいのだけれど、僕は、大悲心があると感じでいるんだ。大悲心があると認識している。この大悲心があると感じ認識しているとき、この大悲心は如来であると思える。この感じている大悲心はまこと、という思いがある。しかし、真実まことかどうか、を自分の智慧で計ろうとすると、まるで分からない。

 

B君 それはまったく同感だね。でも僕は、本願まことと思っているかどうか、と
いうことに、あまりこだわらなくてもいいと思うな。

 

A君 僕もそう思うけれど、祖師が「本願まこと」と言われた以上、祖師は本願は
まことと受けとめていたと思うんだ。それを至心信楽というのであれば、自分も同じ思いにならなければならないという思いになるじゃないか。

B君 そうだなぁ。でも、僕は自分の思いが本願まことという思いになっているの
かどうか、自分で自分の心理分析してもよく分からないもんだとあきらめているよ。A君は、分からないことを分かりたがるたちなんだね。

 

A君 うん。そうなんだ。気になるんだよね。B君はどうしてそう落ち着いていら
れるのかなぁ?

 

B君 願心を受け入れている以上のことは、何も必要ないからね。

 

A君 ホーッ それ、どういうことなの? もう少し詳しく言ってもらえるかな。

 

B君 A君も分かっているくせに、そんな質問をするとは、なかなかくせ者だね。
 願心を感じている事が如来の願いを心で受け入れているという事。この他に、何かしなければならないことなど何もないと自覚しているからだよ。これからさらに何かをしなければ本当の如来の救いに遭えない、のだとしても、自分はこのまま死んでゆくしかない存在だと分かったんだ。いまさら自分の方で何かをして如来の救いに遭える、ということはもうボクには考えられないんだよ。だから、如来の願を受け入れていることだけでボクには十分なんだね。自分の心理をボクなりに分析すると、こういうことになるかな。

A君 それが自力の計らいが廃ったことから生じる心相だと思うね。それで、如来
の願いというのは、何のことかい。

B君 如来の願いとは、私を浄土に生まれさせるという願いのことだよ。

 

B君 自力の計らいが廃れば、願心を受け入れている以上のことは何も必要ない、
という、ある意味、開き直った心境に心が落ち着いてくるのだね。自力無功の思いは、本願から心を離れることがないようにしっかりとつなぎ止めておく働きがあるんだろうね。

A君 僕もそう感じているよ。自分に信があるか無いか、そんな自己中心の判断は
どうでも良くなってしまうんだ。

B君 だから、願心を仰ぐだけ。信を仰信というのは、とてもぴったりとくる表現
だね。

 

A君 そうだね。じゃ、また議論の相手をしてくれよ。