3-3.自力消尽の理由

A君 自力が消尽するのはどうしてだと思う?

B君 以前、僕は、地獄一定の実機が知らされて出離できないと知らされるから自力無功になるのだと思っていたよ。でも、A君はそうじゃないというんだね。

A君 ウン。地獄一定の実機など知らされないよ。それに、自己の実機がどういうものか、信を得たって分かるものではないよ。人の生命がどういうものか人の智慧では分からないよ。

B君 如来の大悲心に気づくと自力はなくなるよね。

A君 そうだね。如来の大悲心を受けていると気づくと、いつのまにか自力は無くなっているよね。

B君 大悲心に気づいて自力を捨てたというのではなく、気づいてみるといつのまにか自力は無くなっていたんだよね。

A君 自力が消尽するのは如来の大悲心を聞くからなんだ。

B君 ということは、あまり、自力の思いというやつに拘泥する必要はないってことか。

A君 そう。自力の思いとか自己の罪悪だとか、自分の内心のある思いに目がいくと、そればかりが気になってそれに囚われてしまうんだ。

B君 よく分かるよ。だから、そんなものに目を向けず、大悲心を聞けっていうんだね。

A君 そうさ。大悲心を聞けば、それで終わりさ。僕自身を振り返ると、当時は、自分の悪性を探し回って掘り返していたね。一生懸命に悪人であることを自覚し、地獄に堕ちる自分探しをしようと努めていたんだ。まったく無駄だったね。そのうち、そんなことをしなくても如来は必ず助けると聞いて、いつか間違いなく助かると喜んでいたけれど、いま助けるとの慈悲であることに気づかず、いつまでたっても助からないと愚痴ってばかりいたよ。

B君 それ分かるよ。僕も如来に悪態ばかりついていましたよ。

A君 いま助けるという大悲心であることに気づくっていうことが本当に大事なんだ。

B君 聞いているのに聞いていなかったんだ。

A君 そうなんだ。聞いているのに聞いていなかったんだ。聞いていることがそのまま如来の救いに遭っているということになる、ということを聞いていたのに、それが救いであるとは思えなかったんだ。だから、救いに遭っていると気づいたとき、これが救いかと、とても意外に思ったことを覚えているよ。その後も、これが本当に信なのかと混乱していたよ。

B君 簡単なことなのに、難しかったんだね。平生業成という教えも、聞いて助けられるというところに根拠があるんだね。

A君 まったく、そのとおりだね。聞くのは平生ただ今のことだからね。