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3-5.信が得られる条件-赤尾の道宗

Cさん 赤尾の道宗は、琵琶湖の海を一人して埋めよと蓮如上人から言われて、かしこまると答えたそうだけど、蓮如上人は、善知識に絶対服従することを求められたということなのかしら。

B君 違うね。善知識に絶対服従するというこことと信を得られるということとは、まったく別物さ。絶対服従すれば信をえられるとは言えないし、絶対服従しなくても信は得られるよ。

A君 ま~、そうなんだけど、御一代聞き書きには、死ねと言われて死ぬ人はいるが、信をとる人がいないと言われている。これは、蓮如上人のお弟子の中には、蓮如上人に死ねと命じられれば、命を絶つことができるような人がいたんだろうね。それでも、信をとれと命じても信をとる人がいないということを言われたものだね。

Cさん 死ねと命じられて死ぬことはできても、信をとることはできない、ということは、どういうことか教えてよ。

A君 命じられたから命を断つなんて事は、普通の精神状態にある人はできっこないけど、それは可能なことだ。自分の意志と覚悟があれば、その命令のとおりに実行することはできる。しかし、信をとれと命じられても、自分の意志で信をとることは絶対にできないんだ。

B君 信をとるかどうかは、その人に意志次第という問題ではないんだね。

A君 そう。これは自分の意志や行動でできる範疇の問題ではないんだ。そうすると、蓮如上人が信をとらせるために絶対服従することを求めるということは、考えがたいことだと分かるよね。

B君 信は願心から生じるというもんね。絶対服従の姿勢から生じるものではないことは、考えたら分かりそうなのにね。

A君 この蓮如上人の言葉を悪用する人物がいたとしたら、これは善知識とは言えないよね。

B君 倫理的に見て極悪人だろうね。

A君 では、絶対服従を求めるのは、どういう理由だと思う?

B君 団体内部における絶対的支配力の確立、人心掌握による自己満足目的ってところかなぁ。

A君 まぁ、そんなところかな。

B君 絶対服従を求めるような団体は、カルトとしかいいようがない。

A君 そのとおりだ。この問題を通じてよく理解しておかなければならないことがあるけど、それは、信は自分の意志や心の持ち方や行など、おおよそ自分の側にあるものを利用して得られるというものではない、ということなんだ。

Cさん 自力が廃るまで自力一杯求めなければ自力は廃らないという言い方をする人いるけど、これは問題ないの?

Aさん 問題大ありだよ。この問題は、大切な所だから議論しようか。Cさんは、どう思っているの。

Cさん そうかなぁと納得できるような感じがしているだけど。

B君 ふっふっふっ、騙されやすいんだね。

Cさん 私だけじゃないわよ。他にも一杯そんな人がいるのだから。
 
A君 じゃ、どこが問題なのか、検証してみよう。
 結局、自力が廃るまで自力一杯求めなければ自力は廃らないという言い方をされた場合、どこに焦点があるかといえば、自力一杯求めよ、というところだよね。

Cさん そういうことね。

A君 あと他に、気づかないかい?

Cさん んーっと。

B君 「自力が廃るまで自力一杯求めなければ自力は廃らない」ということは、その裏には、どんな論理があるのかなぁ。

Cさん そっか。自力一杯求めれば自力は廃るという論理があるわね。

A君 厳密に言えば、そういう論理があるか裏に隠されているかどうかは、分からないんだけど、それを聞いている方は、自力一杯求めれば自力は廃るという理解をしてしまうだろう。

Cさん そうなるわね。

A君 そのような理解をさせてしまうところが大問題なんだ。自力一杯求めよ、という言い方も同じような問題をはらんでいるよね。

B君 ボクは、意図的にそうした誤解をさせていると思うけどなぁ。十九願の諸善を自力一杯しなければ信仰が進まないなどという教説していることを併せ考えると、そのように考えるのは当然じゃないか。

A君 まぁね。だけど、今は、自力一杯求めれば自力は廃るという理解には問題があるということに絞って考えてみようよ。
 自力で求めたことのない人に自力が廃ったということはあり得ないよね。これは考える上での前提としては正しいと思う。だから、自力一杯求めなければ自力は廃らない、という言い方が間違っているとは断定できない。問題となるのは、自力が廃った原因が自力一杯求めたからなのか、それとも別の原因があるのか、ということなんだ。

Cさん どういうことか、もう少し分かるように説明してよ。

A君 如来の願心を聞けよという説法を聞いていたとしても、聞き損じて聞いているうちは自力で聞き求めることになる。これは、至極、当然のことだよね。最初から正しく聞き受ける人はマレだろうから、たいていの人は聞き損じて自力の思いをまじえながら聞くことになる。そういう人は、いずれ正しく聞き受けて自力が廃ることがあるけれど、それまでは自力の思いをまじえて聞法することになってしまう。その意味で、自力で求めたことのない人に自力が廃ったということはないというのは正しいと思うんだ。だけど、自力一杯求めたから自力が廃る、ということはないんだ。

Cさん 自力が廃る原因とは、どういうものなの?

A君 それは、如来の願心のまことを聞く、ということさ。願心のまことを聞くから自力の計らいが廃るんだ。それまで、如来の願心のまことを聞いても、自力の計らいを交えてしまうのが、凡夫の性(さが)なんだね。どうしても、自分の善悪の状態や思いなどが救われるための条件になっているように思ってしまうんだね。例えば、心がきれいになれば救われるだろうとか、自分の側のことを問題としてしまうんだね。

A君 だから、そのようなことを問題とするのではなく、ただ、如来の願心のまことを聞け、と言い続けることが必要で、願心に目を向けさせることが大切なことになるんだ。それなのに、自力一杯求めよ、などといって真剣に聞かなければならないと助言したり指導したりするのは、願心に目を向けさせるのではなく、自らの求道のあり方を是正したり反省するようにさせるだけだ。まったくのお門違いのお勧めになってしまう。真剣に聞け、という言い方も、聞く心構えとして真剣な態度でのぞめと言うことだから、聞く内容ではなく、聞き方を問題とするものだよね。そんなことは信とは関係のないことだ。勧めるべきは、ただ、如来の願心のまことを聞く、ということだけなんだ。如来の願心のまことをそのまま、そのとおりと聞くのが信なんだよ。それが聞即信ということなんだね。

B君 つまりさ、こうしなければならないとか、ああしなければ救われないとか、
自分の側で勝手に救いの条件をつけるなって事さ。そして、教える方も、自分の心のあり方ばかりを注視するような教え方をしてはならないということさ。

Cさん よく分かったわ。

A君 今日のところをまとめると、私が救われる条件を勝手につけるな。私を救うのは如来であって、その如来の救いに私が勝手に救われる条件を付けてはいけないよ、ってことだね。真剣に聞けとか、善をしなければ信仰が進まないとか、こんなことは、如来にとっては、余計なお世話、勝手な口出しをするな、と言いたくなるような事なんだね。