3-7.無条件の救い

A君 十八願における如来の救いは無条件と言われているけど、どうしてそういわれるのか、分かる?

B君 如来の救いは他力回向だから、じゃないですか。

Cさん 他力回向だとしてもどうして無条件の救いになるのか、その説明が必要よ。

B君 そうだね。

A君 もう少し、問題を絞るので、考えて欲しい。
 十八願の「至心信楽欲生我国」という信は浄土往生の真因だから、浄土往生する必要な条件だといえる。「乃至十念」は、称えても良い、称えられなければ称えなくても良い、ということだから、口称の念仏は浄土往生の必要条件ではない、ということになる。そうすると、十八願による浄土往生は「至心信楽欲生我国」という信が必要条件であり、かつ、十分条件だと言うことになる。
 いま、無条件の救いと言われているのは、この浄土往生の条件のことではなく、信が開け起こることが衆生にとって無条件であるか、ということなんだ。

B君 あぁ。よく分かりました。それなら簡単だ。信が開けるのは願心だから、願心が無条件の救いを誓っている、てことですよね。

Cさん そうなんだけど、どの願を見れば、無条件の救いを誓っていることが分かるのか、ってことよ。十八願を見ただけでは、無条件の救いだとは読めないでしょ。

B君 そうすると、十八願以外の願に無条件の救いの根拠を求めるとなると、十七願ということ?

A君 どうして、十七願が無条件の救いを誓っているのか、分かるかい?

B君 十七願は御名が諸仏に讃嘆されることを誓った願だよね。諸仏に御名が讃嘆されるのは、阿弥陀仏衆生往生と仏の覚りの同時成就を果たしたからだよね。そのような御名が諸仏によって讃嘆されるのだから、衆生はその御名を聞くことになる。その御名は、浄土往生の決定を告げる如来の呼び声。  

A君 おっ。いい線いっているじゃないか。十七願文には出てこないけど、衆生に御名を聞かせるというところが十七願の大事なポイントだと言っていいよね。十八願成就文に、聞其名号とあるのは、諸仏に讃嘆される名号を聞いて、ということだから、御名を諸仏に讃嘆してもらい、衆生に御名を聞かせるということが十七願の重要なところだよね。

B君 そっか。そうすると、衆生は御名を聞きさえすれば、信心歓喜するということか。

A君 そうなんだ。如来は諸仏を通じて十七願のとおりに完成された御名=浄土往生の決定を衆生に聞かせて信じさせて救うという願いをもっているんのだ。その信の成就を誓ったのが十八願、その十八願と十七願が成就したから諸仏は御名を讃嘆し、その仏の説かれた内容が大無量寿経として記録されたということになるのだね。

B君 如来衆生に聞かせるところまでお手回しされているから、衆生如来の大悲心と浄土往生が決定していることだけを聞くだけでいいんだ。

A君 じゃ、衆生には聞くという条件が必要になるのではないか。

B君 もし、聞くということが条件であるなら、無条件ではないですよね。

A君 そうだよね。でも、聞く気の無かった私が如来の救いの法を聞くようになったのは、どうしてなんだろうね。

B君 それも、如来のお手回し、だとすると、無条件になってしまうよね。 

Cさん 親鸞聖人は関東で布教しているとき、子供を亡くした親はないか、親を亡くした子はないかと言って布教されたようだけど、そのような縁に会った人が祖師の言葉に感じるところがあって如来の法を聞くようになったとすれば、親鸞聖人の活動は如来の願力に催されてなさしめられたようなものよね。

B君 考えてみれば、僕も知らず知らずのうちに、感じるところがあって救いの法を聞くようになっていたんだ。その感じるところがあったのは、今から思えば、如来のお手回しってことだったということね。

A君 聞き始めたのは、何か感じるところがあったからなんだろうけど、その何かを感じるようになったところに、真実一如の如来からの働きかけ(内薫)があったということだと思うんだ。そして、気づいたときは、救いの法の内にあってその法を聞いていた、ということだね。

B君 これがお手回しですね。

Cさん そうよ。真宗を聞いている人は、もうすっかり如来の手の内にある人なのね。

B君 だから、祖師は、遠く宿縁を喜べっていうんだね。

A君 宿縁というのは、如来が私を救うために導いたご方便をいうんだね。私が法を聞いて何かを感じて聞き続けた、というのは、本当に得難い、大悲心による働きの結果だと思うよね。内薫というのは内からの如来の働きかけ、外薫というのは外からの如来の働きかけ、このふたつの働きかけがあって、法を聞き、信心に恵まれるんだ。内外ともに如来の働きかけではないものはないと思うんだ。

B君 だから、絶対他力ともいうんだね。 

A君 そうさ。最初の導きから信が開け起こるまですべて如来のお手回しだから、無条件の救いなのさ。

A君 じゃさ。聞くよ。無条件の救いなのに、自分の力で救われようとしたら、どういうことになるのかな。

B君 そりゃ、ダメだ。

Cさん 御名の成就によって浄土の完成と浄土往生は決定したと聞かせて救うという願心に沿わないわよね。

B君 だから、本願疑惑というんだね。

A君 そう。本願疑惑というのは、本願が本当かどうか疑うというような疑いではないんだ。無条件の救いを前にして、自分であれこれとしなければ救われないなどと勝手に条件をつけるようなことを指して、本願疑惑心というのだ。この思いは、自力をたよるものだから、自力の計らいともいうんだ。十九願の諸善や二十願の称名行を十八願の救いに持ち込もうとすると、そのとたんに如来の救いの手からスルリと漏れてしまうことになるんだ。

Cさん 大事なのは、私の浄土往生は決定したと聞かせて頂くこと。これだけよ。

A君 如来が救いたがっているのだから、如来にまかせておけばいいんだ。こちらが手出しをするようなことではないんだ。死は自分が直面するまさに自分の問題なのに、自分の意志と関係のないところで如来がこの問題を解決してしまっているということを聞いてしまうと、如来が勝手に一方的に私をすくい取っているということになる。これが他力回向の中身ということだね。