3-11.三願転入 その3

T君 A君は、十八願だけを聞けばいいと言っているというじゃないか。

A君 ん? そんなことは言っていないよ。

T君 先日、K君が君からそんなことを聞いたと言っていたよ。A君から、直ちに救われたければ十七願十八願の願心を聞けと言われたってね。

A君 あ~、そうことであれば、確かにそう言ったよ。

T君 それじゃ、十八願だけを聞けばいいと言っているということじゃないか。

A君 そうじゃないよ。直ちに救われたければ十七願十八願の願心をそのまま聞けと言ったんだよ。

T君 どこが違うんだ。

A君 大違いさ。単に十七願十八願だけを聞けばいいと言ったんじゃないよ。直ちに救われたければ十七願十八願を聞け、と言ったんだ。直ちに救われたければ、ね。

T君 どういうことだ。

A君 じゃ、説明するよ。もし、迂回の行として諸善を行じて臨終来迎を頼み、往生を願うのであれば、十九願所定の三心をもって諸善の行に励めばいいさ。でも、そうじゃなくて、直ちに救われ、真実報土に往生したいと願うのであれば、十七願十八願の願心をそのまま聞け、ということさ。わかるよね、この違い。

T君 まぁ、わからんでもないさ。でも、十七願十八願の願心をそのまま聞けない人はどうすればいいんだ。

A君 また、同じ話か。

T君 すぐに聞き開けない人のために、阿弥陀如来は十九願を建てて調機誘引しているのじゃないか。すぐに聞けるのであれば、十九願を建てた意味はない。十九願が不要というのは、阿弥陀如来の頭の上に立った思い上がりだ。十九願の諸善の行を修してこそ、善ができない本当の実機が分かるだ。

A君 う~ん。いろいろと思い違いをしているようだね。

T君 どう思い違いをしているというんだ。

A君 ま~、順番に説明するから、しばらく我慢して聞いておくれよ。

A君 十七願十八願は、十九願や二十願の心行に堪えられない衆生、つまり自力では決して生死出離のできない者のために、阿弥陀如来が代わって往生の行を行じ、その者を往生させ成仏させる行を成就してその者を救うと誓われた願だ。十七願は諸仏によって南无阿弥陀仏という御名が讃歎され、その讃歎によって御名が衆生に広説され、衆生に御名を聞かせることを誓った願だ。その御名は、御名を聞けば信心歓喜できるように仕上げられている。そして衆生が御名を聞いて信心歓喜し、念仏する者を浄土往生させることを誓ったのが十八願だが、この十八願の眼目は、御名を聞いて信心歓喜させることにある。その教証は十七願十八願成就文だ。そして、大経では、十七願の御名を聞いて信心歓喜する十八願の機だけが真実報土に往生できるとされている。

A君 つまり、十七願十八願は自力では生死出離のできない者のために、阿弥陀如来が代わって往生の行を行じ、それをもって衆生を往生させ成仏させる願だから、一切の自力の行を行わずに浄土往生ができるんだね。だから、十七願十八願の前には、一切の自力の行は必要としないんだ。ここが大事なところだけど、要するに、ただ御名のいわれを衆生に聞かせて救うというのが十七願十八願の選択の願心だ。

A君 十九願だが、自分の修する諸善万行を修して浄土往生を果たしたいと願う者もいるだろうから、そういう者のために阿弥陀如来は十九願を建立した。そして、十九願所定の三心と行を行った者のために臨終に来迎することを誓った。十九願文を読めば分かる。諸善万行を修して浄土往生を果たしたいと願う者であれば、誰でも十九願の機にはなり得る。但し、十九願の自力の心行とを円満に成就しなければならない。それができなければ、十九願の救いからは漏れてしまう。また、円満に成就したとしても、大経では、仏智を疑う罪によって報土往生はできないとされている。だから、十九願の機は、諸善万行を修して化土往生を果たしたいと願う者のための願なんだ。

