3-10.三願転入 その2

K君 君は、如来の大悲心をそのまま聞けというけれど、そのまま聞けない人はどうすればいいんだ?

A君 どうすればいいんだって聞くけど、そのまま聞くしかないんだよ。

K君 それでもそのまま聞けない人はどうすればいいんだ?

A君 それでもそのまま聞くしかないんだよ。

K君 それでもそのまま聞けない人はどうすればいいんだ?

A君 君は一体全体、聞けないことを開き直っているのか、それとも聞けないことに悲壮な思いでいるのか、どっちなんだい。

K君 開き直ってはいないけど、どうしても君みたいに素直に聞けないんだよ。

A君 ふん。では、自分は素直に聞けない自分だということは素直に認めるんだな。

K君 あぁ。だから、私のような者のために阿弥陀仏は十九願と二十願を用意してくれたんじゃないのかい?

A君 ふーん。君は聞けないからといって、そっちに行ってしまうのか。それじゃ、
浄土往生は決定したと聞いても、諸善に励むという無駄事をするっていうんだね。

K君 それは無駄事じゃないよ。無駄にならないように十九願や二十願があるんじゃないか。

A君 十九願や二十願の行を実践していれば、いつかは、浄土往生は決定したと聞けるようになるというのだね。

K君 そうだよ。地獄一定と知らされて信心決定するんだよ。

A君 じゃあさ、言わせて貰うけど、今日死ぬという事態は誰にでも訪れるよ。そのときも、浄土往生は決定したと聞いてもそれを信じず、十九願や二十願の行を実践するというのかい?

K君 しかたないじゃないか。

A君 それでは、臨終往生を待つということになってしまうのではないかい。

K君 聞けない以上、そうなるけど、仕方ないじゃないか。

A君 君はいつも仕方ないと言い訳しているけど、死んで迷いの世界を流転するのも仕方ないと自分に言い訳しながら、死んでゆくということだね。

K君 仕方ないじゃないか。

A君 まぁ、死ぬまでそういっていればいいけど、本当にそれでいいんだね。

K君 よくはないけど、仕方ないじゃないか。

A君 あわれあわれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと朝夕おもいはんべり、まことに宿善まかせとは言いながら、述懐のこころしばらくもやむことなし、という言葉を君に贈るよ。

A君 そうはいっても、1つだけ、大切なアドバイスをしておくよ。それはね、如来の大悲心を聞けばね、どんな人でもそのまま大悲心を聞き受けられるようにになっているだよ。聞くには何の造作も入らないことなんだ。それが、選択の本願の働きなんだ。選択の本願には、誰にでも聞き受けさせる力用があるんだ。でもね、君が何十年と聞いても聞けないというのは、如来の大悲心を正しく説く人にあっていないからなんだ。必ず、絶対の幸福に救うというのが本願だと説くのは、正しく大悲心を説いていることにはなっていないんだよ。

K君 どういうことなんだい。

A君 まず、十七願の心をよく理解して欲しいんだ。
 十七願はね、四十八願すべての願を成就した証として、阿弥陀如来の御名を諸仏が讃嘆しなければ仏にはならないと誓った願だよね。そして、法蔵はその四十八願をすべて成就して浄土を建立した。ということは、十七願は既に成就されて、南无阿弥陀仏となられたんだね。そのため、釈迦をはじめとする三世諸仏は南无阿弥陀仏を讃嘆し、救いがたき凡夫が南无阿弥陀仏によって救済されることを広説され、それが大無量寿経となった。その大無量寿経においては、自力では生死を出離できない救いがたき凡夫のために、凡夫が何の造作もなく救われてゆく南无阿弥陀仏が成就されたから、そのことを聞くだけで信心歓喜できるようになったと説かれている。阿弥陀如来は、凡夫は修行しても決して救われることのない者だと見抜かれて、凡夫が仏になるための行をなされた。それが成就したことを告げているのが十七願十八願成就文だ。その成就文から十八願は信成就を誓った願だと祖師は考えられた。だから、十七願によって成就した御名を聞けば、自ずと十八願の信が成就することになっているんだよ。これが南无阿弥陀仏の本願力なんだね。だから、平成においても、臨終においても、如来の願心を聞けば、たちどころに信が開けるようになっているのだ。

K君 じゃ、十九願はなんのためにあるんだよ?

A君 十九願はね、諸善を行って浄土に往生しようと願う者のために建てられたんだ。君が諸善を行って浄土に往生しようと願う者であるならば、浄土往生を願って臨終に至るまで、いや、臨終に望んでも諸善に励めばいいさ。でも、今すぐにでも救われたいと願うのであれば、十七願十八願を建てられた如来の選択の願心を聞くことだね。聞くは信だから、聞即信というのじゃないか。また、そうだから、平生業成の教えというのじゃないか。

A君 君が十九願にこだわるそもそもの理由は、祖師が書かれた三願転入の御文にあるのだろうが、祖師は、十九願の諸善を励めば二十願にすすみ、さらに十八願海に転入するから諸善に励め、とはどこにも言っていないよ。祖師は、如来の願心を信楽すべしと勧められているだけだよ。阿弥陀如来も諸善を励めとは勧めていないよ。釈迦は諸善往生した者は智慧のない者だと言われて、蓮華化生する智慧ある者になることを勧めているが、それは如来の大悲心を聞いて歓喜することを勧められているんだよ。

K君 僕がこれまで何十年と聞いてきたのは、無駄だったということなのか?

A君 んーっ、無駄と言えば無駄だったけど、遠回りした分、如来の願心を必ず聞き受けることができるよ。それが如来の誓いだからね。祖師は十九願の願底には如来の大悲心があると言われ、如来の調機誘引の大悲をかんぱいされているけど、君も調機誘引されたんだろうと思うよ。

K君 じゃ、このまま調機誘引されてゆけばいいんじゃないか?

A君 君がただ今救われたいと心から願うなら、直ちに十八願の法門を聞くべきだけど、君がそうは願っていない、というのであれば、君は君で信じる道を行くしかないだろうね。面々の御計らいというところかな。

A君 さて、どうするんだい。直ちに十八願を聞くのか、聞かないのか、死は君を待ってはくれないよ。