A君 二十願は、阿弥陀仏の御名を称えて浄土往生を果たしたいと願う者もいるだろうから、そういう者のために建立したものだね。この場合も大経には、二十願の信と行が成就しても、仏智を疑う罪によって報土往生はできないとされている。

T君 それで、どうだというのだ。

A君 つまり、十七願十八願は自力の心行に堪えられない者を真実報土往生させるために建立された願だから、その願にしたがって往生を願う者は、すべて十七願によって成就された御名を聞き、信を得て報土に浄土することができるんだ。そこには、自力の行は不要であり、ここに自力の行を持ち込もうとすると自力疑心として嫌われることになる。これに対して十九願も二十願も自力の行を行うことが必要であり、その行は各願に所定された行とされている。つまり、十七願十八願の救いと十九願二十願の救いとはまったく異なる原理に立ったものだから、その両者の救いは連続するものではなく、十七願十八願の救いは十九願二十願とはまったく独立した別個の救いなんだ。

T君 ・・・・。

A君 そうすると、十七願の御名を聞いて十八願の信を得て浄土往生したいと願う者は、ただ、十七願十八願の願心にしたがって、御名のいわれを聞けばよいのさ。そこに諸善万行などの自力の行を持ち込んではいけないんだ。十八願の信を得るために十九願の行から始めなければならないというのは、ただ御名のいわれを聞かせて救うという十七願十八願の選択の願心に反し、願心に背くことを教えることになる。簡単に言えば、無条件の救いを求める者に対して、自力の行を勧めることは、無条件の救いに条件を付けることになってしまうんだね。

T君 ・・・・。

A君 分かるかな。自力の行を不要とする十七願十八願の救いに、自力の行を励めというのは、いかに十七願十八願の心を踏みにじるものであるのか、ということが。十七願十八願の救いにはない条件として、十九願所定の信をもって所定の行を行わなければ十七願十八願の救いには遭えないのだとしたら、十九願の救いとは別の法門である十七願十八願を建立した意味が無くなってしまうのさ。

T君 ・・・・。でも、十九願の行をしなければ自力が役立たないと知らされないじゃないか。

A君 そこにも大きな間違がある。自力が役に立たないと知らされ、本願に帰命するのは、如来の真実の大悲心を聞くからであって、諸善を励んだ結果ではないんだよ。如来の涯底のない大悲心の前に直面したとき、自然と自力の思いは廃ってしまうんだ。

T君 ・・・・。 

A君 自力の計らいは如来の願力が私にかけられていることを知ることによって廃るのであって、善ができないと知らされるからでもないし、地獄は一定と知らされるから自力が廃るものでもない。

T君 地獄一定と知らされるから自力が廃るんだよ。祖師はそう言っているじゃいか。

A君 祖師は、歎異抄に地獄は一定住みかぞかしと言われているけど、地獄一定と知らされるから自力が廃るとは言われていない。

T君 自力が役に立たないと分かるから自力が廃るんだ。そうに決まっている。

A君 そうじゃないんだ。自力の思いは、如来の大悲心を受けるから消尽してしまうんだ。間違いのない真実の大悲心と聞かせれるから、自然とその大悲心を受け入れてしまうんだ。大悲心を受け入れるとき、自然と自力の思いはなくなる。大悲心にお任せとなるからね。

T君 ・・・・。

A君 君は、如来の大悲心をもっともっと深く知るべきだよ。そこからがスタートだ。自分が善ができる者かどうかなどと自己を詮索してもよいが、それよりも大事なことは、如来の大悲心を聞くことだよ。聞けばそれで終わりだ。だから、平生、臨終を問わず、信心歓喜し、心から喜んで念仏を称えられるようになるんだ。

T君 しかし、十九願の行をしなければ自分は善はできない悪人であるとは知らされないじゃないか。

A君 そうだね。それは君の言うとおりかも知れない。しかしね、その考えには、大きな問題があるんだよ。

T君 どんな問題があるというんだ。

A君 まず、十九願の行とは、法蔵菩薩のような至誠心をもち、決定の信をもって発願回向して修善を行わなければならない。そして、頭燃を払うが如く善を行って知らされるのは、自分は菩薩のような至誠心を持ち得ない不善の凡夫ということだ。

T君 それが知らされればいいじゃないか。

A君 まぁ~、そう先走らずに話を聞けよ。話を続けるとね、至誠心をもって善を行じれば、菩薩のような至誠心を持ち得ない不善の凡夫のすがたをしていることが分かるだろう。しかし、それは、先ほど述べたように法の深信を伴うものではないんだ。祖師は、愚禿抄に「自利の信心」と細注している。確かに、出離ができないというのが自分の真実のすがたであろうが、そのすがたを知ったからといって、自力を離れ、如来の救いを深信するには至らないのだ。祖師は、法の深信と結びついた機の深信を金剛他力の信だと言われているが、法の深い信を伴わない信でなければ、自力の思いから離れられないのだ。

T君 どうして、そんなことが分かるのだよ。

A君 おいおい、他力の信心は機法二種一具の信だということは君も知っていることだろ。法の深信を伴わなければ、いくら出離ができない真実の自己の姿が知らされても、それは他力信ではない。

T君 ・・・・。

A君 法の深信は、如来の真実まことの大悲心を聞くから生じるんだ。また、如来の真実まことの大悲心を聞くから自力の思いが消尽するんだ。ともに、如来のまことの大悲心を聞くから生じるのだ。

A君 だから、十九願の行をしなければ自分は善はできない悪人であるとは知らされても、それは如来の救いではないのだよ。

A君 それにね、自分は善はできない悪人であるとは知らされても、知らされなくても、如来の真実まことの大悲心を聞くことで他力の信は開け起こるんだよ。善悪の凡夫だれでもが、如来の救いの対象なんだ。私は如来の大悲心から漏れていないということを知れば、自分は善凡夫であると認識しようが、自分は悪凡夫であると認識しようが、それはどちらでもいいんだ。どちらであろうが、如来の大悲心は間違いなく私に向けられているのだからね。

T君 悪人であるという認識が無くても救われるというのか。

A君 そうだよ。そんなことは当たり前じゃないか。如来の十八願は、悪人であることを正しく認識した者だけを救うという本願だ、とでもいうのかい? 十七願は諸仏に御名の成就を証誠してもらい、讃歎してもらい、衆生に御名の成就を聞かしめて救うという本願だ、衆生は諸仏の証誠し讃歎する御名を聞いて信心歓喜すればいいんだよ。その信心の成就を誓ったのが、祖師が教行信証の信巻において信願といわれた一八願さ。

T君 君の言うことは、僕がこれまで聞いてきたこととは、ずいぶん違うよなぁ。

T君 僕はこれまで、一生涯、善に励まなければ救われないと思っていた。道は遠いなぁと何度も心が重く、くじけそうになってなったよ。そんなときは、自らを励ましてやってきたけど、君の話を聞くと心が軽くなるようだよ。

A君 如来の大悲心は、聞く者に安堵感を与えるものさ。生死の問題は凡夫の手の負える問題ではないから、如来が本願を建てて救うと誓われたんだ。私の生死の問題は如来の領域の問題なんだ。如来が解決される問題だから、凡夫が手を出せない。だから、如来のに任せきってしまうんだよ。そうすると、いやでも如来の大悲心に悲泣し、安堵するものさ。

T君 すぐには心の整理できないけど、もう一度よく考えてみるよ。

A君 下手な考え休むに似たりと言うが、下手な考えでも、自分で考えてゆくことが大事だよ。分からなかったら、いつでも、おいで。

T君 ああ、お願いするよ